西岡かれん
序章 テクスト分析とは一般理論のテクストへの流用が看過してやまないテクストの個別性と偶有性を救い出すことである。テクスト分析は普遍性と教条主義という名の虚構の処方箋を吟味する装置である。テクスト分析は、既成の理論内で合意ずみの信念とイデオロギーをこえて議論を押し進めるものである以上、汲めども汲みつくすことのできないテクストの特異性を探究する終わりなきプロセス(充填されようのない読解)となる。[1]と述べ、ヒッチコックの『レベッカ』の分析において、映画のテクスト分析における理想的なあり方を提示している。このレポートでは、加藤の「眩暈と落下―ヒッチコック『レベッカ』のテクスト分析」に倣い、ダグラス・サークの『天はすべてを許し給う』を、加藤のように、映画を読む、先行文献を読む、理論の適応を読む、の三つのパートに分けて論じたいと思う。 1. 映画を読む 加藤が『レベッカ』のテクスト分析を、タイトルクレジットの前に映し出される、象徴的な意味を持つ左右対称の木について論じるところから始めているので、このレポートもまた、『天はすべてを許し給う』の始めの部分でなされる象徴的演出について触れるところからまず始めたいと思う。映画の冒頭で、登場人物たちの住む町の時計台が映し出される。よく見ると、その時計台の上には、鳥が数匹(白い鳥が2匹と黒い鳥が4匹)とまっている。この場面を含め、動物(とりわけ鹿と鳥)は、物語の中で数回、象徴的な意味合いを帯びて登場する。この物語は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』を地で生きるような (“I don’t think he [Ron] ever reads it [Walden ], he just lives it.”とロンの友人のアリーダが言う場面があるが) nature boy、ロック・ハドソン演じるロンと、絵に描いたような郊外のスモールタウンにおける中流家庭の未亡人、ジェーン・ワイマン演じるキャリーの障害の多い恋を描いている。この作品の中には一見、自然(ロンの住む世界=森の生活)VS人工(キャリーの住む世界=アメリカ郊外の生活)という構図があるように思える。キャリーとその仲間たち(友人のサラや、キャリーの子供たち、そしてカントリー・クラブの面々)は、ロンや、ロンの仲間たち(ミックとアリーダなど)とは、価値観を全く異にしているようだ。加藤が『映画ジャンル論』の中でたびたび言及しているように、「メロドラマとは、勝つか負けるかの善悪の素朴な二元論的戦い」[2] であり、その場合、このサークの代表的なメロドラマ『天はすべてを許し給う』は、自然(ロン、自助独立の精神)VS人工(キャリーの住む世界、ゴシップの精神)の戦いであり、「自然」=善であり、「人工」=悪ととらえることがまず可能であるように思われる。 こういった分け方をすると、冒頭の鳥や鹿は、「人工」に対抗する「自然」を象徴するものなのではないかと思えてくるが、必ずしもそうとは言えない。なぜなら、映画のミザンセーヌが、この単純な戦いの構造(自然VS人工)を裏切ってゆくからである。「人間に飼いならされた自然」という、自然ならざる自然が、この映画の中に多く登場し、自然と人工の間の明確な境界線をぼかしてゆく。 まず、植物に注目してみたい。キャリーの家の前には、美しい庭があり、ロンが毎年春にやってきて、木々を整える。それらは完全に飼いならされた自然である。また、キャリーの家の中には、常に、花が飾られている。花瓶の中におさめられた花が、文字通り、どの部屋を映しても置かれているのである。映画の冒頭部分で、キャリーが、友人サラがランチに来られなくなったために急遽ロンをランチに招待し、二人で庭のテーブルを囲んでコーヒーを飲むシーンがあるが、この時も、テーブルに美しい花が生けられた花瓶が飾ってある。花瓶の置かれた食卓は、メロドラマのジャンルを特徴付けるイコノグラフィーの一つではあるが、それにしてもこの映画において花の登場する回数が異常なほど多い。キャリーは、ロンが切り取った木の枝もまた、ガラスの花瓶に入れて居間に飾っている。寝室にも花は飾ってあるし、居間の食器棚の隣にも、ポトスのような緑の観葉植物が棚からはみ出してきている、という演出があった。キャリーの部屋は、人工の植物で溢れかえっているのである。最も恐ろしく、また象徴的なのが、ロンとキャリーが別れたあとに、キャリーが子供たちとすごすクリスマスのシーンである。真っ赤な毒々しい色のバラが部屋に飾ってあり、それが息子からキャリーへプレゼントされる呪わしいテレビにかけられたリボンの色と完全にマッチしている。テレビには、リボンの他に、モミの木の葉があしらわれており、自然が見事に人工化している。キャリーの住む世界を代表するような場所、カントリー・クラブにも、人工的な観葉植物や生け花が多く見受けられる。そこで、部屋に飾られている花は、自然(自然な感情の発露である恋愛感情も含めた自然)をねじ曲げてゆく、キャリーの周りの人々の人工=悪、の力の象徴なのではないかと想定したくなるのだが、面白いのが、こういった植物が、ロンたちに代表される「本物の」(あるいは「本物」であるはずの)自然派の人々の部屋にも見られることである。ロンがキャリーを自分の家に招待する場面がある。彼の家は、キャリーの住む整然とした並木道のあるような郊外とは違い、後にロンがそこから落下することになる断崖絶壁が近くにあるような、より荒々しい本物の自然に囲まれているが、一歩家の中に足を踏み入れれば、そこはgreen houseになっており、「飼いならされた」人工の花が咲き誇っている。また、ロンと同じ生活を実践するミックとアリーダの家の家具に注目すれば、ランプの持ち手の部分がガラスになっており、その中に緑の植物が閉じ込められている。キャリーや郊外に住むスノッブな人たちと一見正反対に見える彼らの家にも、人工の植物が多く置いてあるのだ。思えば、ロンの生業はもともと庭師であり、彼自身が、自然を人工的に飼いならしてゆく、自然を人工化する張本人なのである。テレビが届けられる不幸せなクリスマスのシーンで、キャリーの家に飾られているクリスマス・ツリーは、ミックが育て、ロンが出荷を手伝ったものである。家の中で人工化され、窮屈な郊外のアメリカ社会を代表するものになってしまった植物たちは、もとはといえば、そういった価値観を嫌うロンたちによって育てられ、売られたものだというのは皮肉な話であるとともに、この映画が、単純な善悪二元論を扱うのではなく、善玉に見えるロンもまた、自分の嫌っている価値観の人々と紙一重であるということと、人工(キャリーの世界)VSエセ自然(ロンの世界)の泥沼の戦いを暗示するのである。 そのコンテクストの中で、冒頭の鳥はいったい何を意味し得るのだろうか。物語の中に数度出てくる鹿は、完全にロンによって飼いならされており、ジョン・マーサーやマーティン・シングラーが指摘するように、不自然さを強調するかのような、パロディめいた紋切り型の自然の中に姿を表す。その鹿の所在は、自然の「人工的な」パノラマを浮き彫りにして物語が示唆するように見える幸福な解決に疑いを生じさせる[3] 。 しかし、鳥たちは、鹿ほどに飼いならされた動物ではない。鳥は、物語の途中で、キャリーがロンの古い製粉場を見学しているときに彼女を驚かせ、びっくりした拍子に彼女がロンに抱きついてしまう、というアクシデントを誘発して二人の距離を縮めるのに一役買うが、ラスト近くで、狩りをしているロンが、雉(鳥)を射ちそこね、雉を一匹ぐらいしとめてから家に帰ろうとして山に残ることで、彼を訪ねてきたキャリーと、ロンが出会うのを妨げ、あげくの果てにロンが断崖から落ちるという事故をも誘発してしまう。要するにこの映画の中では、鳥は気まぐれな動物で、人間のコントロール下にはない。ロンですら、鳥たちを飼いならすことができていないのである。物語の冒頭で、このまだ「人工」の息のかかっていない鳥たちを映し出すのは、やはりかなり象徴的だと言うことができるだろう[4] 。 次に、物語の中の窓について論じてみたいと思う。これもまた、繰り返し物語の中に出てくるモチーフである。 サークの映画におけるフレーム内フレームの用法は、ジョン・マーサー、マーティン・シングラーの指摘するところでもあるが[5]、この映画でも、そのほとんどの場面で、格子状になった窓枠や、格子状になった窓枠やつい立ての影が、キャリーを、まるで牢獄の中にいるかのように見せている[6]。そして、その演出は、キャリーの家やカントリー・クラブに代表されるゴシップ好きの郊外においてだけでなく、ロンの家やミックとアリーダの家でも汎用され、キャリーに逃げ場がないことを示している。 詳しく説明していこう。キャリーの家には、格子状の窓がある。そして、玄関近くに、格子状の編み目がデザインされたつい立てがある。そのつい立ては、キャリーが息子と会話をするときにとりわけ効果的に使われる。ロンと結婚するという意志を固めたキャリーを非難し、ロンと結婚するならばもう家には帰らない、と言って彼女を社会の慣習の牢獄の中に押し戻そうとする息子ネッドは、つい立ての向こう側におり、その表情がよく見えない。二人を隔てるつい立ては、その価値観の違いを明確に表し、自由になれずにいるキャリーの窮地を鮮やかに描き出す。郊外の室内のほとんどの場面で、格子状の「何か」が画面に映り込んでいる。それはカントリー・クラブの壁(緑色の壁でタイル状のデザインになっている)であり、カントリー・クラブのつい立て(格子状の白いつい立て)であり、窓が作り出す影である。それらがことごとく、このキャリーの住む社会の窮屈さを表象する。しかし、ロンの住む温室のような部屋のガラスにも、格子状の仕切りがあり、さらにもっと重要なのは、ロンとキャリーの理想の住処となる製粉場に大きな嵌め殺しの格子状の窓があることである。キャリーは、ここから見える自然の風景にいたく感動する。二人は二度この場所で重要な会話をするが、その二度の会話は二度とも、二人の関係がいかに社会的に不可能なものであるかをキャリーがロンに言い渡し、二人の関係を破局の方向に向かわせるものである。また、ミックとアリーダの家でひらかれるパーティの場面で、キャリーとロンと含む招待客たちがいとも楽しくダンスをする解放的なシーンがあるのだが、それも、格子状の仕切りがある天上の窓ごしのアングルで撮られている。映画のラストシーンも、製粉場の嵌め殺し窓のアップで終わり、映画の表面的なハッピーエンドのプロットを裏切っている。この映画の中で表される戦いは、善(ロン、自然、自助の精神)VS悪(モナ・プラッシーに代表される郊外の町の上流至上主義的な価値観、人工、ゴシップの精神)という構図で回収されるものではないことは先ほども述べた通りである。なぜなら、ロンも、ロンの仲間たちも、決して善ではないからだ。嵌め殺しの窓のそばで行われた口論で、ロンは、キャリーに自分(ロン)自身を合わせることを完全に拒否し、事実上、彼女に「自分か子どもかどちらかを選べ」という厳しい判断を強いる。彼もまた、キャリーに男性的(社会的)な権力をかざし[7]、彼女にできるはずもない苦しい選択をさせ、自分自身を相手のために変えていく努力はしないのである。キャリーがロンに、“You are not even trying to understand.”と言う場面があるが、その通りである。ロンを選んでも、コミュニティを選んでも、キャリーは弱者のままであり、自分のために生きることができない。ロンと一緒になれば、彼の独自のルールに従って生きることを強要され、それは、コミュニティのルールに従って生きることを強要されてきたこれまでの彼女の人生とさほど変わりはない。だからこそ、いつまでも、格子状の「何か」が彼女を覆い、暗い影を落とし続けるのである。こうしてこの映画も、加藤が指摘しているように、メロドラマの常套手段として、社会の問題を個人や家庭の問題にすり替え、社会的な問題をうやむやにしたままにして終焉を迎える[8]。 映画の最後で彼女はロンと共に生活をすることを決断したようにみえる。しかし、その決断が彼女の社会の中で許され、支持されるという保証はどこにもなく、根本的な問題の解決にはなっていないのである。 加藤は、映画『深夜の銃声』について論じた文章を、こう締めくくっている。 ジャンル映画『深夜の銃声』がジェンダーをめぐるこうした多用なポリティクスの検証の場たりうるとすれば、ハリウッド映画の主人公は常に時代の諸矛盾を一身に背負い、その社会的矛盾を個人的葛藤として生きながら、つねに時代の半歩だけ先駆けた退嬰的進取ぶりを体現し続けることになるだろう。[9]これと同じことが、『天はすべてを許し給う』のキャリーにも言えるだろう。 また、嵌め殺しの窓のテーマで思い起こされるのが、サム・メンデスの『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』という映画である。この作品も、1950年代を舞台にしたメロドラマで、郊外の家で「普通の生活」を営むことに嫌気がさした主婦が、精神を病んでゆく様子が描かれている。この映画のDVDの特典で、カットされた場面を観ることができた。その場面の中では、夫婦が、新居の下見をしている。広くて素敵な家だが、窓が嵌め殺しになっているのが残念だ、と妻がぼやくと、夫が彼女を後ろから抱きしめて、 「嵌め殺しの窓があるからって僕らの人格が壊されることはないよ。」 となだめる。その二人をカメラは、嵌め殺しの巨大な格子窓ごしにとらえ、二人は完全にとらわれの身であるかのように映る。カットされたとはいえ、このシーンは、象徴的な意味を持っており、また、『天はすべてを許し給う』のミザンセーヌを強く思い起こさせるものであった。 2. 先行文献を読む ここでは、バーバラ・クリンガーによる、Melodrama and Meaning-History, Culture, and the Films of Douglas Sirk[10]という研究書を取り上げ、『天はすべてを許し給う』に限らず、サーク作品全般がどのような受容をされてきたのかということを検証、確認したいと思う。この研究書は、過去のサーク映画の受容の歴史を丁寧に振り返り、映画作品の受容がどれほど、時代の流れに左右されるかということを明らかにしている。 サーク映画が公開当初あまり批評家の受けが良くなかったことは良く知られた話である。『カイエ・デュ・シネマ』の批評家たち(つまりトリュフォーやゴダールら)が、サーク映画の色彩に注目し評価したことで彼は注目されるようになったが、一般のレビュアーたちによる評価は散々なものだった。当時はよりリアリズムに忠実な映画が評価されたのだが、それが、1970年代に入って作家主義の時代になり、名のある批評家たちがサークに好評価を与えたので、再評価されることとなった[11]。ニュー・アメリカン・シネマの台頭とともに、古い映画への郷愁も高まり、その影響でサーク作品への評価はより高まっていった。サーク作品は、その後、Mass Camp[12]などの文脈で観られ、評価されることにもなる。とりわけ興味深いのが、サークにも製作当初は予期できなかったであろうこととして、彼がその監督作品の中で多く起用した俳優、ロック・ハドソンが1985年にエイズであることを公表したことがある[13]。このことで、特に、『天はすべてを許し給う』の中で、ロンがキャリーに、 “I want you to be a man.”と言う場面が必要以上に取りざたされ、ホモフォビアたちの忌避や嘲笑の対象になったり、Mass Camp的におもしろがられたりしたのである。 クリンガーはまた、サーク映画には、セックスなどの問題を、当時製作し得た限りで露骨に取り扱い、そういったセンセイショナルなテーマを扱うことによって男性観客を集客することを狙ったり、また、中流/上流家庭における女性の衣装や、インテリアなどのきらびやかさを描くことにより、女性からの羨望の目線を勝ち得て集客をしようという意図があって作られた側面もあったと論じ(メロドラマを消費主義的に撮るようになった50年代において、メディアの性的解放についていくために、メロドラマをより、adult filmとして定義づける動きと、それと同時に、メロドラマの中に描かれる家庭を、消費者のファンタジーを満たすワンダーランドとして位置づける動きがあったという)、またそういった工夫が、時代を経るにつれ、やや滑稽なもの (Mass Campの概念をくすぐるもの) として映るようになっていった過程を分析している。 クリンガーは、フィルムプロダクションと、宣伝(パブリシティの指令)と、歴史的な要素がいかに絡み合っているかを指摘し、リッチで過剰ともされるサークのミザンセーヌは、監督の決断からだけでなく、社会からの影響、要請を受けた映画産業が、それが消費可能か、という観点から求めた、ということから生まれたものでもある、という結論にいたる[14]。 クリンガーの論は、映画を社会的なコンテクストから読み取り、そして、映画を社会的コンテクストの中への還元してゆくものとして、非常に興味深いものである。 1950年代は、たしかに、社会学的に考えて大きな特徴のある時代であった。郊外のマイホームに住む理想の家庭(Working DadとStay-at-Home Momに子どもがせいぜい二人)という概念は、1950年代に作り上げられたと言ってよい[15]。若いカップルが早くに結婚して子どもを作り、マイホームで育児をすることが可能であったのは、第二次世界大戦に出兵した者への特別な手当などがあったせいなのであるが、若いうちから男性がマイホームを買って主婦である妻と子どもたちで構成された家族を養う、という幻想はその後も続いていった。50年代に制作された「オジーとハリエット」[16]などのテレビ番組は、未だに再放送が繰り返され、アメリカ人の心の中の「家族の神話」を支えている。だからこそ、50年代に制作された『天はすべてを許し給う』を含むサーク映画における社会的受容など解明は、現在にも影響を与える人々の価値観にメスを入れるような論たりうるところはある。 3. 理論の適応を読む クリンガーの論は、サークのメロドラマが、50年代という抑圧的な時代に反抗し、それを超越することを志すものとして読めるというだけでなく、その時代の文化を特徴付ける誇張された性的描写や、豊かさのイデオロギーに気づかせてくれるものとして機能することを指摘していて興味深い。また、彼女は、長年のサーク映画の受容の変遷の歴史を巡り、映画を解釈するための唯一無二の「正しい」テクストなど存在しないという結論にいたり、常に、様々な価値観から寄せられる批評に対してオープンであることの重要性を論じている。 加藤は、「ヒッチコック『レベッカ』のテクスト分析」において、個性豊かな映画的テクストを、フェミニズムや精神分析の理論などの、支配的コードに従ってひとからげに本質的なものへと還元しようとする作業の独断性について述べている[17]。加藤は、そういったことをすれば、 映画的テクストそれじたいの特異性、すなわち既存の理論的概念には還元しがたい映画固有の原理(映像と音響によって構成される複雑な主題系)はほぼ完全に看過される。…一時的、局所的に流行しているにすぎない支配的ドグマの疑似規範的言説によって目隠しされたテクスト的身体の葛藤こそをわたしたちは明らかにせねばならない。…理論の一律的適応はテクストを咀嚼せずに鵜呑みにする解釈しか生み出さない。(『表象と批評』、27頁)と、映画のテクスト自体に、理論をむやみに振りかざすことなく、個人的なレベルで立ち返り、そのテクストの個別性や偶有性を救い出すことの大切さを説いている。 クリンガーの研究書は、まさしく、サークの一連の映画群を解釈するのに使われた理論の移り変わりの激しさ、映画の解釈にむやみに理論を転用することの(ある意味での)無意味さを露呈するものでもあった。 加藤とクリンガーの著書を読み比べることにより、映画の分析に使われる様々な理論を知ることは大切だが、ある理論を分析のゴールにすることはできない、という映画のテクスト分析に関する考察を深めることができたので、それをサーク映画他に関するさらなる研究に生かしたい。 参考文献 註 [1]加藤幹郎『表象と批評—映画・アニメーション・漫画』(2010年、岩波書店、30頁)加藤の「眩暈と落下—ヒッチコックの『レベッカ』のテクスト分析」は本書の序章に載せられている。 [2]メロドラマの定義に関しては、加藤幹郎『映画ジャンル論』(1996年、平凡社、172頁から197頁)に詳しい。この部分の言及については、189頁。 [3]ジョン・マーサー+マーティン・シングラー『メロドラマを学ぶージャンル・スタイル・感性』(2013年、フィルムアート社、124頁)のなかで、サークが紋切り型のイメージと脚本を、一見したところそれらの不自然さに注意を引き付けるために利用した、という論が展開され、その例として、鹿についてが少しだけ触れられている。 [4]ただ、鳥はbird in a cageといった、人間に飼いならされ、窮屈な思いをしている動物というイメージが強い。ディケンスの『荒涼館』などを含め、鳥を、メロドラマチックな女性主人公のイメージに重ね合わせた作品はたくさんある。『天はすべてを許し給う』のなかでの鳥の使われ方は、例外的だと言うことができるかもしれない。 [5]脚注2で示したのと同じ本の中で、サークのフレーム内フレームの多用と、それによって表象される女性主人公の抑圧について述べられている。(121頁) [6]加藤幹郎『映画のメロドラマ的想像力』(1988年、フィルムアート社)この本の13頁において加藤は、サーク映画について「たとえば窓枠の中に人間を枠取りするような構図が執拗にくりかえされ、その人のおかれているせっぱつまった状況、抑圧的な状況が暗示されたりします。」とメロドラマの「隠喩的圧縮力の強さ」について述べている。 [7]ロンがキャリーに、「君が男のようになって決断をしてほしい」と迫る場面がある。 [8]前掲書加藤の『映画のメロドラマ的想像力』の18頁 [9]加藤幹郎『映画 視線のポリティクスー古典的ハリウッド映画の戦い』(1996年、筑摩書房、152頁) [10]Klinger, Barbara. Melodrama and meaning: History, culture, and the films of Douglas Sirk. Indiana University Press, 1994. [11]サーク映画が、作家主義によって再評価されたことは、加藤幹郎の前掲載書『映画のメロドラマ的想像力』でも書かれている。「サークを映画的インスピレーションの源泉として再評価したのは、いわゆる作家主義でした。しかし、彼がファスビンダーやダニエル・シュミットによって「再発見」されたということは、作家の再発見であるというよりも、むしろジャンルの再発見というべきではないでしょうか。」(9頁)。 [12]メロドラマにおけるmass campの概念の導入は様々なところで論じられている。Mass campとは、ジョン・マーサー、マーティン・シングラーの言葉を借りるならば、内容より様式を、自然らしさより技巧性を、真面目より皮肉を、出来のよさより拙劣さや俗悪を重視し、誇張されたもの、外れたもの、ありのままでないものを好む審美的感覚ないし趣味である。 [13]このことがサーク映画に及ぼした影響については特に、クリンガーのMelodrama and meaningにおける第四章、"Star Gossip: Rock Hudson and the Burden of Masculinity"に詳しい。この章では、ハドソンのイメージの変遷を追っており、ハドソンがいかに、「正統な男性性の象徴」から、「正統な男性性というものがハリウッドや社会に強要された虚無の概念であることを示す象徴」へと変身していったかが論じられる。 [14]前掲載書の36頁から69頁、第2章にあたる“Selling Melodrama: Sex, Affluence, and Written on the Wind”の内容を要約、解釈した。 [15]このあたりの事情に関しては、ステファニー・クーンツ『アメリカン・ファミリーの夢と現実―家族という神話』(岡村ひとみ訳、厚徳社、1998年)に詳しい。 [16]アメリカABCで、1952年から1966年に放映された、理想的な核家族の生活の様子を描くシットコム、The Adventures of Ozzie and Harriet。これは実在の4人家族、ネルソン家によって演じられ、長らくAll American Familyとして人々の心に残ることになった。 [17]前掲の『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』26頁
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