父ありき―菅野公子氏インタヴュー



伊藤弘了/松浦莞二

 小津安二郎との仕事で知られる名キャメラマン:厚田雄春。
その優れた業績にも関わらず、厚田氏が果たした重要な役割は半ば忘れられかけてしまっているのではないだろうか。
 我々は氏の三女である菅野公子氏に話を伺う機会を得た。

◎紹介
厚田雄春:
1905年 神戸市に生まれる。
1922年 松竹入社。
1929年 小津の第2作『若き日』で撮影助手を担当。
1937年『淑女は何を忘れたか』以後、松竹の全小津作品の撮影を担当(1929年から62年の遺作『秋刀魚の味』まで、小津作品の殆どに関わったことになる)。

 小津は自身で構図を決めるため、厚田は「自分はキャメラマンではなく、キャメラ番」と語っているが、それが謙遜であることは、『宗方姉妹』など小津が他のキャメラマンと組んだ作品を見れば容易に理解出来るだろう。
 照明にも高い技術があり、小津調と呼ばれる小津独特の画調は厚田の影響が大きい。
 小津以外にも清水宏や中村登などの撮影も多数担当しており、列車の撮影にも極めて優れている。

菅野公子(写真1):
厚田雄春の三女。現在、大船の菅野写真館で活躍している。

松浦莞二:
映像作家。近作に一柳慧の新作を世界初で収録公開した『マリンバ協奏曲』、『鏡のなかの鏡』(LA日本映画祭他上映)、『テーラー 佐伯博史の仕事』(神戸ファッション美術館収蔵)、『PSI』(乃木坂46 松村沙友理PV。編集担当)など。

◎家族写真
―― 厚田さんの撮られた家族の写真(写真2写真3)。素晴らしいものばかりで興奮しています。菅野さんも写真のプロでいらっしゃるので、色々お聞きしていければと思います。どの写真も構図も光も素晴らしいですが、撮影には時間が掛かったんじゃないですか?

菅野 とても時間が掛かりました。色々と注文もありましたね。

―― 小津は若い頃からLeicaを愛用していたと思いますが、厚田さんもLeicaですか?

菅野 いえ、父は拘りませんでした。カメラの問題じゃない。腕だって。

―― なるほど。厚田さんの撮影、シャッタースピードは早い感じですか?

菅野 そんなことはなかったですね。

―― 小津作品の撮影ではシャッタースピードが約1/96秒だったりする時もあって、早めなんですよ。シャッタースピードで露出を微調整していたんだとも思いますが。

菅野 そうなんですか。父が写真を撮る時はそんなに早いシャッターではなかったと思います。手ぶれもあったりで。むしろ遅かったと思います。

―― 厚田さんは写真を撮影する時、三脚は使いましたか? 

菅野 使っていませんね。手持ちですね。三脚はもう全然使ってないですよ。ほんとにこう、情景を入れるっていうか、愉しそうな雰囲気っていうか、そういうのを狙う人でしたね。
父は記念撮影的に、そこに並んで何かを入れて、というのとは違うんです。私もどっちかというとそういう撮り方。いいんです、その雰囲気があれば。
その方が後から見た時愉しいんですよ。

―― それは小津もそうですね。映像で説明をするのではなくて。

菅野 母はね。結構カメラ目線なんですよ。そうするとね、父がね、いつもね、 「こらぁ、またこっち見て、駄目駄目」って言うんです。
「奥さん駄目、こっち向いちゃ駄目」、「やだなあ。あいつすぐ気取るんだよなあ」って、よく言ってました(笑)。
写真好きな母でしたけどね。

―― 構図的に、奥さんはなかなか真正面を撮らせてもらえないんですね(笑)でもとても良い写真だと思います。 

菅野 雰囲気的にね。もうピントの合う合わないじゃなくてその雰囲気がね。
(この写真は)群馬の宝川温泉っていうところなんですけど、温泉が好きな人だったので。父が撮ってくれたんだけど、トンボが止まってるんで「お前そこ横見て、横見て」っていって撮ったら、ぼけて何撮ったのって感じなんだけど、雰囲気的なものって言うかね。

◎40mmのレンズ
菅野 これ、何故か分からないけどウチにあるんです。

―― これは『東京物語』(1953年)のネガフィルム! 記録用に残されたカット頭とカット尻ですね(写真4)。きれいに整理されていて、絞りやシャッタースピードも丁寧に書かれています。とても興奮しています。ご存知だと思いますが、『東京物語』のオリジナル・ネガは現像所の火災で焼失してしまっているんです。

菅野 ええ。そうですね。何故これがウチにあるか分からないんですけど。

―― 東京物語の今残っているプリントはポルトガルに輸出するために作ってあったポジ・フィルムから作られたもので、画質が悪いんですよ。暗部も潰れてしまっていて……。
オリジナル・ネガの一部が残っているのは知っていましたが、これはすごい。さっきも申しましたが、シャッタースピードの早いショットがあるのも確認できますね。

菅野 そうなんですね。

―― なぜ早いのか正確なところは分かりませんが、パラパラと明確で明るい印象を与えるのかもしれません。
そして気付いたんですが、このショット、「40mmレンズで撮影」と記録されていますね。驚きです。

菅野 これは尾道の……。

―― ええ。尾道のロケ撮影ですね。
小津といえばスタジオ撮影では50mmレンズのみを使用。『父ありき』(1941年)でワンショットだけ75mmレンズを使用したというのが定説で、確かにロケーション撮影で例外的に40mmを使ったこともあるとは言われていましたが、実際に記録に残っているところを目にして、正直驚きました(写真5)。
おそらくロケ撮影なので引きが取れなかったんだと思いますが。
このあたりの具体的な事情についても、やはりもっと研究されるべきですね。

◎川又昂と兼松熈太郎
―― 厚田さんの助手で、川又昂さんや兼松熈太郎さんがついていましたが、何かご存知のことはありますか?

菅野 兼松さんは父が大変可愛がった方です。私とも交友があるんですよ。熈太郎さんは父のことを「厚田サーン、厚田サーン」て呼んでたんですよ。

―― そうなんですね。

菅野 川又さんはあの時代、血気盛んな頃で助手を育てる為に父は一発や二発殴ったろうし、仕方ないっちゃおかしいですけど……。

―― 川又さんは体育会系ですからね。野球もとても上手くて、小津組の野球チームでもピッチャーとして大活躍したと聞いています。

菅野 根に持っておられるかもしれません……。

―― そんなことはないと思いますよ(笑)。

菅野 私自身はすごく可愛がってもらっていて。松竹に行ったときも「公ちゃーん」って来るくらいだから(笑)。
川又さん、すごく努力家ですよ。勉強もよくしてたし。
あの方は漫画でカット割のことを勉強してたって言っておられました。

―― なるほど、漫画で。どんな漫画だったか気になりますね。

◎晩年
―― 厚田さんの晩年のことを教えて頂けますか?

菅野 父は1992年に87歳で亡くなりました。お墓は世田谷の正蓮寺というところです。
最初は肺炎を起こしたんですよ。それまで病院に行ったことのないような人で、生まれて初めて入院したんじゃないかと思うんですけど。
肺炎をこじらせたから病院に入ったら、一週間くらいで良くなって、「もう退院だね、良かったね」って言っていた時に、タンが気管支に入ってしまって……。
そのとき病院に行っていた私の主人が「先生を呼んで下さい」って言っている間に父の意識がなくなって、主人が直接心臓マッサージをやったくらいなんですけど、すでに手遅れになっていて……。
それから脳死の状態でね。まるまる一ヶ月。
父はシャイな人だし、私は管を付けられて生きていることがすごく嫌だったし、父も嫌だったろうなあって。
休みの度に病院に行って。珈琲屋さんから珈琲もらって、飲めないけど、珈琲の匂いだけさせて。もちろん意識はないんだけど……。
一ヶ月経った時に「もういいよ、お父さん。疲れたろうし、みっともないから、もういいよね」って言ったら、本当に息を引き取りましたね。
意識がなくても声は聞こえているって言うけど、本当にそうだなって思いました。多分あんな管だらけの格好、人様には見せたくなかっただろうし、皆に知られないうちにね……。
意識を失ってから、丁度一ヶ月で亡くなりましたね。

(2014年6月5日、鎌倉市大船の菅野写真館にて)
 菅野氏にお会いするのは今回で三度目だが、正式なインタヴューはこれが初めてである。そのため、体系的な質問をすることはできなかったが、当時についての大変貴重なお話の数々を伺うことが出来た。
 厚田氏の私生活について、たとえば氏が人にニックネームを付けるのが得意だったといったユニークなエピソードや、菅野さんと小津が出会った時のお話など、非常に有意義なものだった。キャメラマン厚田雄春について、今後さらなる研究が進められていく必要性を改めて感じさせられた。

取材協力:桜井崇/中村紀彦/岩出知也/西橋卓也
写真:桜井崇/伊藤弘了