映画の「フレーム」――ヒッチコック『めまい』を中心に |
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碓井みちこ |
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0.はじめに‐映画における「フレーム」をめぐる問題‐ |
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1.画面外と画面内 |
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2.ヒッチコック『めまい』 |
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3.結び |
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注 [1] 現代映画における観客の同一化が、構造的観点からすればむしろかなり古典的なあり方を示しているとの意見を展開しているものとして次を参照。 Jacques Aumont et al, Esthetique du film (Paris: Nathan, 1983), p.202. (『映画理論講義』武田潔 訳、頸草書房、2000年、336頁。) [2] ショットは実際には、常にその画面内データを変動させている。よって、あるショットを持続的に投影するといっても、何を持続的なものと捉えるのかについては、物語の文脈によりその都度判断がなされることになるであろう。 [3]Andre Bazin, Qu’est-ce que le cinema? (Paris: Cerf,1959), p.160. (『映画とは何か』第4巻 小海永二訳、美術出版社、1977年、134頁。)バザンは、まさにディープ・フォーカスやシークェンス・ショットを想定して、フレーム=「マスク」という言葉を使ったと思われる。なぜなら、彼は、ディープ・フォーカスやシークェンス・ショットといった技術のうちに、映画のリアリティの広がり(つまり「マスク」の向こうに不在はないということ)を見ていたからである。 [4] Gilles Deleuze, Cinema 1:L’image-mouvement(Paris: Minuit,1983), pp.28-29.さらに、ドゥルーズは、ヒッチコックのフレームの特質についても言及しており、それは「枠」に近いもの、「構成要素を制限するもの」と述べている(Deleuze, p.28.)。なおドゥルーズの『シネマ』は、運動―イマージュから時間―イマージュへの展開、という基本的テーゼを持っているため、空間の表現によって時間を間接的に表現しているといえる古典的なモンタージュより、そのようなモンタージュに否定的な(つまり時間の直接的な表現を目指す)ディープ・フォーカス、シークェンス・ショットなどの映像を高く評価している向きがある(ゆえに本稿とは立場が若干異なっている)。とはいえ、本稿であえてドゥルーズのフレーム論の一部を引用したのは、その論が展開される章(『シネマ』第一巻第二章)が、運動―イマージュ対時間―イマージュという枠組みからは比較的自由になっていると思われることと、さらには、ドゥルーズのこのフレーム論から、『シネマ』第一巻におけるハリウッドの古典的映画を中心に論じた第九章、第十章、ヒッチコックを中心に論じた第十二章を見ると、ドゥルーズが古典的物語映画には否定的である、と必ずしも断定できない要素を有していると考えるからである。また、第十二章の中で、ドゥルーズは、『めまい』における、トラックバックとズームアップを組み合わせたいわゆる「めまい」のショットに主に注目し、次のように述べている。「『めまい』は、本物のめまいをわれわれに与える。つまりなるほど、めまいを起こさせるものは、ヒロインの心の中に、すなわち同一人物の同一人物に対する関係の中にある。この関係はまた、この同一人物の他者(死んだ女性、夫、探偵)へのかかわりのあらゆるヴァリエーションによって媒介される。しかしわれわれは、もうひとつの、より普通の意味でのめまいを忘れることはできない。すなわち、鐘楼の階段を登ることが出来ず、奇妙な瞑想状態を生きる探偵のそれである。この瞑想状態は、フィルムの全体に伝わるものであり、ヒッチコックの中でも珍しいものである。」(Deleuze, p.276.) [5] Laura Mulvey, “Visual Pleasure and Narrative Cinema(1975)”, in Visual and Other Pleasures(Bloomington: Indiana U.P., 1989), pp.14-26.(「視覚的快楽と物語映画」斉藤綾子訳、『新映画理論集成』第一巻 岩本憲児 ・武田潔・斉藤綾子 編、フィルムアート社、1998年、126-141頁。) [6] Marian E. Keane, “A Closer Look at Scopophilia: Mulvey, Hitchcock, and Vertigo,” in Marshall Deutelbaum and Leland Poague eds., A Hitchcock Reader(Ames: Iowa State U.P.,1986), pp.231-248. [7] また、フェミニズム映画研究において、マルヴィの『めまい』論を批判的に検証したものとして、次を参照されたい。Tania Modleski, The Women Who Knew Too Much: Hitchcock and Feminist Theory (N.Y. and London: Routledge, 1989), pp.87-100. (『知りすぎた女たち ヒッチコック映画とフェミニズム』加藤幹郎他訳、青土社、1992年、183−210頁。)ここでモドゥレスキーは、観客はスコッティに同一化するのではないという観点から、マルヴィ批判を展開している。つまり、モドゥレスキーの説明によれば、第一部における観客の同一化の対象は、スコッティその人ではなく、より正確に言えば「(カルロッタに同一化している)マデリンに同一化するスコッティ」である。また第二部についてのモドゥレスキーの説明では、ジュディの犯罪が明らかになる分、観客はジュディとスコッティの間で「悲痛な分裂」を体験することになるものの、それでも、ジュディを作り替えることばかり考えるあまりスコッティが見ることが出来ない彼女の表情をキャメラが正面から見せるために、観客はジュディの方にいっそう同情的になるという。以上のようなモドゥレスキーの説明の中で、スコッティの男性性がこの映画の最初から最後まで決して強固なものではないということを、どのフェミニストにもまして明確に指摘している点は極めて重要だと思われる。しかし私見では、モドゥレスキーは、第一部第二部とで共通して<女>が最終的な同一化点となることを強調するあまり、とりわけ第二部のスコッティの役割について、若干軽視するきらいがあるように思われる。確かに、モドゥレスキーの言うように、第二部のスコッティはジュディの表情を見逃している。しかし第二部では、にもかかわらず彼がジュディ=マデリンであるという真実にいわば彼自身の意図を超えて近づいてしまうこともまた、サスペンスとしては重要な要素である。つまりスコッティが真実にますます近づくからこそ、彼の見ていないジュディの表情の意味を推測するよう観客は促されるのである。つまりモドゥレスキーのように、<女>への同一化をあまり強調しすぎると、この作品のサスペンスの肌理と若干合わなくなってくるのではないかと思われる。また、本稿で挙げた以外にも、現在までフェミニズム映画研究の中で交わされてきた『めまい』をめぐる議論を概観するものとして、次の論考を参照。Susan Smith, “Vertigo and problems of knowledge in feminist theory,” in Richard Allen and S.Ishii Gonzal?s eds., Alfred Hitchcock centenary essays(London: BFI publishing, 1999), pp.279-298. |
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本稿は、「映画の「フレーム」 ‐ヒッチコック『めまい』を中心に‐」、『研究紀要』第22号、京都大学美学美術史学研究室、2001年、pp.77−98.を改訂したものである。 なおオンライン作業の都合上、フランス語のアクサン記号は省略せざるをえませんでした。 |
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