パラマウント・シアター調査報告--映画館学の今日的意義



伊藤 弘了

 平成26年4月27日(日)〜5月4日(日)(現地時間)の日程で、サンフランシスコでの共同リサーチ を行ってきた[1]。本リサーチの目的は、アメリカ合衆国の古典映画館保存調査およびアメリカ芸術絵画とアメリカ古典芸術映画の連繋性を精査することにあり、今回の調査活動ではその目的を充分に果たすことができた上に、絵画をはじめとする諸芸術領域と映画との連繋性について考察するための非常に意義深い機会を得ることができた。今回の充実した調査結果は筆者の今後の研究に有形無形の示唆を与え続けることになるだろうが、ここではその成果の一端として、アメリカの映画館保存の実態を報告するとともに、映画館学の今日的意義について考えてみたいと思う。
 今回のリサーチで訪れた映画館はメトレオン、カストロ・シアター、パラマウント・シアターの三館である。ダウンタウンのオアシスたるイェルバ・ブエナ・ガーデンに隣接するメトレオン[図1]は、ソニーが建設し1999年に開館した(そののち2006年に近隣の不動産開発会社に売却されることになる)巨大総合遊興施設であり、(日本では全滅してしまった[2] )巨大なアイマックス・シアターを含む16のスクリーンを有するマルチプレックス(シネマ・コンプレックス)が入っている[3] 。現在ではアメリカ屈指のゲイ・タウンとして知られるカストロ地区に1922年に建設されたカストロ・シアター[図2]は、現存する数少ないピクチュア・パレス(映画宮殿[4]) の一つであり、その収容定員は1400人を超える[5]。現在では古典的名画を中心とした二本立て上映を行っている[6] 。オークランドにあるパラマウント・シアターもそうした貴重なピクチュア・パレスの一つであり、その規模はカストロ・シアターをはるかに凌ぐ。以下、本報告文ではこのパラマウント・シアターを中心に、調査結果を明らかにしつつ、考察を進めていきたいと思う。
 当該パラマウント・シアター[図3]は、ロサンジェルス(ハリウッド)から北西に600kmほどの、同じカリフォルニア州内にあるサンフランシスコ市から、さらに湾を隔てて対岸13kmに位置するオークランド市内に現存している。1931年に完成した同シアターはアール・デコ様式のものとしては現存する最後のピクチュア・パレスの一つである[7] 。加藤幹郎によれば、ピクチュア・パレスとは「その名のとおり宮殿を思わせる壮麗な巨大映画館で、映画産業が社会的に認知された一九一〇年代後半から二〇年代にかけて建設ラッシュとなった」[8]映画館の一形態であり、「大半のニッケルオディオン[9]は収容定員一〇〇名から三〇〇名未満の小規模経営であったが、それと対照的にピクチュア・パレスはその一〇倍の一〇〇〇名から三〇〇〇名の規模を誇」[10]っていたという(したがって、収容定員3040名を誇るパラマウント・シアターはピクチュア・パレスとしても最大規模のものだということになる[11])[12]。また、ピクチュア・パレスの今日的意義について、加藤は「遡及的に見れば、映画史上この時期ほど映画館建築[13]に巨額の資金が投入された時期はないし、それゆえ今日わずかにのこった往時のピクチュア・パレスは世界各地で(とりわけアメリカでは)貴重な文化財として保存運動の対象となっている」と[14]明快にまとめている[15]
 続いてピクチュア・パレスの内装と設備の実態について見ていきたい。たとえば、パラマウント・シアターと同年の1931年に開館したロサンジェルス・シアターの贅を尽くした内装と実態について、加藤は以下のように活き活きとした筆致で伝えてくれる。

ロサンジェルス・シアターのロビーはヴェルサイユ宮殿の鏡の間をモデルにしていた(アメリカのスノビズムは移民たちが見捨ててきたはずの欧州の王侯貴族が目安となっている)。何本もの巨大なコリント式円柱(付け柱)で支えられた二〇メートルほどの高さの弓(ヴ)なり(オ)の(ー)天井(ルト)は壮麗な曲線をえがくドレイプと空間を圧する巨大シャンデリアで飾られ、その天井と壁は一面、草花文様のプラスター製彫刻や半円彫りのキューピッド群で埋めつくされ、フロアには厚い絨毯が敷きつめられた。[16]

こうした絢爛豪華な装飾は、同時期に開館したパラマウント・シアターにも当然見られるものである。以下では筆者が撮影した写真をもとに、その実態について報告していきたい。
 これはパラマウント・シアターのエントランス・ホールの一画である[図4]。ホールの床には一面に絨毯が敷きつめられており、壁全体に金色を基調とした壮麗な装飾が施されているのがわかるだろう。正面にバルコニー席へと続く階段が見え、その下の通路の突き当りにはソファーが置かれており、壁には絵画がかかっている。エントランス・ホールの壁面には、ステインド・グラスを模したガラスの装飾が嵌め込まれており、その手前には人型の彫刻がずらりと並んでいる[図5][図6]。通路にはいくつものソファーが置かれ、実用性よりも明らかにその装飾性を買われたものと思われる照明器具類が設えられており、さながら超高級ホテルの廊下ででもあるかのような様相を呈している[図7]。階下にも広々とした空間が広がっており、休憩室やトイレがあるほか、やはりここにも一見して高価なソファーや椅子がいくつも置かれているし、正面器具や壁面の装飾にも余念がない[図8][図9]。それからここでは、女性用化粧室に隣接して設けられている文字通りの「鏡の間」に言及しておかねばならないだろう[図10]。ロサンジェルス・シアターの内装に関して、加藤は前掲書で「女性顧客のためには周囲を電球で埋めつくした鏡と椅子とテーブルをそなえた巨大化粧室(女性観客が銀幕の女優と同じように明るい光に包まれて入念な化粧をほどこせる空間)」[17]が用意されていたことを指摘している。ロサンジェルス・シアターの巨大化粧室に比べれば、パラマウント・シアターの女性用化粧室の規模は幾分小さいものと思われるが、それでも今日の一般的な映画館にこのような独立した空間は存在しえないのであるから、往時のピクチュア・パレスの設備を考える上で、やはりこれは特異点の一つだということになるだろう。肝心の観客席の装飾が贅を極めたものとなっていることは言うまでもなく、一階に1756席、バルコニーに1284席、合計3040名の収容定員を誇る巨大劇場内の壁面も天井も、隙間なく飾り付けられている[図11][図12][図13]。スクリーンは豪華な緞帳で覆われ[図14]、観客席の壁面には人間をかたどったレリーフ(浮き彫り)が施されており[図15]、エントランス・ホールの人型の彫刻、あるいはシアターの外壁正面に据え付けられている巨大な人型とも対応し合って、映画あるいは映画館(ピクチュア・パレス)があくまでも人間賛歌のための装置であったことを雄弁に物語っている[18]
 本報告の締めくくりとして、場合によってはもはや過去の遺物と化したかのように思われかねないピクチュア・パレスに今日注目しなければならない理由、極言すれば映画研究者が映画館学を発展させることの意義について考えておきたい。この意義については、実は加藤によって以下のように既に必要十分な外形が与えられている。

映画作品の解釈は、わたしたちが映画作品をいつどのように受容するかによってさまざまに異なっ てくるはずである。同じサイレント映画でも、一九一〇年代前半の映画館(ニッケルオディオン)で見たのか、一九一〇年代後半の映画館(ピクチュア・パレス)で見たのかによって、まったく異なる様相を呈してくるはずである。映画館(上映装置)の様態の違いにもかかわらず、つねに中立的、客観的な映画作品の受容=解釈が可能になるという考えは、形而上学的虚構か映画史的無知かのいずれかであろう。・・・映画作品はどの時代の、どの観客にも、つねに同じ意味を明示するわけではない。じっさいいかなる作品も、その多様な解釈の根拠をみずからの脱構築性のうえに有している。脱構築とは、この場合、作品を受容、解釈するたびごとに生きられる事件というほどの意味である。[19]

ここで加藤は、「映画館(と観客)の文化史」に、映画史が現在置かれているところの硬直状態を抜け出すための契機となる可能性を見ており、映画の私的視聴と映画製作の低迷ぶりとが同時並行的に進行し続けている現代映画をめぐる状況を鑑みるに、これは正鵠を得た指摘だということになる。幸いなことに現在、日本の映画研究者の間にも映画館学を盛り上げておこうとする機運が高まりつつある。今後更なる進展が期待されるこの新領域の研究に、今回の調査活動および本報告が幾分かでも彩りを加えることができているとすれば、筆者としては望外の幸せである。

 

[1]本リサーチは京都大学大学院人間・環境学研究科の加藤幹郎教授および同大学院博士課程在籍の久保豊氏と共同で実施した。また、リサーチに際しては加藤教授の科研費にて調査費用の助成を受けており、本報告文がこうして日の目を見る機会に恵まれたのもその助成および加藤教授によるリサーチ遂行中の適切な指導があってのことである。加藤幹郎教授に深謝の意を表する。

[2]もちろん現在の日本にも「アイマックス」を謳う映画館(シネマ・コンプレックス)はいくつかあるが、筆者が日本で経験したアイマックス・シアターは、スクリーンの大きさに関して、いずれもメトレオンの文字通りの巨大スクリーンの足元にも及ばなかった。

[3]メトレオンおよびアイマックス・シアター登場の映画史的背景およびその推移については、加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(東京:中公新書、2006年)、「第3章第4節 巨大映画館アイマックス・シアター」(168〜170頁)に詳しい。

[4]ピクチュア・パレスの詳細については後述する。

[5]カストロ・シアターの歴史についての更なる情報は、同シアターのホームページを参照されたい。[http://www.castrotheatre.com/history.html](閲覧日:2014年5月19日)

[6]筆者らが同シアターを訪れた5月2日(金)には、フランソワ・トリュフォー監督の『黒衣の花嫁』(1968年)とブライアン・デ・パルマ監督の『愛のメモリー』(1976年)が上映されていた。

[7]パラマウント・シアターの詳細な歴史については、同シアターのホームページを参照されたい。[http://www.paramounttheatre.com/history.html](閲覧日:2014年5月19日)

[8]加藤 前掲書、101頁。

[9]映画史における最初の常設映画館であり、基本的にニッケル硬貨1枚=5セントを入場料としていたため、こう呼ばれるようになった。ニッケルオディオンの詳細については、前掲の加藤幹郎『映画館と観客の文化史』、「第2章第1節 ニッケルオディオン―最初の常設映画館」(67〜98頁)を参照されたい。

[10]同書、101頁。。

[11]ちなみに、加藤も前掲書の中で厳密に調査指摘しているように、「世界最大の劇場」を謳い文句に1927年に開館したニューヨークのロキシーは、収容定員5920名を誇った。

[12]ピクチュア・パレスの全容については加藤の同書「第2章第2節 映画宮殿」(98〜114頁)が必読である。

[13]映画と建築の連繋性については別の機会に詳細に論じてみたい。

[14]同書、102頁。

[15]映画館学の今日的意義については後述する。

[16]同書、103〜104頁。

[17]同書、104頁。

[18]同書、104頁。同シアターの調査に訪れた日には、地元の高校生たちによるショート・フィルムの上映会が行われていた。一見してアフリカ系の生徒たちが過半を占めるような人種混淆的な祝祭的空間に我々もまたささやかな彩りを添えたことになるのだろうが、それ加えて我々が映画研究者であることを知った客席案内係の黒人女性が、懇切丁寧にシアターの説明をしてくれたことの意義について、本文では触れられなかったが是非ともここで強調しておきたいと思う。すなわち、合衆国には長い人種差別的政策の歴史があったなかで、当然、映画の分野においても黒人たちは差別的な扱いを受けてきたわけである。映画館で白人観客と同席することを禁じられていた黒人観客たちは黒人専用映画館や黒人専用スペースに押し込まれていたのであり、「贅をつくした一九二〇年代のピクチュア・パレスからは基本的に経済的排除を受けることになった」(加藤 前掲書、123頁)のであるから、もちろん依然として人種をめぐっては様々な問題が積み残されているとはいえ、こうしてかつては不当に排除に甘んじてきた彼らが大手を振ってその文化的資産を享受できるようになった現状を、筆者はさしあたって多としたいと思う(アメリカ映画史における黒人専用劇場および黒人映画の実態につては、次の論文を参照されたい。加藤幹郎「アメリカ映画史の二重化 オスカー・ミショーと黒人劇場専用映画」[『映画とは何か』、東京:みすず書房、2001年、225〜258頁])。

[19]同書、26〜27頁。

参考文献
・加藤幹郎『映画館と観客の文化史』、東京:中公新書、2006年。
・カストロ・シアターHP[http://www.castrotheatre.com/history.html](閲覧日:2014年5月19日)。
・パラマウント・シアターHP [http://www.paramounttheatre.com/history.html](閲覧日:2014年5月19日)。