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伊藤 弘了
1. 序 2.空のショットの批評史
ポール・シュレイダーは、リチーが小津映画を語るにあたって使用した「もののあわれ」の概念を引き継ぐ形で、「小津作品では禅におけるように、静止状態が"風流"の気分、とりわけ"もののあわれ"を引き起こす」[6]と述べた後、『晩春』(1949年)における名高い壺の空のショットをその最も見事な例に挙げて以下のように述べている[図2]。
あるいは蓮實重彦は、『晩春』における壺の画面を説話的な持続から孤立させることの不自由さを指摘して、リチーやシュレイダーの分析を批判している。蓮實は「父親の寝顔と壺とが、ともに逆光で示されるという類似性と、父親の寝息が、壺の画面でことさら強調されているという点」[9]を挙げ、二つの画面をつぶさに検証していくことで「前景と後景の明暗の対比、不動のシュリエット、キャメラ・アングルの類似性といったいくつもの細部が、寝顔と壺との等価性を証拠立てている」[10]ことを明らかにした[図3]。壺の画面には超越性や普遍性を読み取るべきではなく、ここでは一連のショットの中で父親が壺と一体となることで物質化していることを正しく理解しなければならないと言うのだ。本稿では、蓮實のこの分析を引き継いで、この物質化した父親のショットを空のショットの一部と見なす。ここでいう人物の物質化とは、本来人間という生物として描かれるべき登場人物が、あたかも非生命的な物質であるかのように表象されている状態を指す。父親が物質化しているとすれば、その父親=非生命的な物質を捉えたショットを空のショットと呼ぶことは十分に可能なことだろう。父親が物質化することで生じたある種の空のショットが作品にどういった効果を及ぼすのかという点については、第三章で分析する。ここでは『秋刀魚の味』の最後のショットが、まさしくそういった意味での空のショットになっていることを予告的に述べるに留めておく。 蓮實はまた、このシークェンスにおいて、壺の画面が二度挿入されていることに正しく注意を寄せている。蓮實は、壺の画面が二度挿入されることで「開かれたままの娘の瞳が悲しみで曇っていく時間的な経過をも的確に刻みつけている」 [11]と述べている[図4、5]。これはリチーが空のショットの転換の機能として挙げた時間経過を表現する方法の応用的な表れと見ることもできるだろう。しかし、ここでは、それよりも二度挿入される壺の画面が原節子の表情を間に挟んで存在していることにより多くの注意を払っておきたい。壺の画面は紛れもなく空のショットと呼びうるものであり、瞳を潤ませて表情を歪めている娘の表情を、ここで二つの空のショットがさながら「額縁」のように縁取っていることで、娘の悲しみを際立たせているのである。やはりこれと同様の空のショットの機能が『秋刀魚の味』に見られる。その点についても第三章で詳しく見ていこう。 ノエル・バーチは、小津の空のショットに対してリチーやシュレイダーに比べてより慎重な立場をとっていると言える。彼は小津の空のショットに「枕ショット」という呼称を与えたことでも知られる。「枕ショット」とは、短歌や俳句における「枕詞」になぞらえて名付けられたショットで、シークェンスの始めや途中、あるいは最後に挿入される看板や屋根、洗濯物といった静物を捉えた無人ショットを指す。バーチは「枕ショット」は「説話的な流れを宙吊りにする点」[12]にその独自性があるとしている。すなわち無人の「枕ショット」が挿入されることで物語の流れは一旦停止し、そこに緊張感が生まれるというのである。これは空のショットを欠落部分と捉え、そこに意味の空白を見出したリチーの見解と重なるものだが、バーチの慎重さは、こうした「枕ショット」に意味の空白を見つつも、全ての空のショットがそれにあたるわけではなく、中にはあたかも「掛詞」のように、説話的な流れに沿ったものもあると留保をつけている点に表れている[13]。 また、バーチの研究で注目に値するのは、彼が提示した「半=枕ショット」という概念である。バーチは『東京の女』(1933年)のオープニング・シークェンスを分析するにあたって、化粧台の前に座って実に九秒間もの静止状態を保った姉(八雲恵美子)の機能について、以下のように述べている[図6]。 これは『晩春』の壺のショットを含むシークェンスにおいて物質化していた父親の状態ときわめて近いものである。第三章の分析では、バーチの「半=枕ショット」の概念にならって「半=空のショット」なる概念の導入を試みる。 しかしこうした鋭い分析を展開し、ごく常識的な判断を下しているバーチではあるが、彼が評価するのは戦前から戦中の作品に限られており、後期の小津作品に関しては「戦後作品の大部分での、動きのシステマティックな排除は結局のところ不毛のように思われるのである」[15]と述べて、一蹴してしまっている。次章では、空のショットに説話的な意味を同時に読み込もうとし、「半=枕ショット」という独創的な概念を提示したバーチの慎重な立場を継承しつつも、それは戦前や戦中の作品に限らず、遺作となった『秋刀魚の味』においてもやはり作品に強度を与えるものとして有効に機能しえているということを示していきたい。 リチーやシュレイダーが小津の空のショットを「もののあわれ」や超越論的なものと結びつけようとしたのに対して、当初クリスティン・トンプソンやデイヴィッド・ボードウェルは、小津映画が古典的ハリウッド映画の規範から逸脱している点に注目し、主として小津映画のそのような独自の形態に強い関心を示した。空のショットに関しては、説話との断絶に注目して議論を展開している。彼らは、空のショットに見られるような小津映画の空間を構成する特徴は「説話の流れのなかのどんな機能とも分離している」[16]と言うのである。小津の空間が説話とは異なる次元である種の秩序的な世界を作り上げているという指摘は洞見には違いないが、前段落で見たように、『晩春』の壺の画面は確かに説話の持続の中に存在していたのである。「もののあわれ」や「超越性」といった映画作品の具体的細部から乖離した解釈を避けるためにあえて説話的な解釈から遠ざかることを試みたのであろうが、しかし過剰さを恐れるあまり、今度は逆に説話からも遠ざかりすぎてしまった嫌いがある。もちろん、一口に空のショットと言っても、それ自体、 実に多様なあり方をしているショットであるので、一律に論ずることができないのは言うまでもなく、確かに説話から遊離している空のショットの存在を指摘することはできるかもしれない。だが、トンプソンとボードウェルが、説話との連関を考える目に、その断絶を証明することにより熱心であるのは間違いなく、その点でバランスを失しているという印象は拭えないのである。 しかし、ボードウェルはその後発表した、『小津安二郎―映画の詩学』という大部の小津論で自身の立場をいくぶんか修正しているように思われる。彼は「伝統的な批評家は、私が「内容」を忘れてしまっていると、声を大にして言うだろう」[17]がそれは断じて違うと主張し、「私がここで提案しようとしている歴史的詩学は、「内容よりも形式を上位に置く」ようなものではない」[18]と明言している。だが、そのように主張しながらも「我々は、小津の文体論よりもその題材、主題、物語構造の方に敏感になりがちである」[19]と従来の小津受容に不満を示し、小津を通して「もはやストーリー構築に従属しなくなったときの映画メディアの可能性」[20]を追究したいという自らの主要な関心を結局は隠そうともしなくなる。もちろん、ボードウェルの関心の所在はむしろ正当なものであるとも言え、題材、主題、物語構造といった面ばかりに目を向けてきた従来の研究(というより、これ らは具体的な画面や小津の編集戦略の綿密な分析を欠いている点で、もはや研究とも呼べない代物ではあろうが)を乗り越えようとする中で、多くの有意義な分析がなされたことは間違いない。本稿の考察もまたそうしたボードウェルの精緻な諸分析の上に成立しているものでもある。しかし、小津映画が「全体的構造と細部が同等の重みを持つ」と言いながら、やはりボードウェルの意識が説話的な全体像よりも細部により多く向かう傾向にあり、全体的構造と細部を再統合するための視座が欠如しているように思われるところに、その議論を補完する余地があると言えるだろう。 ボードウェルの教えを受けたエドワード・ブラニガンの論文「『彼岸花』の空間」は、おそらくこれまでに書かれたもっとも高水準の小津論である。ブラニガンはボードウェルの厳密な分析手法を踏襲しつつ、古典的ハリウッド映画の諸規則から逸脱して独自の映像世界を作り上げた小津の芸術映画の本質的様式に触れている。彼は空のショット自体の分析というよりは、それをも含む形で存在している小津の「移行ショット」に精緻な分析を施している。移行ショットとは、小津映画において、あるシーンが移り変わる際に挿入される無人の空間を含む相似形や反復を伴ってあらわれるいくつかのショットのことを指す。加藤幹郎が正しく指摘するように、小津は、1920年代以降に古典的ハリウッド映画の標準形となり、現代に至るまで高い頻度で使用され続けているイスタブリッシング・ショット(状況設定ショット)を使用せず、いわばその代わりに移行ショットを用いている点で、世界映画史上特筆すべき映画作家たりえていると言える[21]。ブラニガンは、こうした移行ショットを含む小津の空間構築の戦略に関して「たんに私たちが説話的空間を認識するための手がかりを与えるように空間を規定するのではなく、空間どうしが作用を及ぼし合う可能性や新しい種類の空間を定義する可能性をも秘めている」 [22]と述べ、そこに具体的な考察を加えていくのである。ただし、ブラニガンも師のボードウェルと同様、そうした具体的な分析を小津映画の説話と結びつけて考えてみることはほとんどしておらず、次章ではブラニガンの卓越した研究成果を視野に入れつつ、その間隙を埋められるような分析と議論を展開していくつもりである。 3.『秋刀魚の味』における空のショット 3-1.父親の悲哀を説話論的に演出する廊下の空のショット つまり、蓮實にとっては父親の悲哀は主題ですらなく、「題材」や「契機」でしかないのである。もっとも彼は「単調に反復されるこうした題材は、主題論的な共鳴作用を導き出すためにはなくてはならぬ要素である」[26]と言い添えるだけの慎重さを持ち合わせてはいる。しかし彼はさらに以下のように続けることで、あくまで重要なのは表層的な主題である点を強調している。 確かに父親の悲哀といった紋切り型の概念それ自体は、わざわざ映画で表象する必要性の薄いものかもしれない。その点、蓮實の言うように「食べること」の主題を、これほど映画的に見事に描いてみせた小津は稀有な映画作家であると言えるだろう。しかし、そうは言っても父親の悲哀が『秋刀魚の味』という映画作品にとって最重要の主題をなしているのは間違いないのである。そして小津は、本作においてそうした既存の概念をいかに映画的に処理しうるかという点でも傑出した手際を見せている。こうした側面を軽視することは小津映画の豊かさを不当に損なうものとなりかねないだろう。本稿では父親の悲哀という、確かにそれ自体としてはすでに使い古された主題を、しかし単なる題材や契機として退けるのではなく、小津がいかに映画的に独自の方法で表象したのかという点にこだわって分析してみたい。 本節で分析の対象とする四つの廊下の空のショットは、その明るさにおいて三つの段階に分類することができる。最初の二つが最も明るく、三つ目でやや暗くなり、四つ目はさらに暗くなっている。このように次第に暗くなっていく照明が、その時点で父親が抱くことになる孤独や悲しみの深さと同期している点を見逃してはならない。それぞれのショットがどのような状況で映し出されることになるのか、以下に詳しく見ていこう。 前述したように、四つの廊下の空のショットのうち、最初の二つが最も明るい画面を形成している。縦の構図で捉えられた廊下の、最もカメラよりの地点、画面の中ほどの地点、そして構図の最奥の地点の三点に照明が当てられていることが見てとれる。最初の空のショットが映し出されるのは、父親が旧制高校時代の二人の友人と料亭でクラス会の打ち合わせをするシークェンスの直後である。ここでは料亭の座敷に座っている友人(中村伸郎)のミディアム・ショット[28]から、平山家の無人の廊下のショットにカットつなぎされることになる。無人の状態が約五秒間続いた後、玄関の引き戸が開いて、出迎えに出てきた娘(岩下志麻)と帰宅した父親(笠智衆)の姿が映し出される。この最初の廊下の空のショットは約二十秒間続く(13:15~35[29]、[図7])。その後、二人の全身を横から捉えたショットへと引き継がれる。ここでは、娘に「あら、またお酒臭い」と言われた父親が「今日はそう飲んどらん」と応じると、娘が「ホントかな」と返すというやりとりが、後の伏線になっていることを気に留めておく必要がある。そして娘は廊下にあるスイッチを切って玄関の灯りを落とし、二人は室内へと入っていく。 二つ目は、父親がたまたま再会を果たした海軍時代の部下と連れ立ってバーを訪れるシークェンスの後にあらわれる。ここではバーの外の看板を捉えた空のショットから無人の廊下のショットへとカットつなぎされている。無人状態が約十秒間続いた後(44:43~53、[図8]、やはり同一ショット内に出迎える娘と父親の姿を映し出した後、二人の全身を横から捉えるショットにつないでいる。ここでも父と娘の間でお酒をめぐって「またお酒飲んでんのね」、「いやあ、そうは飲んどらん」、「飲んでる飲んでる」というやり取りが交わされる。 この二つのシークェンスが設定されているのがともに映画の前半部分であり、この時点で父親は自らの人生に対してほとんど悲観的な感情を抱いてはいなかったという点が重要である。料亭のシークェンスでは、ひょうたんというあだ名で呼ばれていた高校時代の漢文教師と、友人の一人が最近娶った後妻についての冗談を交えた明るい会話が交わされていたのであり、そこにはいかなる暗さも見られない。バーのシークェンスでも事情は同様である。そこでは久しぶりの再会を果たした海軍時代の部下の坂本(加東大介)との会話に興じ、やがてバーのマダム(岸田今日子)に促されてかけられることになる「軍艦マーチ」の音楽に合わせてお互いに敬礼しあって戯れる、非常に楽しげな父親の姿を見ることができる。またそのバーのマダムは父親の亡くなった妻に似ており、彼はそのことで年甲斐もなく上機嫌になるのである。 三つ目の廊下の空のショットは、父親が友人とひょうたんとの飲み会から家に帰ってきた場面に挿入されている。この飲み会は、クラス会の打ち合わせのために集まった前回の楽しげな会合とは違って、父親に少なからぬ衝撃を与えるものだった。酔いつぶれたひょうたんは「私は寂しいよ」、「寂しいんじゃ、悲しいよ」、「結局人生は一人じゃ、一人ぽっちですわ」と自らが抱えている孤独と悲哀の心情をこぼす。彼はその理由を、一人娘を嫁にやらなかったことに求めている。男やもめのひょうたんは娘を便利に使っているうちについに嫁にやりそびれてしまったがために、独身のまま中年を迎えて性格的にもきつくなってしまったその娘と二人で場末のラーメン屋を寂しく営むことになってしまった自らの境遇を嘆いているのである。これは同じく男やもめで、結婚適齢期に達しているにもかかわらず未婚のままの娘を便利に使ってしまっているこの父親を動揺させるのに十分なものであった。さらに同席していた友人からも、早く娘を嫁にやらないとお前もこうなるといって脅される。表情を曇らせつつ自分のお猪口に酒を注ぐ父親のミディアム・ショットから、無人の廊下のショットへとつながれる。 この三つ目の空のショットでは、開けられる引き戸の動きは捉えられているものの、その後に帰宅してきた父親の姿が映し出されることはないため、完全な無人のショットになっている(69:28~37、[図9])。一番手前の照明が落とされたこの廊下のショットは、前に見た二つのショットに比べて、明らかに画面が暗くなっている。このシークェンスでは、娘はアイロンがけをしている途中であり、玄関まで出ていくことはなく、声だけで父親を出迎えるのだが、この点は前の二つの空のショットをめぐる状況との差異として際立っている。前に見た二つのシークェンスでは、娘は玄関まで父親を迎えに出てきていたからだ。 やがて娘の前に姿を見せた父親は、彼女に向かって、嫁に行く気はないかと切り出す。この父親の唐突な発言に対して、娘は「お父さん酔ってんのね、また」と言って取り合おうとせず、アイロンがけを続ける。「ああ、少し飲んでるけどね、本気なんだよ」と言って話を続けようとする父親に「少しじゃないわよ」を言い放つ娘は、次第に憤りを露わにし始めている。そのような重要な話をいかにも酔った勢いで切り出す父親の無神経さに対する娘の憤りはきわめて正当なものであるし、またここで父親がアイロンがけの作業をしている娘に向かってこの話を持ち出している点も見過ごしてはならない。「でも、あたしが行ったら困りゃしない」と娘自身が言うように、娘が結婚して家を出ていけば、まさにそのアイロンがけの仕事を担う存在がいなくなるからである。玄関まで出迎えにくることもなくなり、父親の無神経さに対して憤りを示す娘と、自分と娘の将来への不安と焦燥から深酒をしている父親といった前二つのシークェンスとの差異が、より照明の暗くなった廊下の空のショットと結びつくことで、映画の最後で頂点を迎えることになる父親の悲哀を段階的に演出しているのである。その意味で、このシークェンスにおける廊下の空のショットは説話の流れの中にあるものだと言え、それは映画内のその他の描写とも相俟って、父親の悲哀という主題をきちんと準備しているのである。 四つ目の廊下のショットは作品終盤の、娘の結婚式当日の夜にあらわれる。このショットでは、帰宅してきた父親の姿が映し出されないばかりか、引き戸が開く動きさえも見られないため、完全な空のショットになっている(106:42~49、[図10])。照明は廊下の縦の構図の最奥のものだけが残され、四つのショットのうちで最も暗い画面を形成している。この空のショットに続いて、室内で会話をしている長男夫婦と次男の姿を捉えたショットがくる。長男夫婦が父親の帰りがあまりにも遅いことを心配しているところに、玄関の引き戸が開く音が聞こえてきて、長男の妻(岡田茉莉子)が迎えに立つことになる。カメラは続いて玄関を横から捉えた構図で、出迎える長男の妻と父親の姿を映し出す。これは一つ目と二つ目の廊下の空のショットの後に続いていたショットと同じ構図をとっている。しかし、かつて父親を出迎えた娘はすでに嫁入りを果たしており、当然ここで父親を出迎えることはない。代わりに出迎えに立った長男の妻との間で「ずいぶんお酔いになって」、「ああ」という、かつて娘との間で交わされていたのと同様のやり取りが行われる。この場面では実際父親は千鳥足になるほど深く酔っている。ついに娘を嫁に出すことに成功した父親であるが、彼の心は深い孤独と悲哀に侵されているのだ。小津は、ここでこの父親の抱える悲哀を、泥酔している父親の姿と、もはや娘が彼を出迎えに立つことはないという事実を提示することで、強調している。そしてこれらに先行する形で挿入されている照明を落とした廊下の空のショットが、これらの説話的な演出と豊かに絡まり合うことで、父親の悲哀という主題を映画的に見事に浮かび上がらせているのである。 3-2.バーのシークェンス―ランプと看板の空のショットが持つ額縁的機能 引用文中の林というのは、成瀬巳喜男の映画に多くの原作を提供したことでも知られる小説家の林芙美子のことである。与那覇はいくぶん文学的な表現で『秋刀魚の味』の「軍艦マーチ」が太平洋戦争の前後ですっかり状況が一変してしまった日本人を送葬するものとなっていることを指摘しているわけだが、だとすれば、この観点からもやはりこのバーのシークェンスは葬式の機能を果たしていると言えるだろう。したがって、このバーのシークェンスは幾層もの次元で葬式という儀式の場となっていたということになる。たとえば、まさにその葬式という言葉を発したバーのマダムは、彼女に似ているという亡妻(の葬式)の記憶を父親によみがえらせたであろうから、父親はここで今一度自分が妻を失っていることを確認することになるであろう。あるいは、先ほど確認したように、このシークェンスは結婚して家から出ていった娘の象徴的な葬式の場ともなっている。またそのことによって孤独感と悲哀感を強めた父親は、このとき自分の人生が下り坂に差しかかっていることを痛感させられもしただろう。その意味で「軍艦マーチ」は、父親が娘とともに過ごすことのできた楽しかった時代への葬送歌と言うこともできる。このように、この三回目のバーのシークェンスで流れる「軍艦マーチ」は彼の悲哀をかき立てる重要なモティーフとなっているのである。 この三回目のシークェンスの終わり際にあらわれる、空のショットを含む七つのショットは一回目のシークェンスとの差異を強調するものとなっている。まずは、隣の酔客のやり取りを一瞥した後、手に持っていたグラスの中の酒を飲み、グラスをおいて沈鬱な表情を浮かべる父親のショット(105:49~106:03)が映し出され、店内を歩いている女性店員の全身ショット(106:03~10)が続いた後、父親の寂しげな後ろ姿を捉えたショット(106:10~17)につながれる。次にカメラは再び父親の正面にまわり、依然として沈鬱な表情を浮かべている父親の姿を捉える(106:17~24)。これは三つ前のショットと同じ構図をとっており、酔いの回っている父親はわずかにふらついているものの、ほとんど静止していると言ってよく、先ほどと同じ姿勢を保っている。続いて、店内の天井灯の空のショット(106:24~29、[図13])が捉えられ、またもや沈鬱な表情を浮かべている平山のミディアム・ショット(106:29~36、[図14])が映し出された後、店外の看板の空のショット(106:36~42、[図15])につながれ、先ほど確認した廊下の四つ目の空のショットへと引き継がれる。このように、三回目のシークェンスでは、沈鬱な表情を浮かべた父親のミディアム・ショットが同じ構図で三度も繰り返されるのである。 さらに特筆すべきなのは、天井灯と看板の空のショットに挟まれるようにして平山のミディアム・ショットが挿入されている点である。一回目のシークェンスにおいては、天井灯の空のショットは看板の空のショットへと直接つなげられていたのだから、この差異は特に際立っていると言える。これら三つのミディアム・ショットによって捉えられている平山の沈鬱な表情は、先ほど確認したように、娘を嫁に出したことや戦争、亡妻の記憶を刺激されたこと、および自らの人生が終りに向かいつつあることの自覚によってもたらされた孤独と悲哀とを如実に物語っており、それが二つの空のショットに挟まれることで、さらに強調されている。すなわち、前回のシーンとほぼ対称をなすように空のショットを配列しておきながら、そこに人物のショットを挟み込んであえてその対称性を崩し、差異を強調することで、そこに映し出されている人物の表情や心情(ここでは父親の沈鬱な表情から読み取れる彼の孤独と悲哀)を観客により強く印象づけることができると考えられるのである。空のショット一回目と三回目のシークェンスの終わり際をほとんど同じような空のショットでつなぐという反復的な演出をしつつも、三回目のシークェンスにおいては沈鬱な表情を浮かべる父親のミディアム・ショットを三度繰り返して挿入したことに加えて、三度目のミディアム・ショットを二つの空のショットに「額縁」のように縁取らせて見せることで、これまで確認してきたような要因から説得的に描かれている父親の沈鬱な表情をより一層強調し、父親の悲哀の主題をはっきりと浮かび上がらせているのである[35]。 またこの空のショットによる演出は、それぞれのシークェンスの後にくる、廊下の空のショットとの間に説話的な連続性を持たせてもいる。前述したように一回目のバーのシークェンスの後にくる廊下の空のショットと、三回目のバーのシークェンスの後にくる廊下の空のショットが、一回目は明るく、三回目は暗く設定されていることで、父親の楽観的な気分と孤独と悲哀に苛まれた気分との鮮やかな対照を表現している。このような空のショットの機能は、リチーが挙げたものには含まれていないし、シュレイダーの言うような「もののあわれ」や「超越性」といった抽象的な概念からも遠く離れている。また、トンプソンとボードウェルが言ったような説話の流れとの分離も当てはまらない。バーチが一蹴した最晩年の『秋刀魚の味』の空のショットには、蓮實が軽視した父親の悲哀の主題を説話の流れの中に描き込むという豊かな機能が付与されているのである。 3-3.終末部の分析―主観的な空のショットと物質化した父親の半=空のショット 2.階段の空のショット(111:14~19、[図17]) 3.二階の娘の部屋の空のショット(111:19~27、[図18]) 4.姿見の空のショット(111:27~34、[図19]) 5.娘の部屋から階段側を捉えた空のショット(111:34~41、[図20]) ここではこれらの空のショットが映し出される順番に注目したい。これらの空のショットはあたかも父親が目にしていったものを順になぞるかのようにあらわれているのである。これらの空のショットの直前にあるのは居間に座って「一人ぽっちか」とつぶやき、「軍艦マーチ」の歌詞を口ずさむ父親のミディアム・ショットである。居間に座っていたこの父親が廊下に出て玄関とは反対側を向けば、その視界には縦の構図で台所が収まるはずである[図16]。そして台所の手前の階段を上がり[図17]、娘の部屋へと至る[図18]。三つ目のショットではすでに画面の奥に姿見が見えているのだが、四つ目のショットでその姿見はよりカメラに近い位置から捉えられることになる[図19]。これは二階の娘の部屋に足を踏み入れた父親が、もはや娘の姿を映し出すことはないその姿見の近くまで移動したかのような印象を与えるものである。その後、娘の部屋から離れるべく後ろを振り返れば、五つ目の空のショットのように娘の部屋からわずかに階段が覗いて見える画面が得られるだろう[図20]。そしてその次にくるのは一階の廊下から階段を見つめている父親を横から捉えたミディアム・ショットである[図21]。階段を下りた父親が、その日の朝まで娘が暮らしていた場所を再び見上げて、孤独感と悲哀とを新たにしている様子がその沈鬱な表情からうかがえる。つまり、これらの一連の空のショットは父親の主観ショットであるかのようにも見えるのである。 さらにここで映画音楽として流れている「軍艦マーチ」が、これらの空のショットの主観性を強調している[36]。これらの五つの空のショットに先行するショットで父親が歌詞を口ずさんでいた「軍艦マーチ」を引き継ぐかたちで、そのメロディーをなぞる映画音楽が流れ始め、それが三つ目の空のショットの終わり際まで続く。そこから『秋刀魚の味』のテーマ音楽へとゆるやかに引き継がれ、エンド・マークに向けて次第に音楽が盛り上がっていくのである。この父親の孤独と悲哀の象徴である「軍艦マーチ」からのテーマ音楽への連続的な移り変わりは、父親の個人的な悲哀が同時に作品全体の主題であったことをも告げていると言えるだろう。 もちろん、これらの空のショットが完全に父親の主観ショットであると断定することはできない。父親は階段など上がっていないということも十分考えられる。映画はそれ以上の情報を描いてはおらず、事態はあくまで曖昧性のうちに留められているのである。しかし、こうした空のショットの並び順と映画音楽との有機的な連関によって、観客にあたかも父親の視点を通してこれらの空のショットを見ているような印象を与えるのは間違いない。つまり、これらの空のショットは、単に観客に娘の不在を印象づけるだけでなく、その不在を噛み締めているのがまさに父親自身であることを知らしめ、父親の悲哀という主題を際立たせるべく存在していると言えるのである。ボードウェルはこの場面について、「ラスト・シーンでは、平山は一階でかすかに体を揺らせながら座っているが、一連のショットで玄関が示され、次に二階が現れ、誰もいない部屋が示されたあと、今度は階段の下のところに立っている平山が再び映される。あたかも彼が「作者による」注釈的描写にやっと追いついたかのように」[37]と述べているが、この解釈には疑問が残る。本文で述べたように、ここでは五つの空のショットがあたかも主観ショットであるかのような順番であらわれており、確かにその意味で階段を見つめる平山を遅れてきた視点と言うことはできようが、それを単に「作者による注釈的描写」として済ませるわけにはいかない。この場面に関するボードウェルの解釈上の不備は、おそらくここでの空のショットの説話的意義と映画音楽を分けて考えてしまったことから生じたものである。すなわち、ボードウェルはこの場面で流れる「軍艦マーチ」について、「威勢のよい軍艦マーチが説話と無関係に演奏されたあと、路子の部屋が現れ、娘の不在を、平山の戦争中の生活の記憶、バーのホステスへの思い、妻の思い出に結びつける。それは、平山が共有することのできない、皮肉な「外部」からの洞察である」[38]と述べて、あくまで映画音楽を「説話と無関係」であり、「外部からの洞察」に当たるものと考えようとするのだが、ここでの「軍艦マーチ」は、悲哀を抱えた平山が口ずさむメロディーを引き継ぐ形で流れ始めたのであり、決して「説話と無関係」なものではない。むしろここでは、主観的な映画音楽と連動して説話の流れの中にあらわれる空のショットがまず観客に娘の不在を印象付け、その後に平山のショットを提示し、注意深い観客に対して、一連の空のショットが父親の主観ショットであった可能性を事後的に示唆することで衝撃を与え、この父親が抱えている悲哀の大きさを強調しようとしていると考えるのが妥当であろう。 空のショットがこのように主観的な機能と深く結びついて作品の主題を支えていることに言及している論者はこれまでにいなかった。たとえば蓮實重彦は、空のショットについて以下のような見解を示し、その非人称性を強調している。 もちろん、空のショットは多くの場面で非人称的なあらわれ方をしている。リチーが分類してみせたように、確かに映画の冒頭に導入される空のショットや、あるシークェンスの始まりを示したり、場所を提示したりするための移行ショット内に見られる空のショットは誰が見ているのか判然としない非人称的なショットであることが多い。しかしながら、『秋刀魚の味』の終末部に見られる空のショットのように、空のショットがあたかも主観ショットであるかのように用いられることもまたあるのである。空のショットが持つこの豊かさを、見逃してはなるまい。 これらの五つの空のショットに続く『秋刀魚の味』の最後の二つのショットはともにその画面内に父親の姿を収めている。そのため通常であればこれらのショットを空のショットと呼ぶことはできないだろう。しかし、本稿では、最後のショットにおいて途中から父親が物質化してしまうことでそこには人がいなくなったと見なし、第一章で触れた蓮實重彦やノエル・バーチの先行研究を踏まえて、これを「半=空のショット」と呼ぶべきものとして捉え直してみたいと思う。 『秋刀魚の味』の最後から二つ目にあるのは階段を見つめる父親のミディアム・ショットだが、このときの父親の表情は、彼がバーで見せたのと同様に沈鬱なものである(111:41~49、[図21])。照明は抑えられ、父親の顔は影になっている。その後、次のショットへとカットされ、父親は台所へ向かって歩いて行く。台所へ到達した父親は、立ったままやかんの水をコップに注ぐと、それを一息で飲み干し、コップをテーブルの上におき、その場にあった椅子に腰を下ろして、頭を垂れる。数秒間その状態が持続した後、画面にはエンド・マークがあらわれることになる。 父親の一連の動作を収めたこのショットは四十秒以上続き、この最終末部で最も長い持続時間をほこるショットとなっている[40](111:49~112:33、[図22])。縦の構図の一番奥に位置する台所の椅子に腰を下ろした父親はロング・ショットで捉えられていることになり、また照明もかなり抑えられているため、身体の大部分が影になっており、もはやその表情をうかがうこともほとんどできない。こうした父親の姿は、蓮實が指摘したような『晩春』の京都の夜に物質化した父親の姿に重なり、バーチが「半=枕ショット」と呼んだ状況をも思い起こさせる。つまり、このショットにおいて、父親は生身の人間からほとんど物質的なものへと変貌を遂げているのである。 しかし「半=空のショット」と定義することで、わざわざ通常の空のショットの差異を強調したように、これを空のショットそのものと見ることはできない。いくら父親が物質化しているとは言え、そこに人がいることを認めないわけにはいかない(しかもこの「人」は映画の本筋に関係ない通行人などではなく、紛れもなく本作の主人公たる人物なのである)。また、泥酔しているこの父親が完全な静止状態には至れず、わずかにではあるが揺れ動いている点を無視するわけにもいかないだろう。だとすればこのショットはやはり空のショットとそうでないショットのあわいに存在する半=空のショットとして捉えるべきものということになる。また、そうであるからこそ、このショットには意義があると言える。この最後の半=空のショットは、その直前にあらわれた最終末部を構成する一つ目の台所の縦の構図の空のショット[図16]と同じ構図をとっている。この一つ目の空のショットと最後の半=空のショットは、間にわずかに五つのショットを挟んだだけの、映画内においてごく近しい位置に存在しているため、注意深い観客ならその対比を見逃すことはないだろう。すなわち、最後の半=空のショットにおいて、一つ目の台所の空のショットで空白になっていた空間に、孤独感と悲哀感に押しつぶされそうになってほとんど物質化している父親の姿を描きこむことで、その空の空間に収められるべき父親の姿こそが、この映画の最後を飾るのにふさわしいということを強調しているのである。そしてこの父親の姿が象徴しているものこそ、まさしく父親の悲哀という主題にほかならないのである。 4.結
註 [2]蓮實重彦「『とんでもない』原節子―小津安二郎はいまなお未来の作家であることをやめてはいない」、『UP』、東京大学出版会、2004年1月号、1頁。 [3]リチー、ドナルド『小津安二郎の美学』、山本喜久男訳、東京:フィルムアート社、1978年、125~126頁。 [4]同書、236頁。 [5]同書、238頁。 [6]シュレイダー、ポール『聖なる映画―小津・ブレッソン・ドライヤー』、東京:フィルムアート社、1981年、86~91頁。 [7]同書、91頁。 [8]ボードウェル、デヴィッド『小津安二郎 映画の詩学』、杉山昭夫訳、東京:青土社、2003年、187頁。 [9]蓮實重彦『監督 小津安二郎』、東京:ちくま学芸文庫、1992年、253頁。 [10]同書、253頁。 [11]同書、253頁。 [12]バーチ、ノエル「小津安二郎論―戦前作品にみるそのシステムとコード」、西嶋憲生、杉山昭夫訳、『ユリイカ』、青土社、1981年6月号、83頁。 [13]ただし、空のショットと、いかにも日本的な修辞法である枕詞との結びつけは安易にすぎるとの批判も存在している。たとえばボードウェルはバーチの言う枕ショットが枕詞としての機能の他に序詞や(バーチ自身も述べているように)掛詞のようにも機能している点を指摘し、その名付けの安直さを批判している。 [14]同書、88~89頁。 [15]同書、93頁。 [16]トンプソン、クリスティン/ボードウェル、デイヴィッド「小津作品における空間と説話(中)」、出口丈人訳、『ユリイカ』、青土社、1981年8月号180頁。 [17]ボードウェル 前掲書、257頁。 [18]同書、60頁。 [19]同書、317頁。 [20]同書、257頁。 [21]加藤 前掲書、147~148頁。 [22]Edwrd Branigan, "The Space of Equinox Flower", in Peter Lehmen, ed., Close Viewings: An Anthology of New Film Criticism (Florida State University Press, 1990), pp. 99、拙訳。 [23]ただし、ここで注意しておかねばならないのは、これは蓮實重彦が『監督 小津安二郎』の中で頻繁に用いていた「説話論的な構造」という術語とは決定的に異なるものだということである。蓮實はこの術語について「対立が融合へと向かう運動、それが真の意味での小津の物語だ。この物語を、個々の作品の画面の連鎖を支える物語と混同しないために、説話論的な構造と呼ぶことにしよう(蓮實 前掲書、40頁。)」と定義して、かなり限定的な意味で用いている。そのヴァリエーションには「説話論的な機能」、「説話論的な持続」といったものもある。 [24]厳密にいえば、長男はこのショットが映し出された時点ですでに室内にいる。しかしこの直前にあるのは長男が妹の好意を寄せている同僚にそれを切り出すとんかつ屋のシークェンスになっており、実質的には時間的経過と長男の帰宅を示す機能を果たしていると言える。 [25]蓮實 前掲書、67頁。 [26]同書、67頁。 [27]同書、68頁。 [28]本稿では、登場人物の胸あたりよりも上を切り取ったショットを、ミディアム・ショットとして扱うこととする。 [29]『秋刀魚の味』の分析にあたっては『小津安二郎名作映画集10+10―第7巻 秋刀魚の味+出来ごころ』(小学館、2011年)付属のDVDを用いた。以下で使用する再生時間はすべてこのDVDをWindows Media Playerで再生した場合のものである。 [30]このバーを舞台に展開される三つのシークェンスに見られる空のショットの極めて論理的な変奏については、ボードウェルによる、本稿とは異なる観点からの精緻な分析がある。詳細は、デヴィッド・ボードウェル『小津安二郎 映画の詩学』、杉山昭夫訳、東京:青土社、2003年、231~232頁を参照されたい。 [31]小津のもとで助監督を務めた経験のある高橋治は「この岸田の役は笠の亡妻に似ているという設定が用意されている。それは男と女の関係には発展しないのだが、一方的に笠がある救いのようなものを求めて岸田の店に来ることは観客に伝わっている」と述べている。(高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』、東京:岩波現代文庫、219頁。) [32]蓮實 前掲書、90頁。 [33]1回目のバーのシークェンスで、戦後の苦労を語った坂本が「そこへいくと艦長なんか、何にもご苦労なかったでしょうけどね」と言うと、父親は「いやいや、私も苦労しましたよ」と応じている。また、内田樹はこの父親の妻が戦災でなくなった可能性を指摘しているが(内田樹『うほほいシネクラブ』、東京:文春新書、191~192頁。)、そうだとすれば戦争の記憶と亡妻の喪失という2つのモティーフは、より強力に結び付けられていると言えるだろう。 [34]與那覇潤『帝国の残影―兵士・小津安二郎の昭和史』、NTT出版、2011年、153頁。 [35]小津の画面はしばしば絵画的であると評されるが、固定カメラによって捉えられたそのような厳密な構図の中で、ほとんど動きを止めた人物の姿は「活人画」のそれを思わせる。しかも活人画には「額縁ショー」と呼ばれる、文字通り額縁の中で人物がポーズを決める形態のショーがあり、ここでの空のショットの額縁的機能と動きを止めた父親の姿を嫌でも連想させる。活人画の歴史と概略については、ジョージ・R・カーノードル『ルネサンス劇場の誕生―演劇の図像学』、佐藤正紀訳(晶文社、1990年、84~160頁)に詳しい。小津映画、あるいは映画一般と活人画の関係については、別の機会に詳しく論じてみたい。 [36]「小津安二郎―音の世界」(『キネマ旬報 臨時増刊号 小津と語る』、キネマ旬報社、1994年7月7日号、65~76頁)と題された論考を発表している片山素秀は、小津映画の音に注目した数少ない論者のひとりである。ここには小津の映画音楽を担当した黛敏郎と斎藤高順へのインタヴューも収められており、これは一読の価値があるが、小津映画を「反劇的な映画」、「去勢された映画」と仮定して、もっぱらストーリーと映画音楽の乖離をのみ考察している点で全体として不十分な論考であると言わざるをえない。 [37]ボードウェル 前掲書、595頁。 [38]同書、591頁。 [39]蓮實 前掲書、152~153頁。 [40]ボードウェルの調査によれば、『秋刀魚の味』のショット一つあたりの平均的長さは7秒となっている。したがって、この数量的事実からも最後のショットの41秒という持続時間がいかに長いものであるかということがうかがえるだろう。(ボードウェル 前掲書、597頁。) 参考文献
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