bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.18 雑賀広海 香港ノワールの考察―フィルム・ノワールの可能性

香港ノワールの考察―フィルム・ノワールの可能性


雑賀 広海

 

はじめに
 香港ノワールという言葉がある。宇田川幸洋によれば『男たちの挽歌』(原題『英雄本色』呉宇森監督、1986年)が日本で公開される際に配給会社の宣伝部がつくりだした造語であるという[1]
 読んで字のごとく香港ノワールとは香港製フィルム・ノワールという意味であるが、1940年代にハリウッドで生まれた『マルタの鷹』(ジョン・ヒューストン監督、1941年)や『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー監督、1944年)や『黒い罠』(オーソン・ウェルズ監督、1958年)といった作品と『男たちの挽歌』との間に何らかの連関性は見いだせるだろうか。なるほど確かに『男たちの挽歌』の冒頭、周潤發が燃える偽札からくわえた煙草に火をつけるシーンは印象的であり、フィルム・ノワールは紫煙がたゆたう画面が特徴的なモティーフとして語られる[2]。しかしそれだけではないのか。一人称のナレーションで語られることはないし、ファム・ファタールが男を幻惑することもないし、第一、暗黒映画(フィルム・ノワール)と言うにはあまりに画面が明るすぎる。『男たちの挽歌』にはフィルム・ノワールへのオマージュも批評的関心も持ち合わせていない。フィルム・ノワールは『マルタの鷹』ではじまり『黒い罠』で終焉を告げたが、フィルム・ノワール的なるものは各方面に飛び火している。ポスト=ノワールとして『ダーティハリー』(ドン・シーゲル監督、1971年)や『リーサル・ウェポン』(リチャード・ドナー監督、1987年)といった刑事映画、『ロジャー・ラビット』(ロバート・ゼメキス監督、1988年)のようなコメディ、『ターミネーター』(ジェームズ・キャメロン監督、1984年)や『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982年)などのSF映画、『汚れた血』(レオス・カラックス監督、1986年)や『エレメント・オブ・クライム』(ラース・フォン・トリアー監督、1984年)などヨーロッパの映画作家などあるが、この潮流の中に『男たちの挽歌』を位置づけることはできないのである。香港ノワールはフィルム・ノワールではないということをまず初めに断言する。
 『男たちの挽歌』のプロデューサーである徐克は『男たちの挽歌』からはじまる一連の香港映画が日本で香港ノワールと呼ばれているという事実を耳にした時、一笑に付したという[3]。徐克に言わせれば『男たちの挽歌』はフィルム・ノワールを参照になどしていないしジャンル的にはギャング映画だということになる。ギャング映画というジャンルはハリウッド映画史においてはフィルム・ノワールの四大水源の一つ[4]であり何ら関係のないものというわけではないが、明確分たれるジャンルとしてあるのが定説である。香港ノワールの名付け親は映画批評の言説に疎いまま恣意的に香港映画とフィルム・ノワールを結びつけてしまったと断罪されるものの、中村秀之によれば日本のジャーナリズムではフィルム・ノワールをフランスのギャング映画を意味してきたのは間違いない事実[5]であり、そうしたコンテクストから香港ノワールは生み出されたと首肯することはできる(それでもやはり誤用だという謗りは免れられない)。『男たちの挽歌』からジャン=ピエール・メルヴィルのフランスギャング映画の影響を見ることは不可能ではない[6]
 日本では香港ノワールとして一つのジャンルのもとにおかれる作品群は、香港においては『男たちの挽歌』はその原題となる『英雄本色』にちなんで英雄片、また『友は風の彼方に』(原題『龍虎風雲』林嶺東監督、1987年)からはじまる一連の映画なども同じく原題の『龍虎風雲』から風雲片などと呼ばれており一つのジャンルとして包括されてはいない[7]
 しかし奇しくもフィルム・ノワールと香港ノワールは作品同士の連関性はなくともこれらの言葉の成立過程には共通点がある。それはどちらも外部から名付けられたという点である。戦後フランスでは1940年代アメリカ映画の洪水があった。そして同様に李小龍や成龍などの映画が熱狂的に迎えられていた日本では1980年代に香港映画の洪水があった。どちらも映画産業内部で生成された言葉ではなく批評言語であり後天的に生成された言葉である。香港ノワールは成龍や洪金寶のアクション映画に明け暮れていた日本人観客に向けてそれらとは一風変わった映画であることを端的に示す言葉として生み出された。そして『男たちの挽歌』のシリーズ化、林嶺東、杜琪峰、林超賢といった監督たちの作品が同じジャンルのように見える作品として日本に受容されて、香港ノワールは定着していった。
 香港ノワールという言葉は日本でしか通用しない言葉である。従って香港ノワールを論じるということは香港映画を論じるということではない。議論の俎上にあるのは香港映画を見つめる日本人の視線である。

香港ノワール序論
  香港ノワールのもとになったフィルム・ノワールからしてその定義は依然曖昧なままである。とすると香港ノワールの定義の曖昧さはさらに増すばかりである。しかしとりあえず香港ノワールの原点として『男たちの挽歌』があるのは確かであるからまずはこの作品の分析からはじめるとしよう。
 『男たちの挽歌』は1986年に製作徐克、監督呉宇森、主演に周潤發、狄龍、張国栄を迎えて制作された。ここに挙げられた人物の名前からいくつかの事柄について論じなければならない。
 徐克は香港新浪潮の旗手とされるべき人物である。香港新浪潮とは1978年の厳浩監督による『茄喱啡』を嚆矢として新世代の若い作家たちが続々とデビューを果たし香港映画を大きく揺るがした新しい波である[8]。元々彼らは映画監督の前にテレビ産業の中でドラマ作品を制作しており、この時テレビで放送された彼らの作品を指して唐書璇が創刊した映画批評誌によってニューウェイブという言葉が生まれた[9]。徐克もまたテレビドラマを制作した後、1979年に映画監督としてデビューする。そして以降は猛烈な勢いで鮮烈な作品を発表しプロデューサーとしても数々の作品を製作した。徐克は大学時代に胡金銓についての論文を書いており[10]、また彼のフィルモグラフィが物語ってもいるように武侠映画作家としての側面を大きく持つ。ここで徐克の作家論を取り扱う余裕はないが呉宇森を監督にして制作された『男たちの挽歌』が現代に舞台を移した武侠映画であることは既に四方田犬彦によっても指摘されているとおりである[11]
  それでは呉宇森とはどういう人物であったか。呉宇森は徐克よりも前に映画監督として作品を残している。しかし『男たちの挽歌』以前の作品はどれも興行収入はふるわず(唯一、古典映画のリメイクである『帝女花』(1976年)だけは大ヒットとなったようである)、徐克によって呉宇森は見出されたという形になる。『男たちの挽歌』よりも前に呉宇森はどのような作品を監督していたのか。
 貧しい家庭に育った呉宇森はマフィアが屯する街で生活していたという。キリスト教系の学校に通うかたわらで映画に耽溺し映画監督を志すようになった。キャセイに雇われた後、ショウ・ブラザーズに移り張徹のもとで助監督として経験を積んでいく[12]。張徹は胡金銓のように国際的栄誉を手にすることはなかったが、しかし胡金銓と並ぶ武侠映画の巨匠である。胡金銓が香港で仕事がなくなり台湾に移ったことを考えると張徹の方がより香港人に親しまれた映画監督ということになるだろう。
  張徹のもとで武侠映画の助監督をしていた呉宇森であるが監督としてデビューしたのは1973年、この年は李小龍の『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督、1973年)が公開された年でもあり香港は空前の功夫映画ブームに湧いていた。呉宇森は『カラテ愚連隊』(1973年)や『少林門』(1974年)といった作品を監督するもすぐに功夫映画を撮ることをやめ広東オペラ(粤劇)の映画化として1959年につくられた『帝女花』(龍圖監督)のリメイクを撮ったり、武侠映画を撮ったり、バスター・キートンやチャップリンを参照したナンセンス喜劇を撮ったりと、現在の確固とした演出スタイルがあるイメージからは想像が難しいほど複数のジャンルを遍歴している[13]。徐克が半ば放浪していた呉宇森に目をつけたのは自分と同じように複数のジャンルに跨って作品を監督できる点があり、そして何よりも武侠映画を出自に持っていたことがあったのだろう。
 既に述べたように『男たちの挽歌』は現代劇の武侠映画としてつくられた。プロデューサー、監督が武侠映画を得意としているように俳優もまた武侠映画を彩った俳優が選ばれる。それはもちろん周潤發でも張国栄でもなく狄龍である。狄龍が俳優としてのキャリアを開始したのは1970年代からであり、折しも李小龍の登場と重なっていたため狄龍は武侠映画と功夫映画の両方に跨る俳優ではあるが同じことは同時代の王羽や洪金寶にも言えることであって、狄龍が張徹や楚原の監督した武侠映画で重要な役を演じていたことは間違いない。
  古臭く廃れていた武侠映画の復活を目指してつくられた『男たちの挽歌』であるから舞台を現代に移すだけでなくスクリーンを躍動する俳優にも新味が加えられた。周潤發と張国栄である。周潤發はまさしく香港新浪潮の申し子と呼べる人物であろう。テレビドラマの俳優としてデビューすると許鞍華や梁普智といった新浪潮の監督たちの映画で主演をするようになる。張国栄は周潤發以上に数々の作家たちの映画で重要な役を演じていた。譚家明、關錦鵬、程小東、王家衛、陳凱歌等々。なぜこの俳優が自ら死を選ぶことになったのか、張国栄の俳優論が必要になる時があるかもしれない。
 さて、こういった面々で『男たちの挽歌』は撮られることになるが、そもそもこの映画は1967年の龍剛監督による『英雄本色』のリメイクであるということも述べておかねばなるまい。我々はこのこと一つだけで『男たちの挽歌』が香港ノワールの原点だということに疑義をはさむ余地が生まれる。だが既に述べたように本稿の対象は香港映画を見る日本人の視線であり何ら論旨を曲げる必要はない。龍剛の『英雄本色』は日本人に見られていないのだから。
 香港では日本映画に熱い視線が注がれてきた。特に日活アクションや時代劇は人気があり1960年代には日活アクションのスタッフが香港に招かれて映画撮影の技術を伝えたり実際に映画を撮影したりされてきた[14]。対照的に日本では香港映画には無関心であったと言える。事態が一変したのは李小龍の登場からであるが、李小龍の映画が公開されたのはそういうわけだから欧米圏でのヒットを受けた後、李小龍の死後のことであった[15]
 香港と日本では『男たちの挽歌』の受容の仕方に明確な差異があったことは疑いようがないが、ではなぜ日本でこの映画が公開される際「香港ノワール」という言葉をわざわざ造らなければならなかったのだろうか。
 ところで特にこれまで言及してこなかったが、本稿と同じく香港ノワールを肯定的に評価する先行研究として韓燕麗の「香港ノワールの英雄たち」という論文がある。韓はここで『男たちの挽歌』や『インファナル・アフェア』(原題『無間道』劉偉強・麦兆輝監督、2002年)をジェンダーに注目して論じている。そもそも韓のこの論文が『男たちの絆、アジア映画』(2004)というアジア映画におけるホモソーシャルな空間についての著作に寄稿された論文だからであるが、韓だけでなく多くの観客が『男たちの挽歌』にホモソーシャルな印象を強く持つのではないだろうか。邦題に「男たちの」と女性を排除する文句が冠されたところからもこの映画を見た邦題の生みの親がホモソーシャル性を見てとったことが伺える。
  なぜ『男たちの絆』という著作は書かれなければならなかったのか。それは編集した四方田犬彦や斎藤綾子が言うように日本の日活アクションや任侠映画、香港ノワール、韓国のサスペンス映画などに共通してホモソーシャル性を見て取ることができるからであり、それらを一冊の書物にまとめることがアジア映画を考えるうえでもセジウィックによって提起されたホモソーシャル理論を更新するうえでも必要であったからだ[16]。韓燕麗は日本で香港ノワールとして受容される作品群にはホモソーシャル性が横たわっていると指摘する。

 香港ノワール映画の実質的な主題は、抑圧された弱者間の仲間意識と約束の固さを強調する男性中心の友情神話だけでもなく、伝統的倫理観と美意識を通して社会正義を回復する英雄談だけでもない。永遠に周縁に留めおかれる男たちの、社会の中心に位置するホモソーシャルな組織に完全に参入できない絶望、そしていつホモソーシャルな世界から排除されるか分からない恐怖と不安こそが、香港ノワール映画の本質的命題なのである。[17]
 ホモソーシャルの影にはミソジニー(女性忌避)がある。ここで我々は気づくことになる。フィルム・ノワールとはミソジニーが作用していたジャンルではなかったか。加藤幹郎がフィルム・ノワールのペシミズムに関して「異性愛の神話の衰退によってしるしづけられる」[18]と述べたようにフィルム・ノワールにおいて恋愛メロドラマは成立しない。男性主人公から女性は遠ざけられていく。
 従って香港ノワールはなにも空から作られたデタラメな言葉ではなく微かながらの連関性をフィルム・ノワールと持ち合わせている。香港ノワールの言葉の生みの親はそこに共通性を見つけたのだろう。かくして『男たちの挽歌』一本だけでもって香港ノワールという新たなジャンルが確立された。矛盾に満ちているもののこれが事実である。
 香港ノワールにはミソジニーが通奏低音として響いている。しかし男たちは同性愛者というわけではない。むしろ同性愛こそ映画世界から排除してしまわなければならない。香港ノワールにおいて女性は男たちが異性愛者であることを保証するために手続き上要請される。そして男たちは女性を媒介にして男性同士の絆を深めていきホモソーシャルな空間が成立する。同じことは先に述べたような日活アクションや任侠映画、また『男たちの挽歌』の素地となった武侠映画にも言える。それがセジウィックによって提起されたホモソーシャル理論であった。確かにこれらの映画では女性が主人公の作品も少なからずある。「緋牡丹博徒」(1968-1972)シリーズの藤純子や『大酔侠』(原題『大醉侠』胡金銓監督、1966年)の鄭佩佩など、男性が多数を占めるスクリーンの中で男勝りに活躍する。「男勝りに」。まさにこの点がこれらの映画最大の見所である。男性は暴力性を象徴しこれまで幾度となく女性は暴力の対象とされてきた。暴力のベクトルを反転させるこれらの映画に男性も女性も胸のすく思いで支持を与えたのだ。しかし男性が暴力を象徴する存在であることに変化はない。とすれば男性を暴力性で上回ってしまう彼女たちは男性から男性性を奪い取ってしまうことになりはしまいか。とはいえ彼女たちは女性であることを否定するわけではない。彼女たちは女性として男性性を手に入れた存在、換言するとペニスを持った女性となり両性具有の性格を持つこととなる。ファリック・マザーでも斎藤環が言うような少女性に限定したファリック・ガールでもない[19]、あらゆる女性が可能性を持つファルス性をより広範な視野で捉えなければならない。
 両性具有の可能性として女性はペニスを付加されるが、男性の場合、それはペニスの切除に他ならない。同性愛を絶対的に否定する男たちにとってペニスの切除は死を意味する。
(前略)香港ノワールとハリウッドの古典的フィルム・ノワールが描く世界には共通している特徴がある(中略)それは、救いようのないペシミズムである。[20]

韓の先に引用した文章の直後にこのような指摘がある。
 異性愛者でありながら女性を忌避する香港ノワールの世界に生きる男たちは行き先を失った愛の落ち着く場所を求めて死へと突き進んでいく。しかし韓の言うように決してペシミズムに陥ることはなく、香港ノワールはロマンティシズムに満ちている。呉宇森や杜琪峰といった香港ノワール作家の過剰な演出による銃撃戦はサム・ペキンパーを凌駕する死のダンスを提示する。ゆっくりと倒れながら血を噴出する彼らの死は、すなわち精液を吐き出した末のエクスタシーである。『インファナル・アフェア』がなぜ地獄であるのか、わざわざここに記すまでもないだろう。
  香港ノワールを決定づけるのは以上のようなホモソーシャル空間と死のロマンティシズムだけであろうか。もう一つあるとすれば都市映画という点である。しかし現代劇のほとんどは都市映画であるのに、なぜフィルム・ノワールにおいてはことさらにそれが強調されなければならないのか。だから都市映画というのをやめてより厳密に言い換えて外部からの目という他者性があったとしよう。
 1940年代、第二次世界大戦により戦場と化したヨーロッパを逃れてアメリカに多くの映画作家が亡命してくる。彼らの新天地としてたち現れたアメリカの都市は必ずしも安泰な地であったわけではなく不安に満ちていただろうと想像できる。不安を感じていたのは何も亡命作家たちだけではなくアメリカ国民とて同じことである。戦火がアメリカ本土にまで及ぶのではないかという不安、成人男性が戦地へ駆り出されて女性を子供だけが年に取り残されるという不安。フィルム・ノワールが女性嫌いであるのもそうした不安から導かれた結果であったはずだ[21]。そうした不安がフィルム・ノワールに暗黒性をもたらし、さらにその暗黒性がフランスの批評家によって発見された。フィルム・ノワールはどこまでも外部の目によって成立するジャンルなのである。
 そうすると香港ノワールの外部の目とは何であるのか。答えるのは容易である。日中戦争、中華人民共和国の成立、これらの影響から香港には大陸から多くの人々が逃れてきており香港人の大半は亡命者である。加えて、イギリスの植民地から香港が中国に返還されることが決まったのは1984年のことである。国家なき社会、香港。もとより虚構性のうえに資本主義者家にすがりつくことによって成り立っていたのだから共産主義国家に将来的に組み込まれることがどれほどの不安でもって香港人に襲いかかったか、それを推し量ることは難しいが、1986年制作の『男たちの挽歌』にこうした不安が反映されていても不思議ではない[22]。ただそうした不安を映画に描いていたのは徐克や許鞍華や章國明など新浪潮作家たちの初期作品だった。『香港極道/警察』(原題『點指兵兵』章國明監督、1979年) や『ミッドナイト・エンジェル/暴力の掟』(原題『第一類型危險』徐克監督、1980年)といった都市犯罪映画が『男たちの挽歌』に影響を与えていたのは間違いない。それから時が経ち1980年代も半ばになって重要だったのはそうした不安を克服することだった。熱心に徐克が武侠映画を作り続けていたのは思想的に中国と香港がつなげられる媒介物として武侠映画が機能するからであった。香港ノワールがペシミズムではなくロマンティシズムであるのもこうしたことが要因でもある。それはノスタルジーとも換言しうる。何にしろ香港人の香港都市を見つめる眼差しは一種異様なものにならざるをえない(それが傑出している例として『ドリームホーム』(原題『維多利亜壹號』)彭浩翔監督、2010年)をあげておこう)。外部の視線に同化しやすいのはもう一枚外側にいる観客であるフランス人であり日本人であった。

日本のフィルム・ノワール
 香港ノワールは現在も杜琪峰や林超賢らによって延命を続けている映画ジャンルである。これより先は以上のようなジャンル論ではなく彼らの作家論が書かれるべきであろう。しかし本稿が次に議論を進めていくのは、果たして日本にフィルム・ノワールはあるかということである。西武劇は日本ではつくられないし時代劇をハリウッドはつくれない、同じく功夫映画も日本はつくれない。無理につくろうとすればそれはパロディ映画の枠から抜け出すことはできない。なぜなら明確に定義が存在するからである。しかし曖昧さが取り柄のフィルム・ノワールはどこの国からも生まれ出る可能性がある。日本にフィルム・ノワールがあってもおかしくはない。フィルム・ノワールも香港ノワールも外部から発見されてきた映画ジャンルであってみれば日本人が日本映画にノワール性を見つけてあちこちに散らばる映画を一本の糸で結びつけることには困難が伴うかもしれないが、香港ノワールの考察によって明らかになったノワール映画の普遍性が我々にはある。それはミソジニーと他者性だ。
 『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八監督、2012年)という映画がある。『桐島』は一人の明確な主人公を持つことはなく物語は浮遊するように進む。高校生の男女を主軸に描くが恋愛メロドラマが主題ではない。だから思春期の男女の性欲は宙にぶら下げられたままにされる。前田(神木隆之介)と友人の絆が深まることはあっても彼のかすみ(橋本愛)に抱く思いは成就することはない。『桐島』においてはミソジニーどころか男性をすらも排除しようとする力学が働く。男性、女性関係なくジェンダーを否定する。このようにジェンダーの排除が青春映画に作用する時、日本映画にノワール映画が出現するのではないだろうか。
 『ふがいない僕は空を見た』(タナダユキ監督、2012年)という映画がある。やはりこれも特定の主人公をもたず定点を置かない。『桐島』も『ふがいない』も視線は浮遊する。男性も女性も自らの本能的な性欲のために苦悩し接吻も性行為も恋愛メロドラマにおける愛の勝利に導いていくものとして機能することはない。これは未婚率の増加に少子化という現代日本の社会のあらわれと見ることができよう。
 俳優の森岡龍が弱冠24歳にして監督した『ニュータウンの青春』(2012年)という映画がある。森岡龍自身の経験が折り重ねられていると思われるこの映画もやはり男女のメロドラマよりも仲間同士のホモソーシャル性こそが主題となる。そしてタイトルが示しているようにこの映画はニュータウンが舞台となる。
 バブル時代の残骸の中に生きる若者たちは自分たちの街にアイデンティティを見つけることができない。資本主義の狂乱がつくりだした画一的な都市空間はもはや何を意味するものでもない。退廃も発展もなく、ただそこにある。どこに行こうとも画一的な都市は続き、逃れることができない。これらの映画が炙り出すのはこうした地方都市の現状である。
 フィルム・ノワールは暗黒映画であるから夜のシーンが特徴的である。同様のことが『桐島』、『ふがいない』、『ニュータウン』にも言えるのだとすればあればそれは夕方のシーンということになろう。青春映画という若者を主人公におく映画であるにも関わらず、太陽が沈み闇が訪れようとする瞬間を好んで撮影するこれらの作品は倒錯した情感が観客を襲う。
 最後にある作品とその監督の名前を示しておこう。それは2013年にテレビで放送された『惡の華』と長濱博史である。本作は日本のノワール映画を考えるうえでとても重要な示唆を与える。
 この作品が初めて放送された時、視聴から異様な反応で迎えられた。曰く「気持ち悪い」と。ちなみに筆者もまたこの作品を初めて目にした時、衝撃で唖然としてしまった記憶がある。
 なぜこのような反応を『惡の華』は受けることになったのか。それはこの作品が漫画を原作にしており『蟲師』(2005-2006)や『デトロイト・メタル・シティ』(2009)といったアニメ作品の監督で知られる長濱博史により映像化され深夜アニメという文脈で放送されたため、そのような文脈にはそぐわない映像が我々を襲ったからである。それはロトスコープという手法による「リアル」な映像だった。
 ロトスコープとは実際の人物を使って撮影された映像をもとにアニメーションにするという手法で、ディズニーなどの作品では一般的なものであるが、日本のテレビアニメの歴史において全編においてロトスコープが用いられたのはおそらく前例がない。省力化が求められる日本のアニメ産業においてロトスコープは恐ろしく効率が悪い。原作漫画の絵柄をあえて崩壊させてつくられた『惡の華』は長濱が映像化するにあたって作品をノワール化させる必要に迫られたことを示している。
 『惡の華』もやはり自らの性欲に苦悩する中学生の男子を主人公とし、地方都市が舞台となる。主人公は生まれ育った街から脱出することを望むが失敗に終わる。物語の水準ではこのような脱出不可能性が日本のフィルム・ノワールを包んでいる。
 ロトスコープによって動かされる絵は人物が背景から浮遊するように作画される。作品中、なぜ何度も主人公の登校シーンが描かれるのか。それは毎日繰り返される同じ景色の反復が先述した脱出不可能性を強調している。またテレビアニメとしては類希なるロングショットの長回しのシーンなどは主人公だけでなくまわりの人物たちもまた街から浮遊しているように描かれる。動くものは人間しかいないかのように。
 登場人物たちは丁寧にデフォルメされることなく忠実にアニメーションされ日本のアニメや漫画を支配している「かわいい」の美学[23]から距離をおくことになる(原作漫画は「かわいい」の美学の支配下にある)。深夜アニメの文脈にありながらもそれからは(自主的に)はじき出された本作はノワール映画の他者性を手に入れた。
 『桐島』、『ふがいない僕は空を見た』、『ニュータウンの青春』、これらの作品が2010年代の日本映画に突如としてあらわれた系統の映画なのかということについては明確なことは言えないが『惡の華』がアニメ作家というより映像作家といった方が適切である長濱博史によって突然変異的に生まれた作品であり、これが先の三作品と少なからずの共通性を有することは日本映画にフィルム・ノワールが存在するという可能性を強めることになる。それが喜ばしいことなのかどうかは問わずにおこう。

おわりに
 『『ブレードランナー』論序説』という著作がある[24]。これは一般的にはSF映画としてのみ語られる『ブレードランナー』をフィルム・ノワールの系譜のもとに置いて一つ一つのショットを分析していくことで監督すらも気づき得なかった物語の主題を浮かび上がらせた著作である。『男たちの挽歌』にこのような批評を適用することはできない。なぜなら重ね重ね言うようだがフィルム・ノワールではないからである[25]。あくまで本稿で論じたものは香港ノワール論でありフィルム・ノワールとは別個のもの、それは日本人によって受容された香港映画の一断片である。
 しかし香港ノワール論はまだまだ書き加えられなければならない。『マルタの鷹』がフィルム・ノワールとしては原始でありながらテクストの層は薄弱であるのと同様に『男たちの挽歌』だけでもって香港ノワールを論じるには資料体が十分ではない。従って本稿は香港ノワールの世界に侵入するきっかけに過ぎないという意味で「香港ノワール序論」と称した。先述したように香港ノワールはまだ延命を続けており、極端なことを言えば、杜琪峰ただ一人によってこのジャンルのテクストは深化している。香港ノワールを論じることと杜琪峰を論じることとはほとんど同義である。稿を改めて杜琪峰の作家論へ至らなければならない。
 本稿は香港ノワールの本丸を避けるようにして水平に転移し日本のフィルム・ノワールの可能性を模索した。そこで示された一群の作品から浮かび上がるのは「可能性」と呼ぶにはあまりに暗澹たる帰結だが、それが現代日本の抱える現実として受け止めなければならない。いや、そんなことはわざわざ映画を分析せずとも明らかなことかもしれない。だが複数の映画を有機的な紐帯で結びつけることにより、さらなる映画テクスト解釈へと導いてくれる、それが批評言語としてのジャンルである。

【註】
[1]野崎歓・宇田川幸洋対談「香港犯罪映画の魅力」『アジア映画で<世界>を見る』作品社、p.110

[2]フィルム・ノワールというジャンルの定義(と呼ぶには不明瞭にすぎるが)については加藤幹郎『映画ジャンル論』(平凡社、1996年)を参照した。また、フィルム・ノワールをめぐる言説については中村秀之『映像/言説の文化社会学』(岩波書店、2003年)に詳しい。

[3]野崎・宇田川、前掲書、p.111

[4]加藤によればフィルム・ノワールの四大水源とは①ドイツ表現主義、②ハードボイルド小説、③ギャング映画と恐怖映画、④イタリアのネオレアリズモであり、これらの影響が融合して発達したものがフィルム・ノワールである。(前掲書、p.40)  

[5]中村、前掲書、p.9

[6]四方田犬彦によれば『男たちの挽歌』からジャン=ピエール・メルヴィルの残響を読み取るだけでは充分ではなく、武侠映画との関連性に注目すること、つまりテクスト生成についてのコンテクストを明らかにしなければならない(四方田犬彦(1993)『電影風雲』白水社、p.94)

[7]韓燕麗「香港ノワールの英雄たち」四方田犬彦・斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画/ホモソーシャルな欲望』(平凡社、2004年)、p.219

[8]四方田犬彦、前掲書、p.93

[9]Pak Tong Cheuk, Hong Kong New Wave Cinema, (Intellect L & D E F a E, 2008), p.10

[10]四方田、前掲書、p.585

[11]四方田、前掲書、p.94

[12]Stephen Teo, Hong Kong Cinema: the extra dimensions, (British Film Institute, 1997), p.174

[13]同上、p.175

[14]香港と日本の映画交流については邱淑婷『香港・日本映画交流史 : アジア映画ネットワークのルーツを探る』(東京大学出版会、2007年)に詳しい。

[15]ブルース・リーについては四方田犬彦『ブルース・リー : 李小龍の栄光と孤独』(晶文社、2005年)に詳しい。

[16]四方田犬彦「男たちの絆」(四方田・斉藤編、前掲書)、斉藤綾子「ホモソーシャル再考」同左

[17]韓、前掲論文、p.243

[18]加藤、前掲書、p.41

[19]日本のアニメ作品に特に顕著に見られる戦う美少女について精神分析学的にアプローチした斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、2007年)は小森健太朗『神、さもなくば残念。―2000年代アニメ思想批評』(作品社、2013年)でその議論の欠陥が指摘されているものの、アジアにおける女性表象を考えるうえで示唆に富むものではあろう。

[20]韓、前掲論文、p.243

[21]吉田広明『B級ノワール論/ハリウッド転換期の巨匠たち』(作品社、2008年)、p.27-32

[22]周潤發の「このような夜景はあとどのくらい見られるだろうか」という台詞が1984年の香港返還決定後の香港人の心境を表していると韓は指摘する(韓、前掲論文、p.222)

[23]「かわいい」の美学については四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書、2006年)を参照。

[24]加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説―映画学特別講義』(筑摩書房、2004年)

[25]しかし加藤の『ブレードランナー』批評の方法論は有効であり普遍性を持っている。作品とジャンルと作り手(監督、プロデューサー、撮影監督、美術監督etc)、三者の関係から解きほぐされた映画テクストは二重三重に重層的なものとなる。またたった一本の映画分析に丸々当てられたこの著作が暗に思索しているのは映画を批評する行為そのものである。リモコンを操作し映画テクストを分断していかなければこの批評は成り立たなかったと言える。映画はテクノロジーと密接に繋がっているのだから批評もまたテクノロジーと無関係にいることはできない。インターネット社会が充実することで映像が氾濫している現在、また新たなる映像批評の方法を巡って、加藤の『『ブレードランナー』論序説』から次の段階へと移行していかなければならないのかもしれない。

 

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