富=恋愛の対称交換のユートピア 
万田邦敏監督『Unloved』(2002)

大澤浄

 残念なことに「映画作家」万田邦敏は、われわれの前にその輪郭をまだ十分には現していない。その理由は、何といっても作品の流通量が少ないことにある。1970年代後半〜80年代の学生時代に撮られた伝説的な自主映画群や、映画美学校製作による『夜の足跡』(2001)や『う・み・め』(2004、筆者は未見)といった作品群は、東京以外ではほとんど再上映される機会がないし、関西テレビで制作された『極楽ゾンビ』(1990)や『胎児教育』(1991)、あるいは当時実用化されたばかりの松下電器の720pバリアブル・カメラを用いて撮られ、カンヌ映画祭にも出品されたというディジタル配信映画『The Day I Was Born』(2002)などは、その後上映(放映・配信)されたという話すら聞かない(これら全て筆者は未見)。現在のところ万田作品の多くは、誰もが気軽に見ることができるような流通形態にはなっていないのである。
 もちろん「J・MOVIE・WARS 3」という企画においてプロデューサー仙頭武則と出会い、『宇宙貨物船レムナント6』(1996)の監督に起用されたことが万田にとって大きな転機になったのは間違いないだろう。しかし、よく知られているように、それは必ずしも商業映画監督としての万田の門出を祝福するものではなかった。黒沢清が長篇を5本(『勝手にしやがれ』シリーズ四本と『DOOR?』)も完成公開させてしまったこの年は、同時にこの「J・MOVIE・WARS 3」で万田を含む三人の有望な新人が劇場映画第一作を世に送り出した年として記憶されるべきであろうが、『女優霊』の中田秀夫と『Helpless』の青山真治がこれをきっかけに順調に映画を量産していくのに対し、万田はその後五年間も映画を撮る機会を奪われてしまう。それが正確にいかなる事情によるものかは知る由もないが、少なくとも『宇宙貨物船レムナント6』が、当時見る者を戸惑わせるのに十分な作品であったことは事実である。押井守(総合監修)、樋口真嗣(特撮監督)、河森正治(メカニックデザイン)といった強力なスタッフのもとに、低予算でありながら厳密な科学的考証に裏付けされたSF映画を目指して製作されたこの作品は、本格的なSF映画を期待する層を満足させることはなかったし、万田に「ゴダール以後」の映画作りを期待する層からも、困惑や黙殺以上の反応を引き出すことはできなかったと言ってよい。登場人物の心理や全体状況の説明に一切関心を示すことなく、宇宙船内で次々と生起する困難な状況に対して複数の力がいかに反応し衝突するかのみを描いた40分余りの作品『宇宙貨物船レムナント6』は、万田の長篇第一作『Unloved』(2002)を見てしまった現在でこそまぎれもない活劇の傑作と断言できるが、当時は(もちろん筆者も含めて)これが果して「あの」万田邦敏の劇場デビュー作にふさわしいものなのか、どうにも判断できかねるというのが率直な感想であったように思う。
 その後21世紀に入ってからは、万田は、流通商品としての映画と徐々に折り合いを付けつつあるかに見える。仙頭の製作によるもの(『Unloved』と名古屋テレビによる『ダムド・ファイル』シリーズ〔2003〜2004〕の長篇一本および短篇十本)の他に、前述の映画美学校、そして『刑事まつり』シリーズ(『夫婦刑事』〔2003〕および『続夫婦刑事2』〔2004〕)に参加することにより、その作品数は確実に増えている。『ダムド・ファイル』シリーズにおける、ホラーのみならずメロドラマや活劇といったジャンルへの探究は興味深いし、『続夫婦刑事2』に見られるような、延々と映像と言葉の駄洒落が続く不条理喜劇は、万田ならではの傑作短篇と言えるだろう。しかし、現在までに万田が長篇を二本しか(劇場公開は一本のみ)撮っていないのも事実である。『Unloved』を見れば、誰しもそこに驚嘆すべき「映画作家」の出現を認めずにはいられないが、それゆえにこそ、われわれはもっと万田の長篇作品を見たいと思う。そして旧作も含めた万田作品が関西(のみならず全国)で、より多く上映されることを願う。以下の『Unloved』論は、生成しつつある「映画作家」万田邦敏のさらなる活躍を待望しつつ書かれたものである。
 今のところ劇場公開された唯一の長篇である『Unloved』は、万田の妻である万田珠美の発案によるものである。パンフレット所収の万田と蓮實重彦の対談によると、脚本は妻が主導し、それを夫が改訂する形で繰り返し書かれたという。最も身近で異質な存在である妻との折衝が、万田の新たな側面を引き出したことは間違いないだろう。たとえば『Unloved』における編集の間は、妻の主張を受け入れる形で長くされたという[1]。この点において『Unloved』は、もしかすると最も万田的ではない作品と言えるかもしれない。『宇宙貨物船レムナント6』や『ダムド・ファイル』の第29話『池・ 犬山市 』の冒頭における人と車の連鎖的衝突に見られるような語りの性急さは、ここでは回避されており、むしろ説話の持続が優先されているからだ。しかし、生成しつつある「映画作家」に対し、何が「万田的」かを論ずる不毛は避けるべきだろう。ここでは、万田がそうした異質な要素を引き受けた上で、演出における取捨選択を決断したという当然の事実を確認するにとどめておこう。
 映画の主な登場人物は、市役所で堅実に仕事をこなすが少しも昇進への望みを持たない影山(森口瑶子)、市役所に出入りする会社の若き社長である勝野(仲村トオル)、影山の住むアパートの真下の部屋に越してきた配達会社の契約社員下川(松岡俊介)という三人で、物語は影山と勝野を中心にした前半と、影山と下川を中心にした後半とに大きく分けられる。それぞれのカップルは、しだいに互いの差異を際立たせ、ほとんど違う言語を話しているかのような絶望的なやりとりを続けていく。そこで明らかになるのは、誰一人として富と恋愛を適切に区別することができないという事態である。実際、この三人の富を生み出す能力はまるで異なっている。勝野――彼らの名前も多分に暗示的であるが――と他の二人との格差は明らかだが、上司に昇進のための試験を勧められ勝野からヘッド・ハンティングの誘いを受ける影山と、免許も持たずまともに宅配便の客への応対もできず、ギターも下手で友達のコンサートに同僚の女の子を誘ってもにべもなく断わられてしまう下川との間にも、実は埋めがたい能力差が存在している。にもかかわらず――あるいはそれゆえにこそ――持てる者(勝野/影山)は持たざる者(影山/下川)に惹かれていき、持たざる者は持てる者との格差に本能的に反発していく。『Unloved』においてこの格差は絶対的なものであり、何によっても解消されることはない。現在の努力が将来において報われるなどという立身出世主義も、相手の立場になって考えるなどという想像力も、性的な交わりによって融合を達成するなどという性愛=身体の幻想も、ここでは効力を奪われてしまっており、経済と感情の不一致はますます露わになっていく。この意味において『Unloved』は、日本映画においては稀に見るほど唯物論的な映画なのである。
 性愛や暴力といった視覚的に派手なアクションが人物の関係に何の変容ももたらさない『Unloved』の世界においては、視線と言葉がそれを支える要素となる。たとえば勝野が影山を恋愛の対象として見出すのは、一方的に視線を送ることによってである。映画の冒頭において、昇進のための試験を受けるかどうかをめぐって、影山とその上司が話し合っている。ショットが変わり、そこに勝野が訪れる。キャメラは切り返しによって勝野と影山を交錯させるが、ロング・ショットでとらえられた影山はすぐに視線をそらして画面外へと退き、それをクロースアップの切り返しでとらえられた勝野の目が追っていく。二人の二度目の遭遇は、勝野の運転する車が市役所の外で徒歩の影山と接触しそうになる場面である。ショットは影山の下半身と車体がぶつかりそうになるのをとらえ、続くショットでは車中の勝野が画面外に視線を向け、三つ目のショットで通り過ぎようとする影山の背後から勝野が声をかける。三度目の遭遇でも、にこやかに笑いながら他人の子供を抱き上げて水を飲ませてやる影山と、それを遠くから一方的に見る勝野との非対称的な視線のあり方が、切り返しによって浮き彫りにされる。二人の関係の端緒に刻まれたこの視線の非対称性は、その後の両者の関係を予告してもいる。勝野は影山に新しい就職先、カルヴァン・クラインの高級ドレスと靴、豪勢なディナー、新しい住居といった富を提供しようとし、影山はそれをことごとく拒否することになる。拒否はあくまで言葉によってなされ、そこにおいて二人は決定的に対立する。この対立においては切り返しによる想像的な視線の融合は禁じられ、両者は同一画面におさめられる。言葉のやりとりのさなかに視線を外したり、顔や体の向きを変えたり、立ったり座ったりすることはあっても、その心理的な必然を欠いた機械的な動きは――成瀬的な豊かな身ぶりとは正反対に――二人によって発せられる言葉にいかなる意味も付け加えることはない。
 一方、映画後半における影山と下川の出会いは、勝野と影山のそれとは異なる。コンビニエンスストアにおいて影山が下川に300円を借りるという、二人が初めて遭遇する場面では、ぶつかりそうになる二人の下半身のショットに続いて、まぎれもなく視線の一致した切り返しが用いられる。ここでの二人の視線のあり方は対称的である。これを裏付けするかのように、借りた300円はきちんと下川に返済され、その後突然影山によって下川に贈呈された林檎は、下川の友人のコンサートのチケットによって相殺される。あたかも、視線と富双方における、貸し借り無しの対称的な交換が実現されているかのようだ。しかし、そもそも下川が引っ越してきた時に二人が遭遇し損ねたように(無人のトラックを見つめる影山のショットと、階段を上がっていく影山を背後から見上げる下川のショットを思い出そう)、またアパートの上下という高低差が示唆するように、二人の間にもやはり非対称性が存在している。勝野が別れた影山のアパートを訪れた時、居たたまれなくなった下川が下の自分の部屋に戻ることによって、この非対称性は顕在化する。これ以後影山との齟齬が露呈するたびに、下川は下の自分の部屋に戻っていくことになる。下川は階級上昇の夢を抱き続け、対称交換を貫徹しようとする影山は厳しくそれを拒否し続ける。この両者の対立もまた、同一画面における言葉のやりとりによって際立たせられていく。そして、下川が勝野に就職の世話を頼みに行ったことが露見する場面に至って、この対立はほとんど修復不可能なものになるのである。
 三人の登場人物は、互いの差異のみを際立たせ、容易に妥協点を見出すことができないという点において、ほとんど病人のように見える(もちろんその徹底ぶりが感動的なわけであるが)。尊大以外の態度を知らないような勝野と卑屈の固まりの下川。そして対称交換を強迫的なまでに押し通そうとする影山は、とりわけ重い病に取り憑かれているようである。多くの者が指摘するように(そして万田自身も言及しているように)、『Unloved』には増村保造の映画の影が色濃く落とされている。確かに増村もまた、ある種の極端な欲望を与えられた登場人物たちを、フレームで厳格に切り取ることによって、資本主義と恋愛の横行する「現在」を浮かび上がらせようとしたのであった。だが、増村的なヒロインたちが、男への無償の従属を自己の欲望を実現する契機に読み替えていくのとは異なり、対称交換を欲望する影山は何の戦略も持たず、より不器用な存在に見える。これによって影山は、自らが絶対的な孤立とでも言うべき境遇にあることを自覚するだろう(影山は下川に対して、「私はこうしかできないの!」と叫ぶ)。このユートピア的欲望は男たちを畏怖させ、追い詰めずにはいられない。ついに影山は、下川によって「君は誰からも愛されない、そういう人(unloved)だよ」と宣告される。映画を見てきた者は、二人の決裂に胸を揺さぶられると共に、これが必然的な成り行きであることに納得するだろう。こうして万田は、三者が富と恋愛の幻想を生きるさまを、この上なく厳密かつ残酷に描いてみせる。
 だが映画はここで終わらない。自室に戻った下川は、暫くぼーっとする。外はいつのまにか朝になっており、下川は窓を開けて空を見上げる。ふと室内で育てている鉢植えの植物に目が止まり水を汲むが、水は止められることなく容器から溢れていく。座り込んでいる影山の前に下川が現れ、「俺はここにいるよ。今度は俺が君を選ぶんだ。」と言って二人は手を合わせて抱き合い、和解を果すのである。これが本当にこの物語にふさわしい結末であるかどうかは、正直言って筆者にはよくわからない。どう考えても徹底的にすれ違っている二人が、たやすく和解できるようには思えないからだ。もちろん、下川が影山を選び直すことによって、二人がついに対称交換を実現したと考えることは可能であろうし、映画を終わらせるためにとりあえずのハッピーエンドを用意したと解釈することもできる。しかし、ここで重要なのは、この一連の画面が変化の徴候に満ちており、われわれはなぜと問う間もなく二人の関係の変容を受け入れてしまうということだろう。それまで下川が空を見上げることなどなかったし(むしろそれは天気を確かめる影山の身ぶりだった)、水が溢れることも、またそれを下川が黙って見つめることもなかった。そして座り込む影山に降り注ぐ外光は、その色を暖かく変化させていき、二人の手は初めて居場所を見つけたかのように、互いにピタリと合わせられるのである。時間の経過が視覚化されることによって「内面」の変化を生み出すという、この正統的な――つまりは通俗的な――演出は、その的確なショットの積み重ねにおいて感動的であると言うほかない。そして、そのような演出を万田が自らに課したということへの驚きと共に、われわれは映画『Unloved』のラストを肯定できるように思う。長篇映画作家万田邦敏は、こうしてその鮮烈な一歩を踏み出したのである。


[1] 万田夫妻による作品のウェブサイト内の、夫妻と塩田明彦の対談のページ(http://www.shibalov.com/unloved/t02.html)を参照のこと。