饒舌な身体が生成する音
キム・ギドク『サマリア』(2004)

河原大輔

                       「あなたたちの中で罪を犯したことがない
                       ものが、
まず、この女に石を投げなさい」
                                ― ヨハネ福音書第8章
 殺伐とした草むらの中に一台の車が止まり、車の中では男が一人の少女と性行為に及ぼうとしている。するとどこからともなく大粒の石が次々と車の硬い窓ガラスを打ち破り、男は慌てて少女を降ろし車を発進させその場を去る。取り残された少女を手に石を持った一人の男が見つめている。少女に男の姿は見えない。
 この『サマリア』の一場面と文頭にヨハネ福音書を引用するにあたり、この映画から宗教的意味合いを引き出そうというのではない。真の目的はその石と、石を投げる手の身体運動、そしてその運動がもたらす音響効果が象徴する『サマリア』の映画的運動である。
 近年『春夏秋冬そして春』(2003)が一般公開され、初期作品である『受取人不明』(2001)、『コーストガード』(2002)も特集上映されるなど、Woman is the Future of Man (2004)の一刻も早い公開が待たれるホン・サンスなどともに、日本においても上映機会が整いつつある韓国人映画監督キム・ギドクの10作目にあたる『サマリア』は三部構成の形をとっており、それぞれ「バスミルダ」「サマリア」「ソナタ」と題名がつけられている。寝る男を次々と仏教信者へと変えていったインドの伝説の娼婦の名前を指す第一部では、ヨーロッパ旅行のために援助交際で身体を売るチェヨン(ハン・ヨルム)と躊躇しながらも見張りとお金の管理を行うヨジン(クァク・チミン)の二人の少女が中心に語られる。聖書の「サマリアの女」からとられた第二部は、チェヨンに先立たれたヨジンがチェヨンの客をひとりひとり訪ね、寝て、チェヨンと稼いだお金を返して行く。ヨジンの父ヨンギ(イ・オル)が援助交際をする娘の姿を偶然発見してしまうことから話は徐々に父と娘との親子関係へとシフト・チェンジし、劇場版パンフレットによれば交響曲の三部形式の名であると同時に韓国の大衆車の名前(ギドクによれば一般常識を持った成人を意味している)である第三部は父と娘との関係が中心に語られていく。三部の名がそれぞれチェヨン、ヨジン、ヨンギを示しているように、物語は主人公と視点を変えながら進んでいく構成となっている。
 援助交際と少女たちの友情というありふれた主題を持ちながら『サマリア』を独創的な作品としているのは何か。映画の冒頭、映し出されたパソコンの画面とその上で展開される少女たちと相手の男とのやりとりを見て、サイバースペースの次元にまで昇華された人間関係と身体性の欠如の物語を期待する観客は、すぐさまその期待を裏切られるだろう。実際、この映画を支配しているのはパソコンでも携帯電話でもなく登場人物たちの身体そのものである。『サマリア』は冒頭から最後まで身体と、それが生みだす音によって自身のリズムを刻んでいる映画だといえる。身体が動くこと。その映画のみが許された特権的行動とそれが世界との間に生ずる音響世界をこの映画は丹念に拾い集め、それがこの作品のテクスチャーを構成している。
 そもそもキム・ギドクの映画にとって、言葉による理解、和解であるとか視線の交換による愛情行為などというものにどれほどの意味があっただろうか(一目惚れした女を自らの策略によって娼婦にまで身を堕させ、挙句の果てにはマジックミラー越しにその女の落ちゆく様を見つめ続ける彼の初期作品『悪い男』2001のソンギを思い出そう)。また、援助交際に手を染めるヨジンをただ車の中から見つめ続ける父親ヨンギの視線はいつも一方的で、なおかつ過剰に注がれるだけではなかったか。登場人物が男女を問わずひたすらに頬をはりあうことでしか融和へとたどり着けなかった『悪い女 青い門』(1998)にしろ、先述した『悪い男』にしろ、視線の交差による幸福な調和や言葉は影を潜め、身体が何かと触れること、そして時に激しく衝突することがギドクにとっての言葉を意味し、そしてそのことによって生成される音によって発話行為が達成されているかのようだ。それを愚直なまでにカメラに収めていくギドクのスタイルを技術不足からくるナイーブさと見るかはともかく、荒々しいほどの身体の接触は心の交流と分離不可能なものとして現われ、饒舌な切り返しによって人間の心の交流を描いてきた映画から彼を遠くはなれた場所へ位置づける。つまりギドク作品において言葉はひたすら身体行為へと還元され、愛は暴力として顕在化するのである。
 それゆえ、ギドク作品を一度でも見たことのある観客ならば、『サマリア』における主人公の少女二人の存在は極めて異質に感じられるであろう。なぜなら『悪い女 青い門』の売春宿で流れ着くように働きだした女と、自分の家の職業に対する後ろめたさから女に対する敵意を抑えきれない宿の娘との関係や、『悪い男』のソンギと彼に逢ってしまったがゆえに娼館で働くはめになってしまう女との関係など、それらのどれをみても物語冒頭から主人公二人がかくも言葉を饒舌に交わしたり、画面いっぱいのクロース・アップと切り返しによって視線の交換を果たしたことがなかったからである。『サマリア』に登場する二人の少女はかつてギドク作品の登場人物が熾烈な肌の接触、衝突と迂回を繰り返すことによってしかたどりつけなかった融和をすでに獲得している。援助交際についての是非などにはまるで無関心であるかのように、カメラはまるで世界には二人しか存在しないかといわんばかりの幸福なショットを積み重ね、冒頭のキーボードをカタカタとたたく音やコインロッカーに硬貨を入れる音、さらには警察につかまりそうになったチェヨンがホテルの非常階段を駆け下りるときに足と鉄階段が生み出す音が映画に小気味よいリズムをもたらし、過酷な状況にいるはずの彼女たちと世界との間にはある一定の調和が保たれているかのように見える。
 しかしながらこのように幸福な時間を過ごしてきた映画は、チェヨンの突然の死によって−正確にはチェヨンが地面に落下するときに生ずる粘着質で鈍い衝突音を合図にして−映画は突如変調する。少女二人の間に等価に交わされた視線は、援助交際をする娘を尾行する父ヨンギから娘ヨジンへの一方的かつ過剰なものへと比重を変える。娘との間には、まるでその距離を隔て、身体の接触を不可能にするかのようにホテルの窓枠や車のフロント・ガラスが現われ、かつて起床することによって父親との視線の交換を可能にしていた娘の瞳は、見つめるヨンギを前にして、いつまでも開かれることはなくなるだろう。
 そうした不調和は世界と登場人物たちとの間に軋みを生じ始め、その軋みは不穏な音となって表出する。自分を買った作曲家の男に最後に会いたいと言うチェヨンのためにその男をヨジンが訪ねるシーンにおいて、男が鍵盤を押さえる手のクロース・アップとともに濁った電子音が響き、そしてその手を無理やりに連れて行こうと引っ張るヨジンの手が映し出さる短いショットが不意に挿入される。実際、このショットは他のどんな説得の言葉(そもそも男は説得されたからではなくヨジンと寝ることで病院へ行くことを承諾するのだ)やヨジンの泣き顔が伝える悲壮感よりも雄弁である。この二つの絡み合う手と電子音の不吉な残響がつくるショットの密度に観客は驚きを禁じえない。言葉よりも雄弁に語る身体がそこに存在すること。それゆえに『サマリア』のカメラがとらえる身体(とりわけ手)のクロース・アップは映画の中で特権的な地位を獲得しているのである。
 娘が援助交際に手を染めていることをはからずも発見してしまう父ヨンギにとっての身体とは何か。かつて娘との朝食のために卵を割り、彼女の耳元へヘッドフォンを運び、目覚めのためにエリック・サティの美しい音楽を娘の耳へと届けていた彼の手は、やがてゆるやかな線を描くことをやめ、世界との間に鈍く不快な音を奏で始めてしまう。娘の客たちに対してヨンギの口から遺恨の言葉が発せられることなどは決してなく、「どこへ行くのですか?」「何をしてましたか?」という極めて短い質問と、煙草のための火を頼むこと、一杯酒を飲み交わすことで変化する手の距離感と無言の空間に伝わる音のみが男たちの間のコミュニケーションを可能にしている。割られた酒瓶や車の窓ガラスを割るための石を持つ彼の手のクロース・アップが寡黙な彼の心情を何よりも代弁し、ガラスが砕け散る硬く冷たい音が観客の耳に充満する。心地よいリズムを刻んでいたはずの映画は、いつの間にかヨンギが客を問い詰める「1つ…2つ…」という声と、そのあい間に男の頬を張るときの音がつくる不快なリズムに支配されている。
 男の苦悩はこうした世界との間から生ずる不協和音によって増幅される。理性などというものが存在しているならばとうに抑えることができるはずであろう暴力的な手の軌跡をヨンギは描き続け、果てには娘の客を文字通り自らの手で殺害してしまうだろう。取り返しのつかないまでに大きくなった世界との軋みは、自らの手を熱された鍋に押し付け、皮膚が灼ける乾いた音を響かせることでしか、つまり世界との間に生ずる不協和音を自らの身体へとむけることでしか抑えることができなくなってしまうのである。
 この事態は結局のところ父親の自首ということで収拾がつけられるのであるが、これにはかつてのギドク作品の登場人物たちが持っていた反社会的性格と比べると、いささか教訓的で収まりが良すぎるとみえなくもない。またそれを『春夏秋冬そして春』以降の傾向として読み取ることも出来るかもしれない。しかしながらここでは映画の社会的な価値判断はひとまず置いておく。ここで問題となるのはヨンギとヨジンという父娘間でいかにして融和が取り戻されるのかという過程にある。
 第三部「ソナタ」に入り、観客は突然巻き寿司をつくる父ヨンギのゆるやかな手の動きにはと目を奪われる。かつて人を殴り殺すために石をつかんだその手は、山道をともに歩くヨジンの手に結ばれ、やがて娘に運転を教えるために河原で石にペンキを塗るやわらかな手つきへとかわるだろう。客の男たちの手を握ってきたヨジンの手(実際、客の手を握るショットは頻繁に挿入される。)は、二人の車の行く手を阻む石(暴力的にしか機能しない「石」)を取り除く。ほとんど言葉を交わさないこの親子の間には嘔吐や嗚咽によって身体がもらす音が淡々と、しかし確実にマイクによってとらえられ、山道を歩く足が落ち葉を踏みしめる音や、一夜の宿を提供する老人がスコップや箒で石の地面を掃くカランカランという音がメトロノームのように映画のゆったりとしたリズムを刻んでいる(とはいえあの老人は一体何を掃いているのだろうか)。座って芋をむく親子の手の上下運動とむいた芋を無言のまま父の口へ運んでやるヨジンの手の軌跡を前にして、人はそこに確かなコミュニケーションの達成を確認し、『サマリア』は饒舌な身体と豊かな音の映画であると言わねばならない。最後まで登場人物の言葉を抑制し、ぬかるみにはまった車のタイヤが虚しく回転する音だけを響かせる『サマリア』を前にして、人はその哀感溢れる音たちに耳をかたむけるしかない。