報告
1970年代の格闘する作家たち 
ノンフィクション映画の新しいまなざし
特集上映「フィルムは記録する 2005 日本の文化・記録映画作家たち」(東京国立近代美術館フィルムセンター、2005年2月25日−3月27日)報告

中伊万里

 1970年代と聞いて私たちは何を思い出すだろう。漠然とした質問であるが、まず思い浮かぶのは1970年に開催された大阪万博ではないだろうか。60年代末の大学紛争の火種は残っていたものの、1970年は戦後にとっても大きな転換期であり、高度経済成長によって豊かになった日本をほとんどの国民が実感として感じることができた。そして6400万人を動員に成功した大阪万博というイベントはその象徴であり、所得倍増を打ち出した池田内閣によって国民の豊かさへの欲望は一気に加速していった。しかしながら1970年代は戦後を駆け抜けた日本の歪みが公害などの社会問題として少しずつ表面化してくることとなる。このような1970年代、日本人の豊かさへと欲望とそれを取り巻く社会の断片をキャメラで切り取ったノンフィクション映画特集が2005年2月22日から3月27日までの約一ヶ月間、国立近代美術館フィルムセンターでおこなわれた。「フィルムは記録する2005 日本の文化・記録映画作家たち」と謳った本企画では主に1970年代以降に製作された55作品が上映された。プログラムを振り返ってみると、まずPR映画へのアンチテーゼとして、自主製作というフィールド飛び出し躍進を始める「青の会」の土本典昭や小川紳介、東陽一、岩佐寿弥など若き作家たちが挙げられる。また被写体との関係において極私的な視線で対象と向きあうスタイルを確立させ、これまでのノンフィクションとは一線を画す原一男の存在も忘れてはならない。そして1970年代は民俗学的視点から農村共同体を題材として扱った研究者や作家も多くあらわれることとなり、沖縄やアイヌなどが個性的な作家たちによってさまざまな観点から記録された。その他に顕微鏡によって未知なる世界の新鮮な発見を与えてくれる科学映画などもプログラムに組み込まれ、「フィルムは記録する2005」では世界を豊かな文脈で切り取るノンフィクション映画の視線を感じることができた。いまや神話化された1970年代以降を振り返る際に欠かすことの出来ない小川紳介や巨匠となった土本典昭の作品もさることながら、彼らのような格闘する映画の周縁に位置づけられる科学映画や民俗学映画からいくつかの作品を紹介して1970年代のノンフィクションの視線はどのような軌道を描いたのかを探り「フィルムは記録する 2005」の報告としたい。

科学映画のミクロな視線
 
「フィルムは記録する2005」の特集の中で個人的に印象に残った企画は、クラゲなどの海洋微生物の生態を丁寧に記録して追った『ムーンジェリー ミズクラゲのライフサイクル』(1977)や沖縄海洋博覧会向けに製作された『マリンフラワーズ』(1975)また生物学者樋口源一郎率いるシネ・ドキュメントの科学映画の展開である。
 
生物学者の樋口源一郎の『きのこ シイタケ菌を探る』(1980)や『真正粘菌の生活史』(1997)は科学映画の中で一際目を惹いた作品であった。樋口は動物でも植物でもない原始的生物的な真正粘菌(変形菌)の生態をミクロな視線で取り上げ、菌が次第に繁殖していく運動をカメラにおさめていく。次々に姿を変える粘菌は規則性が伴う変化によって運動がデザイン化され、それあたかも万華鏡の中で起こる世界をのぞいているようである。樋口は既に解明されていることを分かりやすく説明するのではなく、未解明な部分を追究する喜びを表現する科学映画を目指した。そして未知なる領域である粘菌が次々と姿を変えながら増殖する過程を顕微鏡を使い、一歩踏み込んだ先に待っている新たな領域で新鮮な発見の喜びを私たちに提供してくれるのである。

万博と映像
 
東京シネマ新社製作の顕微鏡映画『マリンフラワーズ』は沖縄海洋博向けに製作されたもので、海に住む微小な生物たちの生態を時間と労力と十分な予算をかけて撮影されている。海洋博では3面マルチスクリーンで上映されたらしいが、普段テレビの小さな画面でしか触れることのない海の中で美しく漂うクラゲの姿を映画館のスクリーンで迫力のある映像にふれられたことは収穫であった。沖縄海洋博で大掛かりな多面スクリーンクリーンを駆使してこの作品を展示したことは企業や政府が広告と目的として、映像を利用した展示に力を注ぎ、そのため十分な予算を映像製作につぎ込んだことが窺えた。戦後、高度経済成長を迎えた日本の経済成長は1970年大阪千里で開催された日本万博博覧会によってある頂点を迎える。最先端技術の博覧会である万博と映像の関係について振り返ってみると、未来都市をテーマに掲げた大阪万博では複数のマルチプロジェクション方式、立体映像など最先端の映像技術が数多く展示された。各国の政府館や企業館はこぞって最新の映像展示に力を入れることなり、未来都市のイメージ作りの戦略から前衛的な映像が多用された。そのため日本の記録映画製作の主流を担ってきた短編映画会社や多くの映画作家がこのイベントに参加することとなる。映像の氾濫はその後の1975年の沖縄博にも受け継がれ、開発フロンティアとしての海洋をテーマとした沖縄海洋博の企業パビリオンでは自然のロマンを映像技術を駆使して謳いあげるスタイルが主流であり多面スクリーンを利用した作品が数多く展示された。たとえば住友館は5面マルチスクリーンに太平洋で繰り広げられる大自然のドラマを映し出した。このように万博での企業パビリオンがこぞって自らの展示を映像に求めたのは興味深い。『マリンフラワーズ』なども巨額の予算が用意されていたからこそ、豊かな海の生物の生態を丁寧かつ労力をかけて製作できたのである。高度経済成長の恩恵により数多くのプロダクションがスポンサーを獲得し企業や官公庁のPR映画が盛んに製作されることとなる。しかしながら小川などの若き作家たちはPR映画という枠組みで製作現場のレールを通過しその中で自らの被写体との関係における方法論を模索し始める。こうして1970年代、キャメラを使い闘い始めた作家たちが自主製作のフィールドで新たな作品を世に送りだして行くが、その一方で時代の最先端の技術取り込む万博のイベントにはPR映画製作で多くの作家が携わっていた。岩波映画製作所は大阪万博による大量の映像の発注のおかげで経営の危機を先送りにできたこともこうした事実を裏付けるだろう。ノンフィクションにおいて格闘が始まっていたものの、この分野ではまだまだ企業PRに製作を頼っていたことを『マリンフラワーズ』は再確認させてくれる。

民俗学映画の展開
 
1970年代には日本各地の農村共同体や沖縄やアイヌなどが記録映画の新たな視線の対象となった時代でもある。今回は民俗学文化映像研究所を設立した姫田忠義のアイヌの伝統的な家の建築を忠実に再現した『チセ ア カラ われいえをつくる』(1974)や野田真吉の信州の雪祭りを題材とした『ゆきははなである 新野の雪まつり』(1979)などが上映された。ひとつの流れを形成した民俗学映画の中で小川紳介も三里塚で空港側に頑固な団結を見せて戦う辺田という一部落を中心に撮影し始めるが、老婆が語る村の歴史と自分史を聞き取りキャメラはそこで暮らす人々の生活というミクロな部分に入り込むことになる。闘争とともにある彼らの日常生活から、それに繋がる地域共同体の本質に分け入ることで、民俗学的な観点からの記録といった方向性が現れ三里塚後の作品に小川のこうした精神は受け継がれていくこととなる。
 民俗学的な立場からのアプローチを取りながらも、そこで人たちの生活、内面そして人生にいたるまでを記録したのは 北村 皆雄の『海南小記序説 アカマタの歌 西表島・古見』(1973)であった。西表に長年続くアカマタの儀を撮影しようと訪れたと製作者が島の住民にこれ以上取ったら殺すぞと叱責されたことをきっかけに、アカマタという儀式に対する島住民の重要性から島とアカマタの関係、さらには島を離れた人たちにとって儀式がどのような意味を持っているのかをキャメラで追う。しかしこの映画では商業性を念頭に置いた観客に分かりやすい記録映画といった要素は見受けられず、余計なナレーションや状況説明の字幕などを一切排した構成となっている。西表の言葉にふれることが少ない私たちにとって彼らの話している内容は理解できない上に、場面が変わった状況を説明するクレジットが入らない(劇映画に比べると)不親切な演出となっているので観客は映像と音を追うのに労力をつぎ込まなければならない。見る側と映画の関係は自然に成立するのではなく、むしろ見る側の私たちが積極的に作品に接近しないと内容を理解できないという関係性が生まれる。プロダクションという枠組みを飛び越えスポンサーを要しない自主製作というフィールドに身を投じていった作家たちが、観客が映画を見る際にこちらから映画に接近しなければならないといった新しいコードを持つ作品を製作していく。

ノンフィクションへのラディカルな批評
 
1960年代後半からノンフィクション映画はただ単に記録を行うだけでなく、新しい作家たちによってカメラの視線の先にある被写体との関係性をはっきりと呈示しようとする試みに挑戦していく。こうしたノンフィクションを取り巻く批評もまたこの時期に活発になり刺激的な批評が展開されたこともここで確認しておきたい。その中心的な存在であったのが大島渚や自らもノンフィクションというフィールドを起点とした松本俊夫といった人物たちである。松本俊夫は自著『映像の発見』(三一書房、1963年)のなかで「ドキュメンタリーとはいっさいのできあいの物差を捨て去って、裸の目で現実を凝視すること、その凝視そのものの軌跡として記録の問題を追及すること、いいかえれば対象をあくまでも主体的に記録することを意図しています」と述べている(68頁)。こうした裸の目で現実を凝視する試みは旧青の会のメンバーの小川紳介の三里塚シリーズや土本典昭の水俣作品などに共通して見られる、自らの視点をどこに置き対象との関係性を明確にするかといった姿勢に如実に現れる。また60年代から70年代のノンフィクション映画について批評活動は『映画批評』『映像芸術』などによって活発な批評空間を生み出すこととなるが、青の会のメンバーなどへの刺激的な批評が繰り広げられたことはこの時期を振り返る上で欠かせないだろう。

1970年代ノンフィション映画の系譜
 
豊かな時代を迎えた1970年代は高度経済成長を駆け抜け、その恩恵を味わいながら個的な幸せを追求しようとする欲望が加速し始めた時期であった。また社会が先送りにしてきた問題と向き合わねばならない時代でもあり、ノンフィクション映画では社会問題に挑んだ旧青の会の監督たちが代表作を集中させていく。自らの視線で世界を切り取り、対象との新たな関係性を呈示した彼らのスタイルは作家として認識されることとなる。しかし大手プロダクションから飛び出した作家たちは自主製作で格闘を余儀なくされ、ノンフィクションを取り巻く環境は依然厳しい状況であった。つまり70年代はノンフィクションにおいて主体との新たな関係性を裸の目で見つめ、映画に還元しようとした運動が若き作家たちによって行われた格闘の時代でもある。既存のプロダクションの規制と自主製作がせめぎ合い、三里塚や水俣での苦闘から数々の作品が世に送り出されていった。また70年代は人々が豊かさへ個人的な欲望を追求し始めたように、「個」へまなざしが強化された時代でもあった。それを反映するかのように70年代以降のノンフィクションを代表する小川や土本のフィルムから作家の個的な視線を固定化する姿勢を確認することが出来る。また野田真吉は民俗学のフィールドから個人的な視線で農村共同体を切り取り、重度障害者をテーマとした福祉映画を製作する柳沢寿男も個のまなざしで子供たちを見守る。キャメラのピントを限りなく「私」におきノンフィクション映画の方法論に衝撃をもたらす原一男がその象徴的な存在であろう。ノンフィクションはプロダクションの規制から飛び出し格闘を続けながら、視線を「個」へシフトし世界を凝視することで対象との新たな関係をフィルムに記録し始めたのだ。作家の立ち位置を明確にし「個」的な視線で多様化していく世界を切り取るノンフィクションは豊かさの中で「個」の幸せに執着し始めた1970年代以降の社会の断片を映し出すかのようである。
 
その他この企画で精力的に作品を送り続ける羽田澄子や時枝俊江などの女性作家や70年代を駆けぬけ早すぎた到着点を迎えた岩佐寿弥の存在も忘れてはならない。また『山谷 やられたらやりかえせ』(1985)がフィルムセンター大ホールの収容人数310人をほぼ満席にしだこともノンフィクションへの反応の高さを示すひとつの座標になると感じた。70年代の作品が中心であり80年代以降の作品も数多く組まれていたが、今回で「フィルムは記録する」の長期企画を完結するのではなくますます多様な表現で記録の方法論を曖昧にしていく80年、90年代のノンフィション企画も独立して今後開催してほしい。今回のような大々的な特集上映が各都市で上映されるのを期待したい。

フィルムは記録する2005:
日本の文化・記録映画作家たち

Glimpses of Nippon 2005: A Japanese Documentary Tradition

2005年2月22日(火)- 3月27日(日) http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2005-03/kaisetsu.html