対談
ハリウッド的想像力と9・11同時多発テロ事件

加藤幹郎×斉藤綾子

加藤 あの九月十一日の同時多発テロを報道するテレヴィ映像を見たとき、多くの人が「まるでハリウッド映画みたいだ」と言い、私自身も非常な既視感を覚えました。その「テレヴィ映像」については、事件以来今日まで様々な専門分野からいろいろなコメントが述べられてきているわけですが、そうしたコメントの中には、われわれ映画学に携わる者の立場からすると、若干誤解があるように思われるものがあります。誤解のひとつは、テロリストたちがハリウッド映画を見ていたに違いないという見方で、これは敷衍すれば、テロリストが巨大国民国家の権力に抵抗するのにハリウッド的想像力を模倣した可能性があるということです。
 ハリウッド映画はこれまでに何度も「攻撃されるアメリカ」
を描き、スクリーン上、ニューヨーク・シティをはじめとするアメリカの大都市は五十年以上も前の東西冷戦のパラノイア期から繰り返し破壊されてきました。たとえば一九五一年の『地球の静止する日』という映画ではワシントンDCが、五三年の『原子怪獣現わる』ではニューヨーク・シティが破壊された。こうした冷戦期のSF映画は四年前に日本から輸出された怪獣ゴジラがマンハッタンを完膚なきまでに破壊するのとまったく変わらない。五〇年代冷戦期の宇宙人侵略SF映画ブームは六〇年代に、より現実的なかたちへと昇華してゆき、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』という、ワシントンDCとモスクワその他が核兵器でめでたく相互破壊されるという、非常にアイロニカルなブラック・コメディへといたった。九八年には『インディペンデンス・デイ』で、宇宙から飛来した巨大円盤が東京大空襲もかくやと思わせんばかりにニューヨーク市を焦土と化した。もっとも冷戦終結後にもかかわらず、外からやってきた怪獣や宇宙人やらがアメリカの大都市に壊滅的打撃をあたえるという、この相も変わらぬ誇大妄想狂的フィルムはやはりどうも腑に落ちない点があると誰もが思いはじめると、今度は巨大隕石がやたら地球に降り注ぐようになった。昨年(二〇〇〇年)公開されたクリント・イーストウッドの佳作『スペース・カウボーイ』もその一例です。
 
しかしだからと言って、テロリストたちがそうした、少なくとも過去五十年前まで溯れるハリウッド製の「都市破壊映画」を見て、そこから今回の世界貿易センタービル(WTC)破壊のための何らかのインスピレーションを得たのかというと、やはりそうではないでしょう。これらの都市破壊映画に共通するのは、「あくまでも敵は外部からやってくる」という点だからです。ところが今回のテロは、近い将来アメリカの市民権を取ってもおかしくはなかったであろう複数犯が、アメリカ国内で飛行訓練を積み、世界に冠たるアメリカの航空機産業を利用して起こした事件です。アメリカが推進してきたグローバリゼーションの時代に、人と物と金融が自由に行き交い、その結果、外部と内部の障壁が非常に低くなったシステムの内部で起きた。つまりテロリストたちは「脅威はつねに外部からやってくる」という、これまでのハリウッド的想像力を凌駕したことをやってのけている。

斎藤 私もハリウッドでフィクション映画として起きてきたことをテロリストが真似たなどという見方は間違っていると思います。スペクタクル、現象として似ているものが、本質として同じであるということにはならない。本来そこには、それどころではないもっと根深い問題がある。それを摺り替えてしまうような危険があります。

加藤 一般に、映像と現実の関係が誤解されているような気がします。その誤解のひとつの表われ方が「テロリストがハリウッドを真似た」という極論だと思うのです。この極論の背景には、映像と現実との対応関係はつねに一対一であるかのようなリアリズムに由来する考え方があります。しかし「現実」と「映像」の関係がきれいに一対一対応しているわけがない。そういう意味では、テロ事件後よく聞かれた「九月十一日以降、ハリウッド映画は不可能になったのではないか、近未来SF映画は製作できなくなったのではないか」という声も、これが「ハリウッド映画はついに現実に凌駕されてしまった、現実に追いつかれてしまったのではないか」という意味だとすると、やはり私が思うに問いの立て方そのものが間違っている。先ほど「敵はつねにアメリカの外からやってくるわけではない」という点で、テロリストはハリウッド的イマジネーションを凌駕したとは言いましたが、現実に起きたひとつの出来事が、即座に映像の創造領域を限定してしまうという考えは、やはり映像と現実を一対一関係で捕らえてしまった結果の「誤解」だと思うのです。

斎藤 ただ、あることを理解しよう、考えようとするとき、そのよりどころとして、形のある映像は非常に強い力をもっています。そして今回の場合、現実の事件が起こったのと、あの強烈な映像を皆が見たのとが、ほぼ同時であったというところが特徴的だった。
 いままでの場合、アウシュビッツがドキュメンタリー映画として、あるいはヴェトナム戦争が録画されたテレヴィ映像として、映像は、それが実際に起きた後で再構築されてきた。しかし今回はその時間的ずれがまったくなく、世界同時的に起こっている。その「同時性」が、見た人に「映像」と「現実」という、本来別物であるはずのものの「近似性」を感じさせる要因になってしまったのではないかと思うのです。しかもそれが、それまで見知っていた映画のスペクタクルな場面に非常に似ていたがために、加藤さんが指摘されたような「誤解」が生まれてしまったのではないかと思います。
 そもそも映画は現実の反映であるという考え方は社会学でも非常に強いものでした。映像の中でフィクションとして起こっているものが現実のひとつの反映であり、相乗効果で悪い影響を産み出すという説は、メディア論の中では「メディアの悪影響」として、特に暴力表現との関連で、くりかえし言われてきたことです。今回のテロはそうした見方にあてはまりやすい、象徴的な事件だった。
 映像が、人のものの見方に強い影響を与えるという観点から言うと、ハリウッド映画は、アメリカ人のものの見方の「教科書」のような役割をもっているのかも知れません。『カリガリからヒットラーへ』という本を書いたクラカウアーは、「映画は一国の魂の反映である」とも述べています。たとえばホロコーストにしても、『シンドラーのリスト』があれだけアメリカ人に受け容れられたのは、あの「理解不可能なこと」をアメリカ人はどう理解したらいいかという、その「見方」を提示し、一種の「安心感」をあたえたからではないでしょうか。

加藤 テロを受けた今回のアメリカ側の反応は、まさにそのハリウッド的「教科書」のイマジネーションの域を出ていない。たとえばラムズフェルド国防相らが推進している「ミサイル防衛計画」、これは当然誰もがわかるように、映画『スター・ウォーズ』三部作が流行していた時期である一九八一年に発足したレーガン政権が八三年にぶちあげたSDI(戦略的防衛構想)の延長線上にあるものですね。つまり外から、大気圏外からやってくる敵を、アメリカの内部に食い込む前にやっつけるという発想で、あくまでも内部と外部を区別し得るという前提で物事を見続けているのです。アメリカの政権担当者は、この内部と外部、善と悪というメロドラマ的二元論にもとづくハリウッド的、「スター・ウォーズ」的想像力しかもちあわせていないし、また合衆国国民をそのように教育しようともしています。

斎藤 移民国家であるアメリカをひとつの共同体として成立させるためには、外部の他者、要するに「敵」を想定することが必要だった。ハリウッドの「攻撃されるアメリカ」というテーマは、その「アス・アンド・ゼム」、つまり「内部と外部」というレトリックを活かすために使われていた。冷戦期も、一番わかりやすい「我々と彼等」という対立を表象することによって、ハリウッドは成り立ってきたわけです。そのレトリックが、今回もまた都合のいい安易な形で、ハンチントンの「文明の衝突」に代表される、「イスラムとウエスト」という非常に単純な形での問題のすりかえに陥っている。
 対照的なのは、第二次世界大戦直後の四六年に、当時ソ連占領下のDEFAで作られた戦後初のドイツ映画『殺人者は我々の中にいる』という作品で、戦争トラウマで傷ついた男が、かつてポーランドで百人以上の虐殺を命じた自分の元上官が裕福に生き延びているのを見つけて殺そうとする話です。このように「外」の問題を自らの問題として「内面化して」引き受けるという認識は、ハリウッド映画においてはもたれることがなかった。もちろん、たとえば最近の映画で言えば、『隣人は静かに笑う』という、お隣さんがたまたまテロリストだったという話はありますが、それでも隣人はあくまでも「外」の人間でしかない。では、「外部と内部」が曖昧になったことを露にした昨年の事件をきっかけに、ハリウッドが変わるかどうかというのは、すごく難しい問題だと思います。
 昨年の事件直後の反応として、『コラテラル・ダメージ』といったいくつかの映画の公開が延期になり、『チャーリーズ・エンジェルズ』や『メン・イン・ブラック2』など、WTCが出てくるものはCGで全部消すといった措置がとられたそうです。十月にはブッシュ政権側がハリウッドのプロデューサーたちを呼んで、「ハリウッドはテロにどう対応するか」検討する会合を重ねてきた。事件後、アメリカのあるカレッジで「ハリウッドのテロについての考え」をテーマにしたフォーラムが開かれました。そこに招かれたプロデューサーは、ハリウッドは政府が言ったことをそのまま「はい、作ります」といった対応はしたくない、作品を検閲で統制されることにも反対であると発言していた。ただ政治とハリウッドという観点から、興味深いと思った話がありました。
 ハリウッドの製作者は、われわれはやはり「よい物語」を作りたいし、政府のプロパガンダ映画を作る作らないの話になろうが、われわれはその「よい物語」を供給し続けるだろうという。ところが結局、政権自体も、ある意味では非常に「物語的」な考え方をする。つまりアメリカの政治自体が「物語」的な発想に則して判断をする。だから「物語」という共通項から見ると、ハリウッドの作る作品と、政府の方向性が似てきてしまうことはあるのではないかと言うのです。
 こんなことを言っていいのかどうかわかりませんが、私はブッシュ大統領の頭の中のリーダーのイメージは、ジョン・ウエインじゃないかと思うのです。彼のレトリック、たとえば「デッド・オア・アライブ」という台詞は西部劇に出てくる指名手配のポスターそのままだし、テロとは関係ないときにも、民主党が増税を要求したら「OVER MY DEAD BODY」と言ってみたり、「クルセード」にしてもそうでしょう。
 非常に評判の悪かったブッシュが、テロ事件以来、人気者になってしまったのを見ると、アメリカ全体に、ハリウッドの「物語性」を支え、一方で支えられてきた精神的な側面があるのではないかと思えてしまうのですね。ハリウッドの物語性と国民のアイデンティティが相互作用しながら形成されてきたということはあるのではないかと思います。単純化しすぎかも知れませんが、アメリカの政治、戦略、SDIやミサイル構想にしても、そうした背景があるのではないか。

加藤 SDIを打ち出したレーガンは一九三九年に実質的な映画デビューをはたして、六〇年代半ばに引退するまでに約六十本のハリウッド映画に出演しました。デビューした年から翌年まで、彼はバンクロフト・シリーズというスパイ映画シリーズ四本に主演した。その中の一本で彼は、アメリカ国内に潜伏するナチのスパイが、アメリカが開発したレーザー兵器を盗もうとするのを阻止する作戦に従事します。
 こういう役柄を第二次大戦直前に演じた男が一国の大統領になったら、SDIという、夢のような構想に熱を上げ、しかもそれに「スター・ウォーズ計画」などという当時のブロックバスター映画のタイトルが冠されてしまうのを見ると、やはりハリウッド的想像力というのは、アメリカでは少なくともよその国よりは強く影響しているという気がしなくはないですね。
 その歴史的背景は何か。ハリウッドの担い手は、歴史的に
言えば、いわゆる「アメリカ人」ではなかったわけです。メイフラワー以降に「アメリカの独立」を勝ち取ったWASPの人たちからみれば、一八九〇年代に大量に東欧中欧からやってきたよそ者(ユダヤ人)たちです。彼らは、無一文でアメリカにやってきて、たまたま映画が産業として物になろうとする時期にその新興産業に飛びついて、WASPとの暴力闘争や裁判闘争を通してハリウッドに基盤を築いて、三〇年代にはアメリカの長者番付にも載るという形でアメリカン・ドリームを体現しながらのしあがっていった。帝政ロシアからユダヤ人であるがゆえに抑圧をうけた彼らは、自分たちが思い描いていたアメリカにおいて、少くとも社会的上昇においては差別されることのない新天地アメリカに夢を実現した。それゆえ彼らは「アメリカのアイデンティティ」なるものを、WASPの人たちよりもさらに抽象的、理念的に維持し、それを喧伝する立場にあった。ハリウッド映画は、その誕生において、いわゆる「アメリカなるもの」と「アメリカの民主主義」を世界に広める役割を必然的に担った。

斎藤 それを信じることによって自分にもチャンスがあると思えるわけですから、そこの部分はこれからもハリウッドは絶対譲らないだろうと思いますね。

加藤 「アメリカの民主主義」の理念に沿うであろう物語、つまりハリウッドにとっての「よい物語」においては、善悪双方すべての登場人物が、互いに納得の行く話し合いをとことんする。それがとりあえずアクションや暴力という形をとるにしろ、ともかく最終的に話し合いで納得しうる地平を構築しようとする。それゆえハリウッド映画最大の人気ジャンル、それを企画製作すれば絶対に損はしないという映画ジャンルは裁判映画なのです。アメリカ人が大好きなのは、SF映画でもギャング映画でも、まして西部劇でもない。アメリカン・ドリームを保証するイデオロギーたるアメリカ型民主主義を体現するものとしての裁判映画です。

斎藤 テレヴィの裁判中継も人気です。トーマス判事のセクハラ事件やO・J・シンプソン裁判もそうです。また「ピープルズ.コート」という、簡単な民事裁判がテレヴィ番組の中で行われている。今は「ジャッジ・ジュディ」が人気番組です。
 誰もが戦う権利があって、さらに自分たちは「フェアな国民である」という意識は、彼らのあいだで非常に強いと思います。
 暴力もいろいろな形でハリウッド映画に登場しますが、結局、その「フェア」という観点から正当化されてしまいます。最終的には「良心的なアメリカ人のいいところを物語に表すのだ」という意識がハリウッドにある。
 たとえ人種差別はあっても、我々アメリカ人はそれと戦ってきたじゃないかという強烈な自画自賛意識があり、それを強調したがります。六八年製作のスタンリー・クレーマー監督の『招かれざる客』がその代表例です。ハリウッドが人種差別を物語にするのに公民権運動から二十年近く経っているにもかかわらず、たしかに「アメリカの良心」を表している。あるいはプロパガンダ映画を量産した第二次世界大戦下でも、『カサブランカ』のような素晴らしい物語を作っているという言い方をする。実際には『カサブランカ』は優秀なプロパガンダ映画として機能しましたが、そこが紙一重で、うまく噛み合わせている。
 もっとも、そうした「良質な物語を作る」という自負の裏に、裏返せばやはり金になるものもいくらでも作るという意識もありますからね。そして実際それができる。『タイタニック』に全世界が夢中になってしまうわけですから。

加藤 『タイタニック』に代表されるように、他人の死や他人の人生を物語圧縮化して、それをスペクタクル商品化することによって、多くの人々に、現実には体験できない人生の虚像に実感をあたえることで、ハリウッドが金儲けをしているのは確かですからね。
 しかし映像の本質はまさにそこにあります。映像は本来的に、あるクリティカルな、生と死に関わる危機的な瞬間を、その場に居合わせなかった人々、それも非常に安全な、映画館やお茶の間のテレヴィの前にいられる人々のために再現します。映画史元年が一八九五年だとすれば、この年にエジソンがアメリカで製作してヒットした作品に、有名な『スコットランド女王メアリの処刑』という短編映画がありますが、当時の観客がその映画のどこに熱中したかというと、メアリが断頭台に首を入れると、次の瞬間には彼女の首がころりと転がり落ちるところです。非常にグロテスクなトリック映画と言えなくもないのですが、高貴な人が自分の一生を終える特権的な瞬間が再現され、観客はその場に居合わせることができる。ここにハリウッドの物語映画の本質があり、それは今日まで連綿と続いている特徴です。
 映画の誕生以来、テクノロジーが進化し、媒体がスクリーンからインターネットへと変化しても、われわれは変わらず、たったひとつつのコンテンツを欲望させられ続けている。それがまさに、われわれが現実には実感しがたい生と死、起源と終焉といったものを擬似体験するための安全なパッケージとしての「物語」です。今回のWTC崩落のテレヴィ映像も、お茶の間で安全な立場に立ってしまったわれわれ観客に、ある種の「物語」をあたえてしまったという意味では、決してフィクション映画(ハリウッド映画)とノンフィクション映画(ニュース報道)という二分法には立てない。

斎藤 でも今回テレヴィに映し出されたのは、ヴェトナムの兵士のように、一応戦地で「覚悟を決めた」人たちでもない、ごく普通に日常生活を営んでいた人たちの死だったというのが、悲劇なわけですよね。それはもはや、いわゆる「安全な代理体験」というものではまったくなくなっていたのではないでしょうか。

加藤 そこでブッシュが、いろんな意味で慌てるわけです。九月十一日の事件は「アメリカがやりたがっていた戦争」のあり方を覆した。よく言われることですが、それは「ゲームのような戦争」というもので、先ほど申し上げた映像の本質、つまり「自分は安全な立場にいて、そこから他人が経験するあるクリティカルな瞬間を見る」というあり方と変わらない。アメリカがこれまでどういう戦争をやりたいと思ってきたかは、レーガン以来のSDIや今回のブッシュ政権のミサイル防衛構想を見てもわかります。大陸間弾道ミサイルが大気圏外にいるうちにレーザー兵器で迎撃しようという夢のようなSDIに代表されるプランは、あくまでも外部の敵は内部に入り込む前にたたくという、「安全な立場から敵を攻撃する」テレヴィ・ゲームのような戦争です。数年前のコソボ空爆では、実質的にはアメリカ軍であった国連軍が何百発もの巡航ミサイルを所定の軍事目標に打ち込んだと言われていますが、アメリカ側には戦死者はひとりも出なかった。そういうやり方です。スパイ衛星、軍事衛星が送ってくる現地情報によって、安全なところから精密な攻撃をおこなうという「テレヴィ・ゲームのような戦争」です。

斎藤 一方で、ゲーム的でない「実際の」戦争というものをハリウッドが描こうとしたことは、ほとんどないと私は思っています。ヴェトナム戦争は『地獄の黙示録』においては個人の狂気、あるいは『ディア・ハンター』のようなメロドラマに還元されてしまう。最近では『プライベート・ライアン』について「ハリウッドが初めて戦争の現実に取り組んだ、戦争ドキュメンタリーに近い」と強調されましたが、物語的には、やはりアメリカの一兵士のヒロイズムに終るだけでなく、アメリカ人一人の命の重みが強調されるだけで、WTCとまったく同じように、アメリカ人の一人の命は、何百、何万というアフガンやパレスチナの人々の命よりも重いということに他ならないでしょう。ここでは「戦争の現実」さえ、「アメリカのヒューマニズム」の手段でしかない。

加藤 先日、京都映画祭での記者会見で、アメリカのボストンから招待されたあるゲストが、「ハリウッドはこのテロ事件を未来永劫映画化できないだろう」という意味の発言をしましたが、私はそれは間違っているだろうと思いました。ハリウッド自体が、それが本当に金儲けになる時期がきたと判断したら、躊躇はしないでしょう。他人の生死を素材にして金儲けするということ。それがハリウッドが過去百年来やってきたことです。タイタニックがそのセンセーショナルな沈没事件から時間をおいてから何度も映画化されてきたように、あるいはヴェトナム戦争が、アメリカの敗走後、やはり十五年くらいたってから、映画化ブームに火がついたように、遅くとも今回のテロで肉親を失った遺族が亡くなるころには映画化される。ただし、あくまでも被害者であるアメリカの市民、アメリカ人の映画ファンにとって、彼らを慰撫するメロドラマ的な、善悪の二元対立、もうどうしようもなく「悪しきタリバンとテロリストたち」と「あくまでも民主主義を守りきった正しいアメリカ人」という二元対立の図式でしかできないでしょう。

斎藤 今回のテロは、アメリカにとって歴史的に最も強烈なトラウマになっている。そんな状況で、この戦争について、アメリカ自身の今までのイスラムに対するあり方を見直すべきではないかとか、アフガンで今まで犠牲になってきた何万人もの人たちの悲惨さを考えようなどという物語は、ハリウッド内部からは、少なくとも今すぐには出ようもない。

加藤 そうですね。ただ今回の事件がアメリカ人にとって本当にトラウマになるとすれば、そしてそのトラウマを克服する過程にポジティブな面がもしあるとすれば、これは長い目で見れば、もしかするとアメリカ人にとって、初めて「外部にいる敵」の痛みを内化できる契機になるかもしれない。今まで彼らはやはり真の意味で「他者の痛み」というものをわかっていなかった。
 映画における原爆の扱われ方を見てもそうです。アメリカは日本占領期に、日本人スタッフが広島で撮ったドキュメンタリー映画を没収し、日本人はもとより、アメリカ人にもそれを見せてこなかった。その結果、アメリカ人は原爆というものがいかに他者に痛みをあたえたかということを、知らないできてしまった。極端な話、四五年から五〇年代にかけてのハリウッド映画にとって、核兵器はコメディの素材にすらなりえたのです。アメリカの実験場から発射され、アリゾナ州に着弾した不発弾の水爆を使って「原子力蒸気機関車」を作ってしまう地元住人やら、放射能で汚染された水爆実験場に迷い込んで、超スピードでしゃべりまくる文字通り口先だけのスーパーマンに生まれ変わるアメリカ人やらが登場する、そんなコメディ映画ばかりです。こうしたB級映画は、五〇年代、つまりアメリカが核兵器生産をペースにのせる時期に大量に作られた。そんなところで、原爆の犠牲となった「他者の痛み」を、真の意味で知る契機は得られない。
 しかしそれでも現時点でこう言うのはきついかも知れませんが、今回のテロ事件の映像を通して彼らが内化できる何かがあるとすれば、それは「他者の痛み」を知るという点にあるのではないのか。

斎藤 はたして、その「他者の痛み」を知ろうという方向に向かっているのでしょうか。「テロ支援国家」「悪の枢軸国」という発想は、アメリカという帝国主義国家の最も危険な思想で、国家という名の下に行われるテロリズムの主犯としてのブッシュの野蛮人ぶりは、サイードが言っているように、テロリストという少数の狂気による破壊行為とコインの裏表だと思います。このアメリカという極端に肥満化した幼児国家をコントロールする力は、本当は大人の知性しかないのだろうけれど、ハリウッドの最悪の影響は、その知性自体を徐々に麻痺させているということかもしれません。古典ハリウッド時代には非常に知性的な映画が本当にたくさん作られてきたのですが、今はハリウッド自体が幼児化している。
 ニューヨークの『ヴレッジ・ヴォイス』の批評家ジョン・ホーバーマンの非常に面白い記事の出だしに、「テレヴィでテロ事件を目にした人々全員にとって、映画が唯一考えられるアナロジーだった。ブロックバスター映画こそが、我々を団結させた。それも一度に、全世界で」とあります。極めつけは、ジョージ・ブッシュが九月末に、アメリカ人は家族をディズニー・ワールドに連れていくことによってテロと戦えるんだと言ったら、ディズニーの社長マイケル・アイスナーが、ブッシュを「我々のチアリーダー」と称えたメールを大統領に返信したという。誇張された話かもしれませんが、そういうことが実際に起きうるというところが、いかにもブッシュだし、ハリウッドだと思いますね。

(二〇〇二年一月二七日、赤坂全日空ホテルにて)


 本稿は『論座』(朝日新聞社)二〇〇二年四月号に掲載された対談を加筆採録したものです。