bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.16 田代誠 『日本映画論』レビュー

加藤幹郎著『日本映画論 1933-2007――テクストとコンテクスト』                             (岩波書店、2011年)

 

 

 


 『日本映画論1933-2007』(岩波書店刊)は、映像を中心にさまざまなメディア文化を横断して創造的な活動を繰り広げている加藤幹郎氏の新著である。欧米映画の専門家として盛名高い著者が全編日本映画を論じた待望の書である。
 私が本書を読んで深く感じたことは、日本映画がかくまで豊饒なものであり、かくまで豊かなものとして見る観方があったのかという驚きである。それはとりもなおさず、映画を見るということが、かくまで多角的にアプローチされることへの驚きにほかならない。
 もとよりこの紙面では、二段組み400ページをこえる本書の持つ豊かさの片鱗すら、伝えることなど望むべくもないが、本書の「かたち」にこそ、その企てが端的に具現されていると考えるので、拙評ではそのことに絞ってご紹介させていただくことにする。
 さて、「日本映画論」そして、二つの西暦年号が連結記号でつながれた本書の題名を一見された読者の多くは、日本映画史のイメージを抱かれるのではないかと思う。副題の「テクストとコンテクスト」も、とくに「コンテクスト」という言葉の含意からして、やはり、映画作品や映画文化を、社会史や文化史の観点から論じたものと推測されるかもしれない。しかしながら、本書を開くや、そのような臆断は、完全に打ち砕かれることになるだろう。もし、読者諸氏が、盛名高い著者の、日本映画についての映画史的な概観や、それぞれの時期を代表する名作紹介解説を期待するならば、その期待は、良い意味でまったく裏切られることになろう。というのは、本書は、我々読者が本書のような題名を見たときに抱くこのような期待こそが映画のどれほど豊かな富を見えなくしてしまうものか、そしてその富を奪い返すにはどうすればよいかを教えてくれるからである。
 本書は、1933年から75年間にわたる日本映画から年代順に、目次上では一監督一本に絞った(著者がセグメントと呼ぶ)断章で構成され、内外の映画が縦横に論じられる。しかし、本書の狙いは、編年体で、その年の代表作の映画史的意義を解説することにも、日本映画史の画期的な時代区分を提起することにもない。
 副題に含まれる「テクスト」という言葉こそ、本書の鍵にほかならない。映画をテクストとして見ることとは、その映像と音響を見て聴くという我々の映画体験に立ち戻ることであり、その具体的な表情を回復することである。それは概念化、一般化できない特異なものであるはずだ、と著者はいう。しかし、観客の娯楽志向のように我々に映画を楽しんだ気にさせるもの、日本映画史の言説のようにわかった気にさせるもの、名作解説のように見た気にさせるものこそが、実は、映画テクストの具体性を覆い隠しているのではないか。それが著者のいう「コンテクスト」である。
 コンテクスト自体は、映画テクストと無縁なものではなく、むしろその生成と深くかかわっている不可避の存在である。著者は、断章形式というスタイルをとることで、「その年代の突出した特異性を示したテクスト」を選びさまざまなコンテクストの交錯の特異な網目として「再読」しながら、コンテクストの自明性を揺るがし、断ち切り、他の映画テクストやコンテクストと接続することで変容させる。読者は、著者のこの所作にならって、この断章形式に導かれて、自由に断章から断章へ、自分の読み方を発見し「再読」の面白さを体験することになる。
 このようにして本書は、自らの読み方を発見するという読者の自発性の発動こそが、テクストという経験の喜びであり、本書の描き出す日本映画の豊饒さを再読することの喜びであるということを、そのかたちをつうじて実践的に教えてくれるのだ。物語としての日本映画史であることを峻拒し、一見均質な編年体という叙述形式をとりながら、読者の目にさらされるや、その読者固有の唯一無二の時間を生起させるテクスト。それが、日本映画の豊かさの発見の時間なのだ。

 

(『週刊読書人』より)

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