bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.16 押田友太 ジャック・リヴェット『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)再考

ジャック・リヴェット『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)再考
異なる世界の邂逅による物語の相対化をめぐって


押田 友太

1、はじめに
 ヌーヴェル・ヴァーグ[1]の旗手として名を馳せながら、未だにその全貌が明らかになっていない映画作家のひとりにジャック・リヴェット(1928‐)がいる。本稿は、そのような不遇の映画作家ジャック・リヴェットの独創性を彼の代表的作品『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(Cèline et Julie vont en bateau, 1974)の分析を通して、明らかにする試みである。
 リヴェットを包括的に論じる研究は、他のヌーヴェル・ヴァーグの同志たち(ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、クロード・シャブロル)よりも格段に少なく、かつ最も遅れていると言っても良い[2]。じっさい、本国フランスでリヴェットの研究書が出版されたのは2001年のエレーヌ・フラッパによる『ジャック・リヴェット』(Jacques Rivette, secret compris)が初であり、その後、英語圏でのまとまった研究書が相次いで出版されている現状を鑑みても理解できるように、リヴェット研究は漸く端緒についたという段階に留まっている(ダグラス・モレーとアリソン・スミスの共著『ジャック・リヴェット』[Jacques Rivette, 2009]、メアリー・ウィルズによる『ジャック・リヴェット』[Jacques Rivette, 2012])。なぜそのような状況に陥ってしまったのか。単純な回答は、リヴェットの作品性にあると言えよう。諸氏も指摘していることだが、リヴェットの作品は、それぞれの作品が長時間に渡る[3]。例えば『アウトワン』(Out 1 : Noli me tangere, 1970)のような12時間をはるかに超える作品は分析する批評家たちを混乱させる。また、難解な作風から一般公開される機会を逸してしまうことが多く、今日でも多くの作品がVHSやDVDなどで発売されていないことで作品自体に容易にアクセスしづらいという点もひとつの要因であろう。
 では少ないながらも先行研究において、リヴェットは如何にして捉えられてきたのか。本稿で論じる『セリーヌとジュリーは舟でゆく』を例に挙げながら、リヴェットが今までいかに先行研究で捉えられ、どのような視点が欠落していたかを大まかに確認することで本稿でのテクスト分析の立脚点を明確化したい。

 

2、異なる二世界の共存
 『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(以下、『セリーヌ』と略記する)は、ドゥルーズが『シネマ2 - 運動イメージ』(Cinèma 2: L'image-temps, 1985)で「(ジャック・)タチと共にフランスのもっとも偉大なコメディ映画の一つである」(19)と捉えているように喜劇要素がふんだんに盛り込まれた作品である[4]。現にリヴェットの他の作品と比べると浮遊感が通奏低音として映画全体を貫いているため、血なまぐさい事件が発生しようと鬱々とした空気感はほとんど消し去られていると言っても良い。しかしながら重要なのは、本作が喜劇的要素を外面にしながらリヴェットの真髄が見事に体現されていると言ってよいほど多層的、重層的なイマージュの連なりを見せてくれるということである。四方田が指摘しているように「演技と現実ではなく、夢想と現実が説かれ、薬物を通しての多元宇宙論が展開されている」(77)といっても過言ではない。明確な夢と現実の境界はなく、演じられているものとそうでないものがほとんど曖昧になっているのである。また、付け加えておかないといけないのが、本作は厳密な脚本を用いないことで有名なリヴェット作品には珍しく、脚本に沿って物語が進展しているということである(とは言え、脚本自体は、本作に登場する俳優たちによって共同作業的に制作されたものである[5])。本作は、リヴェットが何を実現しようとしているかが明確に体現された作品であり、彼の思惑が最も塗り込められた作品だと言えるだろう。
 このようにリヴェットの重要な特徴が体現されている本作は、彼に関する研究の集積がほとんどなされていない現状に鑑みれば、比較的論じられてきた部類に属するものである。ローゼンバウムが早い段階から本作に注目し、本作に共通する重要な主題を「二層構造」(149)として正しく指摘していた通り、現在まで多くの先行研究がこれと同様の捉え方をしている[6]。じっさい、本作はセリーヌ(ジュリエット・ベルト)とジュリー(ドミニク・ラブリエ)を基点とした世界とヘンリー・ジェイムズの小説を基にした「想像上の館(House of fiction)」の世界[7]の共存構造を持ち合わせている。セリーヌたちは女同士二人で自由気ままに日常生活を送っているのに対して、「想像上の館」の住人は男性優位の世界観であり、妻をなくした夫を巡り、女性二人が対立し、最終的に夫の娘を殺害するという規範と制限に溢れたメロドラマ的な構造[8]を有している。このような二つの相反する世界が劇中に登場する魔法の秘薬によって通じ合い、セリーヌたちは「想像上の館」の世界に飛び込むのである。それぞれがメロドラマ内で役を演じ、再び現実へと舞い戻る。二つの世界の自由な往還は現実と夢との境界を曖昧にし、それぞれの世界の批判的な隠喩となる。そのような批判的側面を持つことから、「『セリーヌ』は今までつくられた作品の中で最もラディカルでポジティヴなフェミニスト的言説を含んだ作品である」(Wood 285)と指摘されることもある。
 では、このようにリヴェット作品のなかでも他の作品と比べて多くのことが論じられている『セリーヌ』をなぜ再び取り上げる必要性があるのか。敢えて言えば、これまでの研究はそれぞれ鋭い考察があるものの、その考察を作品全体に絡めて動態的に捉えることが不十分だったということである。即ち、本作に見られる個々の特徴を指摘することはできても、その特徴が本作でどのような作用を引き起こしているのかがなおざりにされたままなのである(『セリーヌ』を取り上げた論文の多くが、数ページに満たないこともその証左となる[9])。なるほど、『セリーヌ』には、逆説的な世界が互いに入り混じっており、その世界観の交錯こそが本作の独創性を生み出していることは間違いない。しかし、それを指摘するのみでは、特徴を列挙しただけで本当の意味で作品を読み解いたことにはならないのではないか(そのような捉え方をすると、異質な世界間を唐突に接合する本作の特徴的な編集方法が触れられなくなってしまう)。また、ウッドのようにフェミニズム的な立場から(男性優位の社会を暴露する立場から)のみ、本作を論じたとしてもそれは一面的な解釈に過ぎない。本作がここに召喚される意味は、本作にはそのような既存の概念すら通用しないことを明らかにすることにある。
 本稿が目指すのは、以上のような前提を踏まえた上で『セリーヌ』を論じることである。言い換えれば、リヴェット作品のなかに二つの世界が存在し、それぞれが互いにひとつの作品の中で通底し合うことで、一体どういった作用が生み出されるのかということである。そこで引き合いに出されるのが、相対化という視点である。互いに異なる世界をひとつの作品のなかに閉じ込めてしまうことで、本作は徐々に一貫した物語から距離を取り始める。そして、物語から距離を取るとき、観客は今まで展開していた物語世界がすべて虚像であったことを目撃するのである。本稿で試みるのは、そのような瞬間を具体的なテクスト分析によって明らかにすることで、リヴェットが試みようとした思惑を逆照射することである。それは(ある既存の概念に沿った)還元的な捉え方をするのではなく、また、リヴェット作品に共通する個々の特徴を挙げ、いくつかの作品を横断的に論じるのではない(リヴェット作品に共通する特徴をただ列挙するのではない)。ひとつの作品に向かい合い、そこで表現されている音と映像を見聞きし、できる限り詳細に論じていくことが本稿の目論見なのである。それでは、二つの相反する世界観がどのように共存関係を結び、いかなるめぐり会いを果たすのか、そして、その遭遇によって相対化がどのようになされているのか、テクストの分析を通して検証していこう。

 

3、二つのタイトルの意味
 まず、『セリーヌ』のオープニングクレジットに注目しておこう。リヴェット作品のオープニングクレジットはほとんど黒の背景に白色で描かれた簡潔な文字の羅列から始まる。代表作である『狂気の愛』(L’amour fou, 1969)もそうであるし、『アウトワン』もそうだ。本作もその前例に従うように、クレジットが不安定にブレながら主演の二人、そして、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』と文字が重ねられてゆく(図1)。サイレント期の映画におけるピアノ伴奏のように音楽と女性の声が奏でられ、そのままクレジットが継続していくような印象を観客は受ける。
 しかし、突然、背景が黒色のタイトルに続き「Phantom Lady over the Paris」の文字(文字は黒色)が白色の背景を背にして挿入される(図2)。その後、今度は、同じ背景(白色)に主演の二人と同様のスケールで出演者二人の文字が続けられる。ほとんどの観客はこの二つのタイトルの並置に困惑するはずである。なぜなら、本作は紛れもなく『セリーヌとジュリーは舟でゆく』というタイトルの映画であり、もうひとつのタイトルが後に続くことは、予想もしない展開であるからだ。あるいは、単なる副題として観客はこのタイトルを処理するかもしれない。確かに、多くの観客にとっては、別段、気に留めない細部であろう。だが、リヴェットの作品を見続けてきた「理想的な観客」[10]ならば、この白色の背景には見覚えがあるはずである。即ち、この白色の背景が登場するのはリヴェット監督二作目の『修道女』(Suzanne Simonin la Religieuse de Denis Diderot, 1967)以来であると(図3)。『修道女』は、『狂気の愛』以前に制作されたリヴェット作品であり、その特徴として脚本によって綿密に計算された論理的な構造を持つものである。
 言うなれば、この二つのクレジットが暗示するのは、本作は『セリーヌ』という『狂気の愛』以降、継続されてきた非論理的で一貫した構造を持たない世界とその対となる論理的な構造を持つ世界がひとつの作品のなかに共存しているということである(それは黒と白という正反対の色彩で表されており、表裏という鏡像関係をも象徴している)。ある一方の世界の中に、突然、もう一方の世界が迷い込む。オープニングクレジットは、ひとつの作品のなかに二つの物語が相互嵌入している本作の構造をいち早く、告知しているのである。
 

4、字幕の解釈
 オープニングクレジットの後に、字幕で「たいていの場合、物語はこんな風に始まった(le plus souvent, ça commençait comme ça~)」という字幕が挿入される。この字幕はあらゆる意味を含意しているように思われるが、議論の効率から先に後続の展開を示しておきたい。さて、冒頭の字幕が終わると次に映されるのはジュリーの横顔のクロースアップである。彼女は公園のベンチに座りながら、魔法の本(赤い本)を読んで足を使って魔方陣のようなものを描いている。彼女の主観ショットを交えながら、キャメラは安定せず、彼女の主観ショットとは関係のないティルトやパンを無造作に繰り返す。偶発的に何かが起こることを、スタッフたちが待ち構えているかのようにキャメラは風で揺れる木々、公園で遊んでいる子供や大人を撮影し、そのショットがジュリーのショットの間に挿入される。ベンチからベンチへ猫が移動した次の瞬間、右側からセリーヌが突如、フレームインしてくる。セリーヌは走りながら、地面に落としたサングラスに気づかず、走り去ってしまうが、落としたサングラスに気づき、ジュリーはセリーヌを追跡する。ここからセリーヌを追いかけるジュリーの追跡劇が開始される。
 以上のことを念頭に置きながら、冒頭にインサートされた字幕を解釈してみよう。サングラスを落としたセリーヌをジュリーが追いかけるという展開は、ルイス・キャロルの著名な童話『不思議の国のアリス(以下アリス)』(Alice's Adventures in Wonderland, 1865)におけるウサギを追いかけるアリスを彷彿とさせる。実際、『セリーヌ』は『アリス』を原作としたような類似点が多く散見され(劇中に登場する「想像上の家」の登場人物、少女マドリン[ナタリー・アズナル]は『アリス』の本を読んでいる)、『アリス』の物語展開を一般的な観客が想起するという意味で「こんな風に(comme ça~)」という字幕が付けられていると解釈するのはあながち誤りではないであろう。中条が『セリーヌ』の物語展開を解釈しながら本作と『アリス』の類似点を考察しているように(35)、これから提示される奇想天外な物語の導入としては誠に理にかなった始まりである。
 あるいは、本作が秘めている円環的な遊戯性についてである。本作の冒頭の追跡シーンに至るまでの展開は、本作のラストシーンで今度はジュリーが担っていた役割をセリーヌが代替して繰り返す。即ち、セリーヌがベンチに座り、眠りから覚めるとジュリーが右側からフレームインしてくる。ここではジュリーが魔法の本(赤い本)を落とし、再び落としたことに気づかないジュリーをセリーヌが追いかけるということである。本作はオープニングクレジットが表していたように、場面さえも鏡のように分裂しているのである(冒頭と結末が鏡像関係を結んでいる[図4~7])。モレーが二人の追跡はゲームのようであり、ゲームのルールを予め知っているような二人の視点からみると、本作の展開は「以前に実行されたかもしれない」と指摘している(2009:107)。冒頭と結末がほとんど同じように反復されるために、本作は始まりと終わりが判然とせず、言わば際限なく物語が繰り返されるのだ。リヴェット自身が言うように、これは迷宮の作家と称されるボルヘスの数々の小説のように「最後の行に辿りつくと、読者は最初の行に戻って何についての話なのか、読み直さなければならない」(Domarchi et al. 16)構造を有していると考えられる。このような円環的な構造を持つことで本作は明確な結末を持たず、あたかも遊びに戯れる子供のように反復を繰り返すのである。つまり、「こんな風に(comme ça~)」という字幕は、今から始められる物語が、実は以前も行われていたのではないかという疑念を観客に抱かせるものであり、本作には始まりと終わりがないことを明示するものでもあるということである。じっさい、冒頭の字幕以外にも「しかし、次の日(Mais, le lendemain matin)」という字幕が本作では都合5 回挿入され、どれだけ、物語が展開しようと「しかし、次の日(Mais, le lendemain matin)」という字幕によって物語が延長される。決して結末へと観客を誘引しないために、物語は常に宙吊り状態(クリフハンガー)なのである[11]

 

5、非論理的な世界の導入
 明確な結末がないということは、本作においてはある達成される(あるいは達成されない)目的に向かって進展する論理的な物語が消失しているということでもある。セリーヌがサングラスを落として開始される二人(ジュリーとセリーヌ)の追跡劇もそうである。というのも、当初、セリーヌの落としたサングラスを届けるために追跡を始めたジュリーの目的はほとんど意味をなくしてしまうからである。セリーヌにどれだけ接近しようとジュリーはサングラスを渡す素振りを見せないし、セリーヌも自身が落としたサングラスを見ても全く受け取ろうとしない(なおも途中でセリーヌはスカーフを落とす)。挙句の果てにジュリーが追いかけてくることに気づいていてもセリーヌは声をかけようとさえしないのである。パリのモンマルトルを舞台に、二人は延々と無言で追いかけっこをし、無目的に運動を繰り返すのである。追跡の途中、セリーヌはベンチに座りながら休憩を取り、再び、持ち物である人形を(ほとんど意図的に)落としていくようにさえ見える。ジュリーはその様子を伺いながら、セリーヌの持ち物であるサングラスを掛け、身を隠す。ジュリーはセリーヌに落し物を確実に渡すことのできる機会を有しながら、なぜか渡そうとせず、セリーヌも後からジュリーが追ってきていることを知りながら、迷いもなく休憩を取り、化粧直しをする。セリーヌがその場から去ると、再びジュリーはそのあとを追うのである。(もはや追跡劇として捉えることすら疑問な)二人の追いかけっこは冒頭から20分近くも続けられ、達成されるべき追跡劇の目的が消失してしまっているために、際限なく続けられるようにさえ感じられる。
 また、この追跡劇を撮影しているキャメラも、フィックスで安定している場面とそうではない不安定な場面が同時に存在しており、観客を困惑させる。時折挿入される不安定な撮影は、セリーヌやジュリーを時折、見失い、追跡劇という一連のシーンにもある種の齟齬を齎す。安定的でフィクショナルな追跡劇だと考えられていたシーンが、あたかもシネマ・ヴェリテのように市街地にキャメラを向け、被写体の中心人物がどこに配置されているのか理解できないほど無造作な技法によって侵襲される。周囲には、おそらく撮影していることすら気づいていない日常生活を営んでいる人々が撮影されており、そこにセリーヌとジュリーという物語の住人が紛れ込むことで、嘘と現実の境目が曖昧になっているのである(図8)。結局、ジュリーはセリーヌに彼女が落とした数々のものを渡すことなく、セリーヌがジュリーには到達できないホテルに逃げ込むことで唐突に、追跡劇は終焉を迎える。落し物を届けるために開始された追跡劇がシーンを重ねるにつれて、目的がいつの間にか霧消し、被写体が次のシーンへと連続的に追いかけるだけの運動に昇華してしまうのである。登場人物の素性も物語の前提も何も考慮されることなく、見世物としての追跡劇が淡々と繰り広げられ終わってしまう。キースリーが本作における追跡劇を、古典的な映画文法が成立する以前の「移行期映画(transitional cinema)」にオマージュを捧げていると捉えているように[12]、観客を物語世界へと安全に誘うような論理的展開ではなく、古典的な物語に馴染んでいる観客を混乱に陥れるような非論理的展開であると言えよう。
 しかしそれでも、まだ本作の冒頭ではある程度の論理性は守られている。というのも、翌朝ジュリーはセリーヌに落し物を届けるからである。目的がないように考えられた追跡劇が、最終的にジュリーが落し物を渡すことで目的が達成され、一応の解決をみるからである。ジュリーは、前日の追跡劇がまるで架空のものであったように、セリーヌに落し物を手渡す。言い換えれば、本作はまだ論理的な物語に足を半分入れた状態にあるということだ。また、ジュリーとセリーヌは明確にそれぞれの人格として独立しており、お互いが他者同士である。その証拠に二人の会話は、切り返しショットで捉えられお互いが知覚可能な存在として示されているのである。つまり、冒頭の追跡劇がたとえどれだけ論理的な展開から逸脱していても、観客はセリーヌとジュリーの行動にほとんど違和感を覚えないはずである。ジュリーが図書館の司書を未だ務めているように、どれだけ非論理的な物語が繰り広げられようとも、あくまでそれは架空の出来事であり、守られなければならない約束事が取り決められている(図書館では、どれだけ規範や秩序から離れた物語を読もうと、厳粛さが求められ、喫煙は許されていないという厳密な規範や秩序が求められる)。彼女たちはまだ一定の規範が存在する古典的な世界の住人であり、どれだけ非論理的な追跡劇が展開されようとも、観客が同一化の対象とする存在なのである。
 先ほど本作は半分、論理的な世界へと足を踏み入れていると言及したように、もう半分は非論理的な世界へと足を踏み入れた状態にある。そのことを表すのが次のシーンである。追跡劇の翌日にジュリーがセリーヌに落し物を届けた際は、二人は他者同士であったにも関わらず、これから論じる場面においては、二人が他者であるのかが非常に曖昧に描写される。ジュリーが司書の仕事を行っている際、彼女は背後にセリーヌの気配を感じる。事実、観客は同時空間に二人が併存していることを目撃する。だが、先ほどは二人が相互に切り返しショットによって知覚可能な存在であったにも関わらず、この場面において二人は絶対に目を合わせることがない。ジュリーがセリーヌの方へ振り向いても、彼女がセリーヌを見た主観ショットは挿入されない。代わりにセリーヌにおいても、彼女の目のクロースアップは捉えられるが、その目の先にあるジュリーは後ろ姿ばかりでジュリーと目線が鉢合うショットは挿入されていない。明らかにジュリーはセリーヌの方へ振り向き(彼女はセリーヌを目撃したような顔をする)、また、そのジュリーの素振りをセリーヌは見ているはずであるにも関わらず、二人が目線を合わせたかどうかは宙吊りにされる。二人がその場に併存していながらも、なぜかお互いの目線の先が曖昧にされることで、お互いが遭遇していないかのような違和感を観客は覚えるはずである。セリーヌは、なぜジュリーに知覚されないのか。あるいは、なぜ二人は目線を合わせないのか。その疑問に対する回答は、本作の重要な主題となるのであるが、二人は同一空間にいながらも完全に他者同士ではないと取り敢えずは言うことができるだろう。
 セリーヌとジュリーがその後、同じ行動を繰り返すように(セリーヌは赤いペンで自分の手のひらを児童書に書き写し、ジュリーはインクで自分の指先を染め、メモ帳にハンを押すかのように五本の指を押し付ける[13])、セリーヌはジュリーであって、ジュリーはセリーヌなのである。言うなれば、視線の先が曖昧にされているために感じられた違和感は、二人が同時に同じ空間には存在していないことを示す作用であったと言えるだろう。つまり、本作は徐々に非論理的な世界へと誘われていることになる(それでもまだ半分しか足を踏み入れていないが)。
 最終的に古典的な論理的世界から非論理的世界への完全な移行は、ジュリーが再び冒頭の公園にあるベンチに座り、魔術を唱えることで示される。ジュリーのアパルトマンにおけるセリーヌとジュリーの巡り合いは、本作が、完全に非論理的な物語へと到達したことを示すものである。今まで展開していた世界とこれから展開する世界が異質なことを指し示すように、ジュリーがセリーヌに呪文のような言葉(「奥さん猫を放し飼いにしないでよね」とジュリーは目を瞑って話す)を投げかけた瞬間、句読点のように黒味が挿入されるのである。これから展開される世界は、明確な職業もそして、異性愛も推奨されることはない(ジュリーは図書館の司書を離れ、昔の恋人とも別れる)。さらには、自己同一性までもが不問にされ、物語は完全に論理的で一貫した物語から遠ざかるのである。

 

6、分裂する自己同一性
 それでは、自己同一性が不問にされるとはどういうことか。先ほど記したように本作における非論理的な世界においては、主人公たちの人格は一定したものではない。言い換えれば、ジュリーはセリーヌであり、セリーヌはジュリーでもあるのである。人格は分裂し、決して明確に捉えられることはない。二人の人格は陰と陽であるかのように正反対でありながら(二人の相反する関係は髪型によっても表されている。ジュリーは橙色のパーマへアーであり、セリーヌは黒色のストレートヘアー)、二人は鏡像関係にあり、二人で一人なのである(図9)。では、該当する場面を挙げていこう。
 セリーヌとジュリーがジュリーのアパルトマンで巡り合うと、なぜかセリーヌがドアの前で膝から血を流して座っている。ジュリーは、セリーヌを自身のアパルトマンに迎え入れ、シャワー室へと案内する。セリーヌがシャワー室からジュリーに問いかける会話はほとんど出鱈目であるし(それはアフリカ猛獣狩りをしたことや蛇やベンガル虎を捕まえたこと、あるいは、突然香港や日本での出来事が語られる)、ジュリーはその会話を聞きながらもセリーヌの持ち物を詮索し始め、意味不明な態度を取り始める(ジュリーの持ち物である鼻眼鏡を掛ける)。観客は彼女らが交わす言葉がほとんど理解できないはずである。というのも、ここで交わされている会話は物語上、何の意味も持たないからである。セリーヌがアフリカで猛獣狩りをしていたかどうかは今後一切触れられないし(ということは、セリーヌがなぜ血を流していたのかは結局わからない)、実際には彼女は芝居小屋でマジックを披露する芸人なのである。
 ただ、徐々にジュリーがセリーヌを介抱している途中に、セリーヌは過去の記憶を話し始める。セリーヌが話し始める過去の記憶は、彼女が男一人と女二人がいる屋敷において、そこにいる少女の子守をしていたという事実である。ここでセリーヌがジュリーに向かって話す記憶は「想像上の館」で展開する物語のことであり、セリーヌは既に今後展開される「想像上の館」の物語をいち早く、体感していたことになる。翌朝、ジュリーはセリーヌに伝えられた住所「逆さリンゴ通り7番地の3」(7bis, rue du Nadir-aux-pommes)を辿って、その屋敷に入り込むのである。観客はこの時点では「想像上の館」の存在を知らされてはいない。しかしながら注目すべきは、これら一連のシーンが今度は、セリーヌに変わってジュリーによって繰り返されるということである。そのことでセリーヌが話していたことは明白になり、同時に同じ場面が(セリーヌとジュリーが入れ替わって)巡ってくるということである。
 具体的に言えば、ジュリーは、セリーヌに伝えられた屋敷に入り込み、そこで起こった出来事を今度はセリーヌに伝える。先ほどは同じような話をセリーヌがジュリーに話していたはずであるにも関わらず、セリーヌは全く記憶しておらず、再びセリーヌが同じ屋敷へと入り込むことになる。言うなれば、二人は、同じ場面を入れ替わって繰り返しているということである。無論、それぞれの台詞等が一字一句全く同じということではないが、シャワーシーンや「想像上の屋敷」で起こった出来事を話す場面、また、「逆さリンゴ通り」という住所を伝えるときの場面など、明らかに類似した場面が反復するのである。二人の行動はなぜか円環的に繰り返され、最初に展開した場面がまるでなかったかのように同じ場面が(両者入れ替わって)回帰する。観客にとっては同じ場面でも、セリーヌたちにとっては初めての場面であるように、二人は何の疑いもなく、同じ行動を取るのである。つまり、セリーヌとジュリーは決して明確に離れた他者ではなく、二人で一つの存在だと捉えることができる。同じ場面を二人がそれぞれ繰り返すことで、二人が交換可能であったことを暗に示すのである(図10~15)。これは、ほかの場面でも見出すことのできる特徴である。
 例えば、ジュリーの昔の恋人であるグレゴワール(フィリップ・クレヴノ)が電話で連絡してきたとき、セリーヌはジュリーに化けて彼に会いにいく(図16)。グレゴワールはジュリーに化けたセリーヌだと気づかずに、指輪を嵌め、久方の二人の再会を寿ぐように踊りだす。しかし、セリーヌはそのような態度を取るグレゴワールに対して服を脱がし、罵詈雑言を浴びせる。グレゴワールがどれだけ甘美なメロディを奏でてもセリーヌには届かず、二人は険悪なムードになって別れるのだ。ジュリーは後ほど、これら一連の顛末をグレゴワールから電話によって知らされ、二人の愛は終わりを迎える。異性愛の成就が反故にされ、同時にセリーヌとジュリーの同一性が進展する。彼女らの人格は明確に一つではないのである。
 また、本作に挿入されている劇場におけるステージシーンにも同じことが言える。本作でのステージシーンは二つに分かれているが、ひとつめはセリーヌが中心となったマジックのシーン、そして、二つめはジュリーが中心となった歌のシーンである(図17,18)。ひとつめはセリーヌが勤める道化小屋において彼女自身が「マンドラゴラ」としてステージに立ち、マジックを披露し始める。セリーヌのマジックショーはおよそ4分近く続き、ほとんど台詞や効果音は付随されない。代わりに伴奏のピアノの旋律が奏でられる。観客との切り返しはあるものの、ほとんど物語は進展せず、一種の幕間のようにセリーヌのマジックを観客は目撃することになる(ちなみに、キースリーは、この場面について「アトラクションの映画」的側面があると指摘している[14])。
 同様に二つめのステージシーンを見てみよう。ここでは先ほどセリーヌが演じていた役の代替としてジュリーがステージに立つのであるが、セリーヌとは衣装以外はほとんど類似点がない。というのも、ジュリーはセリーヌのようにマジックを実演するわけではなく、歌を披露するのである。セリーヌのようにピアノ以外の音が聞こえないわけではないのだ。ジュリーのステージシーンはマジックではなく、リヴェットが愛するハワード・ホークス作品(例えば『紳士は金髪がお好き』[Gentlemen Prefer Brondes, 1953])やオットー・プレミンジャー作品(『帰らざる河』[River of No Return, 1954])におけるマリリン・モンローのように歌を歌うのである。ステージシーンがセリーヌとジュリーが入れ替わって演じられることで、一人の人格が分裂しているということ、そして、明確に一定の主体が存在していないということが示されている。このような二重性、分裂した個人を表象することで、本作は主人公の自己同一性が剥離され、一人の人格として物語は進行しないのである。

 

7、相反する世界観の闖入
 以上のように本作の主人公たちは二人で一つであり、それぞれの人格が分裂し合っているということが確認された。しかしながら、分裂しているのは、主人公だけではない。冒頭でも示したように、本作は、ひとつの作品のなかに二つの世界が共存しているという構造を有しており、セリーヌたちの非論理的な物語は、もうひとつの「想像上の館」の物語(論理的な物語)と鏡像関係を結んでいるのである。では、二つの世界はどのようにして本作に埋め込まれているのだろうか。
 該当する場面を見ていこう。セリーヌがマジックを繰り出し、それを鑑賞している観客たち(ジュリーも含めて)の間に、今まで鑑賞しているセリーヌとジュリーの物語とは全く異質な世界観を持った登場人物たちの映像が闖入してくる。ブロンドの髪と白く豪勢なドレスを着たカミーユ(ビュル・オジェ)、そして、人形を片手にカミーユとは対照的な女性ソフィ(マリー・フランス・ピュジェ)の断片が一瞬挿入される。同時にジュリーが看護婦として変装しているような印象を持つ「ミスアンジェル」も挿入される。何の脈絡もなく突如、挿入される断片はまるでフラッシュバックのように鮮烈なイメージを残したまま、二つの世界は思わぬ邂逅を果たすのである(図19~24)。
 実際、この二世界が突然、遭遇を果たす場面は、前後関係とは無関係なほとんど無造作なものである。セリーヌがマジックを披露し始め、その様子をジュリーが眺める切り返しショットののちに突然、上述のような場面が挿入されるのである。ジュリーが回想したと捉えることもできるが、ジュリーはそのような素振りを見せないし、セリーヌのマジックシーンとの因果関係も不明である。観客は、何の関連もない場面が互いに接合されることで、セリーヌのマジックを安定して見守ることはおそらく出来なくなるであろう。さらに言えば、今まで展開してきた物語にさえ距離を取らざるを得なくなるのではないか。まがりなりにもセリーヌたちの世界に同一化しようとしてきた観客は、ここにきて完全に物語世界から突き放される。言うなれば、今まで鑑賞してきたセリーヌたちの世界から急に引き離され、観客は自己意識を取り戻してしまうのである。
 このように唐突に挿入される「想像上の館」の世界は妻をなくした夫の再婚を巡り争う女性たちとそれに巻き込まれる幼い娘の物語である。議論の経済上、あらすじを示しておくと、妻をなくした男性オリヴィエ(バルベ・シュレーデル)は、その後釜を狙う妻の姉カミーユと妻の友人であるソフィ、そして、娘のマドリンと共に暮らしている。だが、オリヴィエは妻が死ぬ前に立てた誓いに縛られ再婚できない立場にある。その誓約とは娘のマドリンが生きている間は再婚しないというものである。オリヴィエと再婚しようと画策する二人の女性はマドリンを殺害しようとするのである[15]
 以上のようなあらすじからも、この物語は男性優位な社会を表しており、二人の女性も婚姻そのものを第一の目的としている(そのために男性に振り回される)非常に古典的な物語であることがわかる。モレーも指摘しているようにカミーユが着ているドレスは「1940年代後期から1950年代初期のハリウッドメロドラマの最盛期」を指示しており、セリーヌやジュリーたちの「1970年代のヒッピー的な服装とは対を成している。」と同時に「(メロドラマ内の)登場人物の態度や住んでいる家の装飾品なども19世紀をすぐに思い起こす暗喩に満ちている」(2009:84)のである。この物語世界の中では、女性は男性と婚姻しなければならないという閉じられた規範を抱き、それを実現するために少女を殺害しなければならないのだ。
 セリーヌたちの世界と「想像上の館」で展開する世界は、それぞれが相反している世界である。先程も指摘したように、セリーヌたちの世界では、「想像上の館」の世界とは違い、異性愛の成就が登場人物の直接的な目標ではない。むしろ、異性愛は唾棄すべきものなのである。ジュリーとグレゴワールの恋は、ジュリーの分身であるセリーヌによって破綻に追い込まれ、二人は、女同士自由に暮らしている。そこでは、男性と婚姻しなければならないという規範は消失してしまっているのだ。同様に、ジュリーのステージシーンにおいても、最初、観客に向かってセックスアピールをしながら歌を歌っていたジュリーが、突然、そのような態度を反転させる。ジュリーは、ステージを鑑賞する男性たちを蔑みはじめる。もはや、女性は男性に媚を売る存在ではない。逆に(男性たちに)軽蔑の眼差しを向ける存在なのである。
 また、キャメラワークにおいても双方の世界は、対照的である。セリーヌとジュリーの世界観を映し出すキャメラワークは不安定で視点編集すらままならない。他方で「想像上の館」の物語を映すキャメラワークは意固地に安定した状態を維持し、パンやティルトが規則通りに守られている。そのような規則的なキャメラワークに沿うかのように、「想像上の館」の登場人物は、ほとんど同じ動作、同じ台詞を繰り返し、非常に動きに制限が加えられている(ソフィが気絶するシーンは、まるで現実味がなく、古典的な演劇のクリシェのように、その場に静かに倒れる)。どれだけ同じシーンが回帰しようとも「想像上の館」の登場人物たちは、一字一句同じ台詞を守り続ける。セリーヌとジュリーが交互に(ここでも二人の交換可能な特徴が顕現しているが)「ミスアンジェル」となってこの世界へと入ったときも、(自分たちのほとんど制限がない世界とは違って)セリーヌたちは二人共ほとんど同じ動作、台詞を繰り返すのである。セリーヌたちの世界におけるアドリブのような動作、台詞とは対極にあると言えよう。
 ひとつの作品のなかに二つの相反する世界が共存することで、本作の世界は重層化・多層化される。決して一筋の物語として展開されずに、ひとつの物語にもうひとつの物語がそれぞれ絡み合い、一筋が重層的に、一面が多面的に展開する。主人公たちが分裂化しているのと同様に、本作の世界観も分裂し、層をなしているのである。観客はこのようなひとつの作品に二つの物語が組み合わされることで、ある目的に沿った一定の物語解釈を拒否される。ある物語世界が、もうひとつの異質な物語世界の闖入により相対化され、観客はある種の距離感を要請されるのだ。どれだけ同一化しようとしても、その同一化する主人公も物語も、本作の多層的分裂ゆえに捉えられることはない。観客は画面上で展開する物語世界に漫然と没入し、自己意識を透明化することで、没個性的に主体を作品に委ねるのではない。観客は映像上に提示されたものが相対化されることで生じるズレを捉え、そのズレを認識することで、映像に提示されたものをより客観的に見ることが要請されるのだ。リヴェットが求める観客像はまさに次のシーンで明示されることにも現れている。

 

8、能動的観客の喚起
 リヴェットが求める観客像が明示されるのは、セリーヌたちの世界と「想像上の館」での世界が侵食し合う場面においてである。最初は、セリーヌとジュリーが「想像上の館」の中へ直接入っていかなければ展開することがなかった物語が、後半に行くに連れて二人が直接「想像上の館」に入らなくても、魔法のボンボン(「想像上の館」から帰るときに、セリーヌたちの口になかに入っている)を舐めることで、物語を見ることができるようになるのである。このような展開は、徐々に観客への暗示を意味しているように考えられるだろう。最初は、「想像上の館」へと入っていくことで、セリーヌたちの意識は消失してしまう(彼女たちは「想像上の館」に入ると文字通り存在が消えてしまう[図25,26])。というのも、彼女らは、「想像上の館」で展開する物語において、「ミスアンジェル」になりきってしまうのであり、セリーヌとジュリーは完全に別人格へと鋳直されてしまうからである(「想像上の館」から脱出した際、セリーヌたちはなぜか憔悴している)。「ミスアンジェル」という役柄に同一化することで、セリーヌとジュリーという人格は消失してしまう。これは、ある意味、観客がある作品において提示される登場人物に自己同一化してしまう作用と類似していると捉えることができる。観客は自らの意思を透明化し、登場人物に感情移入することで自己を消失する。そのことで物語に没入してしまうのだ。
 そのような同一化の作用から彼女たちは、だんだんと自分たちの意思を取り戻すようになる。ボンボンを舐め物語を鑑賞するという行為に移行するにつれて、二人は、互いに正面を向いて(観客の方へ向いて)ツーショットで捉えられ、物語を客観的に見つめ始めるからである(図27)。ここで捉えられるツーショットは本作を見ている観客の写鏡でもある。セリーヌとジュリーを捉えたツーショットと彼女たちが見ていると考えられる「想像上の館」の物語が切り返しショットで交互に捉えられる。「想像上の館」の物語を見て、二人はあれやこれやと意見を発し始める。そこではもはや特定のキャラクターに感情移入することはない(彼女たちは自分たちが演じていた「ミスアンジェル」を客観的に見ている)。ジュリーは同じ場面が何度も繰り返すことで退屈し眠ってしまうし、セリーヌは大声で笑いながらその物語を鑑賞するのである。また、「想像上の館」の物語は決して最初から最後まで一貫したものとして構成されているわけではなく、断片的に無秩序に配置されている。鏡の前でカミーユとソフィが何かを話し合っていると思いきや、次のシーンでは唐突にグラスで切った手のひらの血を洗面台で洗い流しているシーンに飛躍したりするなど、ほとんど順序が出鱈目になっている。場面が断片的に無秩序に配列されていることで、二人(セリーヌとジュリー)は欠けているシーンを想像で補うように議論し合うのだ。DelmasやLevinsonが指摘しているようにセリーヌやジュリーが観客として本シーンで投じられることで、彼女たちと一緒にバラバラになったシーンを一本の一貫した物語へと編集する楽しみが生まれるといえよう(Delmas 19/Levinson 242)。彼女たちが二人並んでメロドラマを鑑賞する態度ははじめて映画を観たときのようにはしゃいだ様子が伺え、純粋に映画を楽しむ観客の比喩でもある。リヴェットが言うような「グリフィス、ムルナウ、スティルレルたちの偉大な映画を観たときに起こった強い感情」(Frappat 64)、そして、「…純粋な芸術を前にしたときの強い感情を呼び起こすのである」(Wiles 107)。単に提示された映像に観客は飲み込まれるのではなく、断片から物語を想像することで観客には能動性が要される。これらの場面はその暗示として捉えることができるのではないだろうか。
 しかしながら、本作が求めるのは、単に物語を客観的に、そして、パズルのように細分化された場面を正しい順序に配列しなおすことだけではない。観客の写鏡であるセリーヌたちは、作品を鑑賞するだけでは飽き足らず、作品において殺害される運命にある少女を助け出そうとするのである。つまり、セリーヌたちは段階的に物語に自己同一化していた瞬間から距離をとり始め、物語を客観的に鑑賞するという行為に及んでいく。そして、最終的に物語の結末まで変えてしまおうと画策し始めるのである。これは、観客が受動的な立場からより能動的な立場へと移行する瞬間を比喩的に捉えていると言える。物語の結末すら変更してしまおうとするセリーヌたちの行動は、観客に作者の意図に沿って正しい解釈を導き出すことを要求しているのではなく、自ら主体的に作者が意図していなかった別の解釈を創造することを要請しているように感じられる。それは逆に言うと、作者が意図した世界から一歩距離を置く(相対化する)ことで、作者が作り出した物語世界の嘘を暴いてしまうということではないか。作者が本物らしく観客に向けて提示していた物語は、あくまで虚構であり、その虚構の内側を(観客に)晒すことで、観客は今まで無批判に物語世界を受容していた態度を改めさせられる。リヴェットが観客に求める作用とはまさにこのようなことではないか。映画の虚構を取り繕うことなく、虚構のままに受け入れること。虚構を現実だと錯覚するのではなく、映画というミディアムが虚構をどのように作り出しているかを客観視することなのである。リヴェットが言う何事も押し付けない映画の本質が、ここに見事に凝縮されていると言っても過言ではないのである[16]
 では、具体的にその場面を取り上げてみよう。セリーヌたちは魔法の秘薬を図書館から盗み出した書物から製造する。セリーヌたちはその魔法の秘薬を使用することで「想像上の館」へと再び足を踏み入れるのである。セリーヌたちが映像として鑑賞していた際には隠されていた数ある部屋の中から、自由に自らの衣装を着替えるための控室に辿りつく。まずは、ジュリーがアンジェルの恰好をしてメロドラマが展開される部屋へと移動しようとするが、台詞を確認する仕草からメロドラマの世界は虚構のものであり、また、出番を示してくれる合図の音が鳴り響く通り、完全に現実世界ではなく、舞台という設定なのである。その証左として一幕が終わったとき、舞台の照明が暗くなり、どこからともなく拍手が聞こえるのだ。言い換えれば、今まで映像として現実のように見えていた場面が実は、作り物であったことが示されるのである。「想像上の館」で展開していた物語世界は相対化されることで、演劇化する。映像で提示されていた世界の内実が暴露されてしまうのである。
 虚構世界の内実が暴露されてしまうことで、「ミスアンジェル」として「想像上の館」に存在した人物も、演じられる役柄へと変化してしまう。彼女を演じるジュリーは、もはや「ミスアンジェル」という人物ではなく、あくまで演じる対象であり、実在しない人物なのである。ジュリーは自己意識がある状態のまま、自分に要求されている台本通りの台詞をぎこちないながら話し、時折、違うシーンにおける台詞を話してしまったりする。一方、メロドラマ内の登場人物たちは台詞を一字一句間違わず、身体の動きすらも正確に反復する。「彼らはルールに縛られており、……機械的に無批判的に行動を繰り返す」(Morrey, 2009:86)のである。彼らは顔色が青白く、まるで人形のように生気を感じさせない(実際、グラスで手のひらを切ったカミーユの血を洗面台で洗い流すとき、カミーユから流れ出るのは青い血である)。メロドラマ内の台本/規範にしたがって、没個性的に架空の登場人物たちを演じるのである。
 代わって、ジュリーが役を演じている間に、セリーヌが発見するのは、今までメロドラマとして映像化されていなかったフレーム外の登場人物たちの行動である。映像化されたメロドラマ内ではマドリンを殺害しようとしている犯人は藪のなかであったにもかかわらず、セリーヌがフレーム外で隠されている事実を目撃することでマドリン殺害の真犯人(映像として反復されているシーンではマドリンはカミーユによって殺害されたかのように見える)がわかるのである。メロドラマ内で採用されているキャメラワークは安定こそしているが、フレームが完全に制限されていることでフレーム外に存在しているものも共に排除してしまう。言い換えれば、必要でないと判断されたものは意図的に外部に取り残されてしまうのである。そうすることで不可視化され、知覚されないということは隠し事が生まれる。
 しかし、セリーヌたち「想像上の館」の世界とは異質な世界の住人が「想像上の館」の世界に入り込むことで、フレームによって排除されていた空間が可視化される。そこではソフィがマドリンの口に入るボンボンに薬物を注入している様が確認される。セリーヌはその事実をジュリーに知らせ、ジュリーはマドリンに知らせようとするが、フレーム外で起こっているジュリーの行動はマドリンには知覚されないのである。
 最終的にセリーヌたちは役を離れて/台本に従わずに自由に振る舞い始める。マドリンの誕生日の催しの際に流れるメロドラマ風の音楽をアルゼンチンタンゴに変え、華麗にそれぞれ手を組み合って踊り始める(図28)。メロドラマ内の登場人物たちはその音楽についていけず、まるで聞く耳をもっていないかのように情熱的な音楽にはそぐわない今までどおりのメロドラマ風の音楽に沿った踊りを継続するのである[17]。頭に何を載せられようと彼/彼女たちはマネキンのように感情を見せず、何もなかったかのように同じ演技を続けるのだ。セリーヌたちの自由でコミカルな動きと形式的で非人間的な物語の登場人物たちの行動が対比され、画面にはもはや同じ映画の登場人物たちがめぐり会ったようには見えないのである。セリーヌたちは呪文を唱え、次に続く場面で殺害されることになるマドリンをメロドラマの束縛から救いだし、セリーヌとジュリーの世界へと導き入れるのだ。同時にマドリンがセリーヌたちの世界の住人となったとき、メロドラマ内の人物たちは、まるで「メロドラマのシナリオでの俳優たちの演技の限界点」(Wiles 109)を指し示すように固まり、人形のように動けなくなってしまう。要するに、セリーヌたちが初め同一化していた「想像上の館」での物語は、すべて虚構であることが暴露されてしまうのである[18]
 

9、セリーヌとジュリーは舟でゆく
 ここで注意を喚起するために、もう一度思い出しておきたいのだが、セリーヌたちは同様に観客の写鏡でもあるのであった。即ち、セリーヌたちが自己同一化していた「想像上の館」での世界が虚構であることが暴露されることで、観客が今まで鑑賞してきたセリーヌたちの物語までもが虚構であることが露見するのである。それを表すのが、タイトルにもなっている「セリーヌとジュリーは舟でゆく」シーンである。そこでは、セリーヌとジュリー、そして、マドリンを乗せた舟が右からやってくるのに対して、左側からオリヴィエ、カミーユ、ソフィを乗せた舟がフレームインしてくる(図29,30)。セリーヌたちとカミーユを含めた「想像上の館」の人物たちが相対し、そしてすれ違っていく。(マドリンも含めて)セリーヌたちはクロースアップで写し取られるのに対し、カミーユたちは蝋人形のように凍りつき何をするわけでもなく、舟内で立ちすくむ。後続する場面の登場人物を奪われた「想像上の館」の人物たちは運動することすら叶わないのである(彼/彼女たちは即興という概念がない[完全に計算されたプロットによって支配されている]ため、シナリオ外の突発的な環境の変化に対応できない)。このような展開を本作の構造を象徴的に表す場面として、古典的な演劇、それを敷衍したメロドラマと即興で包まれた現実という二つの異なる世界のめぐり会いから、「『修道女』に代表される内省的なタブローと『アウトワン』に代表される即興的な演技が一つにまとまる」(Wiles 110)瞬間であると捉えることもできよう。
 しかしながら重要なのは、「想像上の館」の登場人物たちの舟が左側から右側へ(セリーヌたちが舟で漕いできた方向へ)航行するのに対して、セリーヌたちの舟は逆に右側から左側へ(「想像上の館」の登場人物たちが舟で漕いできた方向へ)進んでいくということである。また、セリーヌたちが乗船した舟と「想像上の館」の登場人物たちが乗船した舟がすれ違うとき、「想像上の館」の人物だけでなく、セリーヌたちも同様に蝉人形のように固まってしまっているように見えるのだ(図31)。
 つまり、セリーヌたちの物語も「想像上の館」の物語と同じように虚構世界の物語であったことが暴露される(両者とも表面上のスタイルは正反対であるが、本質は同じなのである)。セリーヌたちの物語も「想像上の館」の登場人物と同じように、表面上は自由に見えてもプロットによって支配されている(先述したように本作は脚本がある)。彼女たちも「想像上の館」の登場人物たちと何ら変わりない作者(プロット)によって操作された蝉人形なのである。「想像上の館」の登場人物たちが航行してきた方向へとセリーヌたちが舟で進んでいくことでそのことが暗示されているのだ。セリーヌたちを観客自らの写鏡として捉えることで、逆説的に『セリーヌとジュリーは舟でゆく』という作品の虚構性もが暴露されてしまったのである。
 この瞬間、観客たちは次のことに気づかなければならない。セリーヌたちは、本作を見ている観客の写鏡であり、同時にリヴェットが求める理想的な観客の鑑(手本)でもあったということを。今まで本作を鑑賞する観客は、映像の前で動けない存在であった。その身代わりとしてセリーヌたちが映像の中で動いていたのである。「舟でゆく」シーンにおいて、この役割が今度は入れ替わる。即ち、セリーヌたちが動けなくなってしまうことで、彼女たちの写鏡である観客は動きを要求されているのだ。観客の不動性(immobility)が可動性(mobility)へと入れ替わる。現にこの「舟でゆく」シーンに後続するのは、本作の冒頭でも展開していた場面である。セリーヌとジュリーが今度は入れ替わって(今回はセリーヌが眠っている際に、ジュリーが前を横切る)、追跡劇を開始する直前に、本作の上映は中断する。その続きは、本作を鑑賞していた観客に委ねられる。観客が物語の世界へと誘われ、その後の展開は、すべて観客の創造性に任せられる。物語の結末も考慮されることはない。リヴェットが言及する何も押し付けない映画の特質がこの場面で結実しているのである。

 

10、終わりに — 鏡という主題論への延長 —
 それでは、本稿のまとめとして今までの議論を振り返っておこう。本作には、互いに反する世界観が組込まれているということを確認してきた。それは、ひとつの作品に二つのタイトルが併置されているということを手始めに、本作の主人公たちの自己同一性、さらに物語世界までもが分裂しているということである。一方がもう一方と鏡像関係を結んでおり、相反する性質のためにそれぞれが互いの批判的暗喩となる。あるものが鏡を通して自身を客観視することを可能にする。即ち、ひとつの事柄が相対化されることで、独善性を帯びないということである。このような相対化というリヴェット作品の特徴をうまく表現するのが、鏡という主題なのである。本稿では、タイトル、主人公、物語世界以外にも、本作を鑑賞する観客までもが、鏡を通して、相対化されるということを論じてきた。映画というミディアムの性質上、観客には不動性が求められるが、その観客自身の姿が映画内に(比喩的に)投影されることで、能動性までもが喚起される。本作は鏡という主題を通して、相対化作用を巧みに用いた独創的な作品であると言えるだろう。
 本稿の冒頭でも触れたように、今まで本作に触れた先行研究では、互いに異なる世界観の存在が指摘されるに留まり、それぞれの世界観がひとつの作品の中で通じ合うことで如何なる作用が引き起こされるのかが触れられることはほとんどなかった。本稿は、その穴を埋め合わせるために相対化という視座から、本作を再検討することに焦点を当てた論考である。それは、既成の理論に本作を嵌め込む作業ではなく、作品そのものを注視することで見えてくるリヴェット作品の独創的な特徴である。もちろん、リヴェットが本作で求めているように、一面的な読解というものは存在しないのかもしれない。その意味で、本稿で試みられた論考は、ひとつの解釈に過ぎない。しかしながら、多面的な解釈を観客に要求することこそ、リヴェットが独創的な立ち位置を占める作家であることを証明することになるのではないだろうか。

 

付記
 本稿は筆者が2012年度に京都大学大学院に提出した修士論文の一部を改訂したものである。


[1] ヌーヴェル・ヴァーグの作家とは誰を指すかについては、未だに議論が分かれるところであるが、本稿では『カイエ・デュ・シネマ』誌(1951年4月創刊)において先鋭的な批評を執筆し、のち映画制作に乗りだす青年トルコ党(青年急進派を意味する)と呼ばれていた5人(ゴダール、トリュフォー、ロメール、シャブロル、リヴェット)を指す(細川 8)。

[2] ゴダールの研究書は1963年(Jean Collet, Jean-Luc Godard, Paris, Seghers, Collection Cinéma d’aujourd’hui 18, 1963.[ジャン・コレ『現代のシネマ1 ジャン=リュック・ゴダール』竹内健訳、三一書房、1969年])、トリュフォーの研究書は1970年(Graham Petrie, The Cinema of François Truffaut, New York, A. S. Barnes, 1970.)、シャブロルの研究書は1970年(Robin Wood and Michael Walker, Claude Chabrol, London November Books, 1970.)、ロメールの研究書は1977年(Marion Vidal, Les Contes moraux d’Eric Romer, Paris, Lherminier, 1977.)とそれぞれ初の研究書が出版されている。

[3] 例えば、モレー(Morrey, 2010:122)がそう捉えている。

[4] ドゥルーズは先に引いた著書のなかでリヴェットをブレヒトが考案した「ゲストゥス(身振り)」の作家であると分類している(252)。ゲストゥスとはドゥルーズによれば「態度の間の脈絡あるいは結節であり」、「前提された物語や、あらかじめ決まっている筋や行動イメージに依存しない」形で作用する登場人物の身体性である(250)。確かに、ドゥルーズの分類通り、『セリーヌ』には論理的な物語性は見られないし、同時に物語が人物を動かすのではなく、人物によって物語が動いている。かといって日常的なものの反復を映し出すようなシーンはほとんどないと言っても良い。「人物は演劇の壁に跳ね返され、劇の役割からも、現実の行動からも自立した純粋な態度を」(252)取り続けるのである。このような現実にあるあらゆる規範から遠ざかるリヴェットの態度を、Brownは「すべてが曖昧な関係性」(31)を保持した世界観を具現化すると指摘している。

[5] 『セリーヌ』のタイトルクレジットにおいてもシナリオに主要キャストである、ジュリエット・ベルト、ドミニク・ラブリエ、ビュル・オジェ、マリー・フランス・ピュジェが明記されている。ちなみに、本作におけるセリーヌとジュリーという役柄の名前は、ベルトとラブリエによって、リヴェットが彼女たちに提示したカレンダーから自主的に選び出されたものである(Monaco 334)。

[6] 例えば、モナコ(334)、ウッド(292)が同じような捉え方をしている。直接、本作に触れているわけではないが、リヴェットの後の作品『地に堕ちた愛』(L’Amour par terre, 1989)を主に扱った論考において、著者であるマルク・シュヴリ(Marc Chevrie)は、リヴェット作品の特徴として完全に計算立てられた物語であるにも関わらず、どこか自由で無造作な印象を観客に与えると捉えている(42)。

[7] ウィルズが指摘しているように(105)、「想像上の館(House of Fiction)」(ちなみにこの「想像上の館」という名称は、ローゼンバウムが執筆した論文“Work and Play in House of Fiction”で示されたものである。本稿では、本作で展開するセリーヌたちの物語と便宜上、区別するために使用する)で展開する物語は、ヘンリー・ジェイムズの『向こうの家』(The Other House, 1896)とされている。『向こうの家』はヘンリー・ジェイムズが舞台用に執筆し(ジェイムズの存命中は上演されることはなかった)、中編小説として出版されたものである。『向こうの家』を引用するというアイデアは、台詞を担当しているエドゥアルド・デ・グレゴリオによるものである(Rosenbaum et al. 21)。

[8] メロドラマとは四方田によれば「善なるものたちへの迫害、そして、美徳の勝利」(314)を追求する善悪二元論的ジャンルである。『セリーヌ』においては明確な善悪は設定されていないが、本作の(「想像上の館」内での)メロドラマの原案であるジェイムズの『向こうの家』には明確に設定されている(カミーユが悪でソフィが善)。また、加藤が指摘するような「女性映画」(1996:178)の特徴は本作のメロドラマに通底するものである。

[9] リヴェットを扱った先行研究で本作のテクスト分析を中心に論じたもののページ数は、ローゼンバウム4ページ(147‐150)、モナコ5ページ(334‐338)と少ない。また、ウッドは十数ページに渡って『セリーヌ』を論じているが、議論の流れがローラ・マルヴィに代表されるフェミニズム理論に沿っているために、テクストの肌理を分析するよりも、理論の説明に関心がある(291‐300)。モレーとスミスの共同著書は、リヴェット作品を主題に沿って(例えば、リヴェットにおける空間や演劇性)、作品を横断的に論じることが目的であるために、長くても数ページしか『セリーヌ』に関して触れられない(106‐112)。唯一、ウィルズだけは数十ページに渡って『セリーヌ』単体を論じているが、ほとんどが『セリーヌ』に見られる引用に着目しており、その引用元の作品を説明するのに紙面が費やされている(『向こうの家』のあらすじが載っているのもこの著書である[98‐111])。

[10] 加藤は「理想的な観客」を「初見でありながら、一本のフィルムのすべてのショット、すべてのシーンの視覚的、聴覚的相関関係に高度に自覚的な実践家」と定義している(2001:18)。本稿ではその定義を敷衍して、一人の作家の全作品に「高度に自覚的な実践家」として「理想的な観客」を用いている。

[11] このようなインタータイトル(字幕)について、別の解釈に触れておこう。このようなインタータイトルはサイレント期の巨匠の一人、ルイ・フイヤードの『ファントマ』(Fantômas, 1913~14)や『レ・ヴァンピィール 吸血ギャング団』(Les Vampires, 1915)など連続活劇(serial)の影響が垣間見られる。連続活劇とは、1910年代にアメリカとフランスで流行した、上映時間が比較的短い1エピソードを数本制作することで成立する映画形式である。その特徴として物語展開がピークに達したところで作品が中断され、文字通りクリフハンガーとなっている。代表作として、アメリカの『キャスリンの冒険』(The Adventures of Kathlyn, 1914)があり、フランスでは、パテ社が制作した『ポーリンの危機』(The Perils of Pauline, 1914)がある(Bordwell 49)。そのなかでもとりわけ、連続活劇で重要な作品を制作したのが、ルイ・フイヤードである。リヴェットは実際にアンリ・ラングロワが主催していたシネマテーク・フランセーズの上映会でフイヤードの連続活劇を鑑賞し、その影響を大いに受けている(Roud 71)。リヴェット作品とフイヤード作品の詳細な比較は今後の課題としたいが、表面的な影響関係として本作においても物語の展開が字幕によって中断され、延長される点に連続活劇に対する影響を見ることができる。また、フイヤードに対するオマージュが『セリーヌ』の後半、図書館に忍び込み資料を奪取する際のセリーヌとジュリー二人の黒装束(『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』に登場するミュジドラ演じるイルマ・ヴェップ)において捧げられている(図32)。連続活劇の影響は本作品だけではなく、リヴェットの代表作『アウトワン』にも顕著であり(『アウトワン』は、8本に分かれており、もともとはテレビシリーズとして制作された)、合計12時間を超える上映時間は連続活劇をすべて合わせて鑑賞した場合の上映時間と符合するものである(『ヴァンピィール 吸血ギャング団』は6時間半近くあり、『ファントマ』も三作合わせると3時間を超える)。

[12] このような物語の展開から遊離したような追走劇は、キースリーが指摘するように「アトラクションの映画」から「古典期」への「移行期映画(transitional cinema)」の特徴を内包していると捉えることもできるだろう(107)。追走劇は「1903年後期から1906年までにおそらく最も流行した物語のジャンル」(Musser 213)であり、また、AuerbachがMusserの言説を引用しながら述べているように事前に映画作品の内容に関して知識がなくとも、「観客の理解が主に映画作品内で示される情報で自己充足できるような」(88)ジャンルである。確かに、追うものと追われるものが画面で繰り返し反復されることで、その運動のみに焦点が与えられ物語の論理性はほとんど重要視されないといった部分は大いにあるだろう。移行期映画の主な焦点は映画の運動そのものであり、追跡が連続して繰り返されることで映画という装置が他の演劇や写真といった先行媒体と一体どう違うのかという問題を解決する一つの特質を内包しているともいえるだろう(Auerbach 89)。

[13] ちなみに赤い手の主題はセリーヌたちだけに共通するのではない。「想像上の館」の世界にも赤い手は出てくるのである。例えば、マドリンが殺害されたと思しき場面において、彼女の枕の上に赤い手のひらが刻印されている。また、カミーユがマドリンの殺害現場を見たときに彼女の手のひらが赤いことも指摘できよう。ジュリー、あるいはセリーヌが演じる「ミスアンジェル」が言うようにそれぞれの世界が赤い手によって結び付けられている。

[14] このマジックの場面もキースリーによって、「アトラクションの映画」的側面があることが指摘されている(108)。「アトラクションの映画」とはトム・ガニングが提唱した「物語を語る手段である以上に観客に向けて一連の光景を提示する手段」(57)としての映画であり、「物語に没入させることよりも演劇的な誇示の方が優位」(59)な「露出狂=展示的な質-物語世界を創造することからの自由、直接的刺激」(59)を第一とする初期映画のことである。本作で二度に渡って繰り広げられるステージシーンはまさに「アトラクション」のように物語の流れを停止し、論理的な展開から離脱していると捉えることができる。しかし、キースリーが見逃しているのは、このマジックの場面において、観客との切り返しが行われているということである。一般的に「アトラクションの映画」は、単一のショットで被写体を映し出すことを特徴としており(例えば、ジョルジュ・メリエスの『生きているトランプ』[The Living Playing Cards, 1905])、切り返しはほとんど行われない。

[15] ここで記載しているあらすじとジェイムズ『向こうの家』のあらすじは類似している。補足として『向こうの家』のあらすじに触れておこう。病気がちな妻ジュリアは、彼女の娘エフィーが存命中には再婚しないように夫アンソニーに要求し、この世を去る。アンソニーを愛するジュリアの友人ローズは、アンソニーと結婚したいがために彼の娘エフィーを溺死させる。しかし、アンソニーが愛するのはジュリアのもう一人の友人ジーンであった。ローズはエフィー殺害の罪をジーンに擦り付け、逃亡。ローズは彼女の友人であるヴィダルと結婚して物語は終わりを迎える(ゲイル 623‐626)。

[16] リヴェットは自身の理想とする映画について次のように語っている。「……何事も押し付けない映画(un cinema qui n’ impose rien)、それは物事を提示し、偶然に起こることを許容しようとする映画です」(Aumont et al. 1968: 8)。そして、それが実現できている例としてジャック・タチのプレイタイム(Playtime, 1967)を挙げ、映画において重要なのは作者が存在せず、俳優もいない。そして、物語も主題さえもないことだと指摘する。そして、「……映画の役割は常識だと思っていたことを破壊し、解体し、悲観的なものにすることだとますます信じるようになっています。即ち、世間の人々を庇護している繭から彼らを引きずり出して、恐怖へと落とし込んでいくのです。……映画の役割は人々を狼狽させること……つまり、映画はもはや居心地の良いものではないと確信しなければなりません」と答えている(Aumont et al. 1968:19)。彼の発言は非常に曖昧なものであるが、観客が作者の創作したプロットに沿って物語の流れに身を任せるのではなく、物語の虚構を虚構として提示することで観客に自主性を取り戻させようとしている点は、まさに「何事も押し付けない映画」に符合するものではないだろうか。

[17] 本文では触れることができなかったが、本作における音楽の側面にも触れておこう。本作は、ミシェル・シオンが言うようなオフの音(画面とは異質な時空間にある音源、例えば、バックミュージックなど)が使われる場面がほとんど存在しない。唯一登場するのが、冒頭のオープニングクレジットに流れていた女性の歌声だけである。それ以外に音楽が流れるのは、セリーヌとジュリーそれぞれがステージでパフォーマンスをするときに流れる音楽、あるいは、「想像上の世界」の人物がマドリンの誕生日を祝福する際に、流れる音楽である(セリーヌたちがのちにタンゴに変えてしまうものである)。どちらも音源が画面に提示されている(オルガン/蓄音機)。このような音楽の利用をすることで、本作は古典的ハリウッドが使用してきた音楽の利用方法を暴露し、オフの音は虚構であることを暗に示しているように考えられる。実際、本作ののちに制作される『デュエル』(Duelle, 1976)、『ノロワ』(Noroit, 1976)には、物語世界のなかで実際にバックミュージックを演奏する人物(観客には見えるが、登場人物には認識されていないピアノを弾く人物)が現れる。

[18] セリーヌたちがメロドラマの世界からマドリンを救出する場面を、モレーは次のように捉えている。メロドラマの世界は、異性愛を中心とすることで悲劇が繰り返されるエディプスコンプレクスの構造を持った世界であり、その構造によって子供の多種多様な可能性を奪ってしまう男性中心社会の暗喩である。その世界からセリーヌたちが少女(マドリン)を救い出すことで、本作はエディプスコンプレクスの構造を批判していると。その後、モレーは本稿の冒頭で指摘したウッドの論考を引用し、『セリーヌ』をフェミニズムの文脈から評価しようとする(111‐112)。しかし、そのような捉え方では、本作の独創性を捉え損なっている。本作が評価されるべきは、決してフェミニズムの文脈からではない。モレーは、セリーヌたちの世界を優勢にして論旨を展開させているが、そのような捉え方をすると本作が試みている二世界の共存の意味がなくなってしまうのではないか。むしろ本作を評価すべきは、(本稿が論じてきたように)ひとつの世界がもうひとつの異質な世界によって相対化されることで、一面的に解釈できないようになっているからではないか。どちらか一方の世界に優劣をつけることは、本作の主眼ではないと言えよう。
また、別の解釈としてJardonnetは、本作をフロイトの『不気味なもの』(1919)から読み解こうとする。確かに、本作にはセリーヌとジュリーというドッペルゲンガー(フロイト164‐167)、同じ場面の反復(フロイトは意図せずにおなじところに戻ってしまうとき不気味さを感じるという[169‐172])、そして、蝉人形(生きているようにみえるのに生きているのかが疑問なもの[150])が登場する。それが本作を見ている観客に不気味さを引き起こすとするJardonnetの指摘は興味深い(264)。しかし、既成理論に本作を当てはめたとしても、それは本当の意味で本作を読み解いたことになるのであろうか。どれだけ本作の特定の場面が、既成理論に類似しているとしても、それを指摘したところでことは済まされるのであろうか。

 

引用文献一覧

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