映画批評家の仕事

加藤幹郎

 センスのない学者と学識のない批評家。これは世の習いである。それでも例外はあろう。たとえばデイヴィッド・ボードウェルの『映画スタイルの歴史について』(ハーヴァード大学出版局)は、古典映画の泰斗(たいと)がポルデノーネ無声映画祭に通いつめて映画史初期の学識を活用した名著のひとつといえよう。
 かくいうわたしも最近『映画の論理 新しい映画史のために』(みすず書房)を上梓し、奇跡的に本紙前号で好意的な書評を得た。しかしながらひとつだけ気になることがあった。そのことについて本紙編集部の御厚意とプロブレマティクな書評に対する読者諸賢の関心を梃子(てこ)に、ここに小文をものさせて頂く。
 映画批評家の仕事とはいかなるものなのか。拙著と拙著をめぐる書評はその一点において大きく意見を異にしていた。書評を書いたのは横浜国大で教鞭をとる梅本洋一氏である。拙著の身体をなすのは五〇年代冷戦期のマイナー映画作家ニコラス・レイのジェンダー論的読解である。マイナー映画作家といっても、かのジャン=リュック・ゴダールをして次のようにいわしめた強靭(きょうじん)なハリウッド映画作家である。「演劇(グリフィス)が、詩(ムルナウ)が、絵画(ロッセリーニ)が、ダンス(エイゼンシュテイン)が、音楽(ルノワール)があった。これからは映画がある。そして映画とはニコラス・レイのことだ」。
 レイは遺著『わたしは邪魔された ニコラス・レイ映画講義録』(みすず書房)でサム・シェパードの戯曲について次のように述べている。「わたしは・・・・常軌を逸した材料に愛着を感じるのだ。これはすこぶる同時代的で・・・・作者はふだん隠された場所にうまく聴診器を当てている」。この言葉が興味深いのは、これがレイ本人のすべての映画にあてはまるからである。
 管見によれば、映画批評家の仕事もまた「常軌を逸した材料」に愛着を感じ、「ふだん隠された場所にうまく聴診器を当て」ることにある。これは批評家の仕事が作者の意図を探ることだという意味ではない。同時代の観客や評論家や作者さえもが「聴診器を当て」ながら、かならずしも作品の鼓動音、その不整脈に気づいているわけではないということを知ることが批評家の務めだという意味である。
 しかるに書評者の梅本洋一氏はみずから映画批評家であるにもかかわらず、「不当に評価された映画作品の意義を(再)発見する作業に出くわしたことはほとんどない」と述べている。しかしこれは映画批評家としての責任放棄に等しい発言ではなかろうか。ふたたび管見によれば、「不当に評価された映画作品の意義を(再)発見する作業」なしには映画史はありえない。映画史がなければ、わたしたちは週刊誌を読み捨てるように、毎週封切られる映画を見ては、それをそのまま猿のように忘れさるだけである。
 レイの代表作に『黒の報酬』という映画がある。家庭と社会が過大に期待する「男性のイメージ」に合わせようともがき苦しみ「実際の身の丈(たけ)よりも背伸び」する男性のメロドラマである。それが原題のBigger than Lifeの意味するところである。メロドラマの主人公が女性であった時代に男性を主人公としたメロドラマをつくること。そこにレイの独創性があったわけだが、その映画原題を「人生よりも大きく」と誤訳したうえで作品論を展開するような仕儀は、たしかに「不当に評価された映画作品の意義を(再)発見する作業」が自分の周囲に見あたらないとつぶやく梅本洋一氏にふさわしいことなのだろう。
 センスのない学者と学識のない批評家が世の習いだとしても、これでは本人にとっても社会にとっても不幸なことである。学者は学会をついの住処にみずからの学識を臨界状態へもってゆく術を知らぬまま息絶え、批評家(クリティック)は学識のなさゆえに知に臨界(クリティカル)状態をむかえさせる歓(よろこ)びを知らぬまま朽ち果てる。そのような事態が世の習いなら、これは改革時である。

(本稿は『週間読書人』2005年5月13日号に掲載された拙稿の改訂版である。)