bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.16 畑中啓 テオ・アンゲロプロス映画研究

テオ・アンゲロプロス映画研究
ロングテイクの「時間」による社会と個人の新しい表象方法分析


畑中 啓

 

1、はじめに
 テオ・アンゲロプロス(Theodoros Angelopoulos)の映画は「詩」と表現される。叙事詩的映画と呼ばれる時、大抵それは物語の構造的性格と映画の主題的性格からくる。アンゲロプロス映画はギリシャの神話、叙事詩、悲劇を原型とする物語構造をもち、細部の表現もそれらからの引用に満ちている。物語は旅の形で提示され、あらゆる人間の感情を内包するようになる。そして現代文明が抱える諸問題を中心的な主題として扱い、そのルーツを歴史にもとめる。これらの性格から近現代のギリシャを舞台にしながら、普遍性をもった現代の叙事詩として映画は受容される。
 また「映画詩」「映像詩」と呼ばれる場合は、その映像表現に由来すると考えて良いだろう。初期作品はマルクスやブレヒトから影響を受けた、あからさまに政治的な内容で、心理的な同一化のない叙事的といえる表現が目立つ。しかし『シテール島への船出』(1984)以降は政治的な確かさを排し、個人の実存に迫る、より叙情的な表現になっている。また物語的な表示を極端に排していくようになり、より弱音の表現や、象徴的、抽象的な表現がおしすすめられている。いずれにせよ「映画詩」「映像詩」と呼ばれる時は、古典的ハリウッド映画のような物語を語る為の映画とは異なる映像表現であるということが意識されているといえよう。
 「詩」と表現されるアンゲロプロスの映像表現の中核をなすのが、ロングテイクとロングショットである。デイヴィッド・ボードウェル(David Bordwell)は映画史的な流れの中でアンゲロプロスの撮影技法を詳細に分析し論じている[1]。特にアントニオーニからの影響の大きさを強調しており[2]、初期の作品ではアントニオーニ的な脱劇化(dedramatization)の技法を発展させ、政治的モダニズムに帰結したと述べている。そして『シテール島への船出』以降の作品では、アントニオーニ的憂愁の最新版を提示したと結論づけている。ボードウェルは、アンゲロプロスのロングテイクとロングショットの構造、構成を緻密に分析し、ある程度の体系化を可能にしている。一言でロングテイク、ロングショットといっても、そこには様々なバリエーションがある。ボードウェルはアンゲロプロス映画にみられるロングショットを構図の差異などから分類し、そしてそれらがロングテイクの中でどのように組み合わされているのかを分析している。それはロングテイクの時間的な構成を分析することと同じである。しかし分類されたそれぞれの技法が個々の作品の中で、どのように機能し、主題の表現や映画の芸術性に寄与しているのかという分析は乏しい。
 ロングテイク(ワンショット=ワンシークエンス)は時間と空間に連続性をもたせることで、「複数の事物や人間の同時性と時間の持続性」や「映像の多義性と解釈の多様性」を生み出せるとされている[3]。アンゲロプロスの映画においてはそれが、「ひとつの社会的真実を示す」ためにもちいられている[4]。それは現実世界と同じく、「未決定で開かれた状態」でなければならない[5]。そしては一つのショットのなかで物語の流れを叙述していくシークエンスでは、「内部そのものが内的モンタージュによって構造化されていなければならない」[6]。 若菜薫はそういったロングテイクの「空間的時間的連続性」がもたらす「映像の多義性と解釈の多様性」をふまえた上で、主題論的な分析を中心にアンゲロプロスの映像美学について論じている。はじめに叙事詩的映画論を展開していて、映画史の中から神話的機能をもった映画群をとりあげ、それらとの比較からアンゲロプロスの叙事詩的映画の独自性を説明している。そして作品ごとの詳細な主題論的分析をもとに、複数の作品で共通した表象を見出し、アンゲロプロスの映像表現の特徴を論じている。ロングテイク、ロングショットについては、ボードウェルの分析ほど体系的に述べられていないものの、カメラの運動やショットの構図、映像話法としてどのように機能し、主題や物語を表現するのに寄与しているかを詳しく分析している。
 しかしこういった主題論的分析は、その要素の分類と、要素間の相互作用、関係の分析に終始してしまうと、カットを多用した、いわゆる「古典的ハリウッド映画」との差異がみえなくなる。なぜなら、それらの要素が再フレーミングによって繋がれたのか、カットによって繋がれたのかの差は「映像の多義性と解釈の多様性」があるか、ないかだけになるからだ。しかしカットの多い「古典的ハリウッド映画」と、少ないアンゲロプロスのようなロングテイク中心の映画では、観客が感じる「時間」にも大きな違いが生じるはずである[7]
 ここでいう「時間」とは、物語内の時間ではなく、映画を見つめる行為に対して感じる時間である。同じ長さのショット、あるいは同じ長さのシークエンスでも、その演出、編集次第で観客が体感する時間は異なる。この時間感覚は、主題の表現にも関わるし、なにより映画の時間(映画をみつめる時間)自体が観客にとって芸術的、創造的な時間になる。ゆえにより詳しく分析する価値がある。本稿では、アンゲロプロスの、ロングテイク(ワンショット=ワンシークエンス)の時間の構成、構造により焦点をあてて分析していきたい。
 既に触れたが、アンゲロプロスの作風は、『シテール島への船出』を境に変化している。多くの批評家が指摘し、アンゲロプロス本人も認めるように、扱われている主題は政治的、歴史的なものから個人の内面へと深化していく[8]
 しかしこの「政治(歴史):個人」という2項対立は、単純に切り離せるものではなく、密接な関係をもっている。アンゲロプロス映画において、個人の苦悩は政治的状況や歴史に左右される(された)上での実存的な悩みであり、その政治的状況や歴史というものは、登場する人物達によって象徴化されている。
 『旅芸人の記録』は叙事的性格の強い作品とみなされるが、旅芸人達がたたずむ、冒頭とラストの駅のシーンでは哀しみのような情感が漂う。この映画において旅芸人達は歴史に翻弄されたギリシャを象徴する存在とみなせるが、このシーンでは彼らが辿ってきた道程に思いを馳せ、涙することもできるだろう。
 したがってアンゲロプロスはいつでも両方を描いてきたとみなせる。本人が意図していなかったとしても、これこそがロングテイクによる「未決定で開かれた状態」であり、「映像の多義性と解釈の多様性」ということであろう。このように「政治的(歴史的)から個人へ」という変化は、あくまでどちらが作品内の中心をしめるかの違いであり、程度の差である。
 だからどちらかが先鋭化される場合もある。『アレクサンダー大王』(1980)は権力や理想の政治に関する神話であり、情感は極限までおさえられている。逆にその3作品後の『霧の中の風景』(1988)では、歴史を背負わない子供達が主人公であり、世界は彼ら彼女らの無垢な目を通して描かれているかのように思える。この作品では過去の作品の登場人物達が、政治的な主題を背負っているが、子供らはその横を通りすぎていくだけである[9]
 ボードウェルはこういった表現や主題の変化については触れているが、議論の中心としている撮影技法の変化については、ショットの平均時間(average shot length)の変化しか言及していない。実際用いられている一つ一つの技法をみていくと、そこに大きな変化はみられないように思う。ロングテイク(ワンショット=ワンシークエンス)を構成する要素は、具象から抽象へと変化するが、その時間構造に大きな変化はない。
 テーマや思想を簡潔に美しく映像として表現しているかが、注目されがちであるアンゲロプロス映画であるが、この映画の時間自体がその魅力のひとつであることは、あまりはっきりとは言及されていない。初期の作品郡において、様々な意味を一つのシークエンスで表現するための技法を発展させてきたが、それは時間そのものを演出する技法でもあり、作風の転換以降は抽象的な表象が多いため、その効果がより発揮されている様に感じる。
 またアンゲロプロス映画の要素のなかで、もっとも変化しているのは、音楽である。なのにアンゲロプロス映画における音楽についての詳しい分析はあまり見受けられない。彼自身「私は全ての作品を音楽的に作ってきました」とかたっていることや[10]、エレニ・カラインドルゥ(Eleni Karaindrou)との共同作業について知れば、それが無視すべき要素でないことが解る[11]。音楽は映画に先立つ時間芸術であり、映画の時間にも積極的に関係してくるテクストの重要な要素である。
 本稿ではいくつかの代表的な演出技法について、各々の技法ごとにいくつかの作品からシーン(シークエンス)をピックアップし、そのロングテイクの「時間」を中心に分析したい。「代表的な演出技法」といったが、ボードウェルほど詳細に分類、体系化しようとすると、また別の論文が書ける程の議論が必要になるだろうから、本稿ではしないことにする。また取り上げる作品、シーンもある程度恣意的であり、「代表的な演出技法」といいやすいシーンを選択した。ゆえに一作品をとりあげ、それについてのテクスト分析も試みたい。一作品における各々の技法の有機的な関係、主題表現への寄与を明らかにしたい。
 最後に取り上げる作品は『こうのとり、たちずさんで』(1991)とする。『こうのとり、たちずさんで』では、「政治(歴史):個人」という二項は、一つのシークエンス内の表現レヴェルで融合している。本作では、国境という人種、民族、国家などを分け隔てるものと、相互理解の不可能性、あるいは理想と現実という個人の内面での断絶など、さまざまな断絶、境界が一つのシーンの中で視覚的に融合する。もっとも有名な、国境の川を挟んでの結婚式のシーンがそうである。このシークエンスのテクスト分析を中心に、音楽の分析等も加え、アンゲロプロス映画の主題的な両面性を証明し、それがもっとも高度に融合しているのが本作品であることを見ていきたい。

2、カメラの運動

2-1 歩み
 まずアンゲロプロスの「カメラの運動」について考察していきたい。カメラワークに関しては、ボードウェルの分析がかなり詳細でくわしい。本稿ではそれを紹介しながら、そこに補足を加えることで議論を進めていきたい。
 アンゲロプロスのカメラワークで最も一般的なパターンは come-and-go pattern(ボードウェル)である[12]。このパターンでは、カメラは、捉える人物を取捨しながら、その人物の動きについていく。 大抵ショットは斜めの構図からはじまり、人物は画面奥からカメラのある手前へ斜めに接近し、そしてカメラの前を通り過ぎ(カメラはパンし、人物を追いかける)、斜めに遠ざかっていく。これを基本パターンとして、様々に応用し、ショットを生き生きと保ち、観客の視覚的な興味を維持する。そして同時にアンゲロプロスの特徴的な様式を連結したり発展させたりする。
 まず斜めからの接近を、ショットの第一段階にすることで主要人物をうちたてる(図1)。そしてカメラのパンの終わりに暴かれる視覚的な新事実を隠しておく。これによってサスペンスを生み出す事もできる。観客は何かを画面外に見ている登場人物達をみる。その後カメラは、啓示的な何か、視覚的なクライマックスに向かう人物にそってパンしていく(図2、3)。この技法は、そのクライマックス(図の場合は吊るされた死体)に向かっていく時に、ドラマにクレッションドを生み出すことができる。このため、ショットの終わりの発展性にそなえ、幾分小規模にショットの奥行きを保つ。シーンにおいて人物がカメラに最も接近する時は観客にとってもっとも見えない瞬間であるからクライマックスではなく、その準備として提示される。そしてそのクライマックスが、抽象的、絵画的な視覚的クライマックスではなく、物語的なクライマックスである時(死体が反独ゲリラであること)は、その瞬間はカメラから遠いところで起きる(図4)。
 またボードウェルが観客の期待と集中を維持する技法として挙げているのが、空間を埋める演出法である(この場合カメラの運動は必ずしも必要ではない)。フレームの中に空白の部分(アパチュア)を残しておき、人物がそこに移動し、その空白を埋めることで観客の注意をひきつつ、構図を完成させる。この技法によってロングテイクを発展させクライマックスを築くこともできる。
 このようにカメラや人物の動きは空間を開いたり満たしたりするための動力となる。カメラの動き(あるいは停止)と抑制されたアクションによって演出は延長され、観客は次はどこに人物やカメラが動いていくのかという期待をもちながら見つめる、という時間を与えられる。以上がこのパターンに関するボードウェルの分析のまとめである。
 またボードウェルは、アンゲロプロス映画のロングショットについて、その特徴的な構図のパターンを分析している。これらの構図がロングテイクの中へ組み込まれていくことで、ルグレのいう「内的モンタージュ」が構成されていく[13]
 しかしアンゲロプロス映画においてロングテイクの基本単位と呼べるものはこの「内的モンタージュ」ではない。それは人物の「歩み」である。カメラの動きもこの人物の動きに沿ったものであり、人物がいないショットでもその速さ(早さ)はその映画における人物の「歩み」の速さが基本となる。そう言える程、「歩み」のシーンが多い。『旅芸人の記録』(1975)において、人物の「歩み」が中心となるシーンはいくつもある(図5)。この足取り重く、ゆっくりとした運動が基本となり、その持続がアンゲロプロスのロングテイクとなり、そしてこの映画の時間感覚を作り上げている。
 ボードウェルが分析した、観客の視覚的な興味を維持しながらロングテイクを発展させていきクライマックスを形成するという技法に対し、その構成要素を説明するだけでは不十分である。確かに次にどのように発展していくのかという期待感やドラマ上のサスペンスも、観客の視覚的興味を維持するのに一役買っている。しかしアンゲロプロス映画において、観客がスクリーンを見つめるという行為を維持できるのは、そこに「歩み」によってつくられる、揺るぎない時間感覚があるからだ。この時間感覚によって観客は、一つの要素から次の要素へと移行する時間を感覚的に予測できる。つまり「終わり」と「始まり」が予測できる。
 この予測が、リズムを感じるということであり、現実の時間のように連続的に持続する映画の時間に対して、一定の形式感をもたらす。この「歩み」を基本とするロングテイクは、その中で「複数の事物や人間の同時性と時間の持続性」「映像の多義性と解釈の多様性」を可能にしつつも、映画の時間にはリズムをもたらし、観客の映像に対する集中を維持することができる。
 そして「歩み」自体にも、主題論的解釈が成り立つ。それはアンゲロプロスが描く旅の形象化であり、その足取りの重さは、登場人物たちが抱える苦悩を、それらを含んだ風景、ショットは、歴史の重みや時代の閉塞感を表象している。つまりアンゲロプロスが扱う基本的主題の全てが「歩み」に表現されている。ゆえに「歩み」というのは、時間的な基本単位でありながら、主題的な基本でもある、つまりアンゲロプロス映画そのもの基本単位であるとさえみなせるのだ。
 ゆえに『旅芸人の記録』ほど「歩み」のシーンの反復がない作品も含め、アンゲロプロス映画におけるカメラの運動速度は、基本的にこの速さに准じる。カメラの運動が特定の人物の動きを追わないショットでも、決してこの速さを超えることはない。

2-2 360度の空間
 360度パンはアンゲロプロス映画において、印象的なカメラの運動の一つであり、長編処女作である『再現』(1970)ですでにもちいられている。
 360度パンを、言葉の意味から正確に定義するならば、カメラがパン(一点に固定されたカメラが水平に首を振る)する角度が360度であるということになる。しかしアンゲロプロスのカメラはもっと自由で柔軟に動く。時には360度以上の旋回をみせるし、カメラが振られる方向は水平方向だけではなく、パン、ティルトといった枠組みにとらわれない動きをみせる。またカメラ自体が円軌道を描いて動く場合もあるし、もっと複雑な軌道で移動する場合もある。
 これらを一括りに360度パンといってしまうのは些か乱暴であるが、共通点として映画内の空間を全方位に開くということがいえる。「空間的時間的連続性」がもたらす効果についてはすでに述べたところである。しかしこの効果だけにはとどまらない視覚的な楽しみが、アンゲロプロス映画におけるカメラの運動にはあるように思われる。
 カメラが空間を押し広げていく運動の自由さや柔軟さは、時に現実を再現するというよりは、逆にカメラの存在を観客に強く意識させる。拡張される空間に対し、フレームの存在が非常に窮屈に思えるからだ。小さな穴から世界を覗きみているような感覚がある。その感覚が視覚的興味を引き出す。カメラの動きが自己目的化してしまってはいけないかもしれないが、ただテーマを表現するためだけではない、視覚的運動媒体としての映画のおもしろさもアンゲロプロス映画にはある[14]。ここでは『旅芸人の記録』における、360度全方位の空間を開く運動についてみていきたい。
 この360度運動は『旅芸人の記録』では4度ある。一度目は、全体で6番目のショットにあたる1939年に旅芸人一行が宿に到着したとこから始まるワンショット=ワンシークエンスである。ここでは宿の建物側とその180度反対の中庭側、そして斜めに見上げる建物のバルコニーという立体の空間がカメラの運動で連結される。各自、自分の部屋へと散った後、すぐに旅芸人達はバルコニーに集まり、中庭をみる。彼らがあつまったバルコニーを見上げるショットから、彼らが視線を注いでいる、これから稽古が行われる中庭にむけてのカメラの運動は単なるパンやティルトではなく、斜め下に向かって螺旋を描くような旋回運動である。そして旋回すると無人の中庭が平面的な構図で映され、演劇のリハーサルが始まる。
 ルグレによれば、この宿舎到着のシーンは本作品の多層性を表現している[15]。大雑把に分類すると、物語の登場人物としての旅芸人達、歴史の一部としての旅芸人達、そして劇中劇の登場人物という三つの位相が本作品にはあり、それらが一つの映像の中で表現され、相互に浸透し合う。この多層性はまさに、カメラの運動によって拡張される空間と時間によってもたらされる。
 二度目は、1944年の広場のシークエンスである。ナチスドイツからの解放から連合国の介入、そして内戦へと至る過程をワンショット=ワンシークエンス、2度の360度パンで描いている。3度目も同じように歴史的、政治的な主題表現が色濃いシーンである。1946年のダンスホールにおいて右翼と左翼が歌合戦を展開するシーンだ。ここでも単純な360度のパンではなく、複雑な移動によってダンスホールという空間を描き、様式的な人物の動きや歌合戦によって政治的なドラマを盛り上げている。
 4度目は、1945年にエレクトラの住まいに秘密警察の男3人が、パルチザンに身を投じているオレステスへの捜査にやってくるシークエンスである。ここでは、そのカメラワークは心理劇のためだけに奉仕している。本作品では唯一といっていいかもしれないシーンであり、けっして「空間的時間的連続性」だけが、アンゲロプロス映画のカメラワークが意図するところではないことを明らかにするため、ここで詳しく分析してみたい。
 3人の男がエレクトラの住まいへ押しかける。玄関で向かい合う、リーダーとおぼしき男とエレクトラ(図6)。この時のショットサイズはバストショットである。クロースアップとまではいかないが、この映画の中では相対的にかなり人物に近いショットである。男の無機質で冷酷な表情とエレクトラの戸惑いと恐れの表情はしっかりと映され、狭い空間の中で対峙(正確には対置)されている。次にカメラは男達が各部屋を捜査する様子を右周りの360度パンで追いかける。始めの角度に戻ってきたところからまた右に約90度旋回すると、そこにソファーがあり、男達が順番に腰かけていく。そしてさらに右に約90度、男達が見据える先(エレクトラ)を明らかにするように旋回する。そこにはエレクトラが立っており、その奥の壁には鏡がかかっていて、男達が映っている(図7)。最初カメラのピントはエレクトラにあっているが、彼女が「何のようなの?」と発言すると、鏡に映る男達にあわせられていく。リーダーとおぼしき男が懐から何かを取り出そうとすると、カメラは左へとパンし再びソファーに座る男達が映される。取り出したのはオレステスの写真で、それをソファーの前のテーブルに置いて、去っていく。妹クリュソテミスの息子が写真の一枚を手にとり、机のそばにしゃがみ込んでみている。エレクトラも一枚を手にとり、窓際に向かう。このシークエンスは、エレクトラの手と写真のショットで終わる(図8)。
 エレクトラは復讐をとげた直後に、秘密警察とおぼしき男たちから、オレステスの居場所を吐かせる目的で暴行を受けている。この狭い室内での360度パンは空間を拡張するというよりは、むしろその狭さを強調し、秘密警察の男3人による心理的な圧迫感を表現している。アンゲロプロス映画によくある様式的、舞踊的な動きは、ここでは男達の無機質な冷酷さを強調し、恐れおののくエレクトラの表情との対比がなされている。そして古典的映画ならば用いられるだろう切り返しショットを、鏡のショットによって代用し、秘密警察とエレクトラの対決を鮮明に描いている。背景には体制派と反体制派との対立があるが、エレクトラが対立する動機は弟への愛である。それはシークエンスの最後の部分、弟の写真に向かっていくカメラの動きで表現されている。
 このような心理劇はアンゲロプロス映画において、特に本作品においては異質と思えるかもしれないが、ここでもカメラの運動のそして「歩み」のリズムは変わらないため、全体の中で違和感を放つまでには至らない。ギリシァの近代史を叙事詩的に扱いながらも本作品から情感が漂うのは、こういった旅芸人一族の愛憎劇の細部を「歩み」のリズムを維持しながらも表現しているからである。
 本作品の物語の時称は4度反復される冒頭の1952年を基本としており、プロット上ではそこからの回想という形で過去へと遡及する。そしてその過去は時系列順に提示されるため、一座の愛憎劇も順をおって展開する。そして復讐劇の前後あたりから、終わりにかけてエレクトラが画面をしめる割合は必然的に多くなり、物語の中心的人物とみなせるようになっていく。
 もちろん古典的ハリウッド映画のような同一化はかたくなに拒否されているが、エレクトラが弟オレステスの亡がらに「おはようタソス。」(劇中劇の台詞)と声をかけるシーンや成長した妹の息子の初舞台を前に、「オレステス」と声をかけるシーンなど、感情的な表現もきちんと描かれている。これはアンゲロプロスの共産主義者たちへの同情でもあるが、抑制された表現は映像から滲み出るような情感をうみ、共産主義を礼賛するようなあからさまな政治的な態度とは異なる印象をうける。
 いずれにせよ、それを決定するのは観客である。そのような可能性を、アンゲロプロスはカメラの運動によって空間を360度に開くことで残している。

3、Temps mort

3-1 停止した運動
 アンゲロプロスの長編処女作である『再現』(1970)は、出稼ぎから戻った夫を、妻とその愛人が殺害するという事件を描いている。妻と愛人の関係を描く再現ドラマ風の視点、事件を捜査する検察と警察の視点、そして報道関係者たちの視点などが織り交ぜられ、事件を再現するように映画は展開する。そして映画のラストに犯行シーンが配置される。しかしこのラストシーンは、終始固定ショットで家の外観を写し、家の中で起こっているであろう「殺害」というアクションは一切映されない。犯行が行われているだろう約40秒程度の間、観客はひたすら家の外観をうつしたロングショットを見つめ続ける(図9)。
 映画は視覚的運動媒体であるから、このような運動が映されない時間(その持続)を、Temps mort(死の時間)と呼ぶ。この作品のこのシーンの場合、わずかな木々のざわめきや、かすかな白煙の揺らぎなどの運動はあり、さまざま環境音も聴こえるが、物語を進行させるようなアクションはない。しかしフレーム外の空間(家の中)では、事実として殺人が行われており、物語は現在進行形で進んでいる。アンゲロプロスは以後の作品でもこのフレーム外で物事が生起するという手法を発展させていく。フレーム外の空間という要素をつきつめていくと、必然的にロングテイク(ワンショット=ワンシークエンス)にいきつく[16]
 アンゲロプロス映画においてTemps mort は、「カメラの運動とフレーム内のアクションがない」というロングテイクのヴァリエーションの一つであるといえよう。多くの場合、物語上の重大な事件が起きている。『アレクサンダー大王』では、教会に監禁しているイギリス人貴族達を、アレクサンダー大王が殺害する。『ユリシーズの瞳』(1995)では、霧の向こうで虐殺が起きる。『霧の中の風景』では、主人公の一人である少女がレイプされる。行為が直接映されないことで、「未決定で開かれた状態」になり、その事態に至るまでの社会的背景に観客の意識をひきよせたり、寓話的な普遍性をもたせたりすることができる。
 こういったTemps mort の効果はやはり、「映像の多義性と解釈の多様性」から主題論的な議論へとつながれるが、この説明だけでは、それ以外のロングテイクとの差が見出せない。視覚的運動媒体である映画において「カメラの運動とフレーム内のアクションがない」時間が持続するという異常事態だからこそ生まれる効果があるはずだ。『再現』と『霧の中の風景』におけるTemps mort を比較、分析することで、その効果について考察したい。

3-2 予測不可能の時間
 『再現』のラストシーンは、家の入り口に妻が立っているところから始まる。情夫がやってきて、2人は家の中に消えていく。そしてそのすぐ後、夫も帰ってきて、家の中に消えていく。その後、子供たちが帰ってくるまでの一分ほどの間、一切のアクションは起こらない。環境音(遠くの人の声、鳥や家畜の鳴き声、風によるざわめき)などは聴こえ表面上は閑散としているが、牧歌的な雰囲気が感じられないでもない。そして子供たち入り口の前でふざけ合っているところに、家の中から妻と情夫がでてきて、情夫は何事もなかったかのように立ち去っていく。
 「カメラの運動とフレーム内のアクションがない」時間の持続は、それが長いと、ある種ストレスの様なもの観客に与えるだろう。それは見るべきものがないことに加え、その時間がいつまで続くかの感覚的な理解が不可能になるからだ。アクションがあれば、その終わりによって時間的な予測が可能になり、カットがなくても観客は時間をある程度分節化できる。
 このような「終始の予測」というのは、音楽のような時間芸術にとっては重要な要素であり、もちろん映画にとってもそうである。予測通りに展開すれば、その終点において観客は、形式に基づくカタルシスを感じるだろうし、予測を裏切ることでまた違った効果がうまれるだろう。映画におけるTemps mort もそういった裏切りのひとつであり、『再現』のラストシーンにおいては、フレーム外の空間で起こっているだろう事態を想像することと相まって、画面は非常に緊張感をもつ。その緊張感が、この映画が映してきた、貧しい地方の荒涼とした風景と閉塞感を表現している。
 『霧の中の風景』はドイツに出稼ぎしている父(母親の嘘であり、実際はいない)に会いにいくため、幼い姉弟が旅をするという物語である。その旅の途中、ヒッチハイクで乗ったトラックの運転手に姉のヴーラがレイプされるシークエンスでは、暴行の描写は直接映されない。ヴーラは荷台の中に連れ込まれるが、カメラは入り口を正面から捉え続ける。ヴーラは捕まった時も、実際暴行されていると思われる間も、叫び声一つあげない。典型的な脱劇化(dedramatization)されたシークエンスである[17]
 ここで注目したいのは、ヴーラと運転手が荷台の中に消えてから、約40秒程の間である。この間、物語はすすまない(進んでいるがみえない)、いわゆる死の時間である。しかし平面的に捉えられた荷台の入り口の左側、画面の後方には道路が広がっている。そこを何台も車輛がいきかい、やがてカーステレオの音と思われる音声と共に2台の車が停車し、運転手同士がなんらかのやりとりをした後、走り去っていく(図10)。これは荷台の中で起きているだろう事件との対比、異化効果などと解釈できる。しかしより単純で重要な効果がある。やがて助手席で寝ていた弟のアレクサンドロスが、姉の不在に気付き、出てくる。
 画面奥での物語上意味のないアクションは、映画を完全に停止させない為の演出である。本当の意味での「死の時間」が40秒続けば、視覚的に不安定な時間になり、観る側の集中力がとぎれ、映画は観客の中で静止してしまいかねない。それを避ける為に、意図的にアクションを挿入しているのだ。ここで何が行われているのか想像をめぐらせる隙もなく、一瞬観客の目を引きつける。ただそれだけでこの「死の時間」は安定感をもち、観客は画面を見つめるという行為を持続させる事ができる。長く退屈と一般的に思われるアンゲロプロスの映画であるが、このような時間の持続を可能にする工夫、演出が細部に施されており、「物語を観る」という所から離れてみれば、視覚的な楽しみに溢れているとさえいえるかもしれない。
 このシークエンスは放心状態にある少女のクロースアップを映さず、破瓜のものとおもわれる血を過剰なまでに強調させて終わる。荷台のカバーや少女の上着のグリーンと対比されるビビットな赤は、イニシーエッションの記号であり、少女の痛みや少女への暴行という出来事のショックをむしろ強調している。映画をリアリズムとして観てしまうと、非常に不快で悪趣味ともいえるが、一つの寓話として観た時、この残酷描写が観客に与える衝撃そのものが重要になるのではないだろうか。この映画は歴史を語らないが、決して少年少女の過酷な旅に感情移入する為の作品でもない。
 この暴行シーンは、意図的なアクションの挿入によって、時間停止による緊張感を緩和しているが、『再現』では、子供達が帰ってくるまでの時間、そういった演出はない。この違いは。物語的には前者の方がショッキングな出来事であるということと、後者が映画のクライマックスであることが関係していると思われる。
 暴行の方がショッキングであるというのは、映画を受容する観客にとってであり、あくまで映画内の出来事として、である。映画の観客にとって「殺人」というのは、映画内ではもはやありふれている。しかし少女への「暴行」はそうとはいえないだろう。しかも『再現』における殺人(それは映画的にも、物語的にも起こるべくして起こった)は、題名通り起こった出来事(映画はその原因、背景に焦点をあてている)を再現したものであるのに対し、この「暴行」は物語的な必然性はなく、唐突に挿入される。そういう意味で観客に与える衝撃は、『霧の中の風景』における「暴行」の方が大きいといえるだろう。
 さらに『再現』における「犯行」の時間は、映画のクライマックスに位置づけられていることから、大きな緊張感と存在感をもった画面であっても問題ないことに加え、映画の主題(地方の貧困や閉塞感の表象)を改めて観客に考えさせる時間として機能している。なにより観客はここで映画が終わることを心得ている。それに対し、『霧の中の風景』では「暴行」シーンはまだ映画の中盤であり、その出来事に、具体的な社会的背景があるわけではないので、『再現』における死の時間ほど緊張感や存在感のあるシーンだと、全体のバランスが崩れるだろう。しかし「暴行」という観客にショックを与えうる出来事を上で分析したような演出で描くことは、短絡的にアクションを挿入しスペクタクルや性的興奮、悲劇性を演出するのとは違い、映画に深みや重みを与えているため、物語的に必然性はなくとも、映画的に必要性があったといえる。

4、アンゲロプロス映画の音楽

4-1 音楽の変化
 次にアンゲロプロス映画における音楽についてみておきたい。『シテール島への船出』以降、音楽の使用法が変化したというのは様々な批評家が指摘するところである。「政治(歴史)から個人へ」という映画の主要主題の変化とともに、より感情にうったえるような音楽に変化していったのは確かだ。ただ変化したといわれる以前の作品でも音楽は重要な役割を果たしていた。具体的に何が変わったのか、まずこの変化について確認してみたい。
 最後までの撮り終えることのなかったが『フォルミンクス物語』(1965)や、初監督作である短編映画『放送』(1968)と、アンゲロプロスはそのキャリアの初期から音楽との関わりがあった[18]。そして『再現』では、「レモンの木の歌」という民謡が印象的に用いられる。
 この歌は様々に形態を変え後々の作品でも使用されており、アンゲロプロスの音楽へのこだわりを感じられる。「レモンの木の歌」は「ギリシャ人の本源的な生が象徴的に語られている。」といわれており、『再現』では閑散、荒涼とした村の風景と相まって詩情を醸し出す[19]。そして『旅芸人の記録』では、アメリカ兵のジャズの大きな音に対するギリシャの小さな音という対比のため、この歌は年老いた老人によって弱々しく歌われる[20]
 「レモンの木の歌」に限らずアンゲロプロスの映画では、歌はその歌詞の内容や歌い手達によって、様々な政治的態度の比喩となる。そして歌合戦のような形で対置されることで、「旧来の映画における語りの層と同じようなものを築いている」[21]。『旅芸人の記録』における、ダンスホールでの右翼と左翼の歌合戦や、『アレキサンダー大王』における歌合戦などがそうである。ルグレはこういった音楽の使用法がもっとも円熟しているのは『狩人』であるとし、対位法と形容し分析している[22]。そして「アンゲロプロスは歌曲をドラマの要素へと変貌させた。」と結論づけている。
 ミシェル・シオン(Michel Chion)は映画の音楽について詳しく分析しており、その分類によると、アンゲロプロスが多用する歌合戦の歌やレトリックとしてつかわれる音楽は、大抵、映画内にある音源から発生する(そのように認知される)音楽であり「スクリーン内音楽」といわれる[23]。それに対し、いわゆる映画音楽といわれる音楽は、その音源は物語の世界内にはない(そのように認知されない)、いわゆるオペラや劇の伴奏音楽のようであることから、「オーケストラピットの音楽」と定義される[24]。そして『シテール島への船出』以降は、作曲家エレニ・カラインドルゥを起用し、「いわゆる本来の意味での映画音楽を登場するようになった」とルグレは述べている[25]
 しかし「レモンの木の歌」のような歌でも、時にはどこに音源があるのかわからない場合がある。ハッキリと歌い手が映るときもあるが、『再現』の冒頭の夫が帰還するシークエンスでも、村の何処からか鳴っているようにも思えるが、夫がその音を聞いている様子もないのでハッキリとはわからない。そして最後のシーンで用いられる時も突然鳴り出す。つまりアンゲロプロスは、「虚構世界外音楽」を使用して来なかったわけではない。例えば『アレクサンダー大王』の大王が古代遺跡の前に登場するシーンなどがそうである。とはいえカラインドルゥは、『シテール島への船出』以降すべての作品で音楽を担当しているし、2人の創作過程における共同作業を鑑みれば、アンゲロプロスの作品を語る上で非常に重要であるといえるだろう。
 「音楽が何処から鳴っているか」という問題も重要だが、アンゲロプロスの映画においてそれよりもまず重要なことは、音楽もサウンドトラック、映画の音の一部にすぎないということである。映画の音に対する観客の受容は、便宜上、音楽的聴取(音楽)、因果的ないし逸話的聴取(環境音)、言語的聴取(言葉)の3つにわけられる[26]。アンゲロプロスはこれらを見事に調和させ、1つの「音響音楽」を作り上げている。といってもその音だけで聴いても意味はない。当然映像があってこそ、「映画の音楽」は成り立つ。アンゲロプロス自身も、映画音楽を挿入する場合は、そうでなければならないと考えている。
 ミシェル・シオンのような理論よりの議論はもちろんのこと、アンゲロプロス映画の音楽の包括的な議論を続けると、本稿では足りないのでこれ以上はさける。次に音楽がどのように機能しているか、個々のテクストに沿ったかたちで考察していきたいので、『霧の中の風景』の音楽についての分析に入りたい。

4-2 『霧の中の風景』の変奏曲 
 『霧の中の風景』は、姉弟の旅の途中、様々な出来事が主に列車とハイウェイを介して街から街へと挿話的に展開する。アンゲロプロスの叙事的な表現と抽象的な表象とが相まって、また子供が主人公であることから、おとぎ話のような印象を受ける。旅の途中で姉弟はオレステスという旅芸人一座の青年と出会う。この一座は『旅芸人の記録』の一座であり、キャストもオレステス以外はまったく同一人物である。この映画では他にも、それまでのほぼ全作品からある人物が登場する。これらの人物(この場合オレステスは別)もほとんどが唐突で印象深いが、物語的な意味が薄い登場の仕方をする。この過去作品の人物の唐突な挿入もおとぎ話のような印象を強める要素の一つである。この作品の大筋についてはまこの辺に停めて、音楽の分析にはいっていきたい。
 冒頭シークエンスの終了間際からクレジットシークエンスにかけて流れる音楽は、この映画のテーマ音楽とみなせる。弦合奏による伴奏とオーボエの主旋律による音楽である。アンゲロプロスは「子供たちの躍動は、かつてのロマン主義的な逃走を思い起こさせたので、ロマン派の香りのする音楽の方向へ向かいたいと思いました。」「ロマンチックであると同時に叫びのようでもあるオーボエが最も適していると思いました。」と語っている[27]。弦楽器による一定のリズムを刻む伴奏は、過ぎ去った列車の「カタンカタン」という音のリズムを受け継ぐかのようである。さらにオーボエの旋律は、何度も決心するも、いつも土壇場で躊躇し、列車に置き去りにされる姉弟の叫びであり、2人の嘆きや祈りとも感じられる。
 この列車に置き去りにされ、姉弟がたたずむショットからは、世界からの疎外感や孤独感を感じる(図11)。さらに音楽を伴うことで、漂泊のイメージと、過酷な運命を観客に想像させる。この音楽は、ミシェル・シオンのいう「象徴化」「付加価値」の役割をはたしていると考えられる[28]。映像がもつ疎外感や孤独感を象徴する音楽であり、さらに映像だけではもちえない、漂泊や運命的というロマン派的情緒を付加している。ここにまず映像と環境音と音楽、そして場面が表現する主題との調和がある。
 この冒頭のシークエンスと音楽は、単に物語世界への導入の役割を果たすだけでなく、映画全体の主題となっている。映画の各シーンは、この主題の変奏であり、逆に言えば、すべてのシーンは同じ主題を根底にもっており、この冒頭に映画のすべてが表現されているともみなせるのだ。
 その他の主題(愛と死、歴史と記憶、個人と社会など)も様々な旅の出来事、出会いとして各変奏に描かれてはいるが、それらは姉弟の前を通り過ぎるだけであり、姉弟の感情やアクションの原因となることはない(影響を与えたと想定することはできても、古典的ハリウッド映画のように直接的な因果関係を結ぶことはない)。そもそも姉弟を旅に駆り立てる最初の原因(ドイツに出稼ぎしている父に会う)は映画の序盤で破綻し、なぜ旅を続けるのか、どこへ向かっているのかは、姉弟の内面がはっきりと描かれることがないため、曖昧になる。
 ゆえに置き去りにされるショットを含む冒頭のシークエンス(その変奏である映画全体)から感じられる疎外感、孤独と漂泊、希望を求める祈りや叫びといったイメージがこの映画において支配的となる。この映画は、いわばおとぎ話であり、登場人物たち個々の感情の動きや、アクションではなく、映像から滲みでてくる感情や映画全体に漂う情緒が見所となる。
 なぜ映画全体が、この冒頭のシークエンスの変奏であるといえるのか。それはこの映画で使用される「虚構世界外音楽」にあたる音楽は、旋律で聴き分けると冒頭のテーマ音楽を含め3種類しかないが、後の2つの音楽は、音楽学的にテーマ音楽の変奏であるとみなせるからだ。つまり同じ旋律をもとに作曲されている。音楽学においても、変奏曲の基本となる旋律をテーマ(主題)という。
 この3種類の音楽を映画ないで提示される順番にしたがって、メインテーマ、第一変奏、第二変奏とする。これらはそれぞれの変奏の中にもヴァリエーションがある。まず変奏音楽が使用される場面を少しの考察を加えながら確認していきたい。本作品についての包括的な分析は本稿ではしないので、シーンの順番は前後するが、変奏ごとに分析していきたい。そして一つシーンを取り上げ、そのシーンの映像と音の調和についてより詳細に分析したい。

4-2-1 メインテーマ
 冒頭のシーンの次に、テーマが使用されるは、姉ヴーラがレイプされた後のシーンである。姉弟2人が寄り添いながら、雨の中歩くシーンである。この映画は姉弟の成長譚だといえる。映画内での時間の経過と姉弟の成長は対応していうる。姉弟の行動にはその成長が反影されている。信頼できる大人ばかりではないことを知った姉弟は、雨でもヒッチハイクはせず、歩き続ける。ここでのテーマは映像がもつ旅人の歩みと孤独、漂泊というロマン主義的イメージを象徴している(図12)。
 次に使用されるのは、海岸でのシーンである。ジューク・ボックスの楽しげなロックミュージックと打ち寄せる波の音。オレステスは踊ろうと誘うが、その手をとらず、突然駆け出すヴーラ。砂浜に膝をついて倒れ込み、砂を手でなでる。ここではヴーラのオレステスへの淡い恋心が描かれると同時に、それは実らないであろうことが描写されている。説明的な描写は一切ないが、仕草やわずかな台詞、そして風景と音楽からそれは感じられる。テーマはヴーラが駆け出した時から流れ出す。ここでのテーマは無伴奏でオーボエの旋律のみと、少し変奏されている。伴奏形が象徴している旅人や漂泊といった物語の世界観的なイメージは、ここでは後ろに下がり、より祈りや叫びといった哀感が強調される。
 3回目に使用されるのは、巨大な石の手が引き上げられるシーンである。このシーンは、映画の一つのクライマックスであるといえる。巨大な手がなにを象徴するわけでもないが、その圧倒的な存在感は、それを見上げるしかない、姉弟とオレステス達の無力感や寄る辺なさを強調している。そして音楽は、それを見上げる者達に添えられており、巨大な手が完全に引き上げられ、ヘリコプターで運ばれていく頃には音楽は鳴り止んでおり、ヘリのローター音だけがこだましている。このシーンは後に詳しく分析する。
 4回目はオレステスとの最後の別れのシーンで使用される。2回目の時と同じ無伴奏オーボエである。オレステスに抱きつき泣くヴーラに寄り添うように鳴らされる。別れや失恋の痛みを象徴している。
 5回目は最後のシーンである。何らかの希望を象徴するような一本の木に、姉弟は抱きつく。そこで画像は完全に静止し、テーマだけがならされた状態が少し続き、そのまま映画は幕を閉じる。

4-2-2 変奏1、隔絶のテーマ
 ピアノのアルペジオの上に、テーマの断片が弦楽器で奏でられる。より静謐で沈痛な雰囲気をたたえる音楽。使用されている3つシーンは、物語的な意味があまりなく、演出もなにを象徴しているのかわからない、超現実的なシーンである。
 最初に使用されるシークエンスでは、姉弟は「カモメさん」とよぶ精神病患者に「ドイツへいく」と別れの挨拶をする。ここで「カモメさん」という精神病患者を登場させる、物語的な意味も、象徴的意味は曖昧であるが、姉弟とカモメさんを隔てるフェンスが世界からの隔絶、疎外をイメージさせる。
 次に使用されるのは、警察署でのシークエンスである。無賃乗車が発覚し、伯父に引き取りを拒否され、警察署の廊下で待たされる姉弟。その時、「雪が降ってきた」と警察官達はにわかに騒ぎ始める。警察署の外では大勢の人間が、時が止まったかのように静止し、雪を見上げている。その間に姉弟は逃げ出すというシーンである。このような群衆の表現は、アンゲロプロスがよく用いてきた。ここでの群衆は、過去作品の登場人物も同じであるが、ギリシアの歴史を背負った大人の世代であり、姉弟はその歴史を負わない新しい世代、希望である。この過去と未来の対比が、この凍り付いた街や人間と逃げる姉弟の運動との対比で表現されている。
 最後に使用されるのは、ラストに近いシーンである。なんども同じような駅の待合室がうつされ、どこかもよくわからない場所で、姉は国境までいくらかを窓口に向かって尋ねる。しかし窓口のシャッターは降ろされ、一切の反応はない。ここにも隔絶のイメージがみられる。この映画において、駅の待合室というのは、超現実的な空間であるように感じられる。待合室の風景はどれも似通っており、時間的、空間的、地理的な差異はあまり感じられない。姉弟は線路にそって旅をしているはずなのだが、この映画全体は地理的な方向性を欠いている。駅の待合室だけでなくハイウェイと車輛の中も同じであるが、場所と場所、出来事と出来事の間に挿入されるだけで、方向性もなく、地理的な繋がりもわからない。不思議の国と国とを繋ぐ、文字通り場つなぎ的な空間である。もっとも映画内の時間は、姉弟の行動に旅の経験、成長が反影されているという点から感じられる。
 これら3つのシークエンスで一つ共通する事がある。それは次の世界へ行こうという、姉弟の意志と行動である。最初のシークエンスでは、台詞通りドイツへ向かう意志を表明している。2つ目では、逃げ出すというアクションに現れている、そして3つ目のシークエンスでは、チケットを求め、姉は自らの体を売って旅費を稼ごうとする。これらの意志自体は映像で充分、表現されており、この音楽は映像に滲む悲壮感や痛々しさを補強している。

4-2-3 変奏2、旅、乗り物のテーマ
 少しテンポの速い、舞曲調の音楽。この変奏はより動きをもった楽想であるため、より登場人物のアクションに寄ったイメージをもっている。運命により積極的に立ち向かおうという姉弟の高揚感とアクション、そして乗り物(列車、旅芸人のバス、オレステスのバイク)の動きにマッチした音楽である。しかしもとの主題がもつ孤独と漂泊、祈りのイメージは保たれている。
 最初に使用されるのは、姉弟がついに列車に乗り込み旅を開始する時である。「のってしまったね。」と微笑みあう姉弟の高揚感と列車の動きを象徴している。物語が動き出したという合図でもある。
 次に使用されるのも同じく、乗り物に乗るときである。オレステスとの最初の出会い、「のっていけよ」と誘われ、始めは無視して素通りしようとしていた姉弟だが、一瞬立ち止まって考え、乗ることを決意する。その瞬間に音楽が鳴り始める。あるいは音楽が鳴ったからこそ観客は、姉弟が乗ると決めた事を理解するのだ。そしてバスが走り出し、物語も次の展開をむかえることが想起される。
 3回目に使用されるのは、流しのヴァイオリン弾きが演奏する場面だ。この『シテール島への船出』のスピロスを思わせる老ヴァイオリン弾きは、変奏2を演奏しだす。ここでは「虚構世界外音楽」が「虚構世界内音楽」へと変わる。これもある種の異世界観を創り出している。警察署のシークエンスでは、『再現』の妻エレニが、直前のシークエンスでは旅芸人たちが登場する。アンゲロプロス自身の過去の作品、別の映画世界の人物が(物語や姉弟とは大きな関係をもたずに)登場する効果も、幻想的な雰囲気を創り出しているといえる。
 4回目に使用されるのはオレステスとの再会のシーンである。ここでも姉弟はオレステスに助けを求め、彼は2人をバイクに乗せ、姉弟を疎外するものから救い出す為に走り出す。疎外するものとは、列車に乗り込んできた警官であり、背景にそびえたち、大量の白煙を吐き出す何本もの巨大な煙突、そして姉弟の行く先を阻む怪獣的な掘削機械である。ここもまた「不思議の国」的なイメージに溢れており、より積極的に姉弟を拒絶しようとする(図13)。そこから抜け出す時にこのテーマが用いられる。
 5回目の使用は、ヴーラがオレステスの部屋に向かおうという時に鳴る。チェロの弱々しいゆっくりとした独奏に変奏されている。ヴーラはオレステスに恋心を抱いており、前向きな気持ちながらも、不安げな楽想となっている。作品上もっとも個人的な領域を象徴する音楽であると言える。
 6回目では、最後の駅で兵士にねだり、お金を得た直後に鳴り出す。それまで車輛の廊下に身を寄せ合い、大人に見つかる事に怯えていた姉弟だが、お金を得たことで、堂々と客席にすわり、切符を車掌に差し出す。その安堵感や高揚感と、国境までの切符を買おうとしていた事から、観客は物語(旅)の終焉に向かっている事を感じる。
 以上のように物語の動き出し、気持ちの高揚感、乗り物の動き出しが一体となった変奏である。感情的にも、物語的にも前向きな力、方向性をもった楽想だが、孤独や漂泊のイメージは消えておらず、悲壮な決意であり、過酷な旅である印象はかわらない。6回目の使用時では、切符を持っている姉弟の安堵感は、「パスポート」を用意してくださいというアナウンスに寄って一瞬で打ち砕かれる。
 以上、変奏音楽が挿入されるシーンである。すべてについて詳しく分析はできないが、音楽は単純にそのシーンを伴奏しているわけではない。映画内の運動、他の音声と積極的に関わりをもち、変奏2(乗り物のテーマ)のようにむしろ物語を推進させている様な場合もある。そしてすべての音楽が、主題的な統一性をもつことで、「映像の多義性と解釈の多様性」を邪魔せず、自身も具体的な象徴性を曖昧にしている。
 つぎに、この映画の最も有名なシーンの一つである、「巨大な手の彫像が海中から引き上げられる」シーンを観ていきたい。このシーンのような抽象的な映像(強烈な具象によって表現されるが)は、ボードウェルが言うところの絵画的表現のひとつであり、より純粋な美学的要素である[29]。このシーンにおいて、音楽、音、映像がどのように調和し、一つの時間芸術(その一部)として成り立っているかを分析したい。

4−3 巨大な石の手と音響音楽
 早朝、海岸の係留柱に座りこむオレステス。そのオレステスの前に、巨大な石像の手が海中から突然浮かび上がる(図14)。ここでメインテーマが鳴り、そしてヘリが飛来する。ホテルから姉弟もでてきて、オレステスとともにヘリを仰ぎ見る。そして石の手はワイヤーで吊られ、ヘリによって運ばれていき、観客は、巨大な手がヘリによって運ばれていくのをただ見つめ続ける(図15)。石の手は、上昇運動をやめると湾の対岸方向へ向かって海岸線沿いに運ばれていく。ヘリが遠ざかるのにあわせて、カメラは徐々に引いていき、やがて左下から、海岸にたたずむ3人がフレームインする(図16)。そこから海岸線とビルのラインが示す消失点へ向かって遠ざかるヘリを、画面上の同じ位置に捉えたまま3人をフレームの中心捉えるように移動する。オレステスは止めてあったバイクにまたがり、「もしも私が叫んだとて、天使たちの誰が聞くだろう」という何かから引用した言葉をつぶやき、うなだれる。アレクサンドロスが慰めるように手を添え、このシークエンスは終わる。
 このシークエンスの物語的意味は解釈しやすい。旅芸人の一座解散が決定的になった後のシークエンスであり、オレステスの表情やたたずまいからは喪失感が滲む。オレステスに象徴される青年の世代は、大人と子供の中間であり、現在を象徴している(大人=過去、子供=未来)。それは様々な政治的理想が崩壊した現代において、夢破れた大人達とは違い、夢すら持てない世代である。最後の部分では、アンゲロプロスが描いてきた実存的な悩みをかかえる大人たち(過去)から現実に苦悩する青年(現在)、そして悩むことをまだ知らない子供(未来)へと対比される。
 しかしそれと「巨大な手」自体が、主題的にどう関係しているのかは解らない。象徴的意味を読み取ろうとする事自体に意味がなく、手の巨大さによって受ける視覚的衝撃と、徐々に遠ざかっていくという運動を見つめる時間自体に意味がある。手の巨大さと音楽の導入によって高められた観客の感情は、この時間によって余韻のように引き延ばされ、薄められる。しかし見つめるしかできないという事態(観客もオレステス達も)に、青年の苦悩の深さを知る。
 そのためこのシークエンスには、物語的意味がないショットに対し、それを見つめる観客の集中を保つために、厳密な時間構成、演出が施されている。
 まず音声の時間構成は波の音→テーマ音楽→ローター音→波の音となっている。係留柱に座りこむオレステスのショットには波の音が聴こえ、手の出現とともに音楽がなる。そしてヘリがローター音とともに飛来する。ここからローター音とテーマ音楽のアンサンブルが続き、手が完全に空中に上がる頃には、音楽は止み、ヘリのローター音だけが鳴り響く。そして徐々にローター音は遠ざかり、聴こえなくなる頃に波の音が聴こえてくる。波の音やローター音はテーマ音楽と違い物語内で発生する音だが、一定のリズムをもっており、音楽的に聴こえる。この3つの音はサウンドトラックの編集によって創られた一つの音響音楽であるといえる。海岸線は視覚的、遠ざかるローター音は聴覚的に消失点を観客に示す。このように消失点が示されると、観客はそのショットの持続がいつまで続くのかを感覚的に理解し、画面に集中し続けることができる。
 Temps mort が、ショットの持続に対する時間的な予測を裏切るものならば、このシークエンスはそれを裏切らない。視覚的にも聴覚的にもヘリと手が完全に消失する頃に、3人がフレームインする。これにより新たな展開をむかえることが予測される。このような時間的予測は、カメラや被写体の運動はもちろん、音響によるところも大きいことがこのシーンではわかるだろう。
 このシーンにおける「虚構世界外音楽」は、ただ控えめに使われているというわけではない。ここでは明らかに感情を高めるために使用されている。しかし波の音やローター音などの環境音と組み合わせ、一つの音響音楽をつくることで、効果的でありながら繊細な表現を可能にしている。アンゲロプロス映画における音響の処理は多彩であり、まだまだ分析する価値はあるだろう。

 

5、時間を超越する空間

5-1「現実」を浸食する「過去」
 ロングテイクでは時間と空間の連続性があるため、物語内の時間は、クロノメーター的、年代記的であるかしかないように思われる。しかしアンゲロプロスはロングテイクの間でも、時間の省略、非連続化、非年代記的な記述を可能にし、物語内の別の時代、時間が同一の空間で結合される。しかしそのための特別なカメラワークがある訳ではない。例えばフラッシュバックの時に、カメラを顔に接近させることで時間の流れ、誰の記憶であるかを視覚化するような場合があるが、アンゲロプロス映画におけるフラッシュバックは集団の記憶から出発し、カメラの運動過程と合致するように全体を進行させていく [30]
 過去と現在を同一空間上で、現在時称で語るという技法は、『旅芸人の記録』ではじめて用いられる。もっとも有名なのが1952年から1942年へとワンショットで繋がれるシーンである。1952年の後の独裁政権となるパパゴス陣営の宣伝カーが走り去った方向から、ナチスドイツの黒いメルセデスが走ってくる。先ほどまで旅芸人たちが歩いていた通りには、ナチスの憲兵が立っている。このロングテイクでは、旅芸人達の「歩み」からはじまり、宣伝車、そして数秒の「死の時間」のような静止の後、メルセデスとカメラが被写体の動きを追っている間に現在から過去へとなんの示唆的な演出もなく移行している。
 またクロノメーター的記述を打ち破るものとして、さきほど360度パンについて言及した広場のシークエンスがある。ここでの一連の歴史的事件の期間は、ロングテイクの時間と一致しない。カメラがパンを続ける間に時間は進み、解放から連合国の介入、そして内戦へと至った過程が表現される。
 アンゲロプロスは、このような技法は個人的な思い出ではなく集合的記憶として過去を描くためにあると語る。また「レジスタンスの世代を描きたかった」といっており、第二次大戦前後を通して体制側と戦い続けた共産主義者たちに同情的、哀悼的な気持ちをもっている[31]。ゆえにパパゴス独裁政権とナチスを同一空間で描くことで両者のレジスタンスの敵という「分析的連続性」を表現している[32]
 すでに述べたように、 本作品の物語の時称は1952年を基本としており、プロット上ではそこからの回想という形で、過去は時系列順に提示されるため、旅芸人たちの記憶をたどる物語であるともみなせる。『狩人』(1977)では、登場人物たちがそれぞれの記憶を証言していくという形で、過去は提示される。ゆえに過去は時系列順では提示されない。そして『狩人』におけるフラッシュバックは過去が現在を浸食するという形で展開される。
 『旅芸人の記録』では、カメラの運動によって滑らかに連結された。カメラの流れ(歩み)は、時間の流れを可視化しているとみなせるし、過去と現在の事象が共存することはない。しかし『狩人』においては、その過去と現在は映像上で共存している。
 1976年、内戦時に体制派(右翼、左翼を裏切った者達)にくみし、支配階級として現在まで過ごしてきた6人の狩人たちが、内戦時代のパルチザンの死体を発見することから、この映画ははじまる。あるはずのないパルチザンの死体の現前は、狩人たちが集団で悪夢か幻覚をみているかのようである。この死体が発端となって、それぞれが抱える過去が現在を浸食しはじめる。
 例えば、実業家ヤニスが1958年時、選挙管理委員をしていた時の記憶を証言するシーンでは、その記憶の過去はまさにその場、その空間で再現される。過去の記憶の中の人物たちがその場にフレームインしてきて、ヤニスは過去を語りながらその場において、彼らとともに再現劇を演じる。そしてそれは証言をきく人物達をも巻き込む。ヤニスが語り始め歩き出すと、その証言を記録していた書記官は机を彼にあけ渡す。するとヤニスが語る過去の人物(コミュニストであり、従兄弟、そして内戦時、互いに親が殺し合った。)が現れ、その机は過去の投票所の机へとかわる(図17)。
 この映画における過去とは、支配階級の人間たちの現在における恐怖の現れである。パルチザンの死体や彼らの証言のシーンは、ギリシャ内戦における右翼と左翼の闘いという過去の映画的再現ではなく、彼らがみている幻想だとするならば、それをみせているのは彼らの現在における恐れである。自分たちが踏みつけにしてきた者達への恐れというのは、つまり現在における権力が失墜することへの恐れである。この映画はギリシャ内戦という過去を通して支配階級の現在(そして未来)を描いている。『狩人』では時間の省略、非連続化、非年代記的な記述によって現在と過去、現実と幻想、個人の記憶と集団の記憶といった2項対立が映像上で1つに表現される。

5-2 アンゲロプロス映画の幻想世界
 こういった技法が次に用いられるのは、『ユリシーズの瞳』である[33]。本作品はギリシャ系アメリカ人映画監督Aが、バルカン半島で初めて映画を撮影したマナキス兄弟についての記録映画を撮るために帰郷し、そこからマナキス兄弟の未現像フィルム三巻を求めバルカン半島を旅する、という物語である。
 この旅はまず現実の旅である。主人公Aは未現像フィルムを求めてアルバニアから、マケドニア、ブルガリア、ルーマニア、ユーゴスラビアを経て、ボスニア・ヘルツェゴビナといくつもの国境を越える旅をする。幼い時をルーマニアで過ごし、旅の途中で兄ヤナキスの日記を読むAにとって、それは自身のルーツやマナキス兄弟の足跡を辿る旅でもある。これら現実の旅と記憶の旅を通して、バルカン半島の過去と現在が表現される。
 過去への遡及は、例によって示唆的な演出なしに、同一空間で行われる。そしてAは現在の姿のまま幼き日の自分になり、ヤナキスにもなる。それは単に同じ役者が演じているというだけではない。物語上のA自身が、幼い頃の自分へと精神的に退行したり、ヤナキスと自身を同一化したりする。ここでも過去は、Aの記憶(あるいはヤナキスの記憶)の再現でもあり、同一空間で展開するがゆえに集団の記憶でもあり、そして現在におけるA自身の幻想でもある。こういった映像話法によって現在と過去、現実と幻想、個人の記憶と集団の記憶が一つの映像上で融合している。
 本作品の旅(主題)は、時代はマナキス兄弟の20世紀初頭から現代の世紀末まで、地域はバルカン半島全体と、これまでの作品以上の広がりをみせている。そしてこの映画でさらなる広がりをみせるのが、自己の内面への旅である。自己とは、アンゲロプロス自身の内面でもある。この作品は、アンゲロプロス自身の映画に対する思いが強く表現されている。
 アンゲロプロスの映画(というよりは映画監督としての自分)への自己言及的な態度は、初期の段階からとってきたものだ。『再現』では事件についてフィルムに収めようとする映画監督を自ら演じていた。『こうのとり、たちずさんで』でも、TVではあるがカメラが登場する。これらは映画にある種の客観性を創出している。『シテール島への船出』の主人公も映画監督であり、物語上は、映画内映画として大部分が進行する。その映画内映画は、主人公の父への憧れが創作の原動力となる。『霧の中の風景』では、主人公たちが道端で拾うフィルムは希望を象徴している[34]
 『ユリシーズの瞳』における映画への自己言及は、これらの要素をすべて含んでいるといってよい。そして創作における危機を、現代において映画を撮ることの意義を、映画の中で直接的に問うている。Aは「最初の眼(まなざし)」であるこのフィルムを手に入れることで、「失われた眼」を取り戻し、創作の危機を乗り越えようとしている。マナキス兄弟のフィルムの現像を試みてきたサラエボ映画博物館のイヴォ・レヴィは、「それに成功したところで、この虐殺のなか、何の意味があるのか」とAに嘆く。
 映画誕生から百年が経ち、人間はあらゆるものをフィルムに収めてきた。戦争によって人が殺される瞬間も当たり前になった現在、映画はこれ以上何を映せばよいのか、映画にできることは何なのか。ただ「動く」だけで感動していた初期の映画のような無垢な眼を取り戻せるのだろうか。このような問を『ユリシーズの瞳』は発しており、その答えを探し続けるというアンゲロプロスの決意表明でもある。
 ただその思いが強いからか、本作品の感情表現は、『旅芸人の記録』で達成された風景から滲み出るような情感と比べるといささか強すぎる。それにより政治的な描写も、映像話法で比べれば大差ないはずなのに(霧の中での虐殺)、他作品と比べ直接的である印象をうける。またショットや時間的な演出は他作品以上に流麗で美しいが、肝心の一番重要な主題(創作の危機、映画の意義)は、登場人物の台詞で補われてしまっている[35]
 映画一般にしても、アンゲロプロス映画にしても言葉が重要ではないというわけではないが、やはり重要なことは映像の力で表現してきた過去の作品と比べると異なる印象をもつ。しかしこれらはあくまでアンゲロプロス映画内の相対的な評価であり、新たな創作への決意表明という意味でも『ユリシーズの瞳』は重要な作品であることは間違いない[36]
 アンゲロプロスのロングテイクにおける時間の省略、非連続化、非年代記的な記述は、ここまでみてきたように現在と過去、現実と幻想、個人の記憶と集団の記憶といった二項対立を映像上で一つに表現するための技法である。この技法によって空間のみならず時間も無限に拡張し、映画は神話のような荘厳さをもつに至る。そこには生から死まであらゆる人間的なものが表現されうる。その主眼は作品によって事なり、初期は政治的なもの、『シテール島への船出』からはより個人的なもの、そして『こうのとり、たちずさんで』以降はそれらを同時に取り扱おうとしている。
 政治的であるか、個人的であるかというのは、どの作品においても表裏一体であり切り離せるものではないが、『こうのとり、たちずさんで』はその二面性を一つのシークエンス内で融合することを試みている。『ユリシーズの瞳』は主題的な広がりにおいては最大の作品だが、映像上での融合は『こうのとり、たちずさんで』がもっとも成功している。ゆえに本稿では最後に『こうのとり、たちずさんで』のテクスト分析を試み、アンゲロプロスが、個人と社会との関係をどのように見つめ表現してきたかを明らかにしたい。

6、『こうのとり、たちずさんで』のテクスト分析
 本作品のあらすじをまず確認しておこう。TVレポーターのアレクサンドロスは、ギリシャとアルバニアの国境地帯を取材する。そこには「待合室」と呼ばれる、入国審査をまつ難民たちが集められた街があった。アレクサンドロスはそこで見覚えのある「男」に出会う。
 その「男」が以前に失踪した政治家であると突き止め、その元夫人に話しを聞きにいく。 そして再び「待合室」を訪れ、調査を始める。その滞在の間に、ある難民の少女と出会い、一夜をともにする。その少女の父は「男」であった。夫人と「男」を対面させるが、結局「男」が失踪した政治家なのかはわからない。
 そうした中、アルバニアから村の半分だけ難民としてギリシャに来たため、一年に一度国境の河を挟んで無事を確認しあうという集会が開かれる。今年はそこで河をはさんでの結婚式が開かれる。アルバニア側に花婿がおり、そしてギリシャ側の花嫁は少女だった。TVクルーの仲間がその集会を取材撮影する中、アレクサンドロスは複雑な表情でそれを眺めている。そしてその夜、「男」は国境の向こうへと失踪し、翌朝アレクサンドロス達はその方向をみつめつづける。本作品はここで終わる。
 この物語は、基本的に「男」が政治家なのかどうかというミステリーの形をとっている。しかし映画は、同一人物であるかどうかは問題にしていないし、その真相を明かす事はない。アレクサンドロスが、「男」について、そして政治家失踪の理由について探求していく過程で、提示される様々な主題がこの映画の中心である。

6−1 クレジットシークエンス、そして国境地帯の取材、主題の提示
 まず映画はいきなりクレジットシークエンスから始まる。冒頭から弦楽による序奏の後、ホルンによって主旋律が奏でられる音楽が鳴る。アンゲロプロス/カラインドルゥらしい、運命的、感傷的な音楽と感じられるだろう。この旋律は、映画の中で形を替え使用され、一部の虚構世界内音楽を除いて、使用される音楽はすべてこの旋律から構成されている。これにより『霧の中の風景』同様に、映画の雰囲気に統一感をもたせ、象徴化している。
 音楽はクレジットシークエンスから冒頭のシーンにかけて切れ目なく鳴らされ、映画の冒頭のショットでは、海上の2隻の船と低空旋回している2機のヘリコプターが映される。そして本編の第一のショットの導入にあわせて音楽も展開をみせる。だがすぐに音楽はうしろにひき、主人公アレクサンドロスのヴォイスオーヴァーが入る。そこからカメラはヘリが旋回する中心に向けて緩やかにズームしていく。語りの内容から、2機のヘリが旋回する中心に浮かぶのが、ギリシャ政府から入国を拒否され、海に身を投げたアジア難民の水死体であることがわかる。
 音楽はヴォイスオーヴァーの間に止み、その語りも終わると海上には、ヘリコプターのローター音だけが鳴り響き、しばらくカメラは難民の水死体を捉え続ける。ここまでがこの映画の最初のシーンであるが、『霧の中の風景』の巨大な手のシーンのように、音楽と海上にこだまするローター音は調和している。
 そしてこのローター音は次のショットで映されるジープのエンジン音へと引き継がれる。次のショットでは、走るジープが後方から前進移動で捉えられる。ジープが止まると国境の取材にきたアレクサンドロスと案内役である国境警備隊の大佐がおりてきて、右方向に歩き出し、カメラはそれを追ってパンする。国境の河の土手沿いに兵士たちが整列して点呼をとっている。点呼が済むと2人は左へとって返し、橋の方向へ向かっていく。そして橋の上のショットへと繋げられる。このショットはシーン冒頭のジープを捉えたショットと同じように、まっすぐに奥行きのある構図である。ここではカットを挟むことによって、この奥行きと横を対立させている[37]
 次に大佐は国境の河越しにタバコのやりとりをする難民に気付く。紐がくくりつけられた小さな筏にラジオがのせられ音楽が鳴っている。筏が河を越えようとする動きをカメラは追うが、口笛が鳴るとその動きは停止する。ここまでで「国境」は河や橋の上のラインとしてはっきりと視覚で提示される。といっても明確な壁が存在するわけではない。「国境」を越えようとするもの(ラジオを載せた筏)を阻むのは、河=国境ではなく、人間(画面奥のアルバニア兵、口笛の音)であることも同時に示される。
 大佐は難民に忠告を与え、取材は続行される。物見台に上がった2人は、「待合室」を目にする。ここまでが物語の冒頭といえるシークエンスであり、「国境」(横、隔てるもの)という主題が視覚的に提示されている。

6-2 映画の視点、アレクサンドロスの目
 この映画は過去や記憶を扱う物語ではない。アレクサンドロスのヴォイスオーヴァーが挿入される冒頭のシーンを彼の記憶とみなすならば、それが過去を映す唯一のシーンである[38]。それ以外、物語上は現在形であり、基本的にはアレクサンドロスの視点で提示される。TVのレポーターであるアレクサンドロスは観察者の位置が与えられる。この映画は視線によって誘導されるカメラの動きやカットの切り替わりが、アンゲロプロス映画のなかでも比較的多くみられる。
 「待合室」のホテル前に到着したアレクサンドロスは、街の真ん中に流れる用水路の対岸へ、ふと振り返った時、何かをみつけ、一度正面に戻した顔を再度振り返らせる。その動きに促されてカメラは視線の先へとズームアップしていく(図18、19)。その先に映画の中心となる「男」がおり、カメラは「歩み」をはじめたその男を追って右にパンしていく。
 そしてそのすぐ後のシーンで、自室のベランダに出たアレクサンドロスは、再び通りにいる「男」を目にする。通りから斜め上にベランダにいるアレクサンドロスを捉えていたカメラは、何かをみている様子のアレクサンドロスからズームバックをしていく。そしてカットがかわり、カメラは通りにいる「男」をベランダから眺めているような俯瞰でとらえ、ズームアップしていく。ここでカットが変わることで、より明確にアレクサンドロスの意識が「男」にあることがわかる。単純にカットを挿入するのでなく、ズームアップからズームバックへと滑らかに繋ぐことで、映画のリズムを維持している。
 物語は順序良く進み、テレビクルーたちが、「待合室」に到着したシークエンスの次は、「待合室」を取材撮影するシークエンスが始まる。取材班は使われていない貨物列車の中に難民が住んでいる様子をカメラに収めようとする。TVカメラを構える撮影隊を映したショットから、TVカメラが捉えているだろうショットにかわり、列車に沿って映像はトラッキングしていく。ここでもショットの変わり目に視線の誘導がある(図20、21)。
 このトラッキングショットにおいて、それぞれの車両の入り口や窓から姿を見せる難民達は、撮影されるのを待っているかのように正面をむいて静止しているためドキュメンタリーの様な印象をうける。また冒頭のテーマ音楽の旋律がアコーディオンによる民族音楽風の曲に変奏され、撮影開始とともに鳴り出す[39]。そして難民へのインタヴューと思われるヴォイスオーヴァーが重なる。様々な人の声が順番に、それぞれの境遇を語っている。
 そしてショットがかわり、トラックが運んできた古着に子供達が歓声をあげて群がるシーンが映される。ヴォイスオーヴァーと「アコーディオンの音楽」はカットをまたいで続く。はじめカメラは俯瞰で捉えていたが、徐々に水平の視点に移動する。すると画面奥に、子供らの様子を撮影するTVクルーが映る。子供らの歓声と通過する列車の騒音が聴こえている。
 次のショットは試写室に映された映像のショットである。一台の貨物車をロングショットで捉えた映像が暗室のスクリーンに映されている。その映像は入り口に座り込みタバコを吹かす「男」をズームアップしていく(図22)。「男」へのズームアップはここまでで3度反復されるということになる。ここにおいて「男」はアレクサンドロスにとって明確な取材対象であり、映画においては物語を動かす欲望の対象となる。
 このショットで鳴る音声(子供の歓声、通過する列車の音)は前のショットから繋がっている。しかしショットが移行する時に音にも一瞬の間があり、音質は明らかに試写室のスピーカーから鳴っていると思われる音質に変化している。そしてすぐ、同じくスピーカー音質で、先ほどと同じ「アコーディオンの音楽」が鳴る。男がタバコを吸い終え、貨物車の中に引っ込むと、映像は巻き戻され、再び貨物車のロングショットから再生される。試写室のスクリーンを画面中央で捉えていたカメラは、下方にティルトし、スクリーンを眺める白髪の男を捉える。その男とアレクサンドロスの会話から、何度も映像を再生し「男」の顔を確認していたことがわかる。
 この取材のシークエンスからTV局の試写室に至る4つのショットは、視点(主観/客観)や音声(イン/フレーム外/オフの音)[40]の問題を便宜的な分け方で分析すると、奇妙な事態になっている。まずカメラをまわそうとするTVクルー達を映す視点は、いわゆる誰の視点でもない、客観の視点とみなせる。その次のトラッキングショットは、前のショットとのつながりから、主観(TVクルー達)の視点とみなせる。しかし映される難民達は、物語の世界を離れ、ドキュメンタリー風に、現実に存在しているかのように佇む。またドリーによる滑らかな平行移動は、人の視点ではなく、カメラの存在を観客に印象づける。つまり虚構世界内のTVカメラによっておさめられた映像ともみなせる。
 しかし映像のタッチ(画質)は、完全にそれまでと同じであり映画のカメラで撮られた映像であると認識されるだろう。次の子供達のショットは、同一ショット内に撮影しているTVクルー達も捉えられることから、「TVカメラの映像」ではないことがはっきりと示される。そして逆に試写室のショットはスクリーン画像であることから、「TVカメラの映像」であることがわかる。貨物車のショットでは、TVカメラによって撮影された物語内の映像と映画のカメラによって撮影された映像が融合し、その境界が曖昧になっているが、試写室のシーンでは明確に区別されている。
 ここまでの区別は難しくはないが、音声について分析すると事態は複雑になる。まずトラッキングショットで鳴る「アコーディオンの音楽」は、フレーム内にはもちろん、フレーム外にもその音源があると判断できない事に加え、その音質からいわゆる「虚構世界外音楽」であると認識される。またこの音楽がショットを越えて、空間と時間を飛び越えて鳴り続けることも判断基準となる。    
 同じくショットをまたぐのが、貨物車のシーンで挿入される難民達の語りである。内容としては明らかに、TVクルー達が取材したものであるが、その場の空間にはないだろう音声(オフの音)が時空を飛び越えて鳴っている。トラッキングショットを「TVカメラの映像」であるとみなせば、ミキシングによって挿入された音声であると判断できる。しかし次の子供らのシーンもその延長で観ていると、その判断は裏切られ、ここでの音声はどこに帰属するのか曖昧なまま閉じられる。
 また物語内の環境音としての「子供の歓声と列車の騒音」も、一瞬の沈黙をはさむものの、音声的に繋がったままショットをまたぐ(物語の時間と空間は飛ぶが、音声は時間的に繋がっている)。またいだ先では「TVカメラの映像」からの音声(スピーカー音)となって聴こえる。なのにスクリーンに映されている映像は、前のショットでTVクルー達が撮影していたはずの子供達ではなく、全く違う「男」の映像である。さらについ先ほどまで虚構世界外音楽であった「アコーディオンの音楽」が虚構世界内音楽(スピーカー音)として鳴っている。
 このように音声の要素は、イン/フレーム外/オフの音と便宜的に分けた所で、その帰属はずらされ曖昧になっていることがわかる。ゆえにその音声が帰属するはずの映像も単に主観か客観、あるいは「TVカメラの映像」なのか曖昧になる。明確な視線の誘導があるにもかかわらず、観客がみている映像の視点は曖昧性を帯びている。この曖昧性というのは、アンゲロプロス映画における「映像の多義性と解釈の多様性」として収めて良い。
 「誰の視点」か、というと基本的にはアレクサンドロスのものである。そして彼が見つめるものとは、「国境」であり、「難民」であり「男」である。つまりこの映画の主題を象徴するものである。アレクサンドロスの視点から観客に主題が提示され、問題を提起するのだ。だがアレクサンドロスの視点(対象の捉え方)は一つではない。「TVカメラの映像」はそのヴァリエーションの一つである。TVカメラを回すのは彼自身ではないが、撮影時には同じ対象をみているはずである。このTVカメラを通した視点の他、カメラの運動によってワンカットで誘導される視点、そしてカットによって誘導される視点などがある。
 この視点の違いを端的に捉えたのが、3度反復される「男」へのズームアップである。1度目はワンカットによる視点で、最初どこに向かってズームしているのかわからない。この時「男」は「待合室」という現実の難民問題を象徴する街の一部である。そして2度目はカットによって誘導され、明確にアレクサンドロスの見つめる対象となる。この時、アレクサンドロスを映すショットには彼のヴォイスオーヴァーが挿入され、曇りがちな空への憂鬱感を吐露している。3度目は、その「男」が何者なのかがはっきりと問題にされており、アレクサンドロスの欲望(好奇心、仕事への意欲)の対象となっている。TVカメラによって媒介される視線は、虚構世界内における現実の問題、政治的な問題を見つめている。
 物語のはじめ、アレクサンドロスの視線は、取材対象としての現実の「国境」と「難民」の問題にあり、TVカメラの視点とほぼ一致している。そして「男」を見つめる目もそうであった。つまり「男」が失踪した「政治家」であるどうかをみていた。しかし「政治家」が失踪した原因を探り、難民の少女や「男」との交流を経ることで、その視線の先にあるものは同じでも、その視点(対象の捉え方)が変化していく。この視点の変化によって、「映像の多義性と解釈の多様性」をもった映像は、様々な主題を同時的に内包するようになる。

6-3 ホテルのパブのシーン
 難民の「少女」とアレクサンドロスの出会いが映されたこのシークエンスでも、音楽がショットをまたぐ。このシークエンスは、アレクサンドロスがホテルの部屋で寝ていた所を起こされ目覚める、というショットから始まる。その時どこか別の部屋、場所で鳴り響いているだろう音質、音量でロックミュージックが鳴っている。そして次のショットは、アレクサンドロスがホテルのパブへと入室してきたところから始まり、まさにその場で鳴っているだろう音で同じ曲が流れ、アレクサンドロスもその曲を口ずさみ、リズムに乗せて首を軽く振っている。つまり虚構世界内音楽であり、そのパブはアレクサンドロスが宿泊するホテルの一施設であることを観客は理解する。しかし一見(一聴)すると、編集によって切られた虚構世界内の空間(アレクサンドロスの移動の過程は映されず、ショットは唐突に変わる。)の連続性を担保するものであるこの音声にも少し奇妙な事態が起きている。
 アレクサンドロスのホテルの個室からパブまでの移動には、虚構世界内において、空間と時間の飛躍があるはずである。虚構世界内から発せられているとみなせる音声も、その音質、音量が変わることによって、空間の飛躍を演出している。しかしなぜか音楽そのものの時間は飛躍しておらず、メロディは個室からパブへとショットをまたいでも時間的に繋がっている。
 このパブでの虚構世界内音楽は、途中でロックミュージックから、ジャズ・バラードに切り替わるが、この音楽も、先ほどのロックミュージックと同じ要領で、アレクサンドロスと少女の移動に合わせてパブからホテルの階上へとショットをまたぐ。
 これらはたまたま曲の繰り返しの部分が重なって、繋がったように聴こえるだけで、音楽も時間を跳躍しているとみなせなくもない。ただそんな議論に意味はあまりない。音量がさがっただけであるにせよ、曲の繰り返しが重なっただけであるにせよ、編集によって意図的に創られたことには変わりないはずだ。ここではただ音楽が繋がって聴こえるということに意味がある。
 音楽が繋がることによって、突然の音量変化が強調される。それはショットの唐突な切り替わりと対応している。個室のショットでは、次のショットを促すような要素(例えば部屋の外へ向かって歩き出すなど。)は一切みられず、パブのショットへの切り替わりは、突然の音量増大とあいまって観客に衝撃を与える。これが次のショットを促すアクションがある場合、あるいは完全に映像も音も一瞬の断絶がある場合だと、観客は比較的違和感なく、その変化を受け入れるのではないだろうか。ここでの映像と音楽の繋ぎ方によって、物語の自然な流れを保ちつつ、このワンシーン・ワンショットのロングテイクであるパブのシーンの導入にある種の衝撃を与えていると考えられる。
 また映像の繋ぎ方は同じでも、音楽が違う部分で繋がった場合はどうだろう。ここで重要なのは、虚構世界内音楽(虚構世界内のパブの存在にいわゆる写実性を与える役割をもつと想定される音楽)であるこのシークエンスの音楽(ロックからジャズバラードへの変化)が、一般的には虚構世界外音楽が担うであろう「付加価値」の効果を持つということである。ゆえに音楽を滑らかに繋ぎその流れを維持しつつ、突然の音量の変化で衝撃をあたえることで観客の認識を、虚構世界内の音としてだけではなく、映画の音楽としての認識に向けている。
ここまで理屈で考えて編集したかどうかは解らない。しかし要は、映画の音響をただの音として知覚するだけではなく、音楽を感じることがこのシークエンスを観る上では重要なのであり、そのための自然な編集だと考えられる。そしてパブに入室してきてすぐのリズムに乗って首を降るアレクサンドロスの動作は、観客に音楽を感じることを促しているかの様である。
 パブに入ってきたアレクサンドロスは、音楽にのって首を振りながら、歩き回りTVクルーの仲間や国境警備の大佐と挨拶をかわし、やがて空いている席に座る。その時には音楽はロックからジャズに変わっている。パブの客は、その音楽の変化に合わせ、踊りを変え、男女一組で緩やかにステップを踏んでいる。席について暫く、前を見つめていたアレクサンドロスはやがて、隣のテーブルの席に座って自分を見つめ続ける少女に気がつく(図23)。
 この少女が、パブのシーンが始まった時からその席にいて、アレクサンドロスを見つめ続けていた事に、初見で気付く観客はほぼいないだろうが、その存在にはおそらくアレクサンドロスより先に気付くだろう。置物の様に姿勢を正し、静止したままアレクサンドロスを見つめる少女は、ある時点で周りとの雰囲気の違いから、物語の登場人物として観客に認識される様になる。そして気付いたアレクサンドロスは、その少女と見つめ合い、やがて席をたち、入り口(出口)付近まで歩き、そして着席したまま自分を見つめ続ける少女に再び視線を返す。少女も立ち上がり、アレクサンドロスのもとに歩いてきて、見つめ合う。そしてショットがかわり、2人は階上に移動したことが、音楽の遠ざかりからわかる。さらにショットがかわり、音楽は消え、暗闇の中でおそるおそる少女の髪に手を伸ばす、短いシーンが映る。ここで2人の出会いから情事までのシークエンスが終わる。
 若菜が指摘するように、少女の動きはパントマイムのようで、アンゲロプロス的な情感に乏しい演技である[41]。また2人が恋に落ちるという物語的な必然性も乏しい。しかしこのシークエンスは、物語としては説明的ではないかもしれないが、静止して見つめ合う2人とカメラの間には、パブの客がひしめき合って踊っており、映画全体の中でも密度の高いシーンとなっている。
 客はジャズ・バラードの官能的な雰囲気を感じて、感傷的な表情で踊っている。TVクルー達も映っており、まるで全員がその場限りの恋におちているかのようである。そしてカメラから観て、踊る客達の奥にいる2人はみえたり、隠れたりする(図24、25)。これら画面上の動きは、音楽に同調しているので、リズムが感じられる。ゆえに片方だけが映ったり、もう一方が映ったりする動きによって2人の視線の交換が成立しているといえよう。すべてが完璧に規則正しく行われるわけではないが、観客の視線は映っている方に自然と誘導されるし、規則的ではないからこそ、官能的な情動、2人の心の揺らぎが感じられる。
 つまりこのシーンでは音楽(ロックからバラード)がもたらす「付加価値」によって2人の感情の高まりは表現されている。しかしここでの音楽はただ映画を伴奏しているわけではない。もちろん楽曲そのものがもっている感性は、「官能的」という感想の基本となるものであるが、それがただ映画に添えられているだけではない。ここでの音楽は、シーン全体を駆動する要素となっている。
 まず最初のショットの切り替わり前後で、この音楽が虚構世界内音楽であることが決定される(音量の変化、音に合わせ首を振るアレクサンドロス)。だから登場人物達が、音楽を感じて動いているのは当然である。しかし同時に、この切り替わりよって、映画の観客も登場人物達と同じ様に音楽を感じることができる(時間的に繋がる音楽、唐突な音量変化、首の振り)。
 そしてパブの喧騒(ロック・ミュージック)から、恋愛の情緒漂う雰囲気(ジャズ・バラード)へとかわり、音楽と映像が一体となって2人の出会いを盛り上げている。2人が階上に移動すると音楽は遠ざかり、さらに2人が触れ合うショットでは音楽は止み、息づかいだけがかすかに聴こえる。ちょうどシークエンスの終わりに向かってデクレッシェンドが成立していて、最後は2人の間にあるものだけになる。ここでの音楽は登場人物達の動きの源でもあり、彼ら彼女らの心の動きでもあり、そしてそれらを一体化して、観客の心も動かすものである。
 このバラードのメロディは冒頭のテーマ音楽と同じである。この難民の「少女」とアレクサンドロスの出会いと情事のシークエンスは、この映画において主題的な意味をもっており、この音楽、このシーンで表現されているものが映画の主題の一つであるとみなせる。それはあえて言葉にするなら「愛」ということになるだろう。物語の登場人物としてのアレクサンドロスと少女の個人的な思いである。

6-4 少女との再会、難民の諍い、黄色のレインコート
 アレクサンドロスはこの少女を再び街でみかけ、後を追う。とあるカフェに友人とおぼしき女性らと壁際の鏡の前にある席につく少女。カメラは徐々にその鏡へと向かっていく。そして追って店に入ってくるアレクサンドロスを少女は鏡越しにみつける。2人が見つめ合う様子は鏡を通してみられる。『旅芸人の記録』でも観られた鏡のショットである。切り返しを用いないロングテイクのなかで、鏡を利用することで経済的に2人のやりとりを写し取る。ここでの少女の反応は微かではあるが、それ故に先ほどのパントマイムのような動きとは違い、生きた人物(それでも鏡越しだが)としてみえる。
 その後、2人の視線を遮るように入ってきた人物を追ってカメラは、右へパンする。しかしその人物達は店外にでていき、カメラが止まったところには、アレクサンドロスが映るものの、中心にいるのは3人のクルド人である。やがて彼らのうち2人が諍いをはじめ、店内は騒然とする。集まったクルド人たちが一斉に店外へ出ていき、少女達もそれに続いて出ていく。そして空いたドアの向こうに、黄色のレインコートの男がみえる。この黄色のレインコートの男にはこれまで同様、物語的な意味はない。それは視覚的なアクセントの役割をはたしている[42]
 だが別のシーンでは、大佐の言葉によって電柱を登る黄色のレインコートの男に明確な意味が与えられる。彼らは難民であり、戸籍もなしに過酷で危険な電線を張り替える仕事に従事している。アレクサンドロスが少女を追って難民のアパートへの彼女の部屋へたどり着くと、そこへ「男」が仕事を終えて帰ってくる。「男」もこの「黄色の男」のひとりであり、少女の父であることがここで判明する。そして「男」はアレクサンドロスに投げかける、「家につくまでに、何度国境を越えることか」と。
 このシークエンスでは、「内面の国境」という主題が提示される。難民同士の諍いは、人々の間にある視覚化できない国境の問題である。諍いの原因は、「裏切り者」とののしりあうだけで、はっきりとわからない。おそらくここには、民族、宗教、人種からくる個人間の対立など全てが象徴されているのだろう。
 これに対し大佐が黄色の男について語るシーンで見られる電柱を上るという上昇運動は、「難民」(縦、越えようとするもの)の象徴であり、それは内面の国境においてもそうである[43]。ホテルの窓から電柱の男を映すショットに対して、アレクサンドロスの視線による導入がある(図26)。
 次のシーンでは、諍いを起こしたクルド人の男の一方が、線路の上でクレーンによって高く吊られた状態で死体となって発見される。このシーンはワンショット=ワンシーンである。カメラは始め、come-and-go pattern でアレクサンドロスを捉える。左へ180度旋回したところで、カメラは死体を見上げ、それが降ろされるのを追うという上昇と下降の垂直方向の運動を見せる。遺族と思われる人々が泣き叫びながら降ろされた死体を囲む。  そしてカメラは水平線方向に線路の奥行きを捉えると、アレクサンドロスはその方向へと歩いていき、やがて列車が到着する。車両の中を覗いてまわり、誰かを探している様子のアレクサンドロス。やがてカメラはアレクサンドロスを追って、前進と左への90度パンを交え、車両の中を捉える。そこには政治家の夫人が乗っており、2人は車両の反対側から降りる。その後左に90度パンし、さらにカメラは上昇する。そして列車は出発し、死体を囲む遺族たちを俯瞰気味に捉えたままシーンは終わる。
 この垂直と奥行きの運動を交えた変形の360度パンは、まさにアンゲロプロスらしいカメラの運動と物語の叙述がみられる。まずこの上昇運動の先に吊られた男がいるということは、大佐が「別の国境でがんじがらめになっている。」というように、「内面の国境」を超えることの困難性を示す。さら垂直とは別の軸である奥行きの運動(列車)にのってやってくる夫人にとって、「男」が失踪した夫(政治家)であるかどうか、あるいは夫と自分との「内面の国境」が重要なのであって、この事件は「騒がしい」という程度である。この差異が同一空間でありながら、空間軸の違う運動で示され、アレクサンドロスはその間を行き来する。

6-5 「男」と夫人の対面
 そしてアレクサンドロスの手引きによって「待合室」での早朝、夫人は「男」と対面を果す。ここもワンショット=ワンシーンであり、カメラは基本的に夫人の動きを追う。だが夫人がいざ「男」と対面する時、カメラは止めてあるTV器材車へと滑らかに入り込み、フロントガラス越しにロングショットで2人を捉える。そして2人が対峙した時、カメラは下方にスライドし、車内のTVモニターを映す。そこには同じくにロングショットで2人を捉えた映像があり、その映像は夫人へとズームアップしていく。夫人をバストショットで捉えると、彼女はカメラ目線で、「違う、彼じゃない」とつぶやく(図27)。
 このTVモニター越しの夫人のバストショットは、映画の前半部において、夫の失踪の経緯を語り終え「こんなこと無意味。死んだのよ。」とつぶやく姿にも用いられている。同じくカメラは滑らかに車内に入り、そしてモニターを捉え、TVカメラは夫人の顔を映す。アンゲロプロスはこの2つのシーンにおいて、夫人の表情が必要であると考えた。しかしそれは、自分らしくないことも自覚しており、そのために TVカメラというものを導入した[44]。脱劇化の効果もあり、またショットの内的リズムを自然に保っている。
 ここでTVカメラの視点が問題にしているのは、「男」と政治家が同一人物であるかどうかだが、この映画では結局、それは明らかにされない。2人の個人的な関係、そして物語上のミステリーという意味での答えなら、「男」と政治家は同一人物であると解釈できる。夫人が語る失踪の経緯から考えられるのは、人生を共にするパートナーとしてもはや相互理解が不可能になったということである。ここにも「内面の国境」がある。
 とはいえTVカメラの映像から答えはわからない。むろん映画の観客が判断できないのは「TVモニター越し」という演出自体によるものだが、現実で考えても、このモニターはカメラが捉えている対象を映しているにすぎない。アレクサンドロスは後のシーンで「僕が知っているのは、心を無視して撮るだけ」と自己批判的につぶやく。このTVカメラの視点というものは正にそう解釈できる。
 「男」や少女と出会うことで、現実の難民や国境の問題から「内面の国境」の問題へと踏み込んでいくアレクサンドロスにとって、TVの視点は物足りないものになっていく。一方で映画の観客にとっては、TVの視点によって得られるものも重要であり、アンゲロプロスが表現したいことの一つであろう。これらは表裏一体の問題であり、切り離して考えるものではなく、一つの問題として表現されるべきである。映画にはそれができるという、アンゲロプロスの自負がこの作品にはある[45]
 対面シーンの次のシーンで、アレクサンドロスは政治家失踪を扱った過去の番組をみる。ここでは先ほどの様にモニターというフレーム内フレームは使われない。モニタとデッキ側を映していたカメラは、彼がヴィデオをセットするとパンし、暗闇の中、モニターに青白く照らされるアレクサンドロスを映す。するとカットがかわり、映画の映像はTVの映像と同じになる。ここにも視線に誘導されるカットの切り替わりがある。
 この映像内の政治家は、議会で「時には雨音の背後に音楽を聴くために人は沈黙します」とだけ語り、失踪する。またアレクサンドロスが読んだ著書「世紀末の憂鬱」の末尾には、「どんなキーワードなら、新しい共同体の夢を現実とすることができるか」と書いている。この著書の言葉からは理想の政治、共同体のあり方を問うている(つまり現状を憂いている)ことがわかる。この言葉を考慮すると、失踪直前での言葉は、その夢が破れた、政治の限界を悟ったと解釈できよう。といっても映像からハッキリと解る訳でもなく、これは政治家を止める理由ではあっても、失踪に至る内的な経過を説明しているわけではない。
 ただ大事なのは「何故失踪したか」ではなく、「政治家の失踪が何を象徴しているか」である。つまりこの失踪した政治家は、理想の政治と個人のあり方を模索し彷徨う世界を象徴しいると考えられるだろう。この見方はアンゲロプロス映画の観客なら当たり前かもしれないが、この時、モニターを見つめるアレクサンドロスの視点も「何故失踪したか」にはもはやない。
 この時、「男」と政治家は、理想郷を求め旅するという点で一致する。「男」の「家につくまでに、何度国境を越えることか。」という言葉は、現実の難民がおかれた状況だけでなく、内面の国境のことも含んでいる。また政治家の言葉も、現実の政治だけを問題にしているのではなく、個人のあり方を問うている。つまり政治家もまた内なる「難民」である。この2人が視覚的に同一人物であること(図28、29)で、「現実」と「内面」における「国境」と「難民」の問題が表裏一体であることが表現される。

6-6 河辺の結婚式
 ここまでみてきたように、アレクサンドロスという個人の明確な視点を出発点にしながらも、彼の内面の変化にあわせた様々な視点を導入している。しかし「映像の多義性と解釈の多様性」のため、そこから「何を」みるかは観客次第である。その中で、観客にはいくつもの主題が様々な演出、台詞で提示される。それらの視覚的統一性(「男」と政治家、縦と横)によって、主題はそれぞれ独立したものではなく、互いに関係するものであることが表現される。こうして観客が観る映像上では、様々な主題が融合していく。最も一つとなって表現されるのが、映画終盤の国境をはさんでの結婚式のシークエンスである。
 このシークエンスは全部で9つのショットからなる。国境によって分断された村の人々が、河をはさんで年に一度対面する。そこでギリシャ側の少女とアルバニア側の幼馴染みの青年との結婚式がとり行われる。その集会は巡回する国境警備隊に隠れて行われ、そして警備隊が放ったと思われる銃声によって中断させられる。物語的には国境によって分断された人々の状況をしめすエピソードである。だがここにはこれまで提示されてきた主題が、一連のショットの中に表現されている。
 最初のショットでは、まずカメラは右へとパンしていき、同じ方向(アルバニア側)をみつめる村人たちを捉えていく(図30)。そしてそのままカメラは土手を越え、広い河原から、国境の河、そして警備隊のジープが走る対岸を映す。ジープが左から右へ走り去りフレームアウトすると、まず対岸から大勢の人々が姿を現し、そしてすぐに手前からも人々が出てくる。村人たちは河岸にならび、互いに手をふりあっている(図31)。そして「男」と婚礼衣装の少女がそこに交わる。ここでショットが変わる。
 2番目のショットでは、ギリシャ側の村人がいる場とおもわれるカメラ位置から対岸が捉えられる。カメラはゆっくりとズームアップしていき、やがて向こう岸に並ぶ人々の真ん中が割れ、花婿が登場する(図32)。
 そして3番目のショットに変わり、自転車にのった神父がやってくる。ここでのカメラ位置はギリシャ側にあると思われる。神父は到着すると、そのまますぐに、花婿もその場にいるかの如く婚礼の儀式がすすめていく(図33)。ここから約2分間、カメラは固定され婚礼の儀式を捉える。一通りの儀式を終えて礼をすると、ショットが変わる。
 4番目のショットは図32とほぼ同じカメラ位置、同じ構図で対岸が捉えられ、今度は花婿一人で婚礼の舞いを披露する。そして彼が花束を河に投げると、ショットが変わる。
 5番目のショットでは、ギリシャ側の村人たちを横から斜めの構図で捉える(図34)。画面奥には、帰って行く神父の後ろ姿がある。花嫁が水際まで歩き出し、カメラはパンで追う。花嫁は、花束の返礼として冠を河に投げる。
 6番目のショットでは、図31とほぼ同じカメラ位置から、2つの集団が前景(花嫁側)と後景(花婿側)に捉えられる。そして銃声が鳴ると両岸の人々は逃げ出し、だれもいなくなった対岸を再びジープが、今度は右から左へと走り去っていく。ジープがフレームアウトすると、今度は花嫁と花婿だけが姿を現し、お互いに向かって手をかざす。
 7番目のショットは、土手際にたつアレクサンドロスたちが映る。儀式を一通りTVカメラに収め、早々に撤収する仲間たちに対し、アレクサンドロスは国境の方向を見つめ続ける(図35)。
 そして8番目のショットでは、前景(花嫁側)と後景(花婿側)のショットに戻される。2人は別れ、花嫁は手前に走ってくる。そして土手の向こうで待っていた父、「男」に泣きながら抱きつく。そして「アコーディオンの音楽」が鳴ると2人は左方向に林を抜けたところで待つ村人たちのもとへ歩いていく。この8番目のショットのカメラの運動は完全に1番目のショットの運動と逆である。
 最後の9番目のショットでは、トラックに乗り合わせ、帰路につく村人たちが映される。「アコーディオンの音楽」は鳴りつづけるが、村人のアコーディオン弾きがひく音楽は、この音楽ではないようである。村人たちの手拍子の音が聴こえるが、リズムが「アコーディオンの音楽」とは全く違うものだからだ。ここでの「アコーディオンの音楽」は、虚構世界外音楽とみなせる。
 以上がこのシーンの流れである。まずこのシークエンスにおける主題性をおびた具体的な表象を確認してみよう。表現の中心となるのは当然、「河」である。これは国境の象徴どころではなく、正に国境そのものである。この「河」は現実に村人の間に横たわるが、実際彼らを隔てるのは、左右に行き交うジープが象徴する、人間であり、権力(政治、社会)である。そして相手が不在の婚礼の儀式は、それらによって分け隔てられた難民の象徴であり、それを越えようとする意志の現れでもある。またロングショットではあるが、再会を喜ぶような彼らの振る舞い、そして向こう岸の夫となった男性に別れの挨拶をすませ、父に泣きつく少女の姿には「愛」がある。
 これらの主題を見つめる視点だが、カメラ位置は大きく分けて3つあるが、決して河は越えないところに「国境」の存在を感じさせる。2番目、3番目のカメラの位置の時、両岸のやりとりはワンカットでは映されない。カメラ位置は明らかにギリシャ側にあるのに、向こう岸を映す時、パンするのではなく、かならずカットがはさまれる。このカットそのものが、「国境」による断絶を象徴しているといえるだろう。
 そして7番目のショットにおけるアレクサンドロスたちは、何をみているのだろうか。TVカメラは当然、集会を撮影していたのだろう。また直前のショットから判断すれば、アレクサンドロスがみているのは少女である。物理的に隔てられた夫婦を同情的にみているのかもしれない。またそうでありながらも心を繋げることで物理的国境を越えようとする2人の姿から、自分と少女との間に「内面の国境」を感じ、複雑な思いでみているかもしれない。
 しかしこのショットは、はっきりとは示さない。なぜならこれまでと違い、アレクサンドロスが何をみているのかを明らかにする様なショットがないからだ。これまで主題的解釈できるようなショットの多くは、(それがワンカットであれ、カットであれ)アレクサンドロスの視線によって導入された。しかしこのシークエンスにはそれがない。
だが逆にいうと、再びアレクサンドロスのショットが映されることで、視線が返されるということはこれまでのシーンではなかった。それゆえに「映像の多義性と解釈の多様性」が保たれていた訳であるが、このシークエンスではみている(であろう)対象が先に映される。だからこの7番目のショットは、直近のショットだけでなく、今までの視点をすべて引き受けるものとも解釈できる。
 ここにおいて、いままでの主題が一つのシークエンスで表現されうる。TVカメラが見つめる河とそこで執り行われる結婚式は、現実の国境と難民の問題である。そしてアレクサンドロスの視点からは、少女と愛と相互理解の不可能性という「内面の国境」が映る。アレクサンドロスは、TVレポーターとしての使命に迷い、愛にも迷う、「男」と同じ「内なる難民」である。さらに「男」へのまなざしは、現実/内面における「国境」と「難民」の問題が表裏一体であることを映す。なんども挿入されるカットや、河を越えることのない視点は、これら「国境」の隔たりを強調する。
 このシークエンスは約15分の長さに対し9つのショットがある。ショットの長さを単純に時間平均で考える以前に、そもそも1つのシークエンスで9つショットがあるというのは、アンゲロプロス映画の中では特殊と感じるかもしれない。雄大なロングショットが多用されているものの、ここには本稿で取り上げたような特殊な演出はない。これまでの作品で多くみせてきた群衆の舞踊的、演劇的な動きも、ここでは結婚式の儀式上の動きとして自然にみえてしまう。そう、このシークエンスは実に自然で普通に撮られている。
 とはいえこれらショット群は、婚礼儀式のやり取りをはさんで、対称的な構造をなしており、シークエンス全体に統一感を与えている。それぞれのショットも、シークエンス全体も静かに響き渡る河音と鳥の鳴き声とともに自然に呼吸し、映画の時間はゆるやかに流れている。観客はこのゆるやかな時間に身を委ねつつ、そこから人類が抱える様々な問題の表出をみることができるだろう。

6-7 ラストシークエンス
 本作品は、<国境=隔てるもの=横の動き>と<難民=越えようとするもの=縦>という表象を中心に様々な主題が提示される。それらはアレクサンドロスやTVカメラの視線によって導入される。しかしアレクサンドロスの視点は一定ではない。それは当初はTVカメラの視点を一致していたが、「男」と少女との出会いから、徐々に変化していった。その視線の先に見えてくるものは、「内面の国境」であり、「内なる難民」である。しかしその心理的経過は、詳細に示されることはない。なぜならば、彼の視線が切り返されることがないからだ。
 いくつもの主題に投げかけられた視線は、「河辺の結婚式」のシークエンスにおいて回収される。このことによってこれまでの主題すべてが映像上で融合を果す。観客は雄大なロングショットと静寂という音響音楽によってそれらを見つめ、考える時間が与えられる。
 また本作品にはカットが効果的に使用される。本来のアンゲロプロス映画のリズムでは、用いないだろうタイミングでのカットは、様々な「国境」による断絶を強調する。
 ラストシークエンスでもカットが一つはいるが、いわゆる普通のカッティングであり、しゃがんでいるアレクサンドロスの背面のショットから正面のショットへと繋がれる。つまり一見すると時間も空間も飛躍していないようにみえる編集がなされている。しかし一つ目のショットでは、なかった電柱が、ラストショットには登場する。
 整合性が取れていないことを問題にしたいわけではない。ただ重要なのは、それだけ意図をもって挿入されたということだ。このラストショットにおける抽象的、絵画的な表現は、大抵、祈りや希望を表現していると捉えられる。黄色の男の上昇運動は「越えようとするもの」の象徴である(図36)。
 ここで本稿の流れから指摘できるとするならば、それはやはり視点の問題である。このカメラの位置は、初めて「向こう側」にある。厳密には、河の上であり、越えていないかもしれないが、「こちら側」を正面から捉えたショットとしてはもっとも遠い。ここでのカメラの運動は、エンドロールが入るまで停止することはない。「越えようとする」動きの中で、本作品は幕を閉じるのだ。
 アンゲロプロス自身はこういった見方を、楽観的であると、自ら評している。しかしラストショットへのカットはやはり断絶の強さを強調し、決して現実を軽んじているようには見えない。ただ「国境」を越えようとするもの達への祈りを感じさせるラストショットである。

7、まとめ
 本稿では、まずアンゲロプロス映画における時間感覚の基本となる「歩み」について考察した。この「歩み」は人物の動きだけでなく、それを含んだ風景全体と、それらを捉えるカメラの運動すべてを指す。映画のほとんどを覆う曇天の風景と足取り重い人物の動き、そしてそれらを切れ目なく捉えるカメラの運動は、それら全体で「旅」というものの形象化である。「旅」はアンゲロプロス映画のもっとも基本となる主題であり、ゆえに「歩み」はすべての基本となるといっても過言ではない。人物を捉えていない時でも、カメラの運動は、「歩み」の速さを明らかに越えることはない。この速さが映画の早さとなる。
 そして次に、カメラの運動とフレーム内の運動が停止するというロングテイクのヴァリエーションの一つとして、 Temps mort(死の時間)を分析した。運動がないことで、ショットの持続や、時間的な展開に対する予測が不可能となり、それが緊張感や不安感の様な感覚を観客に与える。この感覚が、表現の一つとなる。またTemps mortの中にも、ヴァリエーションがあり、多様な表現の可能性があることがわかった。
 またアンゲロプロス映画では音楽も無視できない要素である。その使用法の変化は誰もが指摘するところであり、それは映画の主要主題、作風の変化に伴うものである。しかし映画における音響の一要素として分析した時、何かが決定的に変化したわけではない。重要なのは映像と音響の調和であり、その点に関しても、アンゲロプロスは様々な技法を駆使してきた。
 こういった様々な技法が結集されたアンゲロプロス映画では、時間と空間がワンショットの中で切れ目なしに飛躍する。『旅芸人の記録』では、歴史を提示するための表現だったが、それを発展させ、『狩人』や『ユリシーズの瞳』では、見事な幻想世界を構築している。そこでは現在と過去、現実と幻想、個人の記憶と集団の記憶がワンショットの中で融合する。そこから生まれる想像力は人類が抱える様々な問題を観客に提示する。
 提示された主題が一つの映像上で融合を果す『こうのとり、たちずさんで』は、歴史を扱はないが、このような映画的想像力において、もっとも完成された作品の一つである。本作品は、絶望的な現実を表現するだけではなく、かといって個人の実存的な問題だけをみているわけでもない。
 アンゲロプロスは自身の体験、記憶から出発し、映画製作をはじめているという。そしてできた映画を、観客はそれぞれの体験、記憶へと還元しながら観る。理想なき時代に新たな理想を探す旅をするか、個人のあり方に希望をみるかは観客次第である。

 


[1]Bordwell, David. pp. 140-185.

[2]ボードウェルは、アンゲロプロス以前のロングテイクの系譜を論じる上で、1930年代の溝口健二、1940年代のオーソン・ウェルズ(Orson Welles)、1950年代後半のミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)を議論の中心にすえている。アンゲロプロス自身も、ルグレ『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』219頁 において、この3名を、影響を受けた人物として挙げている。

[3]若菜『アンゲロプロスの瞳 ー歴史の叫び、映像の囁きー』、55頁、113頁。若菜はクリスチャン・メッツ(Christian Metz)の「空間的時間的連続性の再現」、アンドレ・バザン(André Bazin)の「複数の行為の同時的共存」を例に挙げ、「長回し」のショットにおける美学的な意図を説明している。画面奥と手前の「複数の行為の同時的共存」の例として、ウェルズのパン・フォーカスによる強調、あるいはウィリアム・ワイラー(William Wyler)のソフト・フォーカスによる暗示的処理を、そして「横」の例としてジャン・ルノワール(Jean Renoir)の「横軸での再フレーミング化」を挙げている。そして「いずれにしろ、複数の事物や人間の同時性と時間の持続性が強く表現できる。」と述べている。
 被写体をどう撮るかの最終決定権は監督にあるが、上記のような性質から、映像上(あるいは画面外も含む)のどの要素を中心として意味を見出すのか、観客の判断を全面的に拘束することできない。ゆえに「長回し」中心による映画は、本質的に多義的であるとまとめている。
 若菜は、アンゲロプロスの『旅芸人の記録』(1975)とルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)の『揺れる大地』(1948)の類似性を、「主題的にも技法的にも極めて深い血縁関係にあるといってよい」と表現している。そして映像話法上の共通点の一つとして、「映像の多義性と解釈の多様性」を挙げている。

[4]ルグレ、30頁。ルグレはアンゲロプロスの『再現』(1970)の物語構造(事件の)がジェイムズ・M・ケイン(James M. Cain)の犯罪小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1934)と類似していることを挙げ、ヴィスコンティによる映画化作品(1942)と比較している。「妻が愛人と共謀して夫を殺す」という事件を描写するにおいて、ヴィスコンティは殺人に至るまでの心理描写、「心理学的真実」を求め、アンゲロプロスは事件が起きた背景にある「ひとつの社会的真実を示す」。ヴィスコンティ版は、物語は主観的に語られ、作品の中で事件の全てさらしてしまっている。それに対し、アンゲロプロスは、犯行の瞬間を映さず、明確な動機も語られない。これによって客観性を創出している。

[5]同上、31頁

[6]同上、40頁 ルグレは Reisz/Millar: The Technique of Film Editing, Focal Press London/New York 1968. から「キャメラの頻繁な動きを、含む、長くて、通常、様相の複雑なショットである。そしてその流れのなかで、カットなしに、ワン・シーンが一気に撮られる」という、ワンショット=ワンシークエンスの定義を引用している。そして「内的モンタージュ」によって構造化されるとは、「すなわち、キャメラが移動したりパンしたり、とにかく動くことで、一連のシーンの異なる構成要素を接続していき、全体を形成していかなければならない。」としている。つまり若菜が述べる再フレーミング化(同一のカットを続けながら、画面構成を変化させ、被写体への視点を変えたり、新しい被写体を捉えること)によって「内的にモンタージュ」されていくと解釈できる。

[7]若菜は、いわゆる古典的ハリウッド映画のようにカットを多用する映画と、アンゲロプロス映画のように長回しを多用する映画の比較に際し、「モンタージュの映画」と「非モンタージュの映画」という2項対立を用いている。「モンタージュの映画」では、現実の時間的空間的連続性を、多様な視点から撮られた、複数のショットの連鎖へと分解する。そこでは映像の意味は2つのショットの相互作用から生じ、それぞれの画面に「一義的明確さ」を与えることをめざしている。そしてバザンを引用し、「複数の事物や人間の同時性と時間の持続性」を表現するためにはモンタージュは禁止されると述べる。ゆえに「非モンタージュの映画」という表現を用いていると考えられる。
 そしてジョルジュ・サドゥール(Georges Sadoul)を引用し、「モンタージュの映画」では映像のリズムは主にショットの交替による「外的なリズム」によって生まれ、対し「非モンタージュの映画」では、一つの画面における被写体の動きの変化という「内的なリズム」からもたらされるとしている。

[8]アンゲロプロスへのインタビューは多く存在し、ボードウェルは、「多くの批評家が羨むほど的確に自作を表現できる」(p. 145)と述べている。ルグレのインタビューに対し、「われわれは共同体も希望も世界も、政治を通して理解し、政治を通して描いてきました。今日、人々は個人と共同体の関係から、世界をみようとします。共同体ではなく、個人のほうに接近しているのです。」(212頁)と述べている。

[9]『霧の中の風景』では過去の作品の登場人物が、全く同じ役者によって演じられ登場する。その過去作品を想起させるような形で登場するが、主人公である姉弟はそれを眺めているだけである。

[10]DVD『エレニの旅』解説リーフレット、13頁。

[11]アンゲロプロスの音楽について、『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』(68-76頁) では触れられている。エレニ・カラインドルゥとアンゲロプロスの共同作業は、まずアンゲロプロスが物語の原案を見せる。その段階でカラインドルゥはピアノで素描的な小品をつくる。それを聴いてアンゲロプロスは、さらにどのような音楽がいいかをカラインドルゥと話し合う。こういったコミュニケーションの繰り返しで、最後に映画に合うように編曲する。2人のやりとりの詳細は作品によってかわるが、ただ映像に音楽をつけるのではなく、映画の発想段階から始まっていることがわかる。

[12]Bordwell, pp. 177-179.

[13]ボードウェルは、遠近法的な斜めの構図と平面的な構図がロングテイクの中で組み合わされると分析している。

[14]ルグレはミクローシュ・ヤンチョ―(Miklós Jancsó)を、初期の作品ではアンゲロプロスと同じような手法で成功を収めたながら、みるみるうちにマニエリスム的な遊戯にはまり、カメラの動きが自己目的化し、堕落してしまったと評している。そして「カメラが前面にでてくると、カメラの働きが叙述を覆い隠してしまうことがある。アンゲロプロスは彼らと異なり、カメラと叙述のこうした関係について、どうすればこれを維持したり、断ち切ったりすることができるのか、心得ていた。」と述べている。(44頁)
 またアンゲロプロス自身もインタビュー(DVD『アレクサンダー大王』解説リーフレット、10頁。)において、ヤンチョーからの影響を否定している。「私がシークエンス・ショットを使うのは、内部に弁証法的な対位法を含む、一つの完結したシーンを創り出すためです。」と述べ、「ヤンチョーの作品では、長回しのショットはあっても、完結したシーンには至らない」としている。

[15]ルグレ、45-48頁

[16]ルグレによれば、ロングテイクの間、カメラの移動や、人や物のフレーム内外の往来によって、空間は拡張され「視覚には入ってこないものを知覚する時間と空間を観客に提供する」(31頁)からだ。またルグレは「フレーム外の空間」とはいわず「オフの空間」「オフ・スクリーン」という言葉を使っている。ロングテイクの議論においては、ほぼ同じ意味であり、どちらでも特に問題ないかもしれない。しかし本稿では後に、音声の分析において、ミシェル・シオンが使用する「イン(in)/オフ(off)」という概念を引用する。この場合は意味が変わってくるので、混同を避けるため、ここでは「フレーム内/フレーム外」という言葉を使用する。

[17]ボードウェルは、脱劇化の代表的な方法として2つあるとしている。(pp. 152-153)一つはもっとも感情が高まった状況で、表現豊かに演じず、抑制するか、遠回しな表現を用いること。そしてもう一つは、無駄に思われる様な時間を組み込むことである。この2つ目の例として、ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini)の『イタリア旅行』(1953)におけるTemps mort を挙げている。ただこの場合は、運動の「停止」というよりは、物語の「停止」であろう。

[18]『フォルミンクス物語』はポップ・ミュージックのグループ「フォルミンクス」の姿を描く音楽喜劇になる予定だった。しかしアンゲロプロスは製作者との意見の相違から解雇され、彼の助手たちによって製作が続けられたが、未公開のまま終わっている。また『放送』は、マスメディアを風刺した短編映画で、映画はラジオ局での音楽番組の製作風景からはじまる。

[19]ルグレ、70頁

[20]同上、70頁

[21]同上、70頁

[22]同上、70-72頁

[23]スクリーン内音楽というと、その反対はスクリーン外音楽とみなせてしまう。そうすると画面上にはないが物語の世界の中に存在する音、つまり「スクリーン外の空間」で鳴る音を含んでしまうので紛らわしい。観客が「スクリーン外の空間でなる音」と判断する場合の一つに、画面上の人物が明らかにその音を知覚していることが示唆される、という場合が考えられる。本稿では便宜上、スクリーン内音楽ではなく、「虚構世界内音楽」という表現をこれ以降使用する。

[24]シオンは、『映画の音楽』(167頁)において「ある音楽をオーケストラ・ピットの音楽として認識させるのは、しばしばその音の鳴り方である。それははっきりとした形でその場に存在し、前面に現れている。また演奏の偶然性や楽器の不完全性を露にするような欠陥を持たず、騒音という要素を支配しいており、声、対話、あるいは語り以外のものに覆われることがない。」と述べている。
 この音の鳴り方というのは、何処から鳴っているかも重要だが、何処で聴いているのか(聴取点)も重要である。画面上の演奏者が明らかに遠くにいるというのに、隣で鳴らされているかのような音響だったとすると、それが果たして「虚構世界内音楽」であるか「オーケストラ・ピットの音楽」であるかは曖昧である。結局判断するのは聴=観客であり、映画の音響の議論は、観客がどう認識するかが問題となる。
 ただ観客がどちらかの音楽と判断を下したとしても、それが映画上の視覚的な要素と完璧に一致しているとは限らない。確かな目的のため意図的にずらされることもある。「ずれている」と気づかなくとも、効果を発揮する場合もある。いずれにせよ最終的には、その映画(映像と音響)をどのように感じるかの問題であろう。ただアンゲロプロス映画の音響を考える上で、「鳴り方」は重要な要素の一つであり、本稿でも後に分析する。
 本稿ではこれ以降、「オーケストラ・ピットの音楽」ではなく、「虚構世界内音楽」の対概念として解り易いように「虚構世界外音楽」という表現をもちいることにする。

[25]ルグレ、72頁。ここでルグレの言う「いわゆる本来の意味での映画音楽」の意味は、「虚構世界外音楽」であり、映画にあわせて作曲された音楽のことをさしていると考えられるが、はっきりとは定義されていない。映画のために作曲された音楽の使用という意味では、『アレクサンダー大王』が最初であり、この記述は間違いとなる。『アレクサンダー大王』はクリストドゥロス・ハラリス(Christodoulos Halaris)というビザンティン音楽を専門とする音楽学者が担当している。

[26] シオン『映画の音楽』177-178頁。シオンはこれら3つの知覚領域は、映画の構造というレヴェルにおいて明らかに区別可能(知覚の不連続体)であるが、完全に分離しているわけではないと述べる。「環境音」は訳書では「騒音」と表記されている。
 「因果的ないし逸話的聴取」というのは、「スクリーン内」に認められる事象から発生する音と理解できる。原書ではどういう言葉で書かれているのかは調べていないが、この場合は環境音という言葉の方がふさわしいと考えられる。
 音楽や言語は他者が発する環境音として認識されることもあれば、環境音や言語を音楽的に聞き取ることもできうる。それゆえに音響としては1つの連続体を形成しうると、シオンは考えている。

[27]DVD『霧の中の風景』解説リーフレット、10頁。

[28]シオン『映画の音楽』、181頁、183-184頁、シオンは「音楽は映画を象徴化し、独自の世界を要約した形で表現する」という。また「付加価値とは、音響要素によって生じた情報、感情、雰囲気のもたらすものを、観客(実際には聴=観客である)が自発的に、まるでそれらがそこから自然に生じているかのように、みているものに投影してしまうような効果をいう」と述べる。この効果は、当然、音楽によってもたらされることが多い。
 しかし音楽が、あるいは映像が、とどちらかが一方的に意味を与えるわけではない。同じ音楽でも、異なる映像が伴えば、違う印象を与えうるし、その逆もまた然りである。結局先に述べた3つの要素の連続体、音響ととらえ、そしてそれが映像と合わさり、どのような「映画」を形成しているかが重要である。

[29]Bordwell, p. 177

[30]ルグレ、43頁。

[31]DVD『旅芸人の記録』解説リーフレット、10-11頁。

[32]ルグレ、42頁。

[33]『シテール島への船出』も主人公である映画監督アレクサンドロスの映画内映画との二重構造で、切れ目なく移行するシークエンスは存在する。しかし重点はほぼ映画内映画の世界にあり、主題的に二重構造である必然性はうすい。ゆえにここでは取り上げない。

[34]ルグレ、220頁。アンゲロプロスは、『霧の中の風景』についてこう述べている。「この作品はわたしにとって開かれた未来なのです。(中略)小さな男の子のほうは、姉と父親を探しているとき、現在と交流する道をきょうじできる「神」をもはや見つけることができなくなります。しかしそのあとで、みずからの創造力と小さな断片フィルムのおかげで世界の新しい面を発見するのです」

[35]先ほどのレヴィの問いかけに対する答えとして、「今は、眼として闇から出ようとして戦っている。生まれようとしている。あなたには、闇に閉じ込めておく権利はない。戦争と、狂気と、死のこんな時代であればこそ、あれを現像しない権利は、あなたにはない。」とAは語る。

[36]この決意がこの後の作品『永遠と一日』(1998)『エレニの旅』(2004)にどのように反影されているかは、本稿ではおいておこう。

[37]若菜は、「この映画で最も重要なのは、<物語=筋>ではなく、むしろ、それから相対的に独立して画面上で展開される、<国境=横の動き>と<超越=縦(奥行き)の動き>という2つの運動の交錯である」と述べる。(307頁)とても面白い指摘であるが、若菜がこのシークエンスにおいて指摘する縦と横は、最初のジープ(の動きと次の点呼の動きである。
 この2つの動きはワンカットで撮られている。これでは2つの動きが厳密に対立しているとは言い難い。明らかな対立をうむ場合は、カットが挟まれるべきではないだろうか。ゆえにここでは、点呼のショットと、国境の橋上のショットが対立していると見なせる。前者はいつもアンゲロプロス映画のロングショットであり、広がりのある空間を提示する。しかし後者のショットは、フルショット程のショットサイズで、ギリシャ側(前景)とアルバニア側(後景)の奥行きだけを強調しているショットである。この構図はボードウェルも指摘しており(p.169)、国境を越える仕草をみせる大佐と、アルバニア側の兵士の緊張関係から国境という主題が提示される。
 この奥行きを強調するショットは後のシーンでも存在する。またこのショット自体反復される。

[38]あるいは過去はテレビの映像という形で提示される。

[39]この音楽は、映画中に何度も使用されるので、便宜上「アコーディオンの音楽」とする。このシークエンスでは奏者が明確に映されないが、後のシーンでは難民のアコーディオン弾きが登場し、この音楽を演奏し出す。観客はこの時、あきらかに「虚構世界内音楽」として認識する。この作品の場合は、「虚構世界内」に突然登場するわけではなく、その帰属はもともと曖昧であった。

[40]ミシェル・シオンは『映画にとって音とはなにか』でインは画面内にその音源が見える音、スクリーン外とは音源は画面内に見えないが、画面に隣接する空間にあると推測できる音、オフは、画面で示される場面とは別の時空間からの音のことと定義している。これらの区分は認識の問題である。

[41]若菜、316頁。

[42]黄色のレインコートの男は、『シテール島への船出』以降、作品を越えて登場する。それが何者なのか、何故挿入するのか、明確な意味付けはない。

[43]若菜は、スクリーンの表面上では、同じ縦方向ではあることから、先ほど議論した奥行きの運動とこの上昇運動を同じに捉えている。
 他の作品でもしばしばカメラの上昇運動がみられる。ルグレは『蜂の旅人』のラストシーンにおけるカメラのかすかな浮揚を、「過去の重荷からの解放」(127頁)と捉えている。

[44]DVD『こうのとり、たちずさんで』解説リーフレット、8頁。

[45]同上

 

参考・引用文献リスト
・ルグレ、ヴァルター 『アンゲロプロス 沈黙のパルチザン』(奥村賢 訳)、フィルムアート社、1996年
・若菜薫 『アンゲロプロスの瞳 ー歴史の叫び、映像の囁きー』、鳥影社、2005年
・シオン、ミシェル『映画にとって音とはなにか』(川竹英克、J・ピノン訳)、勁草書房、1993年
・シオン、ミシェル『映画の音楽』(小沼純一・北村真澄監 訳、伊藤制子・二本木かおり訳) みすず書房 1995年
・DVD『旅芸人の記録』解説リーフレット(DVD制作=IMAGICA、紀伊国屋書店、提供・資料制作協力=フランス映画社)
・DVD『アレクサンダー大王』解説リーフレット(DVD制作=IMAGICA、紀伊国屋書店、提供・資料制作協力=フランス映画社)
・DVD『霧の中の風景』解説リーフレット(DVD制作=IMAGICA、紀伊国屋書店、提供・資料制作協力=フランス映画社)
・DVD『こうのとり、たちずさんで』解説リーフレット(DVD制作=IMAGICA、紀伊国屋書店、提供・資料制作協力=フランス映画社)
・DVD『エレニの旅』解説リーフレット、(DVD制作=紀伊国屋書店、提供・資料制作協力=フランス映画社)
・Bordwell, David. Figures traced in light: on cinematic staging. California: the University of California Press, 2005.
・Horton, Andrew. THE LAST MODERNIST: The Films of Theo Angelopolos. United States and Canada: Praeger Publishers, 1997
・Horton, Andrew. THE FILMS OF Theo Angelopoulos : A cinema of Contemplation. Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1999

 

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