本邦初の本格的西部劇映画論にして空前絶後の革新的アメリカ論
川本徹著『荒野のオデュッセイア―西部劇映画論』(みすず書房、2014年)を読む


伊藤 弘了

『荒野のオデュッセイア--西部劇映画論』

 本書の学術的意義を一言で説明するならば、副題に明示されているように西部劇という(言葉の正しい意味での)ジャンル映画[1]について本格的に論じた、本邦初の映画学研究書であるということになろうが、しかしそう言ってみたそばから、人はこのようなあまりに簡明な要約によって不当に言い落とされることになる本書の別の革新的諸側面にただちに思い至り、それらを拾い上げるべく急かされるようにして再び口を開きかけてはみるものの、だがそのためには途方もない饒舌が必要とされることにはたと気がついて、自分が立たされたその苦境と呼ぶにはあまりに悦ばしい事態を前に開きかけた口を閉じることもままならないまま、ただひたすら狼狽えるしかないということにもなりかねない。紙幅の限られた本書評では、もとより本書の卓越性をすべて明らかにするための饒舌は許されていないので、ここでは主として本書を前にしたときの筆者の幸福な驚きについて具体的に語ってみることで、その圧倒的革新性の片鱗を示してみようと思う。それはとりもなおさず、読者諸賢の中に眠る「明らかに卓越した書物である川本徹氏の『荒野のオデュッセイア―西部劇映画論』そのものをはやく読みたい」という欲望を喚起するための試みでもある。
 むろん、本書を「本邦初の本格的な西部劇映画論」として遇すること自体は何ら間違ったことではないのだが、しかし、本書は確実にそれ以上の境地に達している稀有な書物なのであって、筆者はここでその点を強調しておきたいのである。なるほど、西部劇映画をめぐる論考が本書を支える屋台骨となっていることは明白な事実である。じっさい、著者は第一章で、今日、西部劇映画というジャンルの始祖としての地位を簒奪されかけている『大列車強盗』(エドウィン・S・ポーター監督、1903年)を取り上げ、緻密極まる先行研究の検討と映像分析とを通して、そこに本ジャンルの指標たる「未開対文明のモチーフ」が胚胎していた事実を正確に探り当て、本映画を改めて「映画史上、最初の西部劇」の地位へと正しく送り返す。
 ここまでのことであれば、さしあたり本書を「西部劇映画論」と呼んで安全地帯から感心してみせる態度もあるいは許されたのかもしれない。しかしながら、本書の真骨頂は、この厳密な西部劇映画論(ジャンルの出発点の同定)を展開するために歴史や文学、政治学といった人文社会諸科学領域の知見を総動員して、映画学の内外に及ぶ広範なアスペクトからの検討を加え、しかもそれだけにとどまらず(というよりむしろ)、そこを基点としてあらゆる方向への更なる議論の深化を促す姿勢にこそ宿っているように思われる。著者自身「議論の緻密さよりも、論点の豊富さと視野の広さを優先することを選んだ」(34頁)と語っているが(言うまでもなく本書においては議論の緻密さと論点の豊富さ、視野の広さは著者の謙遜とは裏腹に高い水準で並存しているのだが)、この著者の徹底して開かれた豊かな知性の有りようそのものが読者を驚かせもすれば、深く感動させもするのである。
第一章に即して、その議論の広がり方について少しだけ具体的に述べておくと、著者は『大列車強盗』に綿密なテクスト分析を施す際に、同時代における本作の上映形態を視野に入れて検討している。すなわち、本映画がファントム・ライド映画(走行中の列車から撮影された移動風景を見せる映画)とともに、ヘイルズ・ツアーズという列車車両を模した上映装置で上映されていたことに正しく注意を寄せ、そのことが映画観客を(本映画の約10年後に定着することになる切り返し編集とは違った形で)映画内世界へと参入せしめ、荒野に文明が立ち上がる瞬間を文字通り(映像通り)生きさせることにつながっているのだと指摘する。ここでは、映画のテクスト分析と、映画館/観客論とを鮮やかに接続して見せているのだが、こうした総合的な分析は、これまで切望されていながら十全に果たされえなかったものであり、この点においても本書の試みは高く評価されなければならない[2]
 つづく第二章では、西部劇とは一見関係の薄そうな21世紀のSFアニメーション映画『トイ・ストーリー3』(リー・アンクリッチ監督、2010年)を議論の俎上に載せ、その冒頭部分に西部劇の特権的風景イメージたるモニュメント・バレーが、列車や(明らかに核兵器を模したと思われる)「サル爆弾」なる兵器とともに登場していることを指摘し、そもそも付近にレールなど敷かれていないモニュメント・バレーと鉄道の組み合わせが与える本来不自然であるはずの自然さが、いかにアメリカ国民(のみならず日本国民)の間に(も)形成されてきたのかという、風景イメージをめぐる社会的意味生成の過程を明らかにしている。その上で、フロンティアに敷かれた当時の最新技術(テクノロジー)の結晶たる鉄道が、物理的なフロンティアの消滅を経た後、やがてニュークリア・フロンティアという新たなフロンティア・イメージのうちに核兵器の成立を間接的(フロンティア・イメージの連繋)にも直接的(核兵器の原料たるウランの採掘場や、実験場が西部にあったという歴史的事実)にも準備していたことを映画作品と絡めて詳細に論じている。つまりここでは、映画テクストの詳細な分析解釈と、歴史書や一次資料(パンフレット『ネヴァダ核実験場地域内の核実験の影響』[1955年]の挿絵)、西部開拓時代に撮影されたアンドリュー・J・ラッセルの写真(『グリーン・リヴァーの仮説と常設の鉄道橋とシタデル・ロック』[1868年])などとを精妙に統合させ、卓越した映画学者でなければ成し得ないであろう鮮やかな手際で鉄道建設と核開発の連続性を論証してみせているのである[3]
 これだけ多岐にわたる議論を展開しているにもかかわらず著者の語り口は明晰そのものであり、読者が置き去りにされることはないという点も、驚くべき事態であると言うほかない。こうした著者のすぐれた論理構成力が遺憾なく発揮されているのが本書第三章である。より正確を期して言えば、第三章の配置を含む「文明と荒野を対極におく、西部劇そのものの構造に対応」(31頁)した本書全体の作りが、それ自体ですぐれて美的な魅力を放っているのである。第三章で中心的に論じられることになるのはカウボーイたちであるが、荒野(男性性)と文明(女性性)を仲介するカウボーイを論じる本章を、鉄道(文明のシンボル)とモニュメント・バレー(荒野のシンボル)を論じる前後二章の間に置くというアイデアもさることながら、それを無矛盾のうちに成し遂げてしまう研究者=文章家としての著者の卓抜な技量にこそ、ここでは惜しみない賞賛を送りたいと思う。本章では、西部劇において入浴するカウボーイたちが帽子をかぶったままだったり、葉巻をくゆらせていたり、グラスを持っていたりする理由が考察解明されている(その驚くべき結論については、是非とも本書第三章を読んで直接確認していただきたい)。
 第四章と第五章では、モニュメント・バレーに焦点が当てられ、映画における風景の表象が問題にされる[4]。第四章では、ジョン・フォード監督の代表的西部劇映画『捜索者』(1956年)を取り上げ、本映画において特異な偏在性を示すモニュメント・バレーに着目し、フォードの実人生やフィルモグラフィを踏まえつつ、この岩石砂漠があたかも多島海(具体的には英雄オデュッセウスが10年間さまよった地中海を連想させると指摘している)であるかのように表象されており、実際にそのように機能していたことを緻密なテクスト分析に基づいて説得的に論じている(本書のメイン・タイトルが『荒野のオデュッセイア』となっている所以である)。そして、この多島海としての広大なモニュメント・バレーの風景と登場人物たちの精神変化の相互作用をフォードがいかに精妙に描写しているかということを、西部劇を論じる際に避けては通れない人種の問題を視野に収めつつ、明らかにしていくのである。また、最終第五章において、著者の視野は文字通り惑星規模の広がりを見せ、その視点は宇宙の高みまでのぼっていくことになる(西部のフロンティからスペース・フロンティアへ)。ここではラフル・ウォルドー・エマソンらの環境論的な議論を参照項として批判的に検討しながら、『西部開拓史』(1962年)との比較を通して、スタンリー・キューブリック監督のSF映画『2001年 宇宙の旅』(1968年)のラスト・シーンに驚くべき、しかしながら非常に説得力のある画期的解釈を施してみせる。
 以上、各章の刺激的かつ充実した議論に関して要点に絞って概観してきたが、ここまでのところで、本書が、多岐にわたる厳密な議論と卓越した構成力が精妙に合致して織り上げられた驚異的なテクストであることがご理解いただけたことと思う。本書の序章と結論とで二度強調しているように、著者には「西部劇の理解を抜きにして、アメリカを十全に理解することはできない」(199頁)という強い意識があり、その自覚が映画テクスト内部の分析を、常にテクスト外部の社会/歴史/環境/風景/科学技術/文化論諸事象との往還関係のうちに捉えようとする果敢な試みにつながり、この類稀なる書物として結実したのだろう。
 本書評の最後に、著者の真摯な研究姿勢について簡単に触れておこうと思う。本書を一読すれば、著者が「映画学の未来にむけて開かれた、充実した議論」(54頁)を展開しなければならないという強い使命感に常に衝き動かされていることは瞭然であるが、この誠実な学問的態度は映画学における著者の直接の師である加藤幹郎氏(京都大学大学院教授)譲りのものであることを指摘しておきたい。加藤氏はこれまで本邦初の本格的かつ学術的に厳密なジャンル映画論や風景論、音響論、映画館/観客論などをものしており、映画学における膨大な未踏領野を文字通り切り拓いてきた当代随一の映画学者=批評家であるが、本書評でも部分的に言及したように、本書は加藤氏が開拓したジャンル論(西部劇映画論)、風景論、映画館/観客論を適切に踏まえつつ、それらの議論をさらに遠くまで推し進めようとする試みでもあった。加藤氏自身が、かつて「誰もゼロからはじめる必要はない」[5]と書いていることからも明らかなように、同氏は、先行研究を引き継ぎ、その議論を独自に発展させ、その上で後続の研究者/一般読者たちに向けて成果を広く公開することの重要性にすぐれて自覚的な研究者である(この点において両者の姿勢は通じ合っており、ここには類稀なる豊かな師弟関係の実例を見ることさえできる)。じっさい、本書は日本国内のみならず、アメリカ本国における西部劇映画研究に重要なインパクトを与えうる高い質を備えたものであり、今後の国際的/学際的な研究の発展のための重要な契機となることは間違いないだろう。著者の研究によって、西部劇映画およびそれを踏まえたアメリカ論をめぐる広大な、しかし痩せ細っていた土地は再び豊かに開拓され、そこに敷かれた強固なレールは着々とその距離を伸ばしつつある。快調に走り出したこの列車に、我々も乗り遅れてはならない。

 

[1]京都大学大学院教授で映画学者=批評家の加藤幹郎氏によれば、ジャンル映画とは「スタジオ・システム下で製作配給公開されたフィルムのこと」であり、それはつまり「古典的ハリウッド映画の別名」だということになる。(西部劇をも当然そのなかに内包する)ジャンル映画に関する総体的かつ本質的議論に関しては加藤氏の『映画ジャンル論―ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社、1996年)が必読である。

[2]ヘイルズ・ツアーズや映画館/観客論の詳細については加藤幹郎氏の『映画館と観客の文化史』(中公新書、2006年)を参照されたい。

[3]また、この章では議論の前提として、西部の文明化のプロセスの中で歴史的に馬/駅馬車から列車へと移動媒体が変化したことや、西部劇映画においても駅馬車や列車が主要な運動媒体として特権的な表象に与ってきたことをジョン・フォードの『リバティ・バランスを射った男』(1962年)などの重要な映画に触れながら的確に整理している。ちなみに、映画における馬および列車の表象問題に関しては、加藤幹郎氏の『映画とは何か』(みすず書房、2001年)の第2部第W章「列車の映画あるいは映画の列車―モーション・ピクチュアの文化史」や『列車映画史特別講義―芸術の条件』(岩波書店、2012年)に詳しい。

[4]映画における風景表象の問題を早くから強調してきた加藤幹郎氏は「アニメーションと実写とを問わず、映画における風景の表象の問題は、これまでほとんど閉じられつづけてきた」(『表象と批評―映画・アニメーション・漫画』)と指摘している。著者の問題意識は明らかにこの加藤氏の姿勢から影響を受けており、本書はそのすぐれた実践の成果ともなっている。

[5]加藤幹郎氏の『映画の領分―映像と音響のポイエーシス』(フィルムアート社、2002年、294頁)からの引用。著者を含め、多くの読者が加藤氏のこの言葉に勇気づけられたものと思われるし、言うまでもなく筆者もそのうちの一人である。