映画から観光への移行期 ― 1950-60年代の日本映画における観光表象



須川 まり

T.はじめに
T−1.映画産業の衰退化と観光ブームのおとずれ

一般に、一九五〇年代興隆を極めた日本の映画産業が六〇年代に入って衰退していく、その最大の要因がテレビをはじめとする娯楽の普及だと考えられている。年間の観客動員が最高だった一九五八年、その数は一一億二七四五万人を記録した。だが、わずか五年後の一九六三年には五億一一一二万人となり、半数以下に激減してしまう。その間、テレビの台数は、一五五万台から一五一五万台と急伸するのであり、こうした統計的な資料に迎合するように、多くの論者が映画の斜陽をテレビの普及と関連付けて語ることに終始してきた。(北浦寛之 43)
 1960年を境に、映画産業は衰退の一途をたどることになる。先行研究や当時の映画雑誌ではテレビの台頭をその原因に挙げてきたが、北浦寛之は、このような既存の見解に対して、当時の映画産業自体が抱えた問題から探っている。北浦は、興行の実態から検証し直し、具体的には入場料金の値上げや冷暖房などの劇場設備の貧弱さを理由に挙げて、その背景に劇場の設備投資における地方格差が存在していたことも言及している。北浦が上記で指摘するように、テレビ以外の映画産業の衰退化の理由はまだ十分に議論されておらず、 他の原因も探っていかなければならない。筆者はこの問題に対して「観光」ブームの影響から考察することにした。映画が娯楽として機能してきた1950年代から、観光ブームへと向かってゆく1960年代の社会の変化に合わせて、「観光」は映画館に替わる体験を大衆に提供したのではないであろうか。1960年代当時の「観光」の情勢の変化について、観光学の観点から以下のように言及されている。
わが国において、「観光が事業として注目されてくる」ようになったのは、1960年代前半のことではなかっただろうか。政策として展開された高度経済成長がスタートしたのが1961年のことであり、その後、観光に関する基本政策を定めた「観光基本法」の制定(63年)、観光目的の海外渡航の自由化(64年)、名神高速道路(64年に愛知県一宮と西宮間の96%が開通)と、東海道新幹線・東京と新大阪間の開通(64年)、国鉄による高速名神高速線の運行開始(64年)、アジアで最初の東京オリンピックの開催(64年)などのお膳立てともいえる状況が、この時期に集中して整っている。大衆観光、マスツーリズムが確立して、観光の王道を欧化した時代でもあった。(井口貢 9)
 1960年代前半にインフラが整備されたことで、大衆は長距離移動が容易になった。そのことは観光の機会を増加させたことを意味する。映画に対して、テレビが巨大な競争相手として存在したのは事実であるが、ミディアムの枠を超えた時、娯楽のライバルとして存在したのが「観光」ではないであろうか。むしろ、「観光」は、大衆にとっては娯楽のひとつでありながら、その社会的背景には政府による国策が大きく絡んでおり、政府が創り出した社会現象と言えるかもしれない。
 1963年の観光基本法は、観光振興の意義に「@国際親善の増進、A国民経済の発展、B国民生活の安定」の3つを挙げている。@国際親善の増進は、「国境を越えた観光往来を盛んにすることによって相互理解を深め」たり、国内においても「都市と農村の相互交流」に繋がることを意味する。A国民経済の発展とB国民生活の安定について、岡本伸之は「観光振興には、所得創出、雇用創出、税収などの経済的意義が認められる」と指摘している。(岡本伸之 10-3)詳細は字数の都合上割愛するが、岡本は「観光という言葉は、観光行動とそれを可能にする各種事業活動、さらに観光者を受け入れる地域との諸関係など関連事象を視野に収めて、広く観光現象を意味する場合もある」(14)と述べており、このように、観光には一娯楽産業では片づけられない影響関係が存在していた。
 戦後、観光客は具体的にどのように増加していったのか。地域研究者の古池嘉和が、交通事業と観光の関係について論じている。
国内観光について見れば、明治以降の交通網整備により、その裾野が広がっていった。 日本においても、観光が進展するためには、移動手段となる交通インフラストラクチャーの整備が進み、容易かつ安全に移動が可能な環境が実現することが可能だったのである。加えて、移動したくなるような「魅力的な観光地」の整備をともなって、近代観光が成立していくことになる。(古池 102)
 古池の調査[1]によると、実際に、国鉄(JR)と民鉄共に、1960年から「高度経済成長とともに急速に進展を遂げ」ている。鉄道旅客数についても、国鉄は1975年まで急速に増加し、その後一度低迷し1985年に分割民営化されたことで増加し1990年頃からほぼ横ばいになっている。一方、民鉄の鉄道旅客数は1960年以降、1990年頃までほぼ一貫して逓増し続け、その後横ばいになっている。(102-3)インフラ整備によって、1960年以降、鉄道を利用する機会は、急激に増加しているのである。
 以上を踏まえて、本論では、1950年代から60年代にかけての娯楽兼社会現象の「観光」と映画の関係を探る。娯楽としても扱う以上、観光客の存在も忘れてはならない。観光客は観光地に何を見たのであろうか。観光客が向けるまなざしについてはW章で述べるが、その都市に暮らす地元住民ではなく、その都市にやって来たもの(観光客)から見た都市像とはどのようなものか。まずは、観光客とはどのような人々を指すのか。井口が生活者と観光客の関係について述べている箇所を引用しよう。
「生活者」が自らのまちを良く知り、誇りをもってわがまちを語ることから観光が始まるのである。観光の経済効果獲得のみに呪縛された地域は、誇りをもって自らを語ることはできないだろうし、来訪者はやがて絶えていくに違いない。そこに暮らす人々の命と暮らしが充実してこそ、矜持が生まれ、その矜持に惹かれた来訪者は再訪者となって、やがては、真の「観光者」になるのではないだろうか。(井口 218)
 井口は、観光者と観光客を区別している。井口によると、観光客は「地域経済への波及効果は確実にもたらしてくれるが、付和雷同型の人々も含んでいるのに対して」、観光者は「主体的でかつ地域への文化的波及効果を確実し得る人々」(井口 218)を指す。何度も観光地にやってくる理想的な来訪者を「観光者」と呼んでいる。本論では、観光というサービスを享受する人々全体を考察対象にしているため、「観光客」と「観光者」を総称して「観光客」と呼ぶことにする。いずれにしても、「観光客」は、地域の外からやって来る「来訪者」であり、本論では来訪者からみた都市像を探ることになる。
 「観光」は、一般的には「都市」に来訪者を呼び込み、現地で消費してもらう政策である。「観光」を消費することについて再度観光論から補足しておく。交通サービスは、「即時財(instantaneous goods)」であり、「購買する時点と消費する時点で変えること、すなわち貯蔵することはできないのが、一般的である」(古池 99)。貯蔵できないという点において、映画館で映画を観ることも同じと言えるかもしれない。さらに、古池は、観光学者の図師雅脩による交通サービスの定義を引用している。
観光資源が非日常的なものであるためには日常生活を離れて、つまり交通手段(徒歩も交通手段である)を利用して観光資源にアプローチする必要がある。このとき本源的な需要は観光資源の観察ないし体験であるが、この需要が発生することによって派生的に発生するのが観光交通サービスに対する需要である。(図師 98)
 上記の図師の意見を踏まえて、古池は、「確かに交通を単なる目的地までの移動手段と捉えれば、派生的であるといえなくもない。だが、仕事の場合と比較すれば明らかなように。同じ移動中の車内でも、すでに旅は始まっていると考えた方が自然である。そのため、私は、単なる派生的なものとして捉えるより、それも本源的需要の一部として捉えるべき」(99)としている。つまり、「観光」を消費するということは、観光地でサービスを享受し消費するだけではなく、観光地に行くまでの交通サービスを消費することも含むことになる。
 図師や古池が指摘するように観光には、「移動」という交通サービスが含まれるが、本論では観光地で楽しむことと移動を同等に扱わず、移動を楽しむことはあくまでも観光に付随するものと捉えている。観光の主たる目的は、観光地での体験である。多くの観客は、映画館で映画を観ることが一番の目的であり、快適な環境(迫力のある音響、暗闇で集中しやすい環境、ポップコーン等)はあくまでも付随するものである。このことを踏まえて、本論では、移動と観光を切り分けて描いている作品を取り上げることで、観光地を観光客がどのように享受するのか、そして、観光地に対してどのようなイメージを抱くのかに議論を限定させる。そのため、観光に付随する交通サービスを主題にした「ロード・ムーヴィー」や「旅行シリーズ」は、観光と違い、「旅」を主題にしているため、本論では観光と旅は本質的に異なるものとしている。その理由も後述する。
 長い間、現実逃避を求めて大衆は映画館を訪れていた。その後、映画館の観客から、テレビの視聴者になるか、観光客になって遠い場所へと身体を直接移動させたのではないか。本論では大衆を映画館から「観光」へいざなう要素を探るため、観光客を意識した2種類の映画作品を考察する。どちらも、観光客の視点を意識した作品であるが、ひとつは観光が抱える問題を浮き彫りにし、もうひとつは観光を映画の中にうまく利用したものである。「観光」という新たな人気娯楽の存在を意識した映画監督たちが「観光」をどのように捉え、利用したか。そこから映画産業の最前線にいた監督たちだからこそ見出せた、映画と「観光」の関係性を明らかにしたい。

U.観光映画とは何か
 観光と旅の違いを「ロード・ムーヴィー」というジャンル映画の定義から明らかにする。まず、ロード・ムーヴィーを類型化させた『追憶のロード・ムーヴィー』(遠山純生編)を参考にしよう。
本書は「ロード・ムーヴィー」が旅や放浪を扱った映画全般を指すという規定に与します。いやむしろ、旅や放浪を含む移動を描いた映画全般を視野に収めたいと思います。その際、「移動」の有無を距離の踏破の長短によって判断することを避けます。国籍、年代は一切問いませんが、大きく採り上げるのは六〇年代後半以後に製作された作品です。(中略)要は、車やバイク(時には徒歩)による道路上の移動が中心を占めている、といこうことになるでしょうか。(6)
 上記の定義を踏まえて、舞台設定の年代や環境(道路以外に)などで下記の7項目に分類している。ただし、映画の性質上、複数の項目を横断したり、部分的に登場する場合もあるため、明確に分類することを拒否すると断っている。
@根拠地も目的地も持たないもの(遊牧民・巡業芸人)
A根拠地を追われた者、あるいは自ら根拠地を捨てた者が「約束の地」を目指すもの
B根拠地を追われた者が一連の試練を経て帰還するまでを描いたもの
C観光(世界各地の名所旧跡を巡り日常生活からの一時的逃避を図る行為)
D追跡・逃亡・探検(自らのルーツの探検・犯罪者や行方不明者の警察や探偵や)
E故郷喪失者(亡命者・難民・被差別者・記憶喪失者・犯罪者などが根拠地を追われる、あるいは忘却する)の放浪
F内面世界、あるいは空想世界への旅(自らの過去や幻想に、想像によって、あるいは麻薬の力を借りて逃避する)
 上記の7項目を見ると、いずれも根拠地あるいはホーム/故郷を離れた者が目的の有無関係なく彷徨ようことが「旅」や「放浪」の性質のようである。また、C観光という項目が登場することから、ロード・ムーヴィーには「観光」の要素も含まれているようである。これらの7項目は、厳密な定義ではないため、もう少し、映画における「観光」の性質を探るためにも、別のロード・ムーヴィーの定義を参考にしておこう。加藤幹郎が、狭義のロード・ムーヴィーの定義について言及している。
狭義のロード・ムーヴィーは、『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー、一九六九年)であれ、『まわり道』(ヴィム・ヴェンダース、一九七五年)であれ、バイクや車や列車(要するに旅そのもの)から降りることがひとつの身体的/精神的死を意味するような彷徨のサブジャンルである。つまり、ロード・ムーヴィーとは、旅が人生(生から死へのプロセス)の比類なき隠喩となっているような物語映画である。(『日本映画論』 35-6)
 加藤によると、狭義のロード・ムーヴィーは、旅が人生のテーマになっているものでなければならず、その点で「旅」と「観光」とは別物であると言える。前述した「C観光」には「一時的逃避を図る行為」とあったように、「観光」は、日常で衣食住が確保されている状態から非日常体験を求め、整備されたインフラ(バス、車、列車など)を利用して定住地から身体を移動させる行為である。つまり、人生の大きな糧というよりは、パラレルワードのように人生とは別の軸を新たに設けて、その疑似的につくられた軸で非日常体験を味わい、再び、本来の普段の暮らしに戻ってくる娯楽である。それゆえ、人生を主題にした旅を描いたものと異なるのである。
 観光学における「観光」の定義はいくつか存在するが[2]、安村克己が古代からの観光の歴史を論じるにあたり、観光を「経済的に豊かな個人が日常とは異なる体験を享受するために、家を一時的に離れる旅としてのレジャー活動」(33)と定義しており、古くから「観光」があくまでも「レジャー活動」として機能していたことがうかがえる。
 以上を踏まえて、「日常生活との一時的な別離」であること、そして、死を伴う人生を表すような「旅」と異なり、レジャー活動と捉えられるような「安全」が確保されていること、この2つの条件を満たしている映画を、本論では「観光映画」と定義づけておく。

V.小津安二郎が見せた「観光」の問題
V−1.『東京物語』における観光客
 日本映画の巨匠である小津安二郎が描く東京の風景は、高く評価されている。本論では、これまでホーム・ドラマとして捉えられてきた『東京物語』(1953年)を観光の視点からテクスト分析して小津作品における観光の位置づけを確認する。
 『東京物語』は、老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が広島県の尾道から東京に暮らす子供達に会いに行く話である。はとバスに乗って東京を観光するシーンが登場したり、観光の要素も多く盛り込んでいる。しかし、旅の醍醐味である列車内のシーンが省略されているのである。『東京物語』における場所や時間の超越について、加藤幹郎が言及している。
たとえば老夫婦が尾道から東京の息子夫婦の家をおとずれるとき、まるで尾道から東京までの空間移動などなかったかのように、夫婦仲よく尾道の家の時と同じ構図で東京の畳のうえにすわっている。じっさい尾道から東京までの移動画面はこの映画に依存しない。ふたりが列車に乗りこむシーンも、列車が走るシーンも、ふたりが列車から降りるシーンも、すべて小津は省略している。(加藤『日本映画論1933-2007 ― テクストとコンテクスト』 147)
尾道から東京へのシークェンス転換においても、そこが東京であることを示す明確なエスタブリッシング・ショットが欠落しているために、古典的ハリウッド映画を見慣れた一般の観客の目には、いったい尾道から東京への旅がいつはじまり、そしていつ主人公たちが東京に到着したのか、判然としない。にもかかわらず観客はこのうえもなく軽やかな足どりとともに、進行中の小休止であるかのように、地理空間的な緊密性をもたない複数の無人の風景ショットがリズミカルに接合されることを心地よく感じずにはおれない。小津映画において映画的身体は頭部や胴体など大まかに分節されるのではなく、微分的律動によって接合されるのである。(148)
 加藤が指摘するように、『東京物語』において老夫婦が移動自体を楽しんでいるシーン(列車内の様子など)は一切登場しない。それどころか、老夫婦の妻であるとみ(東山千栄子)は東京から尾道に帰る列車内で気分を悪くし、大阪の息子の家に急遽身を寄せることになる。『東京物語』において列車は、体に支障をきたすため、娯楽になり得ない存在になっている。唯一、老夫婦が移動媒体に乗って楽しんでいるシーンは、東京観光のはとバスの時だけである。はとバスのなかでは、ガイドの案内に従って右へ左へと一斉に視線を移す老夫婦を含む乗客たちの姿が映し出される。
 『東京物語』における奇妙な演出は、老夫婦が予期せぬ「観光」に赴く際にも登場する。

V−2.エスタブリッシング・ショットの奇妙な使い方
 『東京物語』の奇妙な演出の考察に入る前に、その奇妙な演出を作り出す際に使われているショットについて説明しておく。
 エスタブリッシング・ショットは、状況設定ショットも呼ばれる。『フィルム・スタディーズ事典』による定義を引用しておこう。
後に続くアクションが編集によってばらばらにされる前に、そのアクションがどこで、時にはいつ起きたのか、を設定するショット。たいていはシーンの始めにある。スタブリッシング・ショットは、登場人物と彼らが占めている場所の空間的位置関係もはっきりさせる。(44)
 エスタブリッシング・ショットは本来、シーンの始めに挿入され、これから展開される物語の舞台(場所)や状況を示す役割を果たす。しかし、『東京物語』においては、観客がこの映画の文法を理解していることをあえて利用して、別の演出に作り変えてしまうのである。『東京物語』には、明確なエスタブリッシング・ショットが3都市に登場する。それが東京滞在中に子供達からプレゼントされた熱海旅行と、東京から尾道に帰る途中で寄る大阪、そして尾道である。熱海と大阪は、老夫婦が自発的に訪れる都市ではない。一方、尾道は老夫婦にとってはホームであり、本来観光地ではないのだが、小津による演出によって観光地に変わるのである。

V−2−1.熱海
 熱海の最初のエスタブリッシング・ショットには、見知らぬ若い女性達の背中越しに、熱海の有名な堤防が映し出される。熱海の海の風景ショットが何度も登場し、旅館で老夫婦がその風景を見ながらくつろいでいる。しかし、夜になると、老夫婦は、深夜まで騒ぐ若者たちのせいで眠ることができず、老夫婦は疲れ切った顔で朝方、熱海のランドマークである堤防(最初のエスタブリッシング・ショットと同じ場所)に訪れる。
 このシーンでは、当時の観光業の遅れあるいは問題が表出している。日常から解放されるはずの温泉宿が、人気の観光名所になったことで、老夫婦にとって安息の場所ではなくなっているからである。明け方、老夫婦は気分転換に堤防に訪れたものの、とみ(東山千栄子)は立ち眩みをし、堤防の上で座り込んでしまう。この立ち眩みのショットは、最初に提示された熱海のエスタブリッシング・ショットとほぼ同じ構図である。しかし、最初の堤防のショットでは若い女性たちが風景を優雅に楽しんでいるが、立ち眩みをするショットでは老夫婦にとっては疲労感しかない場所として描かれている。このことから、世代を問わずに楽しめるはずの「観光」が、老人が安心して楽しめるまでに到達できていなかったことが分かる。最初のエスタブリッシング・ショットは、熱海であることを示すだけではなく、その後登場する老夫婦のショットと比較するために使われているのである。
 老夫婦は熱海の予定を早めに切り上げて東京に戻るが、予定外に早く帰って来たことで長女(杉村春子)から追いやられてしまう。とみは戦死した次男の妻紀子(原節子:東京観光に連れて行ってくれた人)のもとを訪ねるが、父周吉(笠智衆)は泊まる場所を失い、東京の友人を訪ねて店を渡り歩くことになる。結局、周吉は友人と酔いつぶれて警察のお世話になり、長女(杉村春子)の家に連れられ長女が営む美容室の椅子で友人と眠りこけることになる。

V−2−2.大阪
 大阪は、老夫婦が東京から尾道へ帰る途中に登場する。大阪城は大阪を象徴するランドマークである。しかし、尾道に帰る老夫婦を見送るシーンの後で急に登場する大阪城のショットに、観客はなぜ大阪のシーンが挿入されるのかすぐには理解できない。尾道に帰ったはずの老夫婦はなかなか登場せず、直前の見送りのシーンでも大阪に寄ることなど誰も言及していないからである。
 大阪城のショットが2度現れた後、大阪に住んでいる三男(大坂志郎)が職場で、とみが気分を悪くして途中下車したために両親が自宅にやってきたことを同僚に話すシーンが挿入される。ここで観客はようやく大阪城のショットが使われた理由を理解するのである。大阪城は、場所を変えて3度も映し出される。はじめに2回、息子の職場のシーンの後で、3回目の大阪城のショットの後、老夫婦が三男の家でくつろぐシーンに変わる。ようやくここで老夫婦が登場する。東京では省略されていたエスタブリッシング・ショットが、5分にも満たない短いシーンにも関わらず、3度も登場するのである。
 つまり、小津はエスタブリッシング・ショットを意図的に操作していたことが分かる。『東京物語』において、東京ははとバスの観光シーンが登場し、主人公の老夫婦が楽しんでいるにも関わらず、観光地ではないのである。東京が最初に登場するエスタブリッシング・ショットには皇居や銀座が使われずに、場所を特定しにくい煙突のショットのあと、東京の長男夫婦の屋内のショットに変わってしまう。一方、大阪は老夫婦にとっては一時的な休憩場所ではあるが、熱海と同様に明確にエスタブリッシング・ショットを用いているため、『東京物語』においては観光地なのである。なぜ、『東京物語』では、明確なエスタブリッシング・ショットが使われると、観光地になるのか。

U−3.『東京物語』におけるホームと観光地
 『東京物語』において、唯一老夫婦が観光客の気分を味わえるのは、はとバスのシーンだけである。小津の観光表象は、熱海旅行の箇所で述べたように、老夫婦だけではなく観客にも観光客になることを妨げることになる。観光映画らしい大阪城のショットは、観光客である老夫婦は楽しむ余裕もなく、観客もまた意表をつかれた大阪城のショットに疑問を抱くだけで、観光気分など味わえずに終わってしまうのである。
 『東京物語』において、観光客になるということは、どういうことであろうか。ロード・ムーヴィーの定義で論じたように、観光とは、安息の場所を確保された定住者から、一時的にホームを失った放浪者になることを意味する。熱海から予定より早く東京に戻ると泊まる場所がなくなっていた周吉は『とうとう宿無しになってしもうた』と言う。一時的な現実逃避のレジャー活動として楽しむ余裕があれば、来訪者は観光客のままでいられるが、その余裕を失うと、放浪者になってしまうのである。そのことを周吉自身が体現している。周吉が休まる場所は、冒頭の夫婦で並んで座っていた尾道の家である。一見楽しいイメージの「観光」は、視点を変えてみると、自分のホームを失う行為である。放浪者になるということは、ホームや安全、安心感を奪われ、人生そのものに影響を与えることを意味する。そのため、とみは体を壊して亡くなってしまい、周吉は健康のままではあるが、妻を亡くし、喪失感に苛まれることになる。つまり、老夫婦にとって、熱海も東京も「観光」ではなかったことが明らかになった。
 つまり、小津が自身の出身地である東京ではなく、熱海や大阪を描く際に明らかな観光名所を使うのは、場所を特定するためというよりも、観光地とホームを明確に区別するためではないか。『東京物語』の観客が観光客になれるのは、東京のはとバスのシーンと尾道だけである。はとバスの時は、唯一老夫婦が観光客になれる瞬間である。しかし、前述したように、尾道が主人公の老夫婦にとってはホームに関わらず、観客にとって観光地になるのはなぜか。
 冒頭と映画の終わりに、夫婦のホームである尾道のエスタブリッシング・ショット(住吉神社の石灯籠と海辺の景色)が登場する。老夫婦にとって観光地である東京の場合、観客には東京と認識しにくい煙突のショットが挿入され明確なエスタブリッシング・ショットが登場しない。一方、尾道は小津にとって観光地であり、そのため、誰もが尾道と分かる風景をエスタブリッシング・ショットに用いている。そのため、エスタブリッシング・ショットを用いた都市は観光地になると定義した場合、老夫婦のホームは小津の編集によって失われていることになる。そのため、老夫婦は『東京物語』において、ホームを完全に失った放浪者であり、そのため身体に大きな負担をかけることになる。
 観光は、本来危険を伴わず、確実にホームに戻れることを前提にしている。しかしながら、『東京物語』においては、加藤が指摘したように、出発地点の尾道から到着地点の東京、さらに東京から熱海に向かう際に、移動シーンだけではなく、いつ到着したのか、いつ出発したのか明確に提示されない。さらに、東京から尾道に帰る際も、途中で大阪が挿入されることで、東京と尾道に引かれた導線がまたしても不明瞭になってしまう。そのため、『東京物語』には、観光では約束されているはずの始点と終点が不在であり、さらに、観光に付随する「移動」が身体への負荷になり、安全を確保するものではなくなっている。ただし、映画全体を通して観た際に、唯一、始点と終点が明確に提示されているのが、映画の冒頭と終わりに登場する尾道のエスタブリッシング・ショットである。老夫婦は常に始点と終点を失った存在(放浪者)であるが、観客は『東京物語』の全体を通して、尾道から尾道へという始点と終点が明確に提示されることで、観光客になることができ安心できるのである。
 つまり、映画における「旅」と「観光」の違いは、ホームの有無である。ホームが確保されているからこそ、「観光」は娯楽として楽しむことができるのであり、編集と物語展開によってホームを失った老夫婦は死を孕んでいる「旅」を経験していたことになる。小津はホームを軸にして、観光客の視点から、観光という行為に含まれている、一時的な放浪に対する不安と、当時の観光の遅れを描いたとも言えるであろう。

W.観光客が体験するものとは何か
 ホームを一時的に失う行為を「観光」と捉えた場合、『東京物語』の老夫婦が十分に観光を楽しめなかったのはなぜであろうか。熱海旅行の昼間、老夫婦ははとバスの時のように風景を楽しむことができた。観光には、安全を約束された場所で風景を楽しむことが必要不可欠である。それでは、一時的な放浪のなかで風景を楽しむことは、観光客にとってどのような体験をもたらすことになるのであろうか。
 「観光」体験について、社会学者のジョン・アーリの観光論の一部を抜粋して補完する。アーリは、『観光のまなざし』でミシェル・フーコーのまなざしの理論をもとにツーリストが向ける対象について論じている。一部抜粋する。
この本は娯楽にかんするものであり、休暇、観光、旅行にかんするものであり、また人がなぜ、どのように通常の職場や住居から短期間離れるのかという問題についてのものなのだ。ある意味では必然性のない財とかサービスを消費することについての本なのだ。こういうものが消費されるのは、日常生活で普段取り囲まれているものとは異なる遊興的な経験をこれがつくり出すと思われているからであるが、一方、すくなくともこの体験の一部は、日常から離れた異なる景色、風景、町並みなどにかんしてまなざし(ゲイズ)もしくは視線を投げかけることなのだ。(1-2)
まなざしは社会的行為や社会的記号のシステムを前提にするわけである。これがおのおのの観光の実践を位置づけていくのである。なにか初めから存在している特質で定まるのではなく、社会の中にある非観光的社会行為との対比、とりわけ家庭と賃労働のなかに見られる慣行との対比から定まるのである。(3)
 アーリは、日常から離れた異なる景色にまなざしを投げかける行為によって、観光や旅行などといった遊興的な経験を作り出すと論じている。アーリによると、まなざしの対象は社会と対比的であるがゆえに、正常な社会において観光は社会から逸脱する行為でもある。しかし、観光は、「ふつう曖昧に看過されてしまう正常な慣行の諸相を解明する可能性をもっている重要なものなのだ」(4)。そのため、正常な社会と対比的な位置関係にある「観光」が、人間社会を描いてきた映画の歴史において対象から外されてきたのも仕方ないのである。しかし、映画という視覚媒体自体が、日常から隔離された暗闇で身体を拘束された状態で、非日常体験を味わう機能を提供する以上、映画と観光はよく似た機能を果たしている。アーリは、観光という行為自体に「脱却」があると指摘しているため、映画もまた映画館によって日常から隔離され、スクリーンを通して映画内物語や風景と出会うのである。
 さらに、アーリは「まなざしは社会的行為や社会的記号のシステムを前提にするわけである。これがおのおのの観光の実践を位置づけていくのである」と言及しているが、この点においても映画と観光における人間の視線は一致する。映画の観客は、古典的ハリウッド映画の文法つまり、編集という約束事/システムを理解した上で、物語展開を追ってゆく。そして、スクリーン内で繰り広げられていることが、現実世界にまで危険を及ぼさないことを認識している。つまり、映画と観光は、社会から完全に逸脱しないものの、日常生活とは一線を引いた行為なのである。なぜなら、前述したように、観光にはホームが約束されており、その前提の上で日常社会から脱却するからである。
 次章では、この「観光」で体験する快感を映画に反映させた映画として、中村登の作品を取り上げる。

X. 観光映画としての中村登作品
X−1.中村登の不明瞭な作家性
 中村登は、1960年代に松竹専属の娯楽映画監督として知られ、代表作には『古都』(1963年)や『紀ノ川』(1966年)がある。1960年代半ば以降になると、松竹ヌーヴェルバーグや独立系映画監督などの勢力が登場したにも関わらず、中村は文芸小説を原作にして、自覚的に松竹大船撮影所が得意とした女性映画を製作し続けた。
 中村は、観光ブームの真っただ中、高度経済成長期で活気に沸く情勢の中で監督としてのピークを迎えた。そのため、女性を描きたかったというよりも女性映画を利用して「観光」を描いたのではないだろうか。実際、中村は『集金旅行』(1958年)のヒットで、『危険旅行』(1959年)『求人旅行』(1962年)などの旅行もの(男女で旅をする)を輩出し、さらに、春の三部作と呼ばれる『暖春』(1966年)、『惜春』(1967年)、『爽春』(1968年)では女性が出張あるいは旅行をするシーンが何度も登場する。春の三部作が製作された1970年頃からアンノン族[3]と呼ばれる若い女性達だけの旅行がブームになっていることから、中村が「旅行」に目をつけていたことは明らかである。本論で、中村登作品を扱う理由は、そこにある。観光ブームの時代に、映画の商業性を守るために「観光」を利用してきた映画作家として、中村登を読み直すと新たな側面が発見できるのではないであろうか。ただし、今回は、「観光」に限定するため、終着点を提示していなかったり、移動をメインにしている旅行もの(『集金旅行』、『危険旅行』、『求人旅行』)を取り上げていないが、上記に挙げた作品についてもまた別の機会に論じたいと考えている。

X−2.中村登の観光都市の位置づけ
 まずは、中村の名前が映画監督として認められるきっかけになった『我が家は楽し』(1951年)を取り上げる。『我が家は楽し』は経済的に困窮している家族の愛情を主題にしたホーム・ドラマである。ここでは、物語の根幹ではないが、印象的な観光シーンを紹介する。
 両親がお金を捻出して、次女信子(岸恵子)を関西旅行(京都と奈良)に送り出す。旅先の京都から絵葉書が届くところから観光シーンが始まる。絵葉書のクロースアップには清水寺が写っている。絵葉書のショットから京都の風景にディゾルヴし、次女のヴォイス・オーヴァーで京都の様子が語られる。
京都はお寺の都です お寺の多いのには驚きました 街にはいろゝ買ひたい物が溢れてゐます だけど余り懐ろが豊かではないので ため息吐息 でものん子青い鞄下げては切つています 明日は奈良へ行きます お姉さんの絵が入選するように大佛様にお願ひするつもりです 信子(完成脚本5-3)
 信子のヴォイス・オーヴァーの間、京都の名所が次々と映し出されるが、そこには次女の姿はなく、遠景ショットで顔が判別できないほどの大きさの通行人が映るのみである。短いシーンにも関わらず、京都の各所が4か所(四条通、御所など)も登場するが、最初の絵葉書の清水寺以外、神社仏閣を避けている。『我が家は楽し』は御所を除き、次女が観光で訪れていそうな嵐山や、金閣寺、銀閣寺、そして、古都京都のランドマークである五重塔など京都の有名な観光名所を排除している。清水寺の絵葉書の静止画ショットから始まり、観光名所を案内するナレーションのような次女の声も使っているが、切り取られた都市風景には、戦前の雰囲気を残す京都の観光都市像を避けているように見える。また信子の京都印象に中村の京都観がうかがえる。
 信子が絵葉書の冒頭でお寺の多さに驚いたと述べているにも関わらず、キャメラは「買ひたい物が溢れてゐます」を象徴するような京都の繁華街の四条通を中心に映している。ここでは信子にとって印象的な都市風景を羅列したと考えるのが妥当だが、そうすると、京都が神社仏閣などの文化的環境だけではなく、東京出身の若い信子が物を買いたくなるような経済的環境も整っていることも示していることになる。このシーンから、中村が京都を観光都市として認識しながらも、単なる古都だと考えていなかったことが分かる。
 つまり、中村は、観光都市京都に対して、古都以外の測面も認識していたのではないだろうか。戦前、映画を通して、欧米の旅行者を誘致しようと考えていた。当時の文化人たちは、映画の内容について、日本に高度な生活文化が存在することをアピールするように勧めたのに対して、政府は(国際観光局)が他都市にはない珍奇性を欧米にアピールしたいと考えていた[4]。京都には、日本の新旧の両側面が存在し、戦前から求められていた「日本らしさ」をアピールするのに都合のいい観光都市であったと言える。
 中村が、『我が家は楽し』に限らず、『古都』(1963年)などで、観光都市に京都を何度も利用するのも当然であろう。実際、中村が意図的に関西を利用してきたことがうかがえるインタビュー記事がある。『惜春』(1967年)の製作時に答えている。
「京都をはじめ関西ロケを織り込むのは、京阪神の映画ファンの方が、関東より六・四の割で多いからです。ぜひ関西の人たちにも注目されるものを作らねばね!」と“商売”に徹したこともおっしゃる。(『大阪新聞』)
 娯楽映画作家である中村が、興行収入を意識して商業主義的な映画を製作していたことがうかがえる。中村が昔から商売に徹する監督であったことは、加藤幹郎が『我が家は楽し』の作品分析で、森永製菓とのタイアップについて述べていることからも分かる[5]。また、『惜春』においても、作中に登場する着物や帯紐を百貨店と企画して、展示会や販売会を開催していた[6]。このような中村の商業性は、当時、社会現象になりつつあった「観光」を映画と結びつける動機になったことは、容易に推測できるであろう。

Y.『古都』に見る観光都市京都の表象
 『我が家は楽し』から中村登が、京都の繁華街も観光要素として捉えようとしたことが分かった。次に紹介する『古都』(1963年)はメロドラマ映画である。『古都』では、主人公の京娘の千重子(岩下志麻)を通した京都と彼女を取り巻く人間模様が主軸になっており、観光を意識したシークェンスが何度も登場する。ただし、名所やランドマークを見せるような観光映画とは異なる。また『古都』に映し出される京都は、1964年に京都タワーが建てられる直前の古都京都の風景である。そして、物語がしっかりと存在するにも関わらず、観光客が主人公ではなく移動シーンも登場しないが、映画全体で観光案内をしているような「観光映画」である。

Y−1.原作『古都』と映画『古都』の相違点
 原作『古都』は、原作者川端康成が文化勲章受章後に発表した作品だったため、マスコミに注目されやすくヒットが予想できた。しかし、『古都』の映画化が企画に上がった際、意外にも松竹は乗り気ではなかった。当時の新聞記事によると、「この「古都」は一年間やりたがっていた作品。難色をみせた松竹の首脳部に“「続・愛染かつら」”を作るからそのかわりに「古都」をとらせてほしいと“と条件をつけていた」(『東京中日新聞』)ようだ。それほどまでに中村の意欲溢れる『古都』を作品分析してゆこう。
 『古都』の舞台は、京都ではあるが、京都に縁のある人々が主体となって作られた訳ではない。大阪出身の原作者川端康成、東京出身の中村、撮影監督の成島東一郎、主役の岩下志麻という京都出身ではない人々が京都を描いている。ただし、川端は京都に度々訪れ、お気に入りのすっぽん料理の老舗「大一」をロケ地に指定したり、京都の日常的空間になり得るロケ地を指導したようだ。また中村自身もプライベートでもたびたび京都へ家族を伴って訪れていたようである。ただし、中村は、京娘や西陣の職人、老舗などあらゆる京都という都市に存在する要素を織り交ぜながらも、観光客の視点から捉えるのである。
 京都を舞台にした現代劇映画の多くは、観光地や町家などの昔から残っている京都の都市風景から始まる。京町家は、観光映画の題材になり得る被写体である。さらに、撮影監督に大島渚監督の『儀式』(1971年)や中村監督の『紀ノ川』を担当した成島東一郎を起用したことで、光を抑えた重厚な雰囲気で都市をとらえ、家の外の場面においても、外にいながら町家の中のような薄暗さを演出している。その重厚な雰囲気の京町家が奇妙な双子の物語といざなう異世界へ扉のような機能を果たすことになる。中村は製作時に「京都の落ち着いたふん囲気をじゅうぶんに盛りこんだ画面にしたい」(『東京タイムズ』)と語っている。その宣言通り、成島の撮影によって、重厚感のある京都の名所や日本庭園のショットが何度も登場する。それでは具体的な表象分析に入ろう。
 『古都』のタイトルが出た後、京町家の屋根群を俯瞰ショットでとらえる。キャメラは少しずつ地上に近づくかのごとく、京町家の格子のクロースアップ、路地の俯瞰ショット、屋根のショットなどに切り替わるが、格子の向こうにある日常生活を窺うことができない。京町家はウナギの寝床と呼ばれるように奥行きが広く、観光客が滅多に入れない空間である。アルフレッド・ヒッチコックが『裏窓』(1954年)で向かいの窓を望遠鏡から物語を描いたように、映画は窃視を体感する媒体でもある。時代劇映画作家としても有名な溝口健二が『祇園の姉妹』(1936年)で祇園の路地裏の奥の世界を描いたように、京都の閉鎖性は窃視の対象としては非常に適しているのである。その閉鎖性を示す際に、町家はしばしば利用される。溝口の『祇園の姉妹』のオマージュ作品を製作した、吉村公三郎の『偽れる盛装』(1951年)にも京都の町家群を見下ろすシークェンスが挿入されている。吉村は幼少の頃に京都で暮らした経験があり、松竹独立後京都を舞台にした映画をいくつか描いている。京都に熟知した溝口や吉村が用いた京町家の表象を中村も『古都』の冒頭に導入しているのである。しかし、吉村と中村の違いは、吉村が京都人の視点から京都という土地の肌理を表すのに対して、中村は町家のショットを利用しながらも、丁寧にナレーションを入れることで観光映画に作り上げてしまうのである。ナレーションは、京町家、平安神宮、京都の祭(祇園祭と時代祭)、大文字などのシーンが登場すると、解説者として挿入される。
 冒頭で京都の中京の京町家を映しながら、明治維新前のどんどん焼けで燃えたために、実は100年経ってない町家であると説明される。『古都』で描かれる京都は、『我が家は楽し』の信子の観光シーンと同様に、観光客には一見古く見えても、比較的新しい(一世紀未満)ものばかりである。キャメラがひとつの京町家の奥へとすり抜けると、主人公の千重子(岩下志麻:双子の姉)が庭をみつめている。原作の『古都』は、映画と違い、千重子の家の庭の描写から始まる。そのため、中村は原作では途中で登場する町家のシーンを演出上、わざわざ映画の最初に持って来ているのである。さらに、原作では基本的には俯瞰的な神の視点(POV)を軸にして、ところどころ双子の千重子と苗子、養父の太吉郎の三人それぞれの視点が挿入されながら物語は進んでいくが、映画では双子の姉の千重子の視点を中心に描かれる。ナレーションは、原作の神の視点と同じ機能を果たすことになるが、千重子のヴォイス・オーヴァーが度々登場することで、千重子はナレーションの一部と主人公の両方を担うことになる。つまり、中村は原作の描写をかなり忠実に引用しながらも、そこに観光映画のような映像演出をほどこしてゆくのである。
  物語に戻ろう。庭のシーンから、老舗呉服問屋の主人である千重子の父親(養父)が作業をしている場面に変わる。千重子は、幼少の頃に現在の家に拾われた。彼女自身、そのことを育ての両親から聞かされており、育ててくれたことに対する感謝の気持ちもあるが、その生い立ちに引け目を感じている。千重子は、その気持ちを発散させるために、幼馴染と平安神宮に向かうことになる。平安神宮からしばらくの間、観光映画のようなシーンが続く。
 平安神宮のショットに変わるとナレーションが、平安神宮の建造物や成立時期を説明する。説明が終わると、千重子と幼馴染(早川保)が桜の木の前で合流するショットに移る。桜が画面に大きく映る合流シーンの後、平安神宮の見どころであるはずの庭全体を見渡すショットは省略されている。撮影時期が10月末ごろであったため、春の庭を撮る事が物理的に不可能であったからではないかと推測される。ただし、庭の中心にある池を部分的に切り取ったようなショットは登場する。池には、飛び石や橋などが存在し、それらは平安神宮の庭を象徴する建造物である。
 飛び石や長い橋(泰平閣)で会話をした後、突然清水寺に行きたいという千重子の意見で清水寺のシーンに移る。清水寺のショットでは、清水寺全体を眺望できる場所に立つ背中越しの二人の姿と夕焼けを背景にした清水寺が見える。「ここから京の町の夕暮れを見たかったの」と千重子は言った後、自分が捨て子だったことを告白する。清水寺のシーンは、キャメラに背中を向けたショットが多く、二人の顔がはっきりと見えるのは一度だけである。ようやく斜め右前から二人をとらえたかと思うと、夕暮れで幼馴染の顔もよく見えない。千重子にも切り替わるが、後ろ姿である。深刻な話をする時に限って顔が見えなくなる手法は、『紀ノ川』(1966年)にも利用されている。影の使い方は成島の特徴とも言えるであろう。観光名所をふんだんに使いながらも、会話が進むにつれて次第に都市風景もそして人物の顔まで不明瞭になってゆく。『古都』には生き別れた双子の姉妹の物語がしっかり存在するにも関わらず、顔の表情を明瞭に映すことよりも、幻想的な京都の都市風景にマッチさせることを優先するのである。また、さらに風景が主役になる遠景ショットではなく、顔が比較的大きく映るミディアム・ショットやクロースアップを使う。そして、画面上も人間の割合が多く支配されているにも関わらず、本作の主人公が千重子ではなく、京都であることが明らかになってゆく。
 何気ないシーンにもそのことが分かる。例えば、千重子が夕飯の買い物に向かう際に「晩御飯の支度に錦(市場)にいってきます」というセリフの後で、京の台所と呼ばれる錦市場のショットに変わる。買い物をする千重子は、本当の親に対する思いを語るなかで「化野あたりの無縁仏の家にもいやすのだろうか」とささやくと、化野のショットに変わる。このシーンは、『古都』は千重子の心情の変化を表すために京都の名所を使っているというよりは、京都の名所をあちこちと映し出すために千重子を使っているように見える。いわゆる狂言廻しである。千重子が平安神宮の後で急に清水寺にも行きたいと述べたことからも、そのことが伺える。平安神宮と清水寺は、同じ京都の東側にあるものの、バスやタクシーを使うような距離があるため、地元住民がふらっと立ち寄るような近さではない。そのことは小説では「かなりの道のりだった」(20)と補足しているが、映画では省略されており、移動時間を割愛し写真を羅列するガイドブックのような印象を与える。千重子は、京都を案内するために回想したり、発言する存在であることが明らかになってゆく。
 双子の妹苗子が暮らす北山杉に千重子が向かう際も、千重子の友人が「高尾の紅葉の若葉きれいやろな」と言ったことをきっかけに、千重子が「うち北山杉に行きたいわ。高尾から近いおすやろ」と提案する。北山杉のシーンでは、加工された杉のショットに重なる形で、小説と同じく「工芸品みたいやろ、数寄屋普請(茶室風の建築)にも使わはるらしいの、東京や九州にも出てゆくのやって」とナレーションのようなことを千重子が語るのである。その後も、平安神宮の冒頭のシーンと同様に、何度も挿入され、そのたびにナレーションが観光ガイドのような役割を果たすことになる。千重子は、ナレーションの不在時に、物語に沿う形で京都の案内人になるのである。

Y−2.『古都』における主人公
 中村が描く京都は、比較的新しく、今も変わらない今日の風景が多い。そのため、『古都』では、古くからの京都のランドマークである五重塔が排除されている。原作では、当時、五重塔の修理が終わったことを「新しい金閣寺みたいに、醍醐の塔(五重塔)もならはったんどすか」(17)と語られ、五重塔は京都の古いシンボルとして扱っていたことが分かる。他にも、日本でいちばん古い電車、北野線のちんちん電車が廃線にあたって「千年の古都は、また、西洋の新しいものを、いち早く、いくつか取り入れたことが、知られている」(130)と記されている。原作者の川端も『古都』で京都の四季に分けて、古都京都の新しさをいくつも描こうとしていたことが分かる。あとがきの解説で原作『古都』について以下のように述べられている。
これ(『古都』)はある意味では、地理的、風土的小説と言ってもよい。そして作者は、美しいヒロインを、あるいはヒロイン姉妹を描こうとしたのか、京都の風物を描こうしたのか、どちらが主で、どちらが従か、実はよく分からないのだ。この美しい一卵性双生児の姉妹の交わりがたい運命を描くのに、京都の風土が必要だったのか。あるいは逆に、京都の風土、風物の引き立て役としてこの二人の姉妹はあるのか。私の考えは、どちらかというと、後者の方に傾いている。(山本健吉 238)
 続いて、公開当時の映画『古都』の評価を引用しよう。映画評論家の津村秀夫が以下のように述べている。
「古都」もまた統一したムードの美しさを見せる作で、物語の曲折では平板だ。全く違った環境の中で成人したふた子の姉妹の心情の中にあこがれの育つプロセスが、京都の町中の生活情緒と北山の自然風物との対照で美しく展開される。新進岩下志麻が双生児の二役を演じて成功、おそらく彼女の出世作となろう。「古都」が叙情的な川端芸術の「におい」を優れた色彩撮影で伝えた(津村秀夫)
 山本が指摘するように、原作『古都』の双子の姉妹は京都の風土を引き立てる要素として描かれている。そして、津村が「統一したムードの美しさを見せる作で、物語の曲折では平板だ」、「叙情的な川端芸術の「におい」を優れた色彩撮影で伝えた」と述べるように、映画『古都』は原作同様、物語よりも京都のムードの美しさを重視している。中村が切望して映画化した『古都』は、原作を忠実に再現するために、千重子を物語展開だけではなくガイド役に使って、京都を案内する映画であった。ただし、京都を知らない観客は、観光映画であることを自覚することなく、千重子の複雑な家庭環境を通して、京都の上流階級の実態を知ったような気分に浸ることもできる。映画『古都』は、中村が観光名所と人間を対等関係から、観光名所を主、人間を従の関係にまで逆転させた作品である。そして、中村の京都へのイメージは、川端がちんちん電車など京都の中の新しさを叙述しようとしたのと同じく、京都の新しい都市風景である。ただし、ナレーションで西陣の後継ぎが少ないことが指摘されるように、若者たちは老舗を残してゆくために、両親が決めた古い慣習的な結婚を受け入れるのである。しかし、皮肉にもナレーションで中京の町家には100年続く店がないと指摘されているように、千重子たちが守ろうとしている店は、京都では比較的新しい存在である。一見、明治以前から残っているように見える町家群は、新しい風景である一方で、町家の奥に暮らす京都の人々が従う慣習は古いままである。物語が平板であるという印象を与えるのは、古都京都の景色が少しずつ変わってゆく一方で、対比的にそこに暮らす京都人が変わらないためである。ついに、人間よりも京都の方が優位に立ったのである。
 もう少し具体的に、補足しておこう。映画のラストで、姉妹は別れを決意することになる。妹苗子を家に呼び寄せた千重子であったが、居心地の悪さに妹の苗子は故郷の北山杉に帰ると話す。苗子に「また来ておくれやすな」と繰り返し言う姉千重子に対し、苗子は首を振り「お嬢さん、さいなら」とだけ言って双子の妹が一生の別れを決意して去ってゆく。妹の後ろ姿がどんどん小さくなってゆき、その後、これまでに登場した風景のショットがいくつも登場する。北山杉、京町家の俯瞰ショット、誰もいない清水寺、冒頭の飛び石、京町家の屋根群の俯瞰ショットに次々と変わり、最後のショットでは影でよく見えない建物のショットで終わる。これは、冒頭の逆送りになっており、人(妹)の姿が消えて、妹を示す北山杉、捨て子と告白した清水寺のシーン、平安神宮の飛び石、さらに冒頭の京町家の遠景ショットへと変わっているのである。しかし、最後のショットは真っ暗に近い建造物のショットになっており、すでに観光シーンとして成立していない。それまでの双子のやりとりを見てきた観客は、このラストのシーンを見て冒頭の観光風のシークェンスとは異なるイメージを抱くだろう。京都の町並みだと短絡的に思う冒頭と違い、人が一切排除された風景に無機質さと冬のひんやりとした冷気を漂わせ、双子の関係が終わったことを示し、それは視覚的に観光の終わりを象徴している。風景のショットには、春夏秋冬で小さな差異を生じさせ、少しずつ変化してゆく様をはっきりと、そして編集によるリズムを刻んでいる。千重子の行動に変化が生じたのは、幼馴染の兄の竜介(吉田輝雄)の助言で実家の経理に不正がないかを問い詰める点くらいである。あとは、物語の後半である秋の時代祭で幼馴染の竜介たちに見間違えられるほどに妹の苗子と交換可能な存在にすぎず、姉妹の差異は苗子が北山杉に戻ることでしか成し得ないのである。ここからも、風景の方が人間より優位に立っていることが分かる。
 中村は、『我が家は楽し』や『古都』で五重塔を排除した一方で、明治維新後に建てられた平安神宮の周辺地域、岡崎の風景を用いる。岡崎は京都では比較的新しい風土の場所で、『古都』だけではなく、京娘を主人公にした『暖春』(1965年)にも登場する。『古都』においては、京都という都市が変わる一方で、女性はそのまま古い慣習に従っている。中村は、京都などの観光地を利用して、人間と風景の関係を探ってきたが、その後、1960年代半ば以降に流行する若い女性の旅行者(その後、アンノン族と呼ばれる)に焦点を合わしたのか、『暖春』や『惜春』(1967年)などで女性自身の人生に関わる旅を描くようになる。ちょうど、観光都市京都が世の観光ブームに迎合し始めた時期である。

\.おわりに
 中村登が映画業界で活躍していた時期、映画は下火になりつつあった。本論では、中村を当時の現状を打開するために「観光」をうまく利用した監督として論じてきた。中村が風景をガイドブックのように羅列する手法を編み出したのは、松竹所属の映画監督として、松竹のスター達の機嫌を損ねないように均等に映す演出を繰り返してきた経歴も影響しているのではないであろうか。登場人物が多くて相関図が複雑な物語を整理する際に、登場人物を均等に並列しており、その手法を観光名所のショットに導入させたのではないかと考えられる。そのため、中村はスター達を平等に扱うにあたり、映画を観光と結びつける手法にも気付き、ガイドブックのような編集方法を利用したのかもしれない。
 観光と映画の類似性について、前述したが、再度まとめておこう。観光客のマナーが時間をかけて直されてきたように、観客もまた、長年かけて修正されてきた。
 映画草創期、密室空間の映画館(常設映画館:ニッケルオディオン)で人々はおしゃべりを許され、自由に鑑賞していた。しかし、私語厳禁、喫煙禁止などのマナーを強いるにあたり、劇場側はマナーの案内スライドを見せただけではなく、サイレント映画にピアノ伴奏や歌手が音を補完し、観客に大合唱を促すという観客参加型の上映スタイルを提供した。(加藤幹郎『映画館と観客の文化史』 72)日本でも活動弁士が長い間人気を博し、その役割を果たしていたが、その後、トーキー映画が登場し、古典的ハリウッド映画の手法が確立したことで、観客が映画に感情移入することを手助けする必要性を失っていった。(73)観光も一時的に日常から脱却できる点が映画館と似ているとすでに言及したが、観光にも密室が存在する。それが、「移動」中である。『東京物語』で省略されていた列車内の移動は、身体を拘束するものである。それを苦にさせないため、列車の窓を大きくして風景が流れてゆく様を見せたり、飛行機では目の前にモニターをつけて映画を鑑賞できるようにしたり、工夫が施されてきた。移動や映画館における身体の拘束は、本来娯楽になり得ないが、長年の修正と改善によって、観光客や観客は娯楽として捉えるようになったのである。
 また『東京物語』の老夫婦がはとバスに乗っている姿は、かつて初期映画の時代に、ヘイルズ・ツアーズと呼ばれる疑似列車旅行装置の観客にも似ている。ヘイルズ・ツアーズとは、「円環軌道上を走る列車型ライドに乗って、トンネル内のスクリーンに映しだされる風景の映像を楽しむ仕掛け」で、1900年代初頭に登場し話題になった。(『映画館と観客の文化史』 174)ヘイルズ・ツアーズの観客は身体を遠くまで移動させることなく、列車の走行感を味わいながらスクリーンに映し出される風景を楽しんでいた。つまり、古くから映画は列車に乗っている間の体験をエンターテイメントにしてしまうのが映画の力であった。列車に乗ることを苦痛とせず、映像を映し出すことで、移動すること自体を楽しんでいた。そして、そのからくりを逆に利用して、疑似列車旅行装置のヘイルズ・ツアーズや『東京物語』に登場したはとバスなどが人気を得るのである。しかし、『東京物語』において移動することは、省略される対象であり、身体に負担をかけるものであった。そして、編集によって始点や終点(東京のエスタブリッシング・ショット)が省略され、それゆえ導線が不明瞭であった。ガイドブックも観光名所の羅列を重視し、移動中の風景は省略されている。しかし、実際に観光するとなると、移動するにあたり、バスや電車やタクシー、新幹線などを使わなければいけない。『古都』の章で少し触れたが、平安神宮から清水寺に移動するには、着物を着ている千重子はタクシーかバスを利用することは容易に想像できる。原作『古都』には移動の記述があったが、中村が省略したのは重要な点であり、そこに観光映画と呼ばれる演出が施されていたことが分かる。つまり、意図的に観光の醍醐味のひとつである「移動」を排除しているのである。
 映画と観光の果たす機能が似ているために、観客は観光客になることができた。そして、小津や中村が描いた観光表象は、映画の文法を学び続けてきた観客に対して、その文法を時に裏切ったり、逆にガイドブックのような編集を用いて、観客自身の観光の実体験を想起させるものであった。しかし、皮肉にも、両監督の観光表象は、観光のブーム到来期の直前に、映画と観光の境界を取っ払い、そのことを大衆に自覚させてしまったばかりに観光への移行を後押ししてしまったのではないであろうか。移動における身体負荷の問題を解消し始めた1960年代、当時の社会現象の後押しもあって、人々は映画館ではなく列車で身体を拘束させ、より贅沢な一時的逃避を図ろうとしたのではないか。

 

[1]詳しい情報については、古池が作成した「鉄道旅客数」のグラフ(103)を参照してほしい。

[2]観光の定義については、岡本伸之(2-8)を参照してほしい。

[3]アンノン族については、山本志乃「新婚旅行とアンノン族 ― 戦後における若い女性の旅をめぐって(戦後日本における旅の大衆化に関する研究)」を参照してほしい。

[4]簡単に言うと、戦前(1930年代後半)、映画を通して、当時の評論家や文化人は、日本のありのままの生活をアピールすべきだと考え、一方政府側はエキゾチシズムな日本像を欧米にうったえてゆこうとしていた。詳細については、山本佐恵の『戦時下の万博と「日本」の表象』を、さらに当時の資料である[「觀光映画を語る」座談會]を参照してほしい。また、本論ではほとんど触れていないが、このような、当時の政府が欧米諸国にアピールするために製作された映画は「文化映画」と呼ばれていた。文化映画の歴史については吉原順平『日本短編映像史 : 文化映画・教育映画・産業映画』、文化映画の定義については藤井仁子「文化する映画--昭和10年代における文化映画の言説分析」などを参照してほしい。

[5]加藤「タイアップするホーム・ドラマ ― 中村登『我が家は楽し』(一九五一年)」『日本映画論1933-2007 ― テクストとコンテクスト』(136-139)を参照。

[6]当時の『惜春』のパンフレットに、東京の高級呉服専門メーカーの菱一株式会社が提供した着物の詳細や、全国の百貨店や有名呉服店で着物の展示販売が行われることが書かれている。また、衣装に使われた着物を抽選でプレゼントする企画(広告)も掲載されている。

映画一覧
・『古都』中村登監督(1963年)。
・『東京物語』小津安二郎監督(1953年)。
・『我が家は楽し』中村登監督(1951年)。

引用参考文献
・アーリ、ジョン『観光のまなざし ― 現代社会におけるレジャーと旅行』、加太宏邦訳(法政大学出版局、1995年[原著1990年])。
・井口貢「観光学の新たな地平を目指して」、井口貢編『観光学への扉』、(学芸出版社、2008年)、7-16頁。
・岡本伸之「観光と観光学」、岡本伸之編『観光学入門 ― ポスト・マス・ツーリズムの観光学』、(有斐閣、2001年)、1-28頁。
・加藤幹郎『映画館と観客の文化史』、(中央公論新社、2006年)。
・---『日本映画論1933-2007 ― テクストとコンテクスト』、(岩波書店、2011年)。
・北浦博之「映画臨戦体制に求められたこと ― 一九五〇年代から六〇年代の日本の映画産業」、黒沢清・四方田犬彦・吉見俊哉・李鳳宇編(石坂健治・上野俊哉・加藤幹郎・小松弘・ジェロー、アーロン編)『日本映画は生きている 第3巻(観る人、作る人、掛ける人) 』、(2010年、岩波書店)。
・古池嘉和「交通事業と楽しい移動空間」、井口貢編『観光学への扉』、(学芸出版社、2008年)、98-112頁。
・松竹株式会社編『松竹七十年史』、(松竹、1964年)。
・図師雅脩「観光と交通」、岡本伸之編『観光学入門 ― ポスト・マス・ツーリズムの観光学』、(有斐閣、2001年)、95-116頁。
・津村秀夫「映画時評<下>」、『朝日新聞』、(1963年1月20日)。
・遠山純生編『追憶のロード・ムーヴィー』、(エスクァイアマガジンジャパン、2000年)。
・藤井仁子「昭和10年代における文化映画と民俗学--日常生活の美学化と国民の創造/想像 (特集 映像の社会学)」、『社会学年誌』43号、(2002年3月号、早稲田大学社会学会)、41-57頁。
・---「文化する映画 ― 昭和10年代における文化映画の言説分析」、『映像学』66号、(2011年号、日本映像学会)、5-22頁。
・ブランドフォード、スティーヴ/グラント、バリー・キース/ヒリアー、ジム著、杉野健太郎/中村裕英監修・訳『フィルム・スタディーズ事典 ― 映画・映像用語のすべて』、(フィルムアート社、2004年[原著2001年])。
・安村克己「観光の歴史」、岡本伸之編『観光学入門 ― ポスト・マス・ツーリズムの観光学』、(有斐閣、2001年)、31-55頁。
・山本健吉「解説」、川端康成『古都』所収、(新潮社、1966年)。
・山本佐恵『戦時下の万博と「日本」の表象』、(森話社、2012年)。
・山本志乃「新婚旅行とアンノン族 ― 戦後における若い女性の旅をめぐって(戦後日本における旅の大衆化に関する研究)」、『旅の文化研究所研究報告』20巻、(2011年3月号、旅の文化研究所)、61-73頁。
・吉原順平『日本短編映像史 : 文化映画・教育映画・産業映画』、(岩波書店、2011年)。
・リチー、ドナルド『小津安二郎の美学 ― 映画のなかの日本』、山本喜久男訳(岩波書店、2009年[原著1974年])。
・『惜春』パンフレット、(松竹大谷図書館所蔵)。
・『我が家は楽し』完成台本、(松竹大谷図書館所蔵)。
・「[觀光映画を語る」座談會]」、『国際観光』、(1939年4月号)。
・「古都にホレ込む巨匠たち」、『大阪新聞』、(1966年12月5日)。
・「主役岩下だけで初日」、『東京タイムズ』、(1962年10月24日)。
・「上質のメロドラマ」、『サンケイ新聞』、(1966年11月26日夕刊)。
・「スター夜話」、『東京中日新聞』、(1962年11月6日)。