書評
独身者の映画 差異と反復
北小路隆志著『王家衛的恋愛』(INFASパブリケーションズ、2005年)

竹内靖

 初めて映画作家ウォン・カーウァイの名を知ったのは『恋する惑星』(1994)の公開時だったと記憶する。当時はホゥ・シャオシェンの作品群が紹介され、エドワード・ヤン、チャン・イーモウ作品が相次いで公開されており、そのような状況の中でアジアン・ニュー・ウェイブの一人、スタイリッシュな恋愛映画を撮れる若手監督としてウォン・カーウァイの名前が頻繁に雑誌に取り上げられていたように思う。それから十年近く経った現在、本書によってウォン・カーウァイのフィルモグラフィーを振り返ってみると、彼がいかに作家性の強い映画監督であったかが改めて確認できる。最新作『2046』(2004)における自己言及の深さは観客にとって衝撃的ですらあった。特に女性観客から否定的な反応が出たという点は、初期の作品スタイルへの当時の反響から考えればとても興味深い出来事であるといえよう。
 
著者北小路氏は、ウォン・カーウァイ作品の中の登場人物たちを、《王家衛的世界》における「独身者」であると規定する。そしてそれらの「独身者」たちが織り成す《恋愛》という闘争(ゲーム)、すなわち血縁家族ややくざの親分/子分のような社会の垂直軸を成す関係性から逃れ、かつての恋愛の記憶を失うことを恐れる「独身者」たちによる水平的な関係性の物語、それがウォン・カーウァイ作品での重要な主題であると述べている。そして哲学者キルケゴールの「反復と追憶は同一の運動であるが方向性が逆なのである」という箴言を引用し、「独身者」たちの「反復」による《恋愛》の新たな可能性について言及している。つまり恋愛の初期段階においては何らかのタイミングの“遅れ”や“ズレ”によってその恋が成就しないことが往々にしてある。だからといって過去を悔いるばかりでは、その恋愛は「必然性」により破綻せざるをえなかったのだという論法に抗することができない。本書において北小路氏は、「追憶」とは過去に起こってしまった失恋にたいして一人閉じ籠もり、悔恨することであるが、「反復」とはその過去にあったかもしれない別の可能性への固執であり、新たな関係性を予感させるもう一人の「独身者」をも巻き込むポジティヴな行為であって、それゆえに未来の不確実性にかける勇敢な存在への反転なのであると肯定的にとらえている。
 
『2046』の中で、日本人男性(木村拓哉)との恋愛をホテル経営者である父親、すなわち垂直軸(肉親)の介入によって絶たれそうになったとき、恋人であるフェイ・ウォンが無意識の反復行為として行っていた「独り言」がそのホテルで暮らす住人のチャウ(トニー・レオン)の耳に偶然届く。そしてフェイの思いを汲み取った彼の献身的な仲介、つまり二人の手紙の交換を手助けすることによって木村とフェイの恋愛関係が持続するというエピソードがある。本来ならば恋人を想って発せられたであろう「独り言」(モノローグ)が間違ったコミュニケーションの連鎖によって別の人間に届き、思いもかけない可能性の発露により、困難な状況に小さな変化が生まれ恋愛が育まれていく。他のウォン・カーウァイ作品においても、ミスマッチによる偶然とそこから生まれる新たな展開の可能性という物語が見出せる。しかし著者は、「反復」によるささやかな幸福への可能性とともに、そのもうひとつ先にある再訪されるべき訣別のとき、つまり恋愛関係終焉の再現性をも冷静に指摘するのである。
 
『ブエノスアイレス』(1997)におけるファイ(トニー・レオン)とウィン(レスリー・チャン)のカップルは香港において何度も破局をくりかえしながらも、「反復」によるささやかな幸福への可能性を信じてブエノスアイレスへとおもむく。しかしその異境の地においても旅の途上でのトラブルからあっけなく破局をむかえる。そしてファイはこれまでくりかえされてきたのと同じように、ウィンの宣言を聞くのである。「別れよう。そしていつかやり直そう」。王家衛的世界における「独身者」たちが織り成す《恋愛》というゲーム、その駆け引きにおいて、ウィンのこの宣言はゲームのリセットを宣する殺し文句であるが、それはカードゲームのテーブルから立ち去ることを意味するのではなく、いつ始まるかしれない次のゲームへの参加を確約させられることなのである。「追憶」に耽溺するのは不幸でありつづけることだが、もしも前方への「反復」が可能であるならば、それは人を幸福にするかもしれない。しかしながら、その希望は確約されたものではなく、踏み出す勇気を必要とする賭け以外の何ものでもない。そして『ブエノスアイレス』における二人のこれまでの関係性から、観客は恋愛関係の崩壊が再反復されるであろうことを予感する。
 本書ではこのような《王家衛的恋愛》における「独身者」の「反復」に関する言及にとどまらず、その水平関係の往還運動が物理的に行われる空間の移動や時間変化の特殊性、最終章では香港という地域に関するポストコロニアル的論考も展開する。多角的に《王家衛的恋愛》の特質を分析しているのであるが、最終的にはその分析は再度《王家衛的》作品世界へと収斂し、その差異をふくんだ反復の物語は、映画というミディアムがあらかじめ有する既視観から生じるカタルシスとでもいうようなものとどこかで繋がっているように思えるのである。