『映画 視線のポリティクス』とスパイク・リーに学ぶ 黒人たちの戦争


松坂茉衣子

1. はじめに
 加藤幹郎氏はその著書『映画とは何か』で次のように述べている。

アメリカ映画の特徴は、その潜在的多様性にある。それはもっぱら国外からの人材流入(移民と亡命者)と国内の人種的不均衡(人種差別)によってもたらされた。国内における人種的不均衡とその政治的不正義がインディアンを抑圧する巨大ジャンル(西部劇映画)を産み出し、また黒人の社会的不在を娯楽面から補完する超マイナー・ジャンル(黒人劇場専用映画)を産みだした [1]

イギリスの植民地時代の奴隷制度に始まる、アメリカにおける黒人差別は今なおアメリカ社会に根深く、それはアメリカの映画産業に大きな影響を与えているといえる。
 今日まで、数多くの黒人および黒人差別に焦点を当てた映画作品が製作されてきた。1967年の『招かれざる客』[2] では黒人男性と白人女性の異人種間の結婚を巡って家族の葛藤する様子が描かれ、そのリメイクとして製作された『ゲス・フー/招かれざる恋人』(2005)[3] では、白人男性と黒人女性間の恋愛における白人に対する逆差別にも触れられており、アメリカ社会に根付く差別問題の難しさを痛感せざるをえない。2014年のアカデミー賞では、黒人監督スティーブ・マックイーンが40年代の黒人奴隷の姿を描いた『それでも夜は明ける』(2013)[4]が作品賞をはじめ、助演女優賞、脚色賞を獲得した。私自身はこの作品は未見であるが、黒人監督作品として初のアカデミー賞作品賞に輝いたという事実は、世界において黒人差別への認識が広まっているということでもあるだろう。今でこそ黒人映画はその他の娯楽作品と大差なく扱われているが、これは黒人差別の真っ只中にあって映画作家として奮闘した先人がいたからこそのものである。
 加藤幹郎氏は『映画 視線のポリティクス』[5]で、戦時中という黒人差別の激しかった時代に、黒人として脚本を書き、主演をつとめたカールトン・モスの『黒人兵』(1944)[6]について言及している。この映画は、第二次世界大戦の開戦に伴い、黒人を兵士として動員する必要性に迫られ、プロパガンダとして製作されたものである。また、戦後には戦争を題材とした多数の映画作品が製作されているが、1990年代に登場し、差別や貧困に焦点を当てるのではなく、黒人の現実を切り取ることにこだわった映画作家スパイク・リーも、2008年に『セントアンナの奇跡』[7]で黒人兵を描いた戦争映画を製作している。黒人が白人の戦争の為に、黒人に向けて製作した映画を黒人がどう見るのか、黒人から見る戦争はどのようなものなのか、どのような社会を映し出すのか、本レポートでは『映画 視線のポリティクス』より『黒人兵』について比較検討しながら、『セントアンナの奇跡』の分析を試みたい。

2. 黒人のためのプロパガンダ映画『黒人兵』
 1940年代初頭、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、多数のプロパガンダ映画が製作されていた(もっともそれらの多くは、娯楽の域を出ることはなかったが)[8]。当時の喜劇映画作家であったフランク・キャプラは、新兵を教育するための戦意高揚映画の監修者に抜擢され、彼の率いる通称「キャプラ組」は17本のプロパガンダ・ドキュメンタリーを製作した。そのうちの一つが、黒人のカールトン・モスが脚本を書き、主演として製作された『黒人兵』である。
  映画は、軍歌調の音楽とともにタイトルクレジットが流れた後、黒人教会での讃美歌に始まり、カールトン・モス演じる説教師の語りによって進められる。前半ではカールトン・モスによって、過去の黒人たちの功績がたたえられる。中盤では語り手が黒人兵士の母親に代わり、息子からの手紙を読み上げることで、黒人兵たちのキャンプにおける、それほど悪くもないように感じられる生活の様子が詳細に伝えられる。終盤に入ると、カールトン・モスによる説教に戻り、戦場での様子が映し出される。クライマックスでは、機関銃を構える黒人兵が、日本兵の操縦する戦闘機との銃撃戦になり、見事撃ち落とすシーンが挿入される。祈りを捧げ、映画は始まったときと同じように、讃美歌から軍歌調のオープニングと同じ音楽に切り替わり、エンディングとなる。
 後に『セントアンナの奇跡』と比較検討するにあたって、このプロパガンダ映画の大きな特徴として挙げられるのは、黒人兵が戦時下において白人からの差別を受けているということを主張するものではない、ということである。『映画 視線のポリティクス』で、カールトン・モスは、黒人兵の母親に対して、「いつ息子は旅立ち、どこへ向かい、何をするのかを伝えると同時にそうした待つ側をも映画に収める。これだけです。その問題[人種差別]については、語ることも触れることもしていません。」[9] と述べている。この作品において問題とされたのは、黒人兵が動員後は家族との接触を断たれており、白人が多くのプロパガンダ映画でその様子を描かれる一方で、黒人兵の姿を劇場で見ることは全くできずにいたことであった。もっとも厳しい検閲下にあって、差別的な事象をその映画において撮ることは、ほとんど不可能であったことは想像に難くないであろう。しかしながら、上映された『黒人兵』に対しては、「ジム・クロウ法」に言及しないことや、軍服へ着替えるシーンにおいて黒人が隔離されていることを指摘する意見があったという。
 黒人差別に「触れないこと」が一種の差別としても受け取れてしまう難しさを孕んだプロパガンダ映画『黒人兵』では、黒人兵の行方すなわち「未知の事実」[10]を母親に伝えることを第一の目的とされた。一方で、黒人の「現実」を描き出すことにこだわった、スパイク・リーの作品『セントアンナの奇跡』では、はっきりと白人と黒人との間の軋轢を描いている。

3. 『セントアンナの奇跡』分析
 スパイク・リーといえば、加藤幹郎氏が『映画ジャンル論』で、彼のカレッジ・ミュージカル『スクール・デイズ』」[11]を取り上げ、「黒人の理想でも黒人の抑圧でもなく、今日を生きる黒人の現実、黒人の多様な顔、それを提示することがスパイク・リーの、借り物でも幻想でもない映画的野心なのである。」」[12]と評したように、人種間における対立や差別をテーマに取り上げながらも、黒人を擁護するわけではなく、あくまで彼らが生きる社会を事実として描き出すことを特徴とする黒人映画作家である。近年では、初期の作品のような主張の強さは弱まり、より大衆的なドラマ性のある娯楽作品を製作する傾向を見せている。これから取りあげる、2008年の『セントアンナの奇跡』もその一つである。加藤幹郎氏は、アフリカ系アメリカ人の映画が世界的に公開されるようになり、市場を確立したことについて、次のような指摘をしている。
今日アフリカ系アメリカ人監がアフリカ系アメリカ人の撮影監督とともに、ほかのアフリカ系アメリカ人スタッフやキャストをつかって映画をつくり、それを世界史上に配給することはごく当たりまえのことのように思われる。しかしそれが当然のこととなったのはごく最近のことであり、彼らの父親の世代にはおよそ不可能なことであった。しかしながら一概に逆説的なこととも言えないかもしれないが、アフリカ系アメリカ映画が世界配給を手にしたことによって、逆にアフリカ系アメリカ映画はふたたびその独自性を失い、他のヨーロッパ系(あるいは最近なら香港系)アメリカ人の映画となんら変わるところのないものになる傾向を見せ始めている。[13]
この指摘は、スパイク・リーも例に違わず当てはまるところではないだろうか。しかしながら、本レポートにおいては、これまで黒人の現実を衝撃的に描いてきた黒人映画作家スパイク・リーが、黒人差別の真っ只中にあった時代の黒人兵をどのように描くのか、「理想的な観客」[14]となることを目標として、その分析を試みたい。
 『セントアンナの奇跡』は、第二次世界大戦中のイタリア、サンタンナ・ディ・スタッツェーマ村で実際に起こったナチスによる大虐殺をもとに、ジェームズ・マクブライドが書いた小説を映画化したものである。1983年のハーレムで、定年を3ヶ月後に控えた黒人の郵便局員(ヘクター)が突然切手を買いにきたイタリア人男性をドイツ製の銃で射殺した。彼の部屋からは、1944年戦時中にナチスが爆破して以来行方不明になっていたサンタ・トリニータ橋を飾る四季の女神プリマヴェーラ(春)の頭部が見つかった。突然の殺人事件と芸術作品の謎の秘密は1944年のイタリアにあった。ヒトラー率いるナチスとパルチザンとアメリカ軍の対立の最中で、白人指揮官によって孤立させられた4人の黒人兵士と、パルチザンとの闘争のなかで行われたナチスによる大虐殺から生き延びたひとりの少年アンジェロ、少年を助けるためドイツ軍を裏切ったドイツ兵、パルチザンたち、パルチザンを裏切りナチスに寝返った男、ムッソリーニを信奉するファシストの父親とその娘レナータという多種多様の人々がイタリアのドイツ軍に囲まれた小さな村で出会う。パルチザンを裏切った男と、ドイツ軍の攻撃によって彼らは殺害されるが、少年アンジェロと黒人兵士ヘクターだけが生き延びた。ヘクターは気を失う直前にアンジェロから彫像の頭部を預けられ、ヘクターもアンジェロに自分の十字架の首飾りを渡していた。ニューヨークへ帰還し、その後を安らかに過ごしていたヘクターだが、郵便局で出会った男はパルチザンの裏切り者であった。男を殺害して裁判にかけられたヘクターに、なぜか無償で弁護士がつき彼は保釈される。自分だけが生き残ってしまったと嘆くヘクターの前に、十字架の首飾りをして、彫像の頭部を持ったイタリア人男性が現れ、二人は力強く手を握り合うのであった。
 本作品では、二つの時代が描かれる。1983年のニューヨークと、1944年の戦時下イタリアである。まず1983年のニューヨークにおいて事件が起こり、その謎を明かす形で戦争の回想へと切り替わる。そして終盤で再び現代に戻り、奇跡が起こるという構成である。
 物語はハーレムの細長い通路から始まる。突き当たりのドアへ向かってローアングルのままカメラは進み、ドアの足元には「Welcome」と書かれたカーペットが敷いてある。部屋の中では『史上最大の作戦』(1962)[15]がテレビで流されており、兵士が中佐へ「ようこそ」と呼びかけている。逆光で影になった男(ヘクター)の横顔の向こうには、『黒人兵』の冒頭で最初に名前の挙がったジョー・ルイスが、軍服に身を包み銃を構える姿のポスターが飾られている[図1]。テレビでは中佐の「我々は必ず任務を果たす」というセリフが流れ、正面からテレビの光によって顔が照らされ、クロースアップで映されたヘクターは「俺たちもこの国のために戦った」と呟く。

[図1][図1]

 次のシーンでは一転して視界に大きく広がるエスタブリッシング・ショットによって郵便局が示される。ヘクターは窓口で切手を売っている。“Stamps Only”と示されたその窓口に荷物を送りたいと言ってくる黒人の若者が、ヘクターから切手だけだと伝えられると、しっかりと悪態をついてからフレームアウトするシーンは、いかにもスパイク・リーらしい演出であるといえる。彼の後ろから切手を買いに現れた白人男性とのやりとりで、場は一気に緊迫する。短い切り返しショットが繰り返され、二人がお互いに気付いて、ヘクターが銃を取り出し、男を殺害するまでわずか15秒ほどである。発砲し男が後ろに倒れる瞬間、真後ろから発砲がリプレイされ、周囲の客が突如混乱に陥る様子が描かれる。冒頭のドアを映したときのようにローアングルで逃げ惑う人々の足元と、倒れた男の頭部と広げた手が映される。横から撮られた窓口からは、銃を持った手だけが見え、さながら戦場の要塞からのぞく銃口のようである[図2]。ヘクターが落とした銃は男性が置いた帽子の上に乗り、真上から映された男性の死体は両腕を真横に広げ、十字架に磔にされたキリストを想起させる。窓口を閉めたヘクターの姿は、テレビの前にいたときのように逆光で影になったままフレームアウトし、血しぶきの中に置かれた帽子の上のドイツ製の銃にカメラはズームインする。


[図2]

 客が逃げていった郵便局の玄関から入ってくるのは白人の新聞記者ティム・ボイルである。スパイク・リー監督作品の常連、ジョン・タトゥーロ[16]演じる刑事とのやり取りで、中央の円形のカウンターを回転するようなカメラワークで切り返しショットが挿入され、観客は目眩を感じられずにいられない。道に迷って取材に間に合わなかった彼の焦りがカメラワークによってより強められている。ここでのシークェンスでもまたローアングルで足元を映すショットが挿入され、逆光の中階段を昇る足が画面左へとフレームアウトすると、その影になっていた画面右から刑事とティムが現れる。彼らは階段の横でしばらく話した後、刑事はティムをヘクターの部屋の捜索に同行させるよう部下に指示し、ティムは階段を下りる。
 続くシーンでは、冒頭の通路と同じような細い通路を、ドアを挟んで室内から見ることになる。ヘクターの部屋に入ってきたティムと警察の二人はヘクターの部屋を物色する。4人の仲間と写っている軍人時代の写真やパープルハートの勲章、結婚式の写真などが映され、警察はジョー・ルイスのポスターを見て「“ブラウン・ボマー”だ」「モハメド・アリのスピードには負ける」と軽口を叩いている。
 彼らはクローゼットで見つけたものを持って、NYU[17]のブルックス教授のもとに見せに行く。教授はことあるごとに発見したものを持ってくる彼らに「私を誰と思ってる。イリスか」とたしなめる。イリスはゼウスの伝令役であり「神の声として世界を飛び回り崇拝される。人間からもそして神々からも」。後に謎の少年アンジェロが目に見えない誰かに向かって話しかけているのを見て、黒人兵のトレインは「この子には力がある。神様の力だ。昔は万物が話せたんだ。…神の声が聞こえれば彼らの言葉も分かる。この子は神の影の中に立ってるんだ」と言っている。まるで、教授の言葉は謎の少年アンジェロのことを指しているかのようである。続いて教授は、彼らの持ってきた彫像の頭部を見て驚愕する。ヘクターの部屋にあった彫像は、450年以上前のものであり、世界最古の懸垂線アーチの橋であるサンタ・トリニータに飾られている四季の女神のうち、ナチスが進路を妨害するために橋を破壊して以来行方不明になっていたプリマヴェーラの頭部[18]であるという。
 彫像と殺人事件の謎は新聞の第一面になった。ティムはヘクターに話を聞くため面会に行く。場面は変わり、舞台はローマである。またも冒頭と同じローアングルでカメラが通路進みドアが映される。ここでは事件の記事がのった新聞が置かれ、ドアが開いて男性の足が現れ、新聞を持って室内に戻って行く。彼はナチス関連の画商をやっている。新聞を読もうとするも、恋人の女性に馬乗りになられ、新聞は彼女の手によって窓の外に放り投げられてしまう。窓から落ちてきた新聞を見たイタリア人男性は、目を見開きコーヒーカップを取り落とす。ヘクターの震える様子がクロースアップで映し出され、「私は知っている、“眠る男”が誰かを」と言うと、次のシーンではイタリア人男性が走り出し、彼の足元がクロースアップされ、水たまりを踏んだ瞬間、場面は水たまりを踏んで進む軍服の足元が映し出され、回想へと突入する。
 黒人兵で編成された第92歩兵師団、通称バッファロー・ソルジャーのジョージ中隊の分隊はトスカーナでドイツ軍の偵察の為川を渡ろうとしていた。ナチスの枢軸サリーによるプロパガンダ放送が流れ、「ドイツ人は黒人を敵と思ってないわ」、「あなたたちを奴隷扱いする国よ」「見回してみて、白人兵士がいるかしら。一緒に死なせるために出陣させてる?」などと、黒人差別による白人に対する憎しみを煽ろうとする。『黒人兵』を黒人兵士たちに見せたときの反応としてカールトン・モスが、日本人を皮肉ったセリフに対して、「観客は戦争の悲惨さを見せられるわけですが、そのときの観客たち、700人ほどの黒人兵はみな「まったくその通りだ」と言い出したんですよ。本来なら日本は敵だと思ってもらわねばならないのです。ところが彼らは先の台詞を「黒人の救世主」と勘違いした。」[19]というのだから、このようなプロパガンダ放送は白人への憎しみを燻らせている黒人兵に対しては一定の効果があったとも考えられるのではないだろうか。またこのアナウンスを聞いて白人の中隊長が「人種暴動が起こるぞ」と言うのも皮肉である。また同時に、ナチス側の兵士は「あの戯言は届くのに、ポテト・スープは届かない」とこぼしていることや、ナチスとして英語で黒人に語りかける枢軸サリーはアメリカの出身であることを考えると、国家間の戦いの中に多様な人種、多様な個人が存在しており、国家対国家の戦いがその中にいかに複雑な構造を持ち得るかをみることができるであろう。
 枢軸サリーの放送が途切れた瞬間、ドイツ兵からの一斉攻撃が始まる。黒人兵のスタンプスとヘクターのバディは無線で中隊長に援護砲撃の要請をする。川を渡ったと照準を伝えるスタンプスに対し、中隊長は「ウソだろう」と信用せず、味方がいる場所に向かって砲撃をする。銃撃戦から生き延びたスタンプス・ヘクター・ビショップ・トレインの4人は完全に孤立する。銃撃の止んだ川には無惨な死体があちこちに転がっており、『黒人兵』で黒人が倒れたあとに何事もなかったかのように白人がポジションを代わったように[20]、彼らの死に周りが注目することはない。
 退避する途中の小屋で、少年アンジェロを助けたトレインは他の3人と合流し、コロニョーラの村へたどり着く。アンジェロを抱いて座るトレインは、「白人のこんなにそばは初めてだ。触ったこともない。死人すらな」と純粋な感動を口にし、ヘクターの首にかかる十字架を見て誰かに話しかけるアンジェロを見て、先述したように少年に神の力を感じて気持ちを高揚させるのである。
 4人が潜伏するコロニョーラの村の家には、英語を話すことのできるイタリア人の娘レナータと、ムッソリーニを信奉する父親と彼らの親族が住んでいた。この村は“眠る男”によって守られているという伝説があった。中隊長との連絡がとれると、中隊長はドイツ軍に囲まれた村にたった4人で孤立している彼らに、ドイツ兵を捕虜にしろと命令される。ビショップとスタンプスは夜の闇の中で言い争う。

ビショップ「俺たちを見捨てたぞ。3度も砲撃しろと言ったのに撃たなかった」
スタンプス「黒人を信じない男は大勢いる。お互いさまだ。ドリスコル大佐は公平だ」
ビショップ「何を言ってる。軍が公平を唱え出したのは白人が殺されすぎて足りなくなったからだ」
スタンプス「いいさ。掃除や料理番だった黒人も戦えると示した。それが第92歩兵師団だ。俺たちの国だよ。助けたい」
ビショップ「俺たちに国はない」
スタンプス「俺は子や孫のために来た。進歩だ」

以上の会話に続いて映画は白人の経営するハーブス・カフェの回想に入る。ルイジアナのキャンプ地にあったハーブス・カフェに彼ら4人はかき氷を食べに行く。店内には白人兵士と敵であるドイツ軍兵士がいた。店主は4人に裏へ回るように言う。トレインは言われた通りに踵を返すが、スタンプスによって制止される。スタンプスが「ナチスは客扱いで俺らはブタのように裏庭か?」と抗議すると、店主は銃を構えて脅しにかかる。白人兵士が仲裁に入り、「彼らは軍人だぞ」というが、ドイツ兵と白人が出て行った後で店主は再び銃を構え、「白人専用だよ。サルめ消えやがれ」と彼らを追い出す。一度は出て行った彼らだが再び戻ってきて銃を構え、店主を脅してかき氷を作らせる。カメラは「戦時公債を買いましょう」という壁のプロパガンダ・ポスターを写し、イタリアの何かを見つめる4人の姿へと切り替わる。その視線の先には、アメリカおよび黒人を野蛮に描いたナチスのプロパガンダ・ポスターが貼られていた。
 ここでのシークェンスで描かれるのは、黒人とひとまとめに呼んでいる登場人物たちの多様性である。ビショップはその名が示す通り、国では説教師を務めているにも関わらず、破壊的な行為を好み、あくまで黒人としてのアイデンティティを誇りとし、白人に迎合することを拒絶する。スタンプスは自分の子や孫の世代に、黒人にとってよりよい社会になるならば、自身が侮辱されることにも耐える覚悟である。トレインは純粋に、黒人(ニガー)としての扱われ方に慣れ、もはや疑問すら抱かない様子である。スパイク・リーが描く黒人の特徴として、このような多様性がある。個々人で考え方や価値観が違うのは全く当然のことであるにも関わらず、私たちのような外部の人間が黒人の映画を見る時にはなぜか見落としがちになってしまう点でもある。
 彼らが村の教会での宴会に参加した夜、ヘクターとスタンプスは次のような会話をする。

スタンプス「妙なんだ」
ヘクター「何が?」
スタンプス「ここではニガーじゃない。“俺”なんだ」
ヘクター「同感だな」
スタンプス「イタリア人は黒人差別を知らない。今俺は自由だ。恥ずかしいよ、外国のほうが自由だなんて。アメリカの未来に懸けてたのに」

ビショップに「俺たちの国だ」と言っていたスタンプスも、差別を知らない国における自由を感じたことで、それまでは差別される“ニガー”として順応することによって獲得していた彼のアイデンティティが揺らぎをみせるのである。
 映画はここから本格的なストーリー展開を迎える。レナータの古い友人であり、パルチザン活動家のペッピとその仲間が、ドイツ兵を捕虜にして山を降りてくるのである。レナータの家に来たパルチザン(のひとり)を見てアンジェロはひどく怯え、捕虜として捉えられたドイツ兵は少年に「逃げろ」という。この後、ペッピによる語りによって、パルチザンのメンバーのうちのひとり、ロドルフォが彼らを裏切ってナチスに引き渡そうとしていたこと、それに失敗したことでサンタンナ・ディ・スタッツェーマ村の民間人をナチスが召集し、ペッピの居場所を吐かなかったために虐殺したことが明かされる。そして少年アンジェロはそこでの唯一の生き残りであり、捕虜となっているドイツ兵はアンジェロを救う為にナチスを裏切った男であった。この段階において、レナータの家では、ムッソリーニを信奉するファシストの父、反ファシズムの抵抗運動を行うパルチザンのメンバー、パルチザンを裏切ってナチスに寝返っているロドルフォ、ナチスを裏切ってイタリア人の少年を救ったドイツ兵、白人指揮官のもと孤立した4人のアメリカ黒人兵という多種多様な人々が集まっている。互いが互いを牽制し合い一触即発の状態にあるこの状況[図3]は、『ドゥ・ザ・ライト・シング』[21]で街の黒人たちとイタリア系アメリカ人サル親子、商店を経営する韓国人夫婦の間に流れる緊張感を思い出すものがある。敵ではないが味方でもない、それぞれがそれぞれの葛藤を抱え、その信条のもとに行動している。


[図3]

 その後ドイツ兵を捕虜にしたことで、ジョージ中隊が村へ彼らを迎えにくる。しかしながら、ヘクターが油断した一瞬の隙をつかれロドルフォによってドイツ兵もペッピも殺されてしまう。死体となったドイツ兵を見て中隊長は、ヘクターを罵る。さらにトレインから離れようとしないアンジェロを見て、離すように強要しようとする。アンジェロに危害を加えられる恐れを感じたトレインは、物語中で初めて怒りを露わにする。その様子を見て、レナータの父親は“眠る男”が怒ったとつぶやく。カールトン・モスは次のように述べている。
中尉クラスの人たちはよく書いています。「黒人兵をいじめるのは止めるように口をすっぱくして言っている。いざ戦闘となったら、連中はわれわれに発砲してくるかもしれないからだ」。実際そうした事件は起こっています。ヴェトナムで、第一次大戦で。黒人兵たちは激しい戦闘のなか、白人に対して敵意を剥きだしにします……。[22]
本作品中でも例に違わず、白人の中隊長に牙を向いた黒人兵たちは結局置き去りにされることになり、引き上げようとする中隊長であったがその瞬間にドイツ兵による奇襲攻撃にあってしまう。村人たちは混乱し逃げ惑う(冒頭の郵便局でのシーンを想起させる)が、ドイツ兵たちは迷いなく彼らを撃ち殺していく。物語の中の主要な人物ですら、惜しまれることもなくあっけなく死んでゆく。
 バッファロー・ソルジャーたちのうち、トレインは自分のお守りとして持っていた彫像の頭部と少年アンジェロをビショップに託して力尽き、ビショップは脚に銃弾を受けながらもアンジェロを建物の陰に隠してトレインを助けにいこうとしたところで銃弾に見舞われ死亡、スタンプスは村人を援護しようとするも四方から来る敵に対応しきれず村人諸共銃撃を受けた。ヘクターは後ろから銃弾を受けるも、無線機を背負っていたおかげで致命傷は受けずにすんだものの通路に倒れ込む。そのときアンジェロのもとに彼と一緒に逃げようとして殺されたアルトゥーロが現れ、アンジェロを起こす。アンジェロはトレインの彫像をヘクターに手渡し、ヘクターは自身の十字架をアンジェロの首にかけ逃げるように促す。もっとも、真後ろに敵が迫る状況でこのやりとりはできるはずもないのだが、それはアンジェロという名前が示しているように、文字通り天使の為せる「奇跡」である。ヘクターはこの後ドイツ兵による死刑を免れ、ただ独り生き残りとして帰還する。
 虐殺を経験して生き延びたヘクターは、過去の裏切り者ロドルフォに再び出会い、裁判にかけられる罪人となった。しかし見知らぬ弁護士によって無償で支払われた保釈金のおかげで彼は再び自由の身となり、全てが無に還る場所・母なる海の前においてキリストの復活よろしく、かつての少年アンジェロ(天使)に再会するのである[図4]。


[図4]

4. 終わりに
 スパイク・リーは、確かに初期の頃の作品に比べると、商業主義的なドラマの傾向を見せている。しかしながら、『セントアンナの奇跡』を細かく見てみると、登場人物ひとりひとりが持つ背景や、フィクションとして描くことでその輪郭を和らげてはいるものの宗教的な要素はしっかりと盛り込まれており、それらの持つ政治的・社会的寓意性に関しては、今なお初期の作品に劣らないほどの強さを持っているともいえる。むしろ、大衆的なドラマの影にそれらを練り込むことによってより広く観客を取り入れ、影響力を拡大することを可能にしているともいえるかもしれない。そうであるとすれば、より大衆的になりつつある近年の作品こそ、それを紐解き、その政治的・社会的寓意性について考察する必要性に迫られているのではないだろうか。
 本レポートにおいては『セントアンナの奇跡』の解釈を試みたが、宗教的・歴史的背景についての自身の知識不足を痛感するものであった。今後他のスパイク・リー作品についても分析を試みていくにあたって、より深い知識の習得に努めていきたいと考えている。そして本作品についてもより緻密な再度の分析を目指すところである。


[1]加藤幹郎『映画とは何か』みすず書房、2001、3-4頁

[2]原題Guess Who’s Coming to Dinner, スタンリー・クレイマー, 1967, 主演は黒人初のアカデミー賞主演男優賞を獲得したシドニー・ポワチエ

[3]原題Guess Who, ケヴィン・ロドニー・サリヴァン, 2005

[4]原題 12 Years a Slave, スティーブ・マックイーン監督, 2013

[5]加藤幹郎『映画 視線のポリティクス』筑摩書房、1996

[6]原題The Negro Soldier, スチュアート・ハイスラー監督, 1944

[7]原題Miracle at St. Anna, スパイク・リー監督, 2008

[8]注5、第2章に詳しい

[9]注5、118頁

[10]注5、123頁

[11]原題School Daze, スパイク・リー監督, 1988

[12]加藤幹郎『映画ジャンル論』平凡社、1996年、304頁

[13]注1、257-258頁

[14]注1、序言・第一章に詳しい

[15]ノルマンディー上陸作戦を描いた戦争映画。原題The Longest Day, ケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ、アンドリュー・マートン監督、1962

[16]ジョン・タトゥーロは、『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)に始まり、7本ものスパイク・リー監督作品に出演している。

[17]スパイク・リーはニューヨーク大学(NYU)で学び、また教鞭もとっている。

[18]実際にプリマヴェーラの頭部は戦時下のナチスによる爆破で紛失されていたが、現在では見つかっている

[19]注5、120頁

[20]注5、第2章に詳しい

[21]その年一番の猛暑日となったブルックリンの住人たちの間で起こった事件を描いた作品、原題Do the Right Thing、スパイク・リー、1989、

[22]注5、121頁