CMN! no.1 (1996 Autumn)

京都の初期映画事情(1896-1912)

シネマトグラフと稲畑勝太郎

鴇明浩&水口薫

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稲畑勝太郎

 シネマトグラフの初公開も成功を収め、翌年1896年(明治29年)、オーギュスト・リュミエールはリヨンの理工学校時代の同級生に、この画期的発明を、恐らくは自慢げに紹介した。その同級生は京都在住の日本人。稲畑勝太郎である。二人が共に在学していたのは1878年頃であった。彼は、京都から紡績会社の商用で渡仏していたが、この最新の光学装置に商業的価値以上の魅力を感じた。稲畑はシネマトグラフの日本輸入に巨額の投資を決意し、リュミエール社から、装置二台とフィルム、そしてシネマトグラフの興行権を買った上、リュミエール社に雇用されたコンスタン・ジレルという映写技師兼撮影技術者を携え、1897年帰国した。
「欧米文化ノ実況ヲ我国ニ知ラシムルニ最モ適当ナリト信ジ、博士ニ乞イテ日本ニ於ケル専売権ヲ得、技師一名、器械数台ヲ携エテ帰ル」(稲畑勝太郎氏より田中純一郎氏への手紙、大正十三年十二月二七日)


シネマトグラフ

 神戸港から入洛した稲畑は間を置かず試写実験を行なった。が、映写設備も知識もない時代である。電灯などはやっと通ったばかりの日本(それでも京都は全国でも比較的早く電灯が整備された都市だ)で、試写実験は悪戦苦闘を強いられた。京都電燈会社の長谷川技師や島津製作所の協力を得て、変圧器を作り、一月下旬の雪の降る中、一週間も続いたといわれる。その歴史的試写実験の場所は当時の京都電燈株式会社の庭、今でいう河原町蛸薬師東入ルの北側、関西電力変電所と東で高瀬川に接する立誠小学校(廃校)の敷地のどこかなのだ。
 常識的な映画史なら、さらにこう続けるだろう。
 成功に漕ぎ着けた稲畑と三木福輔、奥田弁次郎らは、その第一回有料上映を大阪の南地演舞場で開催した。時に1897年(明治30)2月15日。「自動写真」と呼ばれた。これが、一般にわが国における映画の誕生とされるのだと。
これは、リュミエールのシネマトグラフ有料公開を以て世界の映画誕生とするなら、わが国の「映画誕生」とは、この大阪でのシネマトグラフ一般公開の時とする考え方である。しかし、映画作品への思い入れが個人によって違うように、この時の事情を事つぶさに見ると、人それぞれに「日本映画のはじまり」への見解も変わってくる。

 たとえば、シネマトグラフよりも先に、エジソンが発明したキネトスコープが1896年(明治29年)渡来している。これは覗き眼鏡式の動画再生装置であるので、一度に複数の者がスクリーン上の動画を共有するという今日の上映スタイルからすれば、まだ映画ではないとされるが、人によってはこれを日本映画の歴史のはじまりとする。特に、その初公開の場所が神戸神港倶楽部であり、昭和38年に12月1日を「映画の日」としたのは、11月25日にキネトスコープが、神戸で一般公開されたのに因んでのことであるため、神戸の方々はこの事実への思い入れは激しいところだろう。


シネマトグラフ日本初公開時のチケット

 
 いずれにしても、日本で最初の興行者は稲畑勝太郎であることは間違いがない。しかし、この興行にはさまざまな障壁もあり、紡績関係の若きエリートはこの事業を縦とせず、いっさいの興行権、機械、フィルムを横田万寿之助、永之助の兄弟に譲った。万寿之助と稲畑は学生時代に、共に留学生として渡仏していた仲である。万寿之助はほどなく、興行から手をひくが、弟永之助は後々まで日本映画界に君臨することになる。


祇園新池でジレルが撮影した「日本の踊り子」(1897)

 また、稲畑は日本初の映画撮影に携わった男でもある。フランスから連れてきたジレルが大いに奮闘して、リュミエールの要請で、さまざまな日本の風景や日常を撮影したのである。日本を初めて映画に撮った男ジレルは、わが国では、「ジュレール」等、間違った発音で呼ばれ(書かれ)てきた。しかも技術者としては失格で、撮影も大方失敗したとする書籍も多い。今年、読売新聞本社文化部の調査(担当:森恭彦)で、ジレルという正しい発音が確認され、しかも彼の撮影が成功していたことがわかった(読売新聞10月5日夕刊)。例えば、今日も残る稲畑家の食事風景や北海道のアイヌのフィルムなどは、後に来日したリュミエール社キャメラマン、ガブリエル・ヴェールの撮影とされていたが、ジレルの手によるものであることが映画生誕百年目にしてようやく明らかになったのだ。

 稲畑勝太郎からシネマトグラフの興行権を譲り受けた横田永之助は、新類縁者らで一隊あたり約10人の巡業隊を十余り編成し、まずは浅草、そして一挙に北海道、東北、北陸・・・と、休む間もなく全国興行に廻った。最初はリュミエール社のものやパテー社などの新作フィルムを輸入していたが、明治34年に横田兄弟商会(のち横田商会と改名)を設立し、日露戦争を撮影した記録映画の製作や自作の活動写真製作にも徐々に着手していった。

 明治40年、その後の日本映画史を決定する出会いがあった。横田は千本座の若き座主牧野省三を見つけ、活動写真製作を委託するのだ。その第一作『本能寺合戦』が公開され、京都における映画製作が本格的に始まった。明治40年には、牧野が招き入れた尾上松之助が『碁盤忠信・源氏之礎』でデビューし、全国に「目玉之松ちゃん」旋風が巻き起こる。日本映画にスターとスター映画の供給システムが誕生したのだ。彼は忍者もの、講談、歌舞伎、浪曲などありとあらゆる役を演じ、牧野が編み出した特殊撮影(姿がふいに消える等)と相俟って不動の人気を長らく保った。


牧野省三


「忠臣蔵」(1921)

 明治43年には、二条城西南角に面する約三百坪の借地に簡易な撮影所(通称「二条城撮影所」)を建設し、ロケーションと並行して、スタジオ撮影が始まった。スタジオ撮影の第一作はなんと『忠臣蔵』である。スタジオシステムの第一歩が『忠臣蔵』に始まっていることは、今日まで続く京都の映画界の不変的性質を示唆して余りある。ここが閉鎖までの約2年間に、どれ位の頻度で使用されていたのか定かではないが、京都で最初の撮影所(日本では吉沢商店の目黒撮影所につづいて2番目)と位置付けることができる歴史的場所である。

 明治四五年には一条通天神筋に約580坪土地を借り入れ、新たな撮影所を建設した。通称「横田商会法華堂撮影所」である。大正元年、活動写真興行の大手四社、吉沢商店、エムパテー社、福宝堂、そして横田商会がトラスト発起人の働き掛けで合併し、「日本活動フィルム株式会社」つまり「日活」が生まれた。当時の財界の有力者が重役に名を連ねたが、興行の因習にあきれたこともあり退任し、やがて横田がその実権を握ることになる。


目玉の松ちゃんこと尾上松之助は日本初のスターである

 「法華堂撮影所」は「日活関西撮影所」となり、京都での松之助映画の量産がつづいた。舞台同様の芝居を演じる役者を据えっぱなしのキャメラで捉え、撮影台本もない。同じロケ地で衣装を替え、違うシャシンも撮影してしまう。このような調子で閉鎖までの6年間に、ここで作られた松之助映画はなんと400本以上である。ピーク時には月9本の配給も行なったという。
「映画100年・京都国際フェスティバル」パンフレットより転載


1996 9/17