7 CineMagaziNet! no.15 木本早耶「インターネットを介して増殖する不気味さ」

インターネットを介して増殖する不気味さ
「デイヴィッドリンチドットコム」小論の余白に

木本 早耶


はじめに
 映画製作および映画興行の形態は、技術の発達の影響を受け、年々変化している。1980年代、映画の配給に影響を与えたもののひとつが家庭用ビデオデッキの普及だとすれば、1990年代から現在にいたるまで影響を与えているのは、デジタル技術ないしインターネットの発達であろう。デジタル技術を用いた映像製作はフィルムでのそれに比べると比較的低予算で作ることができるし、そうして作られたデジタル映像はデータを扱いやすく、容易に映画館・テレビ・パソコン等といった異なるメディア上で公開することが出来る。中でもインターネットを介した配信は、ある程度の技術さえ身につければ、公開規模の大小や画像の質の良し悪しを別とすれば、誰にでも世界中に向けて行うことが出来る。著作権の切れた古い作品や、映画館やビデオの本編の前でしか目にすることのなかった映画の予告編、公共の場で公開される機会のなかなかない個人規模の作品が、世界中のひとびとが個人的に所有する画面で公開される。
 もちろん、テクノロジーがもたらすものが全て有益という訳ではない。たとえば作者の許可なしに作品が流通してしまうことは大きな問題のひとつである。映画館内で上映されていた映像が盗撮されたものや、著作権がまだ切れていないはず旧作が、インターネット上に無断で投稿されるといった違法行為は後を絶たない。また、現在でもフィルムの質感を好んで用いる映画監督は少なからずいるし、映画館の上映においても、デジタル上映がフィルム上映の画質を越える域にはまだ達していないのが実状である。
 しかし、撮影・編集にデジタル技術を全面的に取り入れ、さらには作品の公開・配給を、主としてインターネット上でのみ行うようになったデイヴィッド・リンチのような映画作家も存在する。彼は1960年代から映像作品を作りつづけ、30年弱にわたるハリウッドでの製作を経たのち、2001年に公式ウェブサイト「デイヴィッドリンチドットコム」(DAVIDLYNCH.com)を立ち上げた。以来リンチは、新しく作った映像作品を、このサイトをとおして公開している。
 本論文は、「デイヴィッドリンチドットコム」においてこれまで行われてきたリンチの映像配信・公開システムについて考察し、リンチの作品がこういった手法で我々のもとに届けられることの意味について考えるものである。

デジタルによる映像配信の特徴
 リンチの手法について詳しく見る前に、ここではひとまず、デジタルによる映像配信に一般的にどのような特徴が認められているのか、ざっとまとめておきたい。
 1980年代以降、徐々にデジタル技術およびインターネットが発達し、これらが映画にも用いられるようになった。デジタル製作による作品は、従来ではフィルムに転換されたのちに、映画館に配給・上映されていた。デジタル対応の映写機は単価が高く、どんな映画館もすぐに購入できるようなものではなかったからである。しかし、現在ではシネマコンプレックスなどの大手映画館をはじめ、デジタル上映に対応したシステムをもつ映画館も少なくない。
 ジョージ・ルーカス監督は、「スター・ウォーズエピソード2/クローンの攻撃」(Star Wars Episode II: Attack of the Clones, 2002)の撮影から映写にいたるまでのすべての工程をデジタルで行うことを目標としたが、その利点について、監督本人は作品公式ウェブサイト内のインタビューにおいて、「撮影したものをそのまま観客に届けたかった(からデジタルカメラを用いた)」と述べている。この作品は全編がソニー社製24コマデジタルカメラによって撮影・制作され、従来はフィルムに転換しなおしてすすめられていた映写にいたるまでもデジタルで行われる予定であった。当時は上映館にデジタル上映設備がそれほど普及しておらず、デジタル上映がすべての映画館で行われたわけではなかったが、実際にデジタルでの公開も行われた。余談であるが、ルーカス監督はデジタル撮影についても、「(ソニーのデジタルカメラによって)撮影が楽になった」と肯定的な意見を述べている。
 もうひとつ、デジタル配信には大きな利点がある。先述したとおり、インターネット技術によって、世界中からアクセス可能な空間に、個人が映像を発表することができるようになったのである。モナコの言葉を借りれば、われわれは「配信する力を持っている(You also have the power to distribute)」(Monaco 631)ということになる。モナコが指摘する通り、インターネットを介して映像を配信することは、それが無料であればもちろん映画館のように興行収入に結びつくことはないであろうが(初期のリンチのウェブサイトのように、有料の場合もないわけではないが)、それ以上に、多くの人の目に触れることができるというのが大きな利点となる。鑑賞するのに金銭的負担がかからず、家庭・個人の空間で、それらを享受できるのである。
 すなわち、デジタル技術とインターネット配信によって、映像は、以前よりも簡単に作られ、その公開規模は別としても世界中に向けて発信することが可能となったのである。

リンチ来歴 その一貫した不気味さ
 ウェブサイト上でのリンチの活動について考察するにあたって、まず簡単にリンチの来歴にふれ、リンチ作品における特徴について考えておきたい。リンチは、1967年に自主制作したアニメーション作品「吐き気を催す6人の男」(Six Men Getting Sick, 1967)を始めとして、40年以上映像作品を作り続けている。初の長編映画「イレイザーヘッド」(Eraserhead, 1977)が注目され、「エレファントマン」(The Elephant Man, 1980)で商業映画デビューした。「デューン 砂の惑星」(Dune, 1984)については、予算の制限があったことやファイナルカットの権利が自身になかったことをのちに苦く語っている(滝本 159)が、その後もハリウッドでの映画製作はつづいた。
 学生時代のころから現在に至るまで、映画製作以外の活動も活発で、その内訳は、テレビドラマやコマーシャルフィルムなどの映像から、音楽・絵画・写真など諸分野での芸術活動、自らの農場で栽培したコーヒー豆の通信販売といった一風変わったものまで、多岐にわたる。2004年までに10本の長編映画と24本のコマーシャルフィルムを製作し、20回に渡る個展を開催した。
 2001年には、月額9.97ドルの会員制の公式ウェブサイト「デイヴィッドリンチドットコム」を立ち上げ、サイト上で短編映像作品を公開し始めた。ここで発表された、いくつかの作品はのちに短編集「デイヴィッド・リンチ・ワールド」として劇場公開されたり、のちの長編作品で一部使用されたりしている。2009年には、ミニブログの一種であるソーシャルネットワーキングサービス「ツイッター」の利用を開始し、ホームページ更新に関する告知も交えながら人々と交流している。
 リンチの来歴を振り返って感じられるのは、リンチの作品には、日常に突如発生する非日常的な出来事が、しばしば描かれていることである。リンチが脚本を担当した「アルファベット」(Alphabet, 1968)や「イレイザーヘッド」、「ブルー・ベルベット」(Blue Velvet, 1986)を思い出してみよう。これらの中で不気味に描かれていたのはそれじたいが不気味な構成の家庭であったり、舞台そのものが荒れ果てて人を不安にさせるようなまちであったりは、決してしなかった。むしろ、そこではごく一般的なアメリカの市民が登場してはいなかっただろうか。さらに、後の章でも詳しく述べるが、それはウェブサイトを開設したのちに公開されてきた映像作品群についても同じことが言える。
 リンチの活躍の舞台が絵画・写真といった表現媒体に変わっても、同じである。モチーフとなっているのは、ごく普通の民家のソファのある客間であったり、モデルとしては珍しくない女性の裸体であったりするのに、リンチによって歪められた被写体たちは、得もいわれぬ不安を掻き立てはじめる(コラージュ作品“Do You Want to Know What I Really Think?”2003、写真連作“Distorted Nude”制作年不詳)。
 しかし、こういった不気味さを特徴とする作品を発表するにあたって、リンチが時代を意識していることにも言及しておく。リンチは、一連の作品とは打って変わったほのぼのとした雰囲気の『ストレイト・ストーリー』(The Straight Story, 1999)をなぜ製作したかと問われ、「『ワイルド・アット・ハート』(Wild at Heart, 1980)を撮った頃に比べると、世の中は変わった。(中略筆者)あれがしっくりくる何かが起きていた。けれども現在は(中略筆者)ほとんど無感覚になりつつある。」(滝本 323)と発言している。つまり彼は、時流の変化を多少なりとも気に留めたうえで創作活動に取り組んでいるのだ。このある種のコミュニケーション能力は、彼がツイッターで発信している言葉の多くが“Dear twitter friends”といった他者への呼びかけから始められることからも、確認できるのではないだろうか。
 このように、リンチは日常生活に異常さ、不気味さが静かに滲出してゆく様子を描きつつも、その感性を世界にむかって開きながらわれわれとコミュニケーションしているのだと言える。
 なお、リンチは2010年からシンガーソングライターとしての活動に専念しており、本論で述べているサイトの内容も、それに伴って刻々と更新されている点をご容赦いただきたい。

デイヴィッドリンチドットコムとは
 前置きが長くなったが、それではリンチが活動の舞台として開設した「デイヴィッドリンチドットコム」とは、一体どのようなサイトなのだろうか。それは、一言でいえば、リンチがなんらかの形で表現活動を行ったときからほとんど時間差をなくして、その作品がわれわれの目に触れることを可能にした場所である。そこでは、作品をつくるリンチとそれを受け取るわれわれの間の温度差や時差が、映画をつくった映画監督とその観客の間のそれらよりはるかに少ないはずである。また、発表される作品はリンチが自ら発表するために作られた物であり、そこには時間の制約や描写の規制といった外圧は一切ない。
 前章でもふれたように、リンチは 2001年にサイトを立ち上げ、以来このサイトがあらゆるリンチ作品が披露される場となっている。開設当初は、月額9.97ドルの会員制であり、いずれもデジタルで作られており、長くて10分程度の短編が中心であるという共通点を除けば、まったく趣のことなる様々な作品群が公開されてきた。のちに2006年の『インランド・エンパイア』(Inland Empire, 2006)でも部分的に用いられた、ウサギ頭をかぶった人間たちの会話劇「ラビッツ」(“Rabbits”2002年、全6話)のように、セットや俳優を固めて撮影され、従来のリンチ作品に通底する不気味さを感じさせる作品もある。そうかと思えば、「ダムランド」(“Dumb Land”2002年、全8話)のように監督・制作・音声をすべて一人で行ったフラッシュ形式のアニメーションなどは、子どもの殴り書きと紙一重の作風で、暴力的な笑いを提供するブラックコメディである。そのほかには、リンチが自身の作業場と思われるところで、固定カメラに向かって、その日の朝の天候について淡々と報告するだけの映像や、リンチが機嫌よく日曜大工をするドキュメンタリーなど、リンチ自らが被写体になった日記のような映像も散見される。「ラビッツ」を始めとしたいくつかは、2009年に「デイヴィッド・リンチの世界」(David Lynchs World)と銘打ってまとめて劇場公開されたり、展覧会でリンチの絵画や写真の作品とともに展示されたりした。
 繰り返しになるが、当該サイトで配信されるような作品にも、あいかわらずの平穏な日常的光景に潜む不気味さは感じとられると言っていいだろう。「ラビッツ」しかり、「ダムランド」しかり、登場人物たちは頭部が無生物に覆われていたり過剰にデフォルメされたアニメーションであったりはするものの、ごく普通の家屋で生活を営んでいる。例えば「ラビッツ」は、一見すると爽やかな日光がふりそそぐ家が舞台である。そこに颯爽と入場してくる人物の服装も、さながら英国紳士のようなこざっぱりとしたものである。しかし、彼の頭部はウサギのかぶりものであり、その背後から、なんとも言えぬ不協和音や、どこから聞こえてくるか、また誰が何に向けてしているのかさっぱりわからない拍手や喝采が、滲み聞こえてくるのである。
 このような映像作品は、完成したら即時にサイト上で公開されることが可能である。その日の朝の天候についての映像といった日替わりのニュースのような性格の作品は言うまでもなく、映画館ではまとめて公開された作品群も、じっさいは連作のすべてが揃うのを待たずに、完成した作品から順次サイト上で公開されてきた。そこにはフィルムを現像する時間も、公開にいたるまでの多くの手順も存在しない。作り手が発信したときとわれわれが鑑賞するときとの時間差が抑えられているのは、言うまでもなく、デジタルによる撮影・編集の特性とインターネットを用いた配信の利用のおかげである。
 2010年にリンチがシンガーソングライターとしての活動を本格化させてからは、その音源およびプロモーションビデオの公開も当該サイトにて行っている。さらに2011年3月から、アドレスは同一のまま「ミュージックカンパニー」とのタイトルが付けられ、有料会員制でなくなると同時にサイトの様式は全面的に更新された。そこでもリンチが手がけた音楽作品に付随するビデオが公開されることもあるが、現在のおもなコンテンツは、チャリティー目的の音楽データ配信、音楽CDやDVD、コーヒーカップといったものの通信販売などになっている。

デジタル配信によって増幅する不気味さ
 以上のような考察をもとにして浮かび上がってくるのは、どんな方法で観客のもとに届いたかにかかわらず、リンチ作品に一貫して感じられる「日常に紛れている不気味さ」が、デジタル配信をとおしてさらに我々に切迫していたのではないかということである。
 先述したように、元来リンチの作品には、何の変哲もないような風景から滲み出る不気味さや不穏さが表現されることが多かった。 配信以降の作品でもそういった雰囲気のものはみられるが、これらがさらに力をもつのは、リンチが映像を制作・発信してからほとんど時間差をおかずして都度われわれに届けられる時である。
 「日常に紛れている不気味さ」が恐ろしい存在であるゆえんは、それじたいが危険であることをうまく隠し、われわれがなにげなく暮らしている生活に音もなく潜んでいる可能性を秘めているからである。短編「グランドマザー」(The Grandmother, 1970)で、不安感を煽るような歪んだアングルで収められていたのは、遠いところからやってくる犯罪者ではなく、子どもにとって最も身近といってもいい存在の母親であったことを思い出したい。彼女はそこでは、ありふれたようなけばけばしい花柄の寝巻を纏いながらも、子どもにとってはモンスターのような存在であった。「インランド・エンパイア」においてヒロインのニッキーが次第に自分の夫に恐怖を抱くようになった描写も然りである。あからさまに突出した異常よりも、いつもの風景に紛れ込んで一瞥しただけで判別できない異常の方が恐ろしいのである。
 してみれば、インターネットを通して随時配信され、われわれが日常的に用いるパソコンの画面上で鑑賞されるリンチの映像作品は、まさに日常に紛れようとする不気味さそのものではなかろうか。こうしてリンチの映像は、インターネットで配信されるようになり我々の日常を侵食し続けるのである。

参考文献
・加藤幹郎『映画ジャンル論 ― ハリウッド的快楽のスタイル』平凡社、1996年。
・加藤幹郎『映画のメロドラマ的想像力』フィルムアート社、1988年。
・菊地真、木原雅巳共著「映像配信サービスにおけるシステム構成に関する基本検討」 『電子情報通信学会技術研究報告』105号(2005年度)、社団法人電子情報通信学会、13‐18。
・滝本誠編『フィルムメーカーズ デイヴィッド・リンチ』キネマ旬報社、1999年。
・ロドリー、クロス『映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ』(廣木明子・菊地敦子共訳)フィルムアート社、2007年。
・ワダ・マルシアーノ、ミツヨ『デジタル時代の日本映画 — 新しい映画のために』名古屋大学出版会、2010年。
・『美術手帳』900号(特集デイヴィッド・リンチ ハリウッドの光と闇)、美術出版社、2007年10月号。
・Monaco, James. How to Read a Film: Movies, Media, and Beyond. New York: Oxford University Press, 2009.

オンライン資料(以下はすべて2011年8月12日アクセス。)
・河原大輔「デイヴィッド・リンチ『ブルー・ベルベット』小論 — ポスト古典期におけるマニエリスム映画の誕生」CineMagaziNet! No.10 2006年
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN10/kawahara-lynch.html)。
・「『インランド・エンパイア』日本公開時本人インタビュー」『シネマトゥデイ』
http://www.cinematoday.jp/page/A0001447)。 
・「ジョージ・ルーカス&リック・マカッカラム来日記者会見」『スター・ウォーズエピソード2/クローンの攻撃』公式ウェブサイト
http://movies.foxjapan.com/episode2/press/press.html)。
・『デイヴィッドリンチドットコム(Davidlynch.com)』
(http://davidlynch.com/)  。
・『デジタルシネマイニシアティブス(Digital Cinema Initiatives, LLC、以下DCL)公式ウェブサイト』
http://www.dcimovies.com/)。
なお、DCLは2002年にハリウッドのメジャー映画会社7社(Disney, Fox, Paramount, Sony Pictures Entertainment, Universal and Warner Bros.Studios.)によって、デジタルシネマの配給・上映に関しての基本的な構想を確立することを目的として設立された。
・「DCLに関するQ&A」『NTT技術ジャーナル』2005年3月号
http://www.ntt.co.jp/journal/0503/files/jn200503106.pdf)。