映画の「フレーム」――ヒッチコック『めまい』を中心に

碓井みちこ

0.はじめに‐映画における「フレーム」をめぐる問題‐
 映画において、「フレームframe」とは、各ショットshotにおける画面内onscreen spaceのデータを決定するもっとも基本的な単位である。通常あるフレーミングを選択すると、そのようなフレーミングのショットを撮影可能にするキャメラ位置やアングルは自ずと限定される。つまり、ある出来事をひとつのショットで捉える場合、その出来事に対するある特定の視点を不可避的に形成してしまうことになる。そこで古典的物語映画においては、多数のショットをモンタージュでつなぐことによって、さまざまな視点から出来事を再構成しそれによって物語を表現する。観客は各々のショットが有する視点に同一化しつつ、物語の進行を追うこととなる。だがこのフレーミングに伴うキャメラ位置やアングルの制限を、より批判的に乗り越えようとする撮影技法が生まれた。それが「ディープ・フォーカスdeep focus」や「シークェンス・ショットsequence shot(長廻し)」である。映画史においては、そのような撮影技法の出現をきっかけに、モンタージュによる物語の再現―表象を中心とする古典的物語映画から、そのようなモンタージュに懐疑的となる現代映画への転換を説明することが一般的である。
 
ディープ・フォーカスは、広角レンズによってキャメラに近い人物・対象から少し奥目に焦点をあてることで、縦に並んだ複数の人物・対象を、少しのボケはありながらもすべてほぼピントの合った状態としてとらえることを可能にする撮影技法である。ディープ・フォーカスを使用した場合、観客は、複数の人物の行動・心理、さらには複数の対象から構成される状況全体に同時に注意を向けることができるようになる。さらにはこのディープ・フォーカスを発展させたものとして、シークェンス・ショットがある。シークェンス・ショットは、キャメラを一点のピントの存在に制限されることなく前後上下左右に自在に動かしつづけながら撮影することによって、ショットとシークェンスを一体化させる技法である。いわばひとつのショットの内にモンタージュの機能を内包させたようなショットであるといえよう。実際、映画館で座って見ているわれわれ観客からすれば、ショットのフレームと映画スクリーンの物理的な枠とが常に一致するような印象を受ける。われわれには、映画スクリーンそれ自体がその映画内の世界の広がりに応じて拡大してゆくように感じられるであろう。
 
ディープ・フォーカスやシークェンス・ショットは、通常のショットが特定の視点に基づいて構成されていることや観客に対してその視点への同一化を強く誘うことそれ自体を反省するものとして誕生した。そして、そのような技法を取り入れた現代映画は、モンタージュ編集それ自体への反省へと向かい、結果、物語の再現−表象ではなくむしろその解体を言表作用として形象化する方向へ進むこととなる。とはいえ、現代映画によって、今度は、そのような言表作用を担う視(聴)覚形象の存在を強く意識しながら映画を見る観客もまた確立されることとなった。[1]つまり、そのような視(聴)覚形象そのものに同一化することを求める観客が主に現代映画を見に行くという傾向が生まれたのである。従って現代映画においても、それが本来否定していたはずの、映画を無意識にある視点から眺めそこに同一化する観客の行為は、もちろん古典的映画とは違うかたちではあるとしても、いまだ存在しているといえよう。つまり、ある視点に沿って見ることを無意識の内に期待してしまう観客の存在が決して軽視できないことは、現代映画においても逆説的なかたちで露呈しているのである。
 
映画のショットは、常にフレームという存在と共にあった。そのため、古典的物語映画においても、フレームのありようへの反省は、ディープ・フォーカスやシークェンス・ショットなど一見して先鋭的と分かるものではないとしても、すでに存在していたのではないか。そこで本稿では、フレームのありようへの反省がモンタージュ編集との緊張関係の中で機能していたころに注目してみたい。
 
結論を先取りして言えば、モンタージュ編集のなかでフレームのありようを反省するような表現としては、ひとつのショットをある程度持続的に投影することによって[2]、画面外offscreen spaceから画面内への人・ものの出入りを強調するようなものが考えられるのではないか。それは例えば、人・もののフレームへの出入りをキャメラを動かさず同一アングルで示すショット、もしくは、キャメラ移動やズームを伴う場合も、シークェンス・ショットと違い、画面内のデータが変化するその運動をピントを一点に合わせたままで同一アングルのフレームへの出入りとして処理するショットなどである。そのようなショットが、モンタージュの間を縫うように挿入されることによって、ある特定の視点の存在が強調されるとともにそれができる限り相対化されることで、結果として、モンタージュをより緊張感あるものへと変容させるのである。
 
そこで以下ではまず、古典的物語映画において、画面外と画面内とがどのように関わるのか整理した後、あるフレーミングを選択するということが映画の物語表現において果たしてどのような意味を持つことなのかについて述べる。次に、モンタージュ編集を中心とする映画製作の中で、フレームのありようについて反省するような構造を持つ作品としてアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)の『めまい』(Vertigo, 1958)を取り上げ検討する。『めまい』は、ヒッチコックのフィルムの中でも言及されることの多い作品である。だが先行する代表的な研究は、男性登場人物に観客を無批判に同一化させるイデオロギー的性格をフェミニズムの立場から批判するもの、あるいはキャメラを直視する女性登場人物の視線に言及するものなどであり、そのフレーミングに注目したものはほとんどない。だが丁寧に読み解けば、この作品は男性登場人物に観客を無批判に同一化させるものでもなければ、さらには、キャメラを直視する女性登場人物の視線だけが際立つものでもない。むしろこの作品は、あるフレーミングを意図的に選択することによって、<見えるべきものがよく見えない>、<見えるはずのないものが見える>など、見えるものの意味を遡及的に批判するのである。そのことを実際のショットに即して分析してみたい。

1.画面外と画面内
 映画のショットにおいて、画面内は、常に画面外とつながる。映画を鑑賞する経験において、画面外として分かりやすいのは、フレームの縁にそって、もしくは手前・奥行き方向に行われる人物・対象の画面内への出入りである。最初に全体の状況や場所を示すショットがあり、そこに人物がフレームを越えて入って来る、そしてその顔や姿を、すぐにショットを切り替えて(ミディアム・ショット、クロース・ショット)、より大きく提示するという技法は、シーンの冒頭などでよく用いられる。あるいは人物がフレームから出て行き、その後ロング・ショットによってシーンの転換が説明されるということもよく行われる。また、画面内の人物による画面外への呼びかけは、モンタージュ編集において最もよく用いられるであろう。例えば、主観ショット、客観ショットといった用語が映画において存在すること、もしくは語り合う人物の顔が交互に映されることを考えてみよう。そのようないわゆる「切り返し」が行われるのは、人物の顔が斜め横、斜め上など画面外を向いていることで、画面内から、画面外の人物・対象への呼びかけが想定されているからである。もちろん切り返しだけでなく、人物の言葉や動作、あるいは音が、画面外を想定させることもある。さらには、ある人物の身体の一部が画面上にある場合も、画面外にあるその身体の見えない他の部分をわれわれは想定する。
 
実際には、画面内のデータをわれわれがなぜ画面外との関係で読むかということは、われわれの知覚が世界に対して限定的であることに由来している。つまり、日常経験においてわれわれは、目によって、あるいは顔や体を動かすことによって、世界との関わりを限定するとともに、その限定を前提にして世界に対して行動している。つまり、われわれは、一度に同じもの、他人と同じものを見るのでなく、意識的もしくは無意識的に選択を働かせて行動しているのである。再現−表象を中心とする古典的物語映画におけるモンタージュは、あるショットにおいて想定される画面外の世界(他の人物の視点、見られた対象から想定される見る人物の位置、諸々の人物・対象相互の位置づけなど)を補うことで、むしろわれわれ人間の知覚と世界との関係が限定的であることを認め、一個人が知覚・行動するだけでは得られない世界空間を、総合的に構築する技術であるといえるのである。
 
ところで注意しなければならないのは、画面内が画面外を常に想像させるということは、画面外という存在が決して抽象的なものではなく画面内との関係に常に寄り添っており、その意味で極めて具体的なものだということである。ショットのフレームは「マスク」である、つまりその背後に現実を隠すものであり、従って画面外の現実に対して常に遠心的な力を持つものであると述べたのはバザン[3]である。また、ドゥルーズは、バザンのフレーム=「マスク」というフレーズを利用して、そこから画面外のさらなる考察に向かう。彼によれば、フレームは「マスク」の傾向を帯びる場合もあると同時に、字義通りの「枠」の傾向を帯びる場合もあり、そのような二極の性質は、フレームそれ自体ではなく、画面外の二つの様相から決定されると考える。

[もしマスクかフレームかというバザンの二者択一に戻るとすれば、[次のことが理解されるだろう。すなわち、]フレームが動くマスクのように機能し、そのマスクに従ってそれぞれの総体が自身と通じるより大きな同質の総体へと拡張されるという場合もあれば、フレームが絵画の枠[額縁]のように機能し、その枠があるシステムを孤立させ、周囲を中立化させるという場合もある。(中略)二つのタイプのフレームがあるのではなく、画面外に関係するであろうたったひとつのフレームがある。つまり、むしろ画面外に二つの全く異なる様相があって、その各々がフレーミングの仕方に関係する。][4]

 
フレームを「マスク」として機能させる画面外と、「枠」として機能させる画面外との違いについて、たとえば木を撮影する場合を考えてみよう。木の映像が、例えばそれを含む総体としての森を表現するのに使われる場合、そのフレーミングはおおよそ「マスク」に近いものになるといえよう。だが、同じ木の映像が、その木を住処とする微生物の世界を表現するのに使われる場合は、そのフレーミングは、木の集合体としての意味よりむしろ、それら微生物の生活環境としての意味を強調するものになるであろう。つまりそこでは微生物の生活にどのような影響を及ぼすのかという観点から重要な情報が抽出されているのであって、それに関係ない情報(木が何本あるか、など)は背景に退く。つまりこの場合のフレーミングは、木を、微生物の生活を支えるひとつのシステムとして「枠」取るものであるといえよう。どちらの例にしても、画面外は見えないからといって決して抽象的なままの存在なのではなく、画面内との関係がどう設定されているかによって、観客に森全体を想像させる、あるいは人間とは違う微生物の生活を想像させるなど、極めて具体的な性質を帯びてくるのである。
 
さて、ひとつのショットをある程度持続的に投影する効果とは何だろうか。それは、フレームを通じた画面外から画面内への人・ものの動きが強調されることによって、画面外の世界をめぐる観客の想像が強く喚起されるということである。例えば、誰もいないある広場が同一アングルで捉えられ、そこに人が次々と集まって来るという動きをフレームの縁にそった外から内への人々の侵入として、そのまま撮りつづけるようなショットを考えてみよう。このようなショットは、人々の動きを中心に捉えるとともに、その画面外の世界(なぜ、そしてどこから人々は来るのか、人の多数集まるこの広場は果たしてどのような意味を持つ場所なのか)を観客により強く想像させるものとなるだろう。そしてこのようなショットが、何の説明もなく冒頭に持ってこられるような物語映画があると仮定してみよう。この映画のその後の展開は必ず、人々が集うその理由などを、後続するショット、あるいは映画全体を使って説明する方向へと進むこととなろう。やや単純化した説明ではあるが、ある程度持続的に投影されるひとつのショットが、一本の物語映画の方向性を決定付ける力さえ持つことは十分考えられるであろう。
 
以上のような、ある特定の視点の存在を強調するショットについて、それが物語世界全体にどのような影響を与えるかを視野に入れながら、実際の作品に基づいて具体的に検討してみたいと思う。そこで第二章では、主にヒッチコックの『めまい』について取り上げる。
 ヒッチコックは、ディープ・フォーカスやシークェンス・ショットといった技法が登場した後も、モンタージュ編集を基本とした作品を製作し続けた(むろん全編をまるまる一本のショットで撮った(ように見えるように編集した)『ロープ』(Rope, 1948)など、いくつか例外的な作品はある)。『めまい』もまたモンタージュ編集を基調とするが、そのモンタージュ編集の間を縫うように、ある特定の視点の存在を強調するようなショットが挿入される。その点について考えてみたい。

2.ヒッチコック『めまい』
 『めまい』を分析する準備として、まずあらすじを紹介する。そして、先行研究ではこの作品のどのような点に注目が寄せられていたか、さらにはその議論にはどのような限界があったかについてまとめておく。

2−1.あらすじと先行研究批判
 
<第一部は、主人公スコッティ(ジェームズ・スチュワート)が事故で高所恐怖症からめまいとなり警察をやめたところからはじまる。スコッティは、かつての友人エルスターに、挙動不審の妻マデリン(キム・ノヴァク)の行動を監視してほしいと依頼される。スコッティは、彼女が過去に不遇の死を遂げた人物カルロッタの亡霊にとりつかれていることをエルスターから告げられ、半信半疑ながらも尾行を続ける。だがマデリンの行動を見守るうちに、彼は次第に亡霊の存在を信じるようになる。さて、海に身投げした彼女を助けたスコッティは、彼女を愛するようになるも、教会の塔から彼女が飛び降りようとしたときに、めまいのため彼女を助けることができない。彼は良心の呵責から重度の鬱に陥り病院で療養せざるをえなくなる。ここまでが、第一部である。
 第二部は、退院したスコッティが思い出の町を彼女の面影を追いながらさまようところからはじまる。ある日彼は、髪の色や服の趣味はずいぶん違うが死んだマデリンに似ている女性(同じキム・ノヴァクが演じる)を見かけ、彼女が住むホテルの部屋まで訪ねていく。彼女はジュディと名乗り人違いだと言う。だが、実は彼女こそがマデリンその人だった。スコッティがジュディの部屋を一旦去った後、ジュディによる回想シーンから真相は次のように観客だけに説明される。彼女はエルスターの情婦で、スコッティの尾行を見越して妻のふりをしていた。それは、エルスターが、スコッティを証人に仕立てて妻殺しを飛び降り自殺と思わせるたくらみに荷担するためだった。スコッティが、マデリンが死んだと信じていた教会では、実際にはエルスターが妻の死体を塔の上に運び込んで待機しており、マデリン=ジュディが登ってきた瞬間にその死体を突き落としたのである。スコッティを実際には愛していたジュディは、真実を隠してジュディとして彼に愛してもらおうと試みるが、彼は彼女の上にマデリンの姿を再現しようとするばかりであり、彼女はそれに抗えない。そうしてスコッティによるマデリンの再現は完了するが、その直後、スコッティが真相に気付く。ジュディ=マデリンは事件の現場である塔に連れていかれる。そこで彼女は恐怖に駆られて足を滑らせ、今度は本当に落ちて死んでゆく。>
 1970年代以降、映画研究に、フェミ二ズム・精神分析の言説が流入する。フェミニズム映画理論には、古典的物語映画の切り返しを、見る男性登場人物の見られる女性登場人物に対する窃視狂的な権力の行使とそのような男性登場人物に対する観客の同一化を強化するイデオロギー装置として批判する伝統がある。そしてそのような伝統を作ったといっても過言ではないフェミニスト・マルヴィによって、このような切り返しを多用する監督として批判されたのがヒッチコックであり、その具体例として挙げられた作品が『めまい』、『裏窓』(Rear Window, 1954)であった
[5]。マルヴィ論文は、現在では映画における女性表象をはじめて理論的に分析し女性学の発展に寄与したという歴史的な評価が確立しているため、正面きって批判される機会が少なくなっている。そのため、『めまい』に対するマルヴィの解釈もまた、フェミニストの立場から見れば妥当な面を有するかもしれないという曖昧な印象が付与されることとなっている。
 しかし『めまい』を丁寧に見れば、マルヴィの指摘は、この作品の肌理と著しく異なっているように思われる。確かにスコッティはマデリンを文字通り(映像通り)覗き見するものの、権力の行使者という言葉に当てはまる存在とは思われない。なぜなら、スコッティはこの物語の真実に対しては最後まで蚊帳の外の存在であり、その意味では何の力も持っていないからである。むしろ彼にとっての覗き見は、見方を変えれば、彼にとっての真実(マデリンが亡霊にとりつかれている)を構築する唯一の手段であるとさえいえる。またマルヴィによって男性に支配されるだけの存在であると見なされたヒロイン・マデリン=ジュディも、実際にはそのような存在ではないと思われる。観客が真実を知らない第一部においては、彼女の行動に観客もスコッティも完全に騙される。また観客が真実を知る第二部においては、彼女が危険を自覚していることをわれわれが知っていることが重要である。未来を十分自覚し次第に追い詰められていくジュディの存在があるからこそ、何も知らないことによるスコッティの反応に対する観客の驚きがより大きなものになるのである。
 とはいえマルヴィの解釈を批判的に受け止め、『めまい』の物語やその表現に立ち返り、それらを再検討する研究がこれまで全くなかったわけではない。例えばフェミニズムの立場からマルヴィを批判的に乗り越えようとするキーンは、マルヴィがほとんど注目していなかったジュディの<見る>行為がどのように形象化されているかということ、具体的にはジュディのキャメラを直視する視線に注目する
[6]。一般的に、古典的物語映画において俳優がキャメラを直視することは禁じられている。俳優がキャメラを直視すると、あたかも観客の方に目を向けているかのようになることから、観客がこの物語世界を登場人物には無断で覗き見ているという感覚が崩れてしまうからである。だが『めまい』では、スコッティの愛を得るためにあえて危険に飛び込むジュディがしばしばキャメラを直視する。その際われわれは、ジュディがわれわれ観客の存在に気付いており、来るべき運命について意識している彼女が自らの不安をわれわれに対して吐露しているかのような感覚を覚える。つまりジュディによるキャメラの直視は、本来われわれとは異なる存在であるはずの虚構の登場人物に対して、われわれが感情的に強くコミットメントする余地を作るとキーンは考えるのである。このようなジュディによるキャメラの直視があることによって、特に第二部の観客はスコッティではなくジュディに同一化しているというのが、キーンの中心となる主張である。
 確かに女性登場人物によるキャメラの直視に注目し、さらにそれをマルヴィに対する批判の糸口にするキーンの姿勢それ自体は興味深い。だが、ジュディによるキャメラの直視だけが、われわれがジュディに感情的に強くコミットメントするきっかけとして重要なのかという点についてはやはり疑問が残る。『めまい』の第二部がわれわれの感情を強く掻き立てる理由は、むしろ、何も知らないスコッティと、真実を知っているジュディとが常に対比的に描かれているからである。スコッティは、マデリンが生きていることを知らないからこそ、彼女そっくりである(と彼が考えている)ジュディにマデリンの姿を投影してまでその愛を成就しようとする。だがその行為は、ジュディにとっては、ジュディとして愛してほしいという彼女の希望を絶望に変えるとともに、彼女にとっては秘密にしておきたい真実をスコッティがあたかも自力で明らかにしているかのように観客の目にはうつる。しかも彼が意図して真実に近づいているのではなく彼自身は死んだと思い込んでいるマデリンへの愛によってそうしているに過ぎないからこそ、それを制止できず見守るしかないジュディ(と観客)はさらに強い不安を覚えるのである。
 つまり『めまい』の第二部においては、スコッティがジュディの上に何を見ているか、さらには、彼自身は真実を知らないにもかかわらず彼の見るものが真実とどのように対応しているか、などが、サスペンスにとって重要である。またそのようなサスペンスが、まさに映画的な手段によって実現されていることが、さらに重要となる。キーンはその点を見落としているように思われる。
 以上マルヴィからキーンまで、『めまい』をめぐるフェミニストの先行研究が、この作品の肌理を十分に捉えきれていないのではないかということを批判的に検証してきた
[7]。そこで以下では、ある特定の視点(すなわちスコッティの視点)を強調するショットを分析することによって、それがすなわち『めまい』のサスペンスの本質を解明する手がかりとなるのではないかということを具体的に指摘していきたい。

2−2.フレーミングの分析
 さて以下では、スコッティの視点を強調するようなショットが『めまい』のサスペンスにいかに利用されているかについての分析にうつることにしよう。スコッティの視点を強調するからといって、それは決して窃視狂的な権力の行使ではない。むしろ彼が何も知らないにもかかわらず意図せずして真実に近づいていくというそのアイロニーによって、彼の視点ショットは、彼の無力さをまさに視覚的に示すものとなっていると考えたいのである。
 『めまい』には、スコッティから見ていることを想定された一定のアングルから、手前・奥行きを通じて画面内空間を出入りするジュディの動きをおさめるショットがある。かりに通常のモンタージュ編集が使用されていれば、手前・奥行きを通じて画面内空間に出入りする人物の動きのショットは、その人物や動きにかんするより詳しい情報を提供するミディアム・ショットやクロース・ショットに、あるいは場所が変化したことを示すロング・ショットなどにつながれるだろう。だが、『めまい』では、ジュディの手前・奥行き方向に行われる動きのショットは、その動きの結果に対する観客の想像を受け止めるような通常のショットにはつながれない。なぜなら彼女の動きは、同じ女性のものであるにもかかわらず、スコッティにとっての彼女の存在や意味そのものを根本から変えてしまうからである。
 主人公スコッティとジュディとがはじめて二人でレストランへ行った後、彼がジュディをホテルの部屋まで送るシーンを見てみよう。ジュディは自分のホテルの部屋の奥へと入っていく。キャメラは、ドアの側に立つスコッティの背中ごしから、ジュディの姿が徐々に不鮮明になっていくのを、アングルを固定したショットでとらえる。ジュディの姿は、部屋の奥の窓から射し込むぼんやりした緑色の光の中に入っていくことによって、さらにはっきりしなくなる。この緑色の光は、窓の向こうにあるホテルの看板の照明であるが、窓にはカーテンがかかっていて光源の存在は若干あいまいになっている。部屋の奥へとジュディが進むにつれて、彼女の姿は完全にシルエットのみで示されることとなる。つまり画面外にある奥行きの存在が強調されることによって、画面内の視覚データが希薄化するのである。だがこの<見えるべきものがよく見えない>視点の強調こそ、その後のショットの意味の変容を決定づけるものである。なぜなら、スコッティにとって現実のジュディの特徴がよく見えなくなるとき、彼の中のマデリンの記憶がそこに投影されるからである。彼女のシルエットを見つめるスコッティの顔がモンタージュされ、次に、ジュディのシルエットの横顔が、クロース・アップされる。このシルエットの横顔は、第一部でスコッティがマデリンを見張っていたときの視線の交わらないマデリンの横顔を観客に想起させるのである。とはいえ、この横顔のショットは、スコッティがマデリンを思い出していることを単に示すだけではない。むしろ、このショットは、彼がジュディにマデリンの記憶を投影する際、ジュディをよく見えないようにし、彼にとって最も重要であるマデリンの視覚的な要素をジュディの上に完全に再現する必要があることを、まさに文字通り(映像通り)予告しているのである。実際の物語もその後、主人公スコッティが、ジュディをマデリンの姿に作り変える方向へと進行する。つまりここでは、手前・奥行きの動きを強調する一連のショットが、彼の<視覚の再現>をより強調するとともに、<見えるべきものがよく見えない>ということのアイロニーについて観客に強く意識させる機能を果たしている。
 このような、手前・奥行きの動きを強調する一連のショットによって、<見えるべきものがよく見えない>、あるいは自らの<視覚の再現>に固執することによって<見えるはずのないものが見える>という、主人公スコッティのあり方が決定づけられる。そしてこのようなスコッティのあり方が、再びアイロニーに満ちたかたちで利用される。それは、スコッティが、ジュディに、髪や服、メイクをマデリンに完全に似せるよう指示したあと、彼女の帰りをホテルの部屋で待ちわびるシーンである。エレベーターのチンという音がしたことに気付いて彼が廊下に出た後、誰もいない廊下がまずとらえられる。その後キャメラ位置・アングルは一定のまま、廊下の奥に、グレーのスーツを着たぼんやりした影が歩いて来るのがとらえられる。観客は、このショットを、スコッティの側からの視点を共有しつつ、徐々にマデリンの姿が画面外から画面内へ出現してくるものとして眺める。スコッティは決してジュディに近づこうとはせず、ただ自分のところへマデリンとして現れて来るのを待っている。だがスコッティと観客の期待は不意打ちによって裏切られる。なぜなら、そのショットの後、スコッティの顔のショット、ほぼ同じアングルによるより近づいてきたジュディのミディアム・ショット、スコッティの顔のショット、の順にモンタージュされ、そして、スコッティのそれとは別の視点からのジュディの横顔のショットがモンタージュされることで、実際にはジュディがスコッティに最後の抵抗を示すために、髪を言われたとおりにマデリンのシニョンの髪型にしてこなかったことが、観客に知らされるからである(このシーンの後、スコッティの懇願によりジュディのマデリンへの変身は完了されるのではあるが)。
 このジュディの横顔のショットは、ありのままの自分では愛してもらえない彼女の精一杯の抵抗を示すと同時に、<見えるべきものがよく見えない>視点が、物語の進行を通じてスコッティの<視覚の再現>とあまりにも強く結びついていたことを観客に思い知らせるものとなっている。つまりこのショットは、真実を知っているはずの観客までもがスコッティとともに<見えるはずのないものを見>ようとしていたことへの、痛烈なアイロニーとなっているのである。さらにこのショットは、よく見える視点をとったときにはスコッティの<視覚の再現>もまた安定した内容を失うであろうことを、再現の完了直前に強調することによって、物語の悲劇をも先取りして示す。ここでの観客は、髪型を言われたとおりに直しマデリンになりきるジュディを見ることをよりいっそう期待することになる。が、それと同時に観客は、彼女がスコッティの望むマデリンにはおそらくなりきれないであろうことを強く意識するに違いない。
 以上のように、『めまい』においては、手前・奥行き方向の動きを強調する一連のショットによって、前後のショットの内容の違いがより強調される。結果として、スコッティの視点が決して絶対的なものではないこと、さらには、彼が意図せずしてジュディ=マデリンであるという真実と、後の悲劇に近づきつつあることが、観客に対して強調されるのである。最後に、スコッティに真相が露見するシーンが、先の二つの例と呼応して、キャメラが後ろへ引く動きを伴う移動ショットとして表現されていることを指摘しておこう。このシーンは、マデリンの再現が完了し、スコッティがまがりなりにもようやく自分を見てくれたことで安心したジュディ=マデリンがみずから失敗をおかし、マデリンしか持っていないはずの過去の人物カルロッタに由来のあるネックレスを、間違ってつけてしまうというものである。このシーンの移動ショットは、スコッティとジュディ=マデリンの横向きのミディアム・ショットに続いて、鏡に映ったジュディ=マデリンのネックレスの胸元のショット、そしてカルロッタの肖像画のネックレスの胸元のショットに、一瞬で切り替わった後はじまる(そしてここからは、スコッティの心象と記憶の映像となる)。この移動ショットは、同一アングルで急速に手前に引いていくというキャメラの動きを伴い、同一フレーム内の画面データがフレームの縁及び手前の画面外世界の浸入によって急速に大きさの比率を変えてゆくというものである。つまり、肖像画のネックレスをつけた胸元が、徐々に肖像画の全体となり、さらにキャメラがひいて、肖像画とそれを見ている第一部のマデリンの後ろ姿でフレームが固定される(固定されたフレーム内の画像は、第一部でスコッティがマデリンを見張っていたとき、その奇妙な行動の原因を肖像画の人物カルロッタと結び付けるようになったときのショットと同じ構図である)。そして、この固定されたフレーム内のマデリンの後ろ姿が、主人公の正面向きの顔にディゾルヴしてゆく。この移動ショットは、単に彼が真実を知ったということを説明するだけではない。それだけではなく、彼の視覚を構成するフレームが、その縁や手前の画面外からの視覚データの浸入を受け、結果、データの希薄だった(ゆえにそこにマデリンを投影することができた)世界が完全に失われてしまったことをまさに文字通り(映像通り)説明するのである。それまでのスコッティの視覚を規定していた奥行き・手前をめぐる運動が完全に終わりを告げたことを、この移動ショットは最後に強調する。さらには、後の悲劇(スコッティはジュディを認めることはない)を決定付けることとなるのである。

3.結び
 以上、『めまい』において、同一アングル(スコッティの視点)を強調するようなある程度持続的に投影されるショットが、モンタージュの中でいかに機能しているかを、その物語内容にも踏み込みながら映像上で確認してきた。『めまい』においては、ディープ・フォーカスやシークェンス・ショットといったものではないが、やはりフレームのありようへの関心が存在し、それは、奥行き・手前方向の画面外データがフレームを通じて画面内を出入りするその運動を強調するようなショットである。そのようなショットが、モンタージュの間を縫うように挿入されることで、画面の内容の変化が強調され、さかのぼってその変化の原因となったスコッティの視点のあり方を常に反省させようとしている。映画は物語を表現することで、その技術を豊かにしてきた側面もまた見落とせないことが、このようなフレームのありようへの関心の中にうかがえるのではないだろうか。


[1] 現代映画における観客の同一化が、構造的観点からすればむしろかなり古典的なあり方を示しているとの意見を展開しているものとして次を参照。 Jacques Aumont et al, Esthetique du film (Paris: Nathan, 1983), p.202. (『映画理論講義』武田潔 訳、頸草書房、2000年、336頁。)
[2] ショットは実際には、常にその画面内データを変動させている。よって、あるショットを持続的に投影するといっても、何を持続的なものと捉えるのかについては、物語の文脈によりその都度判断がなされることになるであろう。
[3]Andre Bazin, Qu’est-ce que le cinema? (Paris: Cerf,1959), p.160. (『映画とは何か』第4巻 小海永二訳、美術出版社、1977年、134頁。)バザンは、まさにディープ・フォーカスやシークェンス・ショットを想定して、フレーム=「マスク」という言葉を使ったと思われる。なぜなら、彼は、ディープ・フォーカスやシークェンス・ショットといった技術のうちに、映画のリアリティの広がり(つまり「マスク」の向こうに不在はないということ)を見ていたからである。
[4] Gilles Deleuze, Cinema 1:L’image-mouvement(Paris: Minuit,1983), pp.28-29.さらに、ドゥルーズは、ヒッチコックのフレームの特質についても言及しており、それは「枠」に近いもの、「構成要素を制限するもの」と述べている(Deleuze, p.28.)。なおドゥルーズの『シネマ』は、運動―イマージュから時間―イマージュへの展開、という基本的テーゼを持っているため、空間の表現によって時間を間接的に表現しているといえる古典的なモンタージュより、そのようなモンタージュに否定的な(つまり時間の直接的な表現を目指す)ディープ・フォーカス、シークェンス・ショットなどの映像を高く評価している向きがある(ゆえに本稿とは立場が若干異なっている)。とはいえ、本稿であえてドゥルーズのフレーム論の一部を引用したのは、その論が展開される章(『シネマ』第一巻第二章)が、運動―イマージュ対時間―イマージュという枠組みからは比較的自由になっていると思われることと、さらには、ドゥルーズのこのフレーム論から、『シネマ』第一巻におけるハリウッドの古典的映画を中心に論じた第九章、第十章、ヒッチコックを中心に論じた第十二章を見ると、ドゥルーズが古典的物語映画には否定的である、と必ずしも断定できない要素を有していると考えるからである。また、第十二章の中で、ドゥルーズは、『めまい』における、トラックバックとズームアップを組み合わせたいわゆる「めまい」のショットに主に注目し、次のように述べている。「『めまい』は、本物のめまいをわれわれに与える。つまりなるほど、めまいを起こさせるものは、ヒロインの心の中に、すなわち同一人物の同一人物に対する関係の中にある。この関係はまた、この同一人物の他者(死んだ女性、夫、探偵)へのかかわりのあらゆるヴァリエーションによって媒介される。しかしわれわれは、もうひとつの、より普通の意味でのめまいを忘れることはできない。すなわち、鐘楼の階段を登ることが出来ず、奇妙な瞑想状態を生きる探偵のそれである。この瞑想状態は、フィルムの全体に伝わるものであり、ヒッチコックの中でも珍しいものである。」(Deleuze, p.276.)
[5] Laura Mulvey, “Visual Pleasure and Narrative Cinema(1975)”, in Visual and Other Pleasures(Bloomington: Indiana U.P., 1989), pp.14-26.(「視覚的快楽と物語映画」斉藤綾子訳、『新映画理論集成』第一巻  岩本憲児・武田潔・斉藤綾子 編、フィルムアート社、1998年、126-141頁。)
[6] Marian E. Keane, “A Closer Look at Scopophilia: Mulvey, Hitchcock, and Vertigo,” in Marshall Deutelbaum and Leland Poague eds., A Hitchcock Reader(Ames: Iowa State U.P.,1986), pp.231-248.
[7] また、フェミニズム映画研究において、マルヴィの『めまい』論を批判的に検証したものとして、次を参照されたい。Tania Modleski, The Women Who Knew Too Much: Hitchcock and Feminist Theory (N.Y. and London: Routledge, 1989), pp.87-100. (『知りすぎた女たち ヒッチコック映画とフェミニズム』加藤幹郎他訳、青土社、1992年、183−210頁。)ここでモドゥレスキーは、観客はスコッティに同一化するのではないという観点から、マルヴィ批判を展開している。つまり、モドゥレスキーの説明によれば、第一部における観客の同一化の対象は、スコッティその人ではなく、より正確に言えば「(カルロッタに同一化している)マデリンに同一化するスコッティ」である。また第二部についてのモドゥレスキーの説明では、ジュディの犯罪が明らかになる分、観客はジュディとスコッティの間で「悲痛な分裂」を体験することになるものの、それでも、ジュディを作り替えることばかり考えるあまりスコッティが見ることが出来ない彼女の表情をキャメラが正面から見せるために、観客はジュディの方にいっそう同情的になるという。以上のようなモドゥレスキーの説明の中で、スコッティの男性性がこの映画の最初から最後まで決して強固なものではないということを、どのフェミニストにもまして明確に指摘している点は極めて重要だと思われる。しかし私見では、モドゥレスキーは、第一部第二部とで共通して<女>が最終的な同一化点となることを強調するあまり、とりわけ第二部のスコッティの役割について、若干軽視するきらいがあるように思われる。確かに、モドゥレスキーの言うように、第二部のスコッティはジュディの表情を見逃している。しかし第二部では、にもかかわらず彼がジュディ=マデリンであるという真実にいわば彼自身の意図を超えて近づいてしまうこともまた、サスペンスとしては重要な要素である。つまりスコッティが真実にますます近づくからこそ、彼の見ていないジュディの表情の意味を推測するよう観客は促されるのである。つまりモドゥレスキーのように、<女>への同一化をあまり強調しすぎると、この作品のサスペンスの肌理と若干合わなくなってくるのではないかと思われる。また、本稿で挙げた以外にも、現在までフェミニズム映画研究の中で交わされてきた『めまい』をめぐる議論を概観するものとして、次の論考を参照。Susan Smith, “Vertigo and problems of knowledge in feminist theory,” in Richard Allen and S.Ishii Gonzal?s eds., Alfred Hitchcock centenary essays(London: BFI publishing, 1999), pp.279-298.
本稿は、「映画の「フレーム」 ‐ヒッチコック『めまい』を中心に‐」、『研究紀要』第22号、京都大学美学美術史学研究室、2001年、pp.77−98.を改訂したものである。

なおオンライン作業の都合上、フランス語のアクサン記号は省略せざるをえませんでした。