ジャン・ルノワール『獣人』覚書

音上修子

「映画は戦場だ」
 それが男であれ女であれ異性愛の獲得という名の戦場で勝利を得ることは容易なことではない。無論、映画もその例にもれずスクリーン上に繰り広げられた男と女の戦いの痕跡を人は見出すはずである。
 ジャン・ルノワールの『獣人』もまた例に漏れず男女の戦いを描いている。しかしこの戦いは一般的なルノワール作品に共通する牧歌的な男女の色事の駆け引きというイメージとは決定的に異なっている。いうなれば登場人物たちが戦場で苦痛にのた打ち回り、発狂するようなフィルムである。
 今日まで大スタージャン・ギャバンを主役に迎え、その大々的な興業的成功によって『ゲームの規則』(1939年)の制作費を調達したという対外的な面ばかりが語られフィルムそのものの魅力については触れられる機会があまりにも少なかった作品である。
 『獣人』の主人公たる鉄道の機関士ジャック・ランチエ(ジャン・ギャバン)は自分では制御できない突然の暴力衝動という悪い遺伝子を祖父や父から受け継いでいる(「自然主義」の論理)。彼はその発作を恐れ故郷の恋人との結婚も諦めていた。一方でランチエと同じ鉄道会社の助役ルボー(フェルナン・ルドゥー)は妻のセヴリーヌ(シモーヌ・シモン)と彼女の養父で大富豪のグランモラン(ジャック・ベルリオーズ)が愛人関係であることを知り激怒する。すぐさまルボーはセヴリーヌに逢引の誘いの手紙を書かせ列車の個室へとおびき出す。偶然ランチエは乗客として乗り合わせた列車でルボーとセヴリーヌがグランモランを殺害する現場に居合わせてしまう。だがセヴリーヌに魅せられてしまったランチエは警察にそのことを話さないでおく。口止めのためにセヴリーヌはランチエに近づき、事件以来、関係が冷え切ってしまった夫の殺害を唆す。しかし一度は計画を実行できなかったランチエだが大晦日の夜にランチエは今度こそルボー殺しを承諾するが、セヴリーヌと抱き合ったとたんに発作に襲われ彼女を殺してしまう。翌朝、ランチエは自分が運転する汽車から飛び降り命を絶つ。
 1938年に製作されたこのフィルムの構造は1940年代に流行したハリウッドの主流ジャンル「フィルム・ノワール」に若干先行している。男性主人公たちは皆ひょんなことから(場合によってはいやいや)犯罪に巻き込まれ、しばしばみずから犯罪に荷担し身を滅ぼすことになるのがこのジャンルの規則であり、そのきっかけは概して「ファム・ファタール」と呼ばれる抗うことのできない魅力を持った女性によってもたらされる。

雌猫セヴリーヌ
 
監督ジャン・ルノワールはヒロイン〈ファム・ファタール〉のセヴリーヌ(シモーヌ・シモン)について雌猫をイメージしたと述べている。事実、彼女の最初の画面への登場は真っ白な柔らかな猫を抱いた無垢な女としてわれわれの眼前に現れるし、愛人のギャバンとのキスシーンでは悪戯な雌猫(シモンは後年ハリウッドで『キャット・ピープル』(ジャック・トゥールヌール監督、42年)で自分が雌豹に変身するのではないのかと怯えるヒロインを演じている)そのままに噛みつく真似さえやってのける。
 「個人は自分の肉体に自己陶酔的に熱中する必要」があり、とりわけ女性は消費社会において「自分自身をひとつのモノ、それももっとも美しいモノ、もっとも貴重な交換材料とみなす必要がある」のであって
[1]、セヴリーヌは少女時代を愛人としてすごしており、いかに自分が男性にとって魅力的で高価な「飼猫」(彼女の夫は明らかに不恰好で年も離れて釣り合いが取れていない)であるかを熟知している。この悪戯な雌猫であるところのセヴリーヌは一貫して「飼猫」=「愛人」であり、自身を男性に消費されることを受け容れている。つまり彼女は最初から一般的なジェンダー・ロール、つまり妻/母親となることを放棄しており、その役割放棄はフィルム内では食卓を舞台としてもっとも顕著にあらわされる。

食卓の不在
 食卓は家族の生産の場である。しかしこのフィルムの中で、テーブルをセットするのは夫であり、彼女は一度も食卓の上に料理を並べたりはしない。ましてや食べたり、そそがれたワインを飲み干したりなどしない。彼女の小さな手はバゲットを千切りはするが口に運ぶことはせず、切れ端は所在なげに膝の上におかれる。バゲットを千切りサラミを食べたりワインを飲んだりするのはもっぱら夫やランチエの方であり、夫はなかば無理やりアルコールを飲み干すことを自身に強制することによって自己を保とうと試みているし、ランチエは酒によって性格が一変してしまう遺伝子を受け継いでいることを承知しているはずなのに(故郷の恋人に対して酒は一滴も口にしないと言明している)、セヴリーヌとともに飲むつもりであったマラガワインを、あろうことか彼は一人でグラスに傾けている。同様に「男性ヒステリー映画」『孤独な場所で』(ニコラス・レイ監督、50年)でも登場人物たちはまったく食物を摂取しようとはしない。彼らが積極的に摂取しようとするのはもっぱらアルコールであり、レストランで黒人歌手の歌を聞きながらアルコールを楽しんでいた二人は刑事の尾行に気づき店を出て行くのであるが、彼らが出て行った後のショットには飲み残しのアルコールの入ったグラスが二つ映っている。ボギーが愛する婚約者(彼女は夫が殺人者なのではないかと怯えている)のためにカットしたグレープフルーツは手をつけられることなく空しく皿の上に取り残される。残されたグラスや果実は登場人物の孤独をあらわす陰画となる。
 登場人物たちがみな食卓を、ひいては食べることを拒絶することは、言い換えれば家庭をつくること、新世代の誕生に対する拒否を意味している。それがファミリー・メロドラマであれば食卓を前にした個人は否応なしに女性は妻/母親/娘、男性ならば夫/父親/息子の役割を担わねばならない(『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー監督、74年)の殺人者一家でさえ恐怖に怯えた招待客を前にして三世代で食卓を囲んでいるというのに)。彼らは食卓に向かうことを頑なに拒み続けており、『獣人』では食卓はむしろ妻の愛人を殺害するための道具となる手紙を書くという禍々しい場所として機能することになる
[2]。 

 『獣人』が『孤独な場所で』と同様に男性ヒステリー映画でありフィルム・ノワールである以上、セヴリーヌは「雌猫」の毛皮を身に纏った「ファム・ファタール」である。彼女は男性からの視線を徹底的に無視することによって、星の数ほどあるハリウッド製ノワールにおけるファム・ファタールたちに先駆けて、男たちを犯罪へと駆り立てる。
視線の交歓
 『獣人』では視線の交差は、カットバックによって示されるのであるが、それは愛の交歓を示す。たとえば公園でのカットバックではランチエとセヴリーヌのおたがいに対する仄かな好意が画面の端々から伝わってくる、このフィルム・ノワールにあってはならないような瑞々しいショットの出現によって観客はルノワールお得意の幸福感を図らずも味わうこととなる。その逆に交わらない視線は負の意味を持ち、しばしばそれは男たちを犯罪へと駆り立てる徴となる。大富豪グランモランを殺害した夫とセヴリーヌは客車へと戻る通路でランチエと出くわしてしまう。口止めのためにランチエの横に並んで話しかけるセヴリーヌのバスト・ショットと目に入った塵をハンカチで拭うランチエの切り返しシーンでランチエは目を拭うことに集中しているのか決して目を彼女と合わせようとはしない。また彼女が夫殺しをランチエに唆すとき、二人は頬を寄せ合っており彼女はランチエの顔を見つめているが、その視線はひたすら一方的にそそがれるだけで行き場を失ってしまう。ツーショットで男女が並んでいて視線が交換されない場合も同様である。ランチエの発作がおこるシーンにおいて、セヴリーヌは必死にランチエに呼びかけ視線を合わそうとするが、切り返されたランチエのクロースアップ・ショットでは彼は彼女の方を見ようとはしない。殺害されたセヴリーヌのすでに何を見ることもかなわなくなった瞳と、それを上から見ているランチエとの切り返しでは、ついに交差しない視線は両者に死をもたらすこととなる。
 しかし執拗に交わされる視線は物語中一度だけ二重の意味を持つこととなる。グランモラン殺害現場のすぐ近くに居合わせたランチエは警察に犯人を目撃しなかったかを尋ねられるのだが、セヴリーヌは視線をランチエに送り、その視線に応えたランチエは難を逃れることに成功する。通常であれば視線の交換はおたがいの好意を肯定していることを示しているはずなのだが、一見すると観客には目撃証言を口止めしようとしているように受け取れる。しかし視線が交差している以上このセヴリーヌとランチエの切り返しは愛の交歓シーンであらねばならない。
 その反転としてホラー映画での切り返しによる視線の交換はしばしば死、または恐ろしい他者との接触を意味する。『シャイニング』(スタンリー・キューブリック監督、80年)では悪霊に取りつかれた夫はドアを斧でぶち破り、その裂け目から顔を覗かせ横目で妻に気味の悪い視線を送り、切り返されたショットで妻は恐怖のあまり瞳をこれ以上ないと言うくらいに開いているし、現代のホラー映画『ヒューマン・キャッチャー/JEEPERS CREEPERS2 特別編』(ヴィクター・サルヴァ監督、03年)においては、怪物のねっとりとした視線は切り返しによって獲物であると選別された黒人の男子生徒へとカメラは画面の奥に向かってにじり寄っていく。怪物と視線を合わせてしまった生徒は急いで手の平で怪物の邪悪な視線を避けようと試みるのである。つまり、受け止めてはならない視線の交換もあるのである。
 鏡は一貫して見てはならないものであり続ける。鏡の中の自分と視線を交換するということは見たくなかった事実、見なくても良かった現実を突きつけられるということである。『獣人』において、夫は鏡の前で無理やり妻にキスをしたばかりに知らなければよかったこと、すなわち妻の不貞を知ってしまい結局妻を失う羽目になる。またセヴリーヌを殺害した後に呆然としながら鏡のなかの自分の顔を確認するランチエも、もっとも見たくなかった「獣人」という自分自身の真の姿と視線を交わさなければならなくなるのである。
 グランモラン殺害途上の列車の窓に映るセヴリーヌ、ランチエが鏡を横切って夫殺害の承諾を彼女に告げるシーン、鏡と手鏡を使って髪をとかしながらランチエの承諾を聞くセヴリーヌ。または『孤独な場所で』のオープニングでの車のバックミラーに映るぎらぎらとしたボガートの瞳。いずれも鏡と視線を合わせようと合わせまいと、彼らはその直後に望まざる事態に直面しなければならなくなるのである。
男性ヒステリー 囚われの男たち
 「窓にもたれかかり列車を眺める夫、窓際には二つの鳥籠」のショットにおいて「飼猫」であるセヴリーヌを扱いきれない夫は、いうなれば「飼猫」に弄ばれて途方にくれている籠の中の鳥である。たとえばランチエが、セルヴィーヌの夫がかつてそうしたように、窓から列車を眺めているショットがある。このショットが示すところは、つまりカメラのフレームと映し出された窓枠によって、ランチエがフレームという名の牢獄にとらわれているということである。父と祖父から受け継いだ症候をもつ彼もまた新世代の誕生を目にすることがかなわない。彼らはエディプス・コンプレックスに囚われており噴出するヒステリーによる衝動を自分の力で抑えることができないのである。
 映画においてアルコールは陳腐なものの表象にすぎないが、一方でそれは陳腐であるがゆえに「男性ヒステリー」を惹き起こし助長する。ファミリー・メロドラマの傑作『風と共に散る』(ダグラス・サーク監督、56年)の主人公も自身の不能に対してアルコールを過剰に摂取することによってフラストレーションを発散しようとし、酒瓶を家の外壁に投げつける。この砕け散ったガラスの破片は彼の自己同一性の破綻を象徴している。『孤独な場所で』の男性主人公も常に酒を口に運び続ける。飲酒は時として自分に欠けている「男性らしさ」をあらわすための手段でもあり、性的特徴として女性と境界線を引くことも可能である
[3]。無論『獣人』のランチエも前述したように間接的にだがアルコールによってヒステリーも発作を抑えることができない。しばしば自分が男性として充全ではないという思いを抑えきれない彼らの怒りは汽車や車の疾走という形でも表象される。
 カメラの高低はそのまま両性の力関係をあらわしており「男性は女性に自分の内面の、抑圧された女らしさを投影し、それによって相手をより下位なものと見下る」のだ
[4]。夫が妻に嫉妬のあまり暴力を振るうとき、セヴリーヌは徐々に画面の奥に追い詰められていき、ベッドの横に折檻を受けた猫のように追いやられる。『獣人』のリメイク『仕組まれた罠』(フリッツ・ラング監督、54年)でも解雇されかけている夫の膝を踏みつける形で立ち、夫を見下ろしながら買ったばかりのストッキングを見せつけ、復職して夫の分の食い扶持も稼ぐといったヒロインは夫を助けるために元愛人と関係を持ったことが夫にばれてしまい殴られ引きずり回され、ベッドの横に追いやられる。夫は自分自身の癇癪、上司との衝突によって職を失いかけ―扶養者と被扶養者の関係の崩壊―、妻に養われるかもしれないし、復職の可能性すら妻の肩にかかっている、という事態、男性としての自信喪失によって男性ヒステリーは現れる。このときカメラはローアングルからの視点ショット(ぶたれて床にちぢこまっている妻の視点)で夫の憤怒に燃えた貌を切り取っている。カメラの高低は支配者と被支配者の関係を映し出す。
 男性ヒステリーは夫にも転移し、症候は暴力という形態から赤ちゃん化という形態へと変移する。ハイハイをした姿勢で妻の愛人の財布を隠し場所から取り出そうとしているところをセヴリーヌに見つかってしまう。カメラは高みから夫を見下ろす妻とハイハイしたまま動くことのできない夫を映し出す。夫はもはや妻に愛されていないことをはっきりと言い渡され赤児のように無力に四つん這いになることしかできない。上から注がれる冷たい視線に対して夫は立ち上がって受け止めることはもはや不可能である。むしろ妻の愛を失った男性はもはや物語冒頭の妻への嫉妬を抑えられず暴力によって妻を支配しようとした男性的な姿はなりを潜め赤ちゃんになることでしか自分を保つことができない。
 最終的には高所から低所への移動は登場人物に死をもたらすこととなる、フィルムの最後にランチエはセヴリーヌを殺害した自分自身に耐え切れず、同僚の制止を暴力によって振り切り汽車の上に立ち上がり「もう耐えられない」と叫ぶ。次の瞬間に彼は飛び降り、命を絶つ
[5]。低所から高所への移動が異性愛に対する征服と勝利をもたらすのなら(物語の前半でランチエは崖の上から見下ろす恋人の優勢に対して崖を登り彼女を押し倒し接吻すること、即ち自身が高所から恋人を見下ろすことによって異性愛を勝ち取っている)、その逆は敗北を表すのである。
おわりに 戦場の男と女
 それがフィルム・ノワールであろうとファミリー・メロドラマ、スクリューボール・コメディ、あるいはホラーであろうと、そのジャンルに関係なくフィルムの中では無数の男性/女性が異性愛を勝ち取るべく戦いを繰り広げている。夫のルボーはセヴリーヌを求め、ランチエもまた故郷の恋人との結婚をあきらめセヴリーヌを求める。セヴリーヌはランチエを求めるが、この円環は両者(ランチエとセヴリーヌ)の「死」という悲劇的な形で幕を閉じる。
 この三人の男女の異性愛に関する政治的な戦いは食卓、視線の交換(と交歓)、カメラの高低によって視覚化され、カメラによってその無様な姿を切り取られていく。「強き男であれ」または「美しく従順な飼い猫であれ」といったジェンダーに基づいた内なる自分ないし父母からの命令に縛られて、彼らは異性愛の獲得のための戦場へと赴く。そして彼らはときとしてその過度な要求に応えることのできない自分自身に対しての怒りの発作を抑えることができない。それは男性であれば暴力や赤ちゃん化、女性であればファム・ファタールとなることで発散することしかできなくなってしまう。『獣人』においてジェンダー・ロールの機能不全はそのまま悲劇的結末へとつながり、フィルム・ノワールのかたちを取りながら、このフィルムは参加資格を持つことができなかったにもかかわらず、戦場へと赴かずにはいられなかった男女のメロドラマでもあったことがわかるだろう。

[1]ジャン・ボードリヤール、今村仁司他訳『消費社会の神話と構造』(紀伊国屋書店、1995)、197-198頁。
[2]加藤幹郎『映画の論理 新しい映画史のために』(みすず書房、2005年)、86-87頁、参照。
[3] トーマス・キューネ、星乃治彦訳『男の歴史』(柏書房、1997年)。
[4] ロビン・ウッド、藤原敏文訳「アメリカのホラー映画 序説」(斉藤綾子他編『新映画理論集成』フィルムアート社1998年)、48頁。
[5] 加藤、78-82頁、参照。