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メスダハ・パノラマを見る |
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加藤幹郎
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1 アムステルダム市内から南西へ電車で小一時間ほどのところに国際司法裁判所で有名な街デン・ハーグがある。地元の美術館にはオランダ画家フェルメールの名高い油彩画『青いターバンの女』や『デルフトの風景』をはじめ、かつてオランダのブルジョア家の壁を飾っていたであろう静謐な風景画や風俗画が淡い自然光を採り入れた小部屋に展示されている。 楚々とした印象をあたえる王宮のあるこのハーグ市からさらに市電に揺られて一五分ほどゆけば、そこはもう北海に面したスヘヴェニンヘンというかつて漁港だった街がある。この街は北海の真珠と呼ばれるリゾート地として開発され、一八八五年に建てられたクアハウスは今日でも五つ星ホテルとして往時の姿をとどめている。そしてこのスヘヴェニンヘンの海浜の風景を全周一二〇メートル、高さ一四メートルの世界有数の巨大パノラマ画に仕上げたメスダハのパノラマ館がハーグ市内に現役保存されている。 パノラマについて論じた文献は今日でも少なくないが、じっさいにパノラマを見た者の印象を克明に記した文献となると驚くほど少ない。一八八一年に開館し、その後数奇な運命をたどりながら一九九六年に修復されたメスダハ・パノラマ館の場合も例外ではない。じっさい一九世紀後半に世界を席巻し、全盛期には日本でも東京、大阪、京都など主要各都市に建設されたパノラマ館はとうの昔に姿を消し、現在、世界に三〇数館のパノラマがのこるだけとなっており、今日じっさいにパノラマ館を見る機会は少ない。 さてメスダハ・パノラマ館に足を踏み入れてみよう。小さなギャラリーを通り、仄暗い側廊を抜けて高さ二メートルほどの木造の螺旋階段を登って階上のプラットフォームに立つと、眼のまえに異世界が出現する。白い帆をはって出漁する一〇隻ほどの漁船と浜辺に引き揚げられた二〇隻ほどの漁船、上空を舞う鴎たち、よどんだ曇り空、浜辺で鰊を運ぶ女たち、砕け散る白い波、鉛色と深いブルーに染まった海、遠くに拡がる水平線。 回廊を廻るようにして視線を左に移せば、海岸沿いに立ち並ぶ赤屋根の民家の煉瓦とその遠くに灯台とひときわ高い教会の尖塔が見え、さらに視線を左に移し、海岸を背にすると、ハーグの街を遠望するようにスヘヴェニンヘンの赤い街並みが拡がっている。手前の館のまえには犬と少女とその母親らしき婦人が立ち、そのかたわらからは一直線に地平線まで伸びるかのような運河が強烈なパースペクティヴを形成し、それからさらに左へとプラットフォームを廻り込むと、ふたたび海岸線が見えはじめ、海を見おろす高台に白い瀟洒なリゾート・ホテルが見えたかと思うと、先ほどこのプラットフォームにあがったときに真っ先に目に飛び込んできた出漁の場へと戻っていることに気づかされる。 三六〇度拡がるこのスーパーリアリスティックな眺望は、円形の板組みのプラットフォームを頂上とし、その周囲をぐるり取り囲む本物の砂と漁網や流木などさまざまな海岸漂着物からなるディオラマの向こう一〇メートルほどの壁のうえに描かれた絵画にすぎないということを知りながら、わたしはプラットフォームのうえで幾度となく眩暈に襲われた。パノラマを見るということは、このあまりにも生々しい風景の現実に包まれながら眩暈に襲われることであることを、わたしはそのときまで知らなかった。それはわたしの知るかぎりパノラマを論じたどんな文献にも触れられていない感覚であった。 なぜわたしは眼が廻るのだろうか。その生理的感覚について合理的な説明を試みても、眩暈に襲われている当事者にとってはあまり意味をなさないかもしれないが、おそらくそれは視差の関係だろう。読者諸賢は幼いころ、月を見ながら夜の街を歩いていると、廻りの風景(夜の街並み)はどんどん変化してゆくのに夜空に浮かぶ月だけはいつまでも同じ位置にいつづけるように見えたのを不思議に思った記憶をおもちではないだろうか。見る主体が移動するとき、そこから近くにあるものほど大きく動き、遠くにあるものほど、ほとんど動かないように見える。 ところがパノラマ館ではこの通常の視差の感覚が狂わされる。眼前一〇メートルほど先の壁に描かれた絵のうえでは、数千メートル向こうまで風景がつづている(ように見える)。にもかかわらず、わたしが円形プラットフォームを廻りながら見るその風景は、その見た目の印象とは大きく異なる視差のもとに変化する(つまりスヘヴェニンヘンの海辺の街並みの手前にそびえる大きな館も、そこから遥か遠くに拡がっているはずのハーグ市内の小さな街並みも同じ条件で動いて見える)のである。こうした通常の視差とのにわかに解消しがたい相違がわたしの眩暈を産みだした原因なのだろう。 しかし眩暈の原因はそれだけではない。これからそのことについていささか廻り道をしながら考えてみたい。 |
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