『裏切りの戦場 葬られた誓い』

 映画にできる人類史への貢献とは何か--視聴覚化された歴史に発掘される「真実」

久保 豊
          

 一度銃が撃たれ、大地に血がしたたり落ちたとき、その銃弾も血だまりも二度と元には戻らない。歴史という時計の針は、二度と巻き戻すことなどできない。人間は過去に戻り、その過失を防ぐことはできないにもかかわらず、過去の過ちにたびたび囚われ苦悩する。では、なぜ人は記憶を持ち、歴史という記録を残すのか。
 フランス人映画監督マチュー・カソヴィッツの『裏切りの戦場 葬られた誓い』(2011年)は、血で血を洗うような戦争映画ではなく、1988年のフランス領ニューカレドニアのウベア島虐殺事件に交渉人として関与した、フランス国家憲兵治安部隊(GIGN)大尉フィリップ・ルゴルジュの手記「La Morale et l’action(モラルと行動)」を題材とした歴史映画である。1988年4月22日、フランスからの独立を願うカナック族の過激派グループがフランスの憲兵隊宿舎を襲撃したさい、4人を殺害し、警官30人をジャングル内の洞窟へと誘拐する事件が勃発した。シラク首相とミッテラン大統領が争う大統領選挙直前のことである。過激派グループを率いるアルフォンス・ディアヌとの交渉人役であったルゴルジュ大尉の努力虚しく、フランス政府の判断により、事件は武力によって10日後に鎮静された。軍部への人的被害は最小限に抑えられた一方、過激派には19人もの死者が出たこの事件の裏には、フランス政府が隠蔽した真実があった。武力制圧の後、無抵抗の過激派5名をも暴行殺害したのだ。その真実をマスコミが追求し、ルゴルジュ大尉が1990年に手記を出版したことにより、フランス政府は歴史的汚点から目を遠ざけることはできなくなった。
 『フィフス・エレメント』(1997年)や『アメリ』(2001年)などで、俳優としても活躍するマチュー・カソヴィッツ監督は、ルゴルジュ大尉の手記をもとに、本作『裏切りの戦場 葬られた誓い』制作のために10年を費やした。歴史的背景の調査や適切な配役の決定をし、事件に関わったフランス側の関係者やカナック部族側の遺族たちに映画化の承諾を得るためである。カソヴィッツ監督によれば、カナック部族は今も武力ではなく対話で事件を平和的に解決する約束を守れなかった軍人ルゴルジュを裏切り者だと考えている。(1) 本作でのカソヴィッツ監督の目的は、ルゴルジュやフランス政府の名誉回復ではなく、国家への忠誠心とみずからの正義感の間で葛藤するルゴルジュの視点を通して、事件勃発から武力制圧までの10日間を語ることにより、「真実」を明らかにすることにある。事件背景の事実的理解だけでなく、遺族との対話、フィリップ・ルゴルジュ本人とのインタビューに費やしたカソヴィッツの10年は、ルゴルジュ大尉役として主演する監督自身にとっても必要不可欠な過去との対話を意味する。
  映画冒頭、観客は歴史通りの事件の結末を目撃する。フランス軍によって人質は全員無事に救出され、カナック族の過激派グループは武力制圧される。平和的解決を望んだ主人公フィリップ・ルゴルジュにとって、信頼関係を築いていた者たちの死体が転がるジャングルを歩くことは、まさに悪夢である。「映像がよみがえる」というルゴルジュによるヴォイスオーヴァーが入り、少しずつ鮮明になる視界の先には、傷つき担架に横たわる過激派グループのリーダー、アルフォンス・ディアヌ(イアベ・ラパカ)が見える。ルゴルジュを見つめるディアヌの目には失望が佇み、ルゴルジュはそれに脅えるようにディアヌから遠ざかる。ロング・テイクの移動ショットで描かれるこの冒頭シーンにおいて特筆すべき点は、まるで時間を遡るように映像が巻き戻されていることだ。フランス軍の軍人も彼らに誘導される過激派グループの生存者も後ろ向きに歩き、放たれた銃弾は銃口に引き戻され、死人は生き返る。人質救出という任務は成功したものの、死人を出さない平和的解決を望んだ交渉人ルゴルジュの本来の作戦は失敗した。生気のない彼の顔をキャメラがクロースアップで捉えるとき、彼は言う、「なぜだろうか」と。そして目前の事実から目を背けるように、彼が目を閉じると、自室のベッドで同じように目を閉じているルゴルジュ本人へとカットされ、この冒頭シーンは彼の夢であったと観客は知る。
  ジークムント・フロイトが唱える夢の願望充足の概念を借りれば、時間が巻き戻されるというルゴルジュの夢は、誰も死なない平和的解決を目指したルゴルジュの願望を表現していると読める。ルゴルジュが夜中に起こされ、GIGNに召集される日は1988年4月22日であり、つまり、映画冒頭の夢空間の時間軸から10日前まで時間軸が遡っている。ルゴルジュが夢で見た武力制圧の結果は、彼にとっては未来であり、歴史を知る観客にとっては過去である。過去は覆すことはできないが、夢という媒介を通して無意識的にでも未来を見たルゴルジュであれば、もしかすると惨劇を回避できるのではないかと観客は期待する。しかしカソヴィッツ監督は、歴史的事実に基づき映画を制作する以上、彼が歴史を歪めることはない。
 フランシス・フォード・コッポラ監督の広義の戦争映画『地獄の黙示録』(1979年)を彷彿させる軍用ヘリコプターが舞い、銃を持ち佇む兵士を掲げた映画パンフレットや、『裏切りの戦場 葬られた誓い』というタイトルは、観客に本作の中で派手な銃撃戦やアクションを期待させる可能性がある。しかしながらカソヴィッツ監督はルゴルジュが誰かと淡々と対話している様子の描写に、134分間ある本作の大半を費やす。これによって誘拐事件の発端となった憲兵隊宿舎襲撃シーンとラストのジャングルでの戦闘シーン以外では、生を死にかえる残虐な殺害アクションは避けられている。これには二つの理由が考えられる。一つは、本作がルゴルジュ大尉の手記やカナック族が語り継ぐ歴史的事実に基づいて制作されていること。もう一つは、カソヴィッツ監督の目的は、最終的になぜルゴルジュが平和的解決へと導けなかったかを詳細に描くことであり、事実に反して血に飢えた軍人としてルゴルジュを描くことではないからである。
  ルゴルジュが平和的解決のための交渉に励む姿を観客が見守る一方、カソヴィッツ監督は、映画のアクション空間内の時間の流れを視覚化することにより、武力行使までのタイムリミットを明確にする。武力制圧という結末が迫っていることを示唆する手法として、「攻撃開始まで○日」というカウントダウンが10回挿入される。過激派グループがカナック族の文化の尊重と独立を望んでいると知り、軍人ルゴルジュは政治家を説得しようとするが、政治家たちは武力行使という決断を選択する。大統領選直前で私利私欲しか考えぬ政治家たちによりルゴルジュの時間は削られ、刻まれるカウントダウンが確実に迫る攻撃の日を観客に意識させる。殺害という惨劇を生んだ原因の本質は、間違いなく政治システムにある。
 過激派グループによる誘拐事件の解決方法を考える上で、政治家と軍人ルゴルジュの間には明らかな温度差がある。それを表象する手法として、物理的距離の視覚化が挙げられる。ルゴルジュに少なくとも信頼を抱く者は、30センチから1メートルほどの距離で彼と話し、彼らとルゴルジュをツー・ショット、または近距離で捉える対話シーンが多数ある。ルゴルジュがディアヌとの間に築く物理的な近距離性は、ルゴルジュが対話を通してディアヌと信頼関係を築くことに成功したことを表す視覚的証拠である。一方で、ウベア島現地に訪れるポンス海外大臣(ダニエル・マルタン)や現地に派遣された軍人らを除けば、攻撃を望む政治家や軍上層部の者たちはルゴルジュに接近することを拒む。彼らとルゴルジュとの対話において多用される切り返しショットは、彼らの間の詰められぬ距離感と意見の違いを強調することになる。政治家がルゴルジュと距離を置こうとする理由は、彼らはルゴルジュの交渉能力を評価しているだけでなく、恐れているからだ。
 その恐れから、フランス政府は武力行使を決定した後、過激派グループとのルゴルジュの接触を禁じる。これにより、無線がルゴルジュにとってディアヌと会話するために唯一残された手段となる。攻撃前日の無線での会話シーンでは、両者が互いの目を見つめながら、近距離で対話をしているかのように思わせる巧みな切り返しショットがある。だが、無線は互いの距離が離れたことだけでなく、ルゴルジュがこれ以上平和的解決のために、過激派グループに物理的に歩み寄ることが出来なくなったことを示唆しているように思える。そのため、ルゴルジュは武力行使が迫っているという真実をディアヌに伝えることができない。代わりに、軍人として、武力行使の一員として、ディアヌへと歩み寄る存在となる。
 本作のクライマックスでは、映画冒頭の惨劇へと続く戦闘シーンが展開する。陸軍や海兵隊が銃撃しつつ、戦場を攻略していく様子を短いカットの連続により演出し、それに対し応戦する過激派グループを切り返しショットで見せる。軍人が銃撃するカット数の多さが、軍隊と過激派グループとの圧倒的な力の差を見せつけている。過激派グループの兵が次々と倒れていき、力つきた身体に何発もの銃弾が撃ち込まれる様子を描くシーンは、本作の中で一番ヴァイオレンス性が高い。だが、この戦闘シーンでさえも、銃を撃ちたくてうずうずしている陸軍兵や海兵隊のように、観客にとって興奮するものとなりうるかは疑問が残る。なぜなら、内臓や肉片が飛び、ナイフで心臓を突き刺す瞬間を描くなど、肉体の死におけるグロテスクさを提示した戦争映画『プライベート・ライアン』(スティーブン・スピルバーグ、1998年)における戦闘シーンと比べれば、本作の戦闘描写はあまりに淡白で、子供の遊びのように見えるからだ。この戦闘シーンで注目すべき点は、ヴァイオレンスではなく、ルゴルジュ率いる憲兵治安部隊の様態である。
 彼らが人質救出を目的とし戦場を進む様子は、手持ちキャメラによるロング・テイクで撮られる。まるで憲兵の一人がキャメラを回しているかのような視点で撮られ、ルゴルジュを中心とした隊員の顔のクロースアップが多い。手持ちキャメラによる手ぶれが、憲兵たちの荒々しい息づかいや人質救出への焦りと呼応し緊迫感を保つことで、カソヴィッツ監督は6分近くあるロング・テイクを成功させている。
  映画冒頭のルゴルジュの夢の中で見た様子が、映画のエンディングでは時間の流れに逆らうことなく繰り返される。放たれた銃弾は肉体を突き抜き、生は死へと化す。血を流さぬ解決を目指したルゴルジュの作戦が失敗した理由は、選挙活動に忙しい政治家の決断によるものであった。いかに自己の正義心を貫こうとも、ルゴルジュも国家への忠誠を誓った軍人の一人である以上、攻撃(殺害)を回避する術は持ち合わせていなかったのだ。これを悔いた彼だからこそ、手記に彼が経験した真実を記したのだろう。キャメラを正面に見つめ、ルゴルジュは最後に観客に以下のようにヴォイスオーヴァーで語りかける。「今も思い出す。攻撃の結末を、下された決定を・・・痛ましい記憶と険しい現実だが私は後悔していない。真実は痛みをともない、嘘は死者を生むからだ。」ルゴルジュ大尉として主演し、監督も務めたカソヴィッツが本作で視聴覚化した真実とこれらの言葉は、フランス政府の権威的決定と国民に発表された偽りの真実を批判している。
 誕生から117年目を迎えた映画という視聴覚媒体は、人類史に一体どのような貢献をすることができるのであろうか。一つの役割として、手記や語り継がれた話は残っていても、映像や写真資料/証拠が残っていない歴史的事実を視聴覚化し、その事実を風化させないことが考えられる。たとえば、昨年日本で公開されたフランス映画『サラの鍵』(ジル・パケ=ブランネール、2010年)は、1942年にナチス占領下にあったフランスのヴィシー政権がパリと郊外に住むユダヤ人約1万3,000人を検挙したヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件に光を当てた。2006年に出版されたタチアナ・ド・ロネの同名小説を原作とした映画『サラの鍵』では、写真資料の乏しさや、この事件についての若者の間での認知度の低さが指摘された。
 『裏切りの戦場 葬られた誓い』のプロットの一つに、政治的理由による現地へのマスコミ取材の禁止がある。そのため、この事件での現地の様子を示す資料は、フィリップ・ルゴルジュ大尉の手記、エンディング・クレディッツ・シークェンスに流れる数枚の写真とカナック族内に伝承された話が主であったであろう。カソヴィッツ監督が費やした10年は、事件の関係者、カナック族の遺族たちと彼が対話することにより、資料や情報の乏しさによる空白を埋めた。監督はフランス政権の決定した軍事攻撃や過激派グループの行動を肯定も否定もすることなく、あくまでも両者に深く関係していたルゴルジュ大尉の視点で描いている。
  事件から20年以上経った2012年にも、ニューカレドニアには独立問題は存続している。珊瑚礁を世界遺産とし、「天国に一番近い島」と呼ばれる場所(世界的観光地)には、人々が知らなければならない凄惨な歴史(政治的支配)があることを本作は指摘した。そしてカソヴィッツ監督は2014年にフランスからの独立に関する住民投票がニューカレドニアにて行われる予定をインターカットで告げることで、未来への道も作っている。またインターカットとエンディング・クレディッツ・シークェンスの間に、青空を見上げたワン・ショットが挿入される。荷物らしき物体を運び出す二機の軍用ヘリコプターがその青空を泳ぎ、離れて行く様子は、まさにニューカレドニアのフランスからの独立への願いが込められているのではないだろうか。

*『裏切りの戦場 葬られた誓い』は、Tジョイ京都にて公開中。


(1) マチュー・カソヴィッツ監督作『裏切りの戦場 葬られた誓い』映画パンフレット参照。