論文梗概


第1章「映画都市京都 映画館と観客の歴史」(加藤幹郎)
 
映画史が成立してすでに一一〇年が経過している。しかし、これは映画が発明されて一一〇年になるという意味ではない。映画を撮影し上映するのに必要な機材は、リュミエール元年ともいうべき一八九五年以前にすでに実用化されている。では映画史が一一〇年を経ているというのは、どういう意味なのか。それは映画が今日の上映形態に近いかたちで初めて公共の場所でスクリーンに投影され、それを見るために一般の観客が入場料をしはらって一堂に会してから一一〇年がすぎたという意味である。つまり映画が、のちに映画館と呼びうるような場所で興行された一八九五年を、とりあえず映画元年としているのである。今日さまざまな種類の映画史が書かれている。映画の歴史は映画作品の歴史、映画作家や映画産業の歴史、スターの受容史、あるいは映画技術の歴史や映画装置をめぐるイデオロギーの歴史として広く知られている(1)。しかしながら、わたしたちはまだ肝腎なことをよく知らないでいる。それが映画館の歴史であり、映画館をにぎわせた観客の歴史である。だれがどのようにして映画をつくったのかという歴史は、比較的多くの研究者によって解明されている。しかし、だれがどのような場所で、どのように映画を見せたのかという歴史、そして観客がどのように映画を享受したのかという歴史は、いまだに不分明な点が多い。映画館が誕生して一世紀をこえるというのに、劇場とそこにつどう観客についてはいまだにわからないことが多いのである。そこで本章では戦後日本の一映画都市に焦点をしぼって都市と映画の相関文化史を検討してみたい。相関文化史、すなわち都市とその経済基盤の一部たる映画産業との文化的関係の史的考察である。本章では一九四七年から五六年までの戦後一〇年間の 京都市 をケース・スタディとする。この時期、 京都市 は地元に松竹、大映、東映(東横)など世界に名だたる大手映画撮影所を擁し、最盛期には五〇館以上もの映画館が活況を呈する巨大映画都市であった(映画館数は人口二万に一館というのが戦時中からいわれている適正規模であったので、 京都市 の五〇館をこす映画館はけっして多すぎるというわけではない)。百万をこす都市住人がひしめきあうこの狭隘な扇状地で、戦後一〇年間、映画はどのように享受されたのだろうか。


第2章「ニュース映画館の形態と機能 近代化する都市の映画観客」(藤岡篤弘)
 映画は二〇世紀を代表する娯楽/メディアのひとつとして、ひとびとの生活のさまざまな場面で多種多様に機能してきた。にもかかわらず日本映画史において、映画館とその観客の問題は、個人観客の回顧録や一部大都市の特権的事例が「通説」として語られるばかりで、その制度を体系的に論証した研究は少ない。本章ではその端緒としてニュース映画館という映画興行の一形態をとりあげる。ニュース映画館とは一般にニュース映画を専門に上映する映画館とされるが、ここではまずその自明の定義を転倒させるところからはじめたい。「ニュース映画」が速報体制の確立やトーキーという映画の技術革新によって、それじたいの興行価値を確立しはじめた一九三〇年代半ば以降、ニュース映画館は日本の大都市を中心に誕生した。しかしその名称とはうらはらに、そこはかならずしもニュース映画を専門に上映する映画館ではなく、短篇映画を専門に上映する短時間興行制の映画館として自己定立した。また興行形態とともに、その立地条件や建築上の新機軸が、映画の「観覧」に気楽さや快適さをもとめはじめた都市住人の欲望とみごとに合致し、大都市部を中心に一定の隆盛をみたのである。一九三七年七月の「支那事変」勃発後、ニュース映画館は全国的にその数を増やし、ひとびとは戦況ニュース映画を「観覧」しようと殺到したが、その熱狂は一時的なものであった。以後、「非常時」にあってニュース映画館は本来の興行機能を失効させるが、戦後も本来の興行価値を減じることはなく、高度成長時代以降はテレビという新しい情報伝達媒体にその機能を譲り渡したのである。


第3章「描く身体から描かれる身体へ 初期アニメーション映画研究」(今井隆介)
 一九二〇年代から三〇年代なかばにかけて製作されたアメリカの漫画アニメーション映画を見てきづくことは、冒頭に具体的な人物ないし人の手が登場し、キャラクターや背景を描きだすことによって導入にかえる作品がすくなくないということである。マックス・フライシャーその人が登場するフライシャー兄弟のココ・ザ・クラウン・シリーズはもちろん、フィリックス・シリーズやかのディズニー作品にも人の手は登場し、「描き始める」という導入は漫画アニメーションを開始する常套句として一般化していたと考えられる。「手」のルーツをたどると、「漫画アニメーションのヘンリー・フォード」ジョン・R・ブレイから「アメリカにおける漫画アニメーションの父」ウィンザー・マッケイをへて、ライトニング・スケッチという舞台演芸を撮影した初期映画にたどりつく。これは一八九六年から一九〇六年ごろに製作されたもので、漫画を描く人間身体の一回かぎりの運動を記録し再現することを中心命題としながらも、漫画アニメーションが漫画ではなく実写映画から分派したことを実証している。アニメーションが実在しない運動を視覚的に創造するのにたいして、実写映画は実在した運動を再現するというように、両者はともに映像でありながら対称的な関係にあり、実在する事物ではなく絵が運動する印象を提示する漫画アニメーションは、実写映画の対蹠に位置しているといえる。したがって漫画アニメーションに登場する「手」は、かつて対極から対極への構造的転換がおこなわれたことをしめす痕跡とかんがえられるのである。以上をふまえたうえで、逆に漫画アニメーションの発展過程をたどってみると、また興味ぶかいことに気づく。一九〇八年ごろから出現した本格的な漫画アニメーションにおいて、漫画を描く人物の「描く身体」はしばしばペンを持つ手に縮小され、アニメーション本体から排除されるいっぽうで、物語の開始と終了を規定する役目をはたしていた。これは作品の主題が描かれた絵の運動に移行しつつ、演芸場や映画館の規格に順応する途上の有様をしめしているともいえるが、より重要なことは、漫画アニメーションには当初「描く身体」がつねに付随し、「描かれる身体」の運動を動機づけていたということである。一九一五年にセルロイド法が発明されたのち、漫画アニメーションは「描かれる身体」すなわちキャラクターの人気を原動力として量産され、作者の「描く身体」は「描き始める」導入にその名残をとどめることとなった。しかしこれはたんなる習慣的惰性というよりも、かつて特定の作者を指標していた「描く身体」が分業化によって集団化した結果、新たに作者一般を象徴する「手」という一種のキャラクターに変容した結果だと考えるべきであろう。このように漫画アニメーションの実写映画にたいする依存と独立の過程は、映像テクストのうえで映像どおり/文字どおり「描かれる身体」(キャラクター)が「描く身体」(作者)から自立する過程へと、そっくりそのまま翻訳することができるのである。


第4章「漫画映画の時代 トーキー移行期から大戦期における日本アニメーション」(佐野明子)
 近年、日本アニメーションが世界的に脚光をあびている。しかし、そこで言及されるのはおもに一九六〇年代以降の作品群にかぎられ、それ以前の作品についての研究は端緒についたばかりといってよい。アニメーションというジャンルがどのような文化的・経済的・政治的な背景とかかわりながら変遷してきたのか、いまだ不明瞭な状態におかれている。日本アニメーションの歴史的経緯は、いままさに(再)検討すべき時期にきているのではないだろうか。本章では、トーキー移行期から大戦期にかけての時期に着目し、この時期に日本アニメーションに生じた特筆すべき問題を三点にしぼり、当時の言説を引証しながら考察する。第一に、一九三〇年代に世界のアニメーション市場を席巻したミッキー・マウスなどのアメリカ製アニメーション映画は、日本でどのように受容、規範化され、日本製アニメーション映画にいかなる変容をせまったのかという問題。第二に、三〇年代は中国大陸における戦況が拡大してナショナリズムが昂揚し、アニメーションにすら「日本的なるもの」が要求された時期であるが、アメリカ志向と日本志向のはざまで、日本のアニメーションはいかなる方向に向かったのかという問題。そして第三に、一九四一年一二月の日米開戦以後、「アメリカ」に代わってあらわれた「支那」という第三項が「日本」にいかなる指針をあたえたのかという問題である。本章は、以上三点を作品受容と映像資料のテクスト分析、そして国家統制などの歴史的側面をとおして多面的に考察し、従来の研究では見えてこなかった日本アニメーション映画の変遷過程について検証するものである。その結果、「アメリカ」への憧憬と排除という矛盾したイデオロギーが併存するなか、漫画映画それじたいが内包していた「日本」との矛盾にも直面しながら、国家、企業、観客、さらに「支那」という新たな他者も関わりつつ、日本の漫画映画が形成されたことを明らかにした。また漫画映画なるジャンルが日本の興行界や国策映画の観客動員に寄与した事実は、それがたんに懐古的に眺められるべき存在ではなく、より積極的な歴史的意義を有することが明らかとなった。


第5章「アイヌ表象と時代劇映画 ナショナリズムとレイシズム」(板倉史明)
 本章で目的とするのは、時代劇が戦中から戦後にかけて連綿と保持してきたナショナリズムとレイシズムの力学を解明することである。蝦夷地やアイヌが描写される時代劇は数多くあるが、本章では、総力戦下に製作された『北方に鐘が鳴る』(大曾根辰夫監督、松竹下加茂、一九四三年)と、戦後の高度成長期に生み出された『水戸黄門海を渡る』(渡辺邦男、大映京都、一九六一年)の二作品に焦点を絞って考察する。二本の作品分析によって見えてきたのは、時代劇に内在するナショナリズムとレイシズムの矛盾をはらんだ関係性であった。『北方に鐘が鳴る』のフィルム検閲において、検閲官は階級的・民族的対立を消去しようと努力した。しかしそのいっぽうで検閲官はアイヌの主観を映画的に剥奪することで、和人とアイヌの間の民族的ヒエラルキーを構築するレイシズムに加担している。つまり観客にアイヌの視線(主観)を共有させない点において、映画的に「同化」政策が否定されているのである。また『水戸黄門海を渡る』において作動している力学とは、次のようなものである(1)ロシアを「機能的な悪」として設定することで、“守るべき蝦夷地”というナショナリスティックな大義を生み出す。(2)“守るべき蝦夷地”というナショナリズムによって、蝦夷地に居住するアイヌを「保護(支配)」することが正当化される。(3)アイヌを「保護」するためにはアイヌを和人と同じく「日本人」として扱う大義を必要とするため、水戸黄門はくりかえし「アイヌもシャモも同じ日本人だ」と強調なければならない。(4)しかしアイヌと和人は平等な関係ではない。和人がアイヌを統治するためにはアイヌと和人の間の民族的ヒエラルキー(レイシズム)が必要とされるが、同時にそれを隠蔽しなくてはならない。(5)レイシズムの隠蔽は、シャグシャイン(子)と和人(父)の間の“親子の和解”が、アイヌと和人の“民族的和解”にすり替えられることによって達成される。このようにして『水戸黄門海を渡る』はレイシズムを温存したまま(不問に付したまま)、ナショナリスティックに“天下太平”という幻想を構築する時代劇として機能している。時代劇における蝦夷地やアイヌの表象は、「日本」にたいするナショナリズムを補完すると同時に、「和人(シャモ)」を頂点とする民族的ヒエラルキーを温存するレイシズムを強化する役割をはたしてきたのである。


第6章「バベルの映画 スイスにおける多言語映画製作」(北田理惠)
 本章は、第二次世界大戦の戦中から戦後にかけて、スイスにおいて製作された複数の多言語映画に関して、映画における言語の問題に焦点をあて、激動していく当時の国際社会情勢とからめながら、個々のスイス映画に読みとれるナショナル・アイデンティティ確立のプロセスを考察しようとする試みである。周知のとおり多言語国家であるスイスの国語は、現行の連邦憲法によってドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四つに定められている。しかし、多言語国家であるというのは、もちろん国民全員が多言語で生活するわけではなく、基本的には言語でくっきりと分断された各言語地域文化がほぼ別個に展開し、各文化圏は対立しないまでも無関心にちかく、いわば言語によって一国内に国境線がいくつも存在しているのに等しい。また、一般のスイス映画史においても、各言語文化圏が独自に活動しているため、基本的に国内の製作や上映についても言語地域別に記載されることが多く、回避しがたい言語の問題がたえず言及されている。本章では、このスイスに顕在する多言語文化を共存・調整しようとする努力そのものを大きな魅力のひとつとしてとらえ、スイス映画史がこれまで個々の作品の特徴のひとつとしてしか強調してこなかった、スイス映画やスイスの多言語性そのものを肯定的にとらえ直したい。そこで本章は、トーキー移行期の諸言説をもとに、まずトーキーとともに訪れた言語の自覚の問題から出発し、これを障壁であるとして否定的にとらえるのではなく、トーキー初期に萌芽した多言語使用をたくみに発達させ、第二次大戦終結後、世界市場へと進出したスイス映画の躍進の軌跡をたどることにしたい。具体的には、戦前のスイス独自の方言映画や戦中のスイス映画黄金時代に製作された歌う多言語映画、さらには戦後国外で高く評価される国際主義の多言語映画など、多言語国家スイスならではの言語政策の問題を、具体的な作品の生成過程にからめながら分析していく。つまり内在する困難をみずから克服し、戦前、戦中をへて結果的に多言語国家スイスが具現化し開花させたトーキー映画の大きな可能性を提示することが本章の目的のひとつである。さらにスイス映画において、各時代に応じた言語使用や多言語手法がナショナル・アイデンティティとして多様なかたちで個々の作品のうちに確立されていく過程を明示することが本章のいまひとつの目的である。


7章「戦火のユートピア イーリング・コメディの系譜と現代イギリス映画」(松田英男)
 一九四〇年代はイギリス映画にとって一つの黄金時代であり、自立した国民映画の可能性が示された幸福な時代であった。本論文は、いわゆるイーリング・コメディーに焦点を当てて、四〇年代から五〇年代にかけての繁栄期におけるイギリス映画の映画的特質および文化・社会的機能の一端を解明するとともに、そこに見られる方向性が現代イギリス映画に与えている影響を具体的作品に基づいて分析する。イーリング・スタジオで制作されたこのコメディー群は、空襲下で国土を防衛したイギリス国民の精神構造を色濃く反映している。戦中戦後の苛酷な現実は、イギリス映画の基調を敗戦国イタリア同様にリアリズムとした。同時に、非常時における団結の記憶は、「民主主義」を守った戦勝国であるがゆえに、共同体のユートピアとして精神的基盤となり、懐旧的感情の対象ともなった。かくて、現実からの解放を求める観客の渇望とのせめぎ合いの中で、身近な日常的世界のなかで荒唐無稽な事件が起き、連帯が最終的な救いをもたらすという基本構造が成立した。イーリング・コメディーの系譜は絶えることなく、九〇年代以降のイギリス映画において他のジャンルと結合し、地方色を強めたヘリティッジ映画、さらには友情による救済を信ずる労働者映画となって再び姿を見せる。イーリング・コメディーのこのような展開、盛衰と再生のダイナミズムの解明が本論文のテーマである。


第8章「白い電話と白い砂漠 イタリア植民地表象の挫折」(石田美紀)
 イタリアは一九二二年から一九四三年まで独裁者ベニート・ムッソリーニを統領とするファシスト国家としてあった。当時ニュース映画に多数出演したムッソリーニが「映画は最強の武器である」というスローガンを残したために、ファシスト政権期のイタリア映画はかつてないほどに政治と結託したと考えられている。しかし、映画が政治と取結んだ関係はそれほど単純なものではない。なぜなら、ファシスト政権は一九三〇年代なかばまで映画産業保護に積極的ではなかった、という意外な事実があるからである。国営映画撮影所「チネチッタ」設立にしても一九三七年のことであった。
 イタリア映画史はファシスト政権期時代を「白い電話」の時代と呼んできた。字義通り「白い電話」しか意味しない奇妙な新造語が生まれた背景およびそれが担う意味は、映画産業の自力再建と成熟の過程に深くかかわっている。一九二〇年代に壊滅の危機に瀕した映画産業は、世界的潮流のなかで一九三〇年にトーキーへと移行した。この資本再投下の好機にさいして、映画産業は商品価値の高い作品を量産することで経済的合理性を追求し、再建をはかった。そのためには、イタリア人映画観客が一九二〇年代をとおして親しんでいたハリウッド映画が規範とされた。なかでも一九三〇年代初頭にハリウッドが完成させた照明法である三点照明がもたらす「白く輝く」視覚的テクスチュアは、美的モデルとして受容され、模倣され、実践された。一九四〇年代初頭、映画批評家たちは、主流な劇映画製作が採用した「白く輝く」視覚的テクスチュアと、画面を効率よく白く輝かせるためには小道具である電話までも白く塗ってしまう美意識をとらえるために、批評用語「白い電話」を生み出したのである。すなわち「白い電話」の時代と呼ばれるファシスト政権期とは、スクリーンが白く輝いた時代であった。本章はファシスト政権期の劇映画を論じるさいに従来見すごされてきたつぎの二点に注目する。第一に「白い電話」と呼ばれた映画群を量産した経済システムとしての映画産業界の論理。第二に「白い電話」という用語を生み出すことになった光を自在にあやつり物語を語る劇映画の固有性である。本章は映画というミディアムにファシズムというイデオロギーを読み込むことで満足するのではなく、映画というミディアムからファシスト政権期を再考する。
 本章がテクスト分析する植民地リビアで初めて撮影されたトーキー劇映画『リビヤ白騎隊』は、「白い電話」の時代に製作された映画群のなかでもっとも「白く輝いている」映画である。なぜなら「白い」サハラ砂漠でロケーション撮影されたこの映画は、字義通り全編が見事に白く輝いているからである。スクリーンが「白く輝いた」時代であるファシスト政権期を考察するためには、「白い電話」とともに「白い砂漠」を論じないわけにはいかないだろう。
 『リビヤ白騎隊』が一九三六年に製作されるためには、映画産業界と植民地政策の双方の安定、つまりは視聴覚表象媒体機構を強力に推進する国民国家の形成と、他のヨーロッパ国民国家列強同様に非ヨーロッパ圏をその支配下におくことが必要であった。すなわち、この映画はファシスト政権期のイタリアが目指した「近代化」と不可分にある。それゆえに映画『リビヤ白騎隊』のテクスト分析はイタリア近代を再読する格好の契機となる
 しかしながら本章で分析する『リビヤ白騎隊』におけるイタリア近代の表象は、エドワード・サイードがいうところのオリエンタリズムに支えられてはいない。オリエンタリズムとは、西洋の支配者が自身の支配を確立するべく採用する二項対立的表象システムである。この表象システムにおいては、支配者たる「われわれ」と被支配者たる「かれら」は明白な差異を賦与され、峻別される。だとすれば、『リビヤ白騎隊』が提出する問題はサイードの論点とは逆である。なぜなら、『リビヤ白騎隊』に欠けているものは、まさに「われわれ」と「かれら」という二項対立的表象であるからである。そしてこの皮肉な事態を初のトーキー植民地映画『リビヤ白騎隊』に招来させるのは、四〇年代初頭に批評用語「白い電話」を生み出す「白く輝く」視覚的テクスチュアにほかならない。挫折した植民地表象『リビヤ白騎隊』は、劇映画が光によって表層を織り上げ意味という深層を産出するために、表層の成立いかんによっては製作時に予定され期待されていたイデオロギー的意味をも脱臼させることを、わたしたちに教えるのである。映画産業が「白く輝く」視覚的テクスチュアを実現することで再建をはかり、批評がそのテクスチュアを「白い電話」と名づけたファシスト政権期という時代、それは劇映画というミディアムから顧みれば、文明や力を標榜しつつもそのうちに自身を倒壊させかねない契機をはらんでいた皮肉な時代であったことが明らかになるのである。


第9章「映画教育運動の成立史」(大澤浄)
一九二〇年代の日本における映画教育運動の成立とその意義を考察する。主な資料は当時発行された新聞雑誌書籍等を用い、それに最新の研究成果もふまえつつ映画史、教育史、メディア史等複数の視点から映画教育言説の動態を分析記述する。分析を通じて、次のことがあきらかになる。まず映画を教育化する動きの背景に、一九一二年頃の「ジゴマ騒動」における子ども観客の衝撃的な姿があったこと。犯罪映画『ジゴマ』やそれに類する映画や読物のイメージが子ども観客というあたらしい消費者を通じて社会に伝播し増殖していったことが、映画メディアを改良する動機をあたえたのである。続いて映画教育運動は、子ども観客を映画館から隔離する検閲政策が失敗に終わってのちにはじめてその社会的役割を認知されたこと。検閲という映画(や映画館)に対する制限=否定的な定義が明文化されたのちに、その善用=肯定的な定義が要請されたのである。このとき映画は文部省によって「民衆娯楽」の一つとして再定義され、社会教育の政策対象となった。文部省によって統計調査や推薦映画制度、映画展覧会や説明者講習会の開催など、さまざまな面から映画改善策が講じられたが、映画教育運動を組織化するにはいたらなかった。ここで運動の成立には、先行マスメディアの媒介が必要不可欠だったことがあきらかになる。当時の国民的大衆新聞社である大阪毎日新聞社(大毎)による映画事業である。新聞の販売促進から国家的メディア・イヴェントの報道へと映画事業の内容を変化させてきた大毎は、既存の商業映画市場とは競合しない独自の映画ネットワークを構築していた。大毎は文部省の映画政策を批判的に乗り越えるかたちで映画教育運動を組織化することに成功する。このときあらたな市場として「学校」が発見された。日本における映画教育運動は、子どもたちの映画体験を学校に囲いこむことによって成立したのである。