bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.18 山田峰大 ソーシャルメディアが第四の権力となる可能性について~障害者手帳交付拒否問題を通じて

ソーシャルメディアが第四の権力となる可能性について
~障害者手帳交付拒否問題を通じて


山田 峰大

 

1. はじめに
1−1.研究の背景
 マスメディアは、一般的に第四の権力と呼ばれ、三権を監視する別な権力として機能している。ただ、この現代の情勢において、この四権が他の三権と全く異なっているのは、ごく一般的な人々がこの四つ目の権力を手にすることが可能だという点である。
 2010年頃から始まったアラブの春において、ソーシャルメディアが果たした役割は、既にかなり綿密に語られている。アラブの春の発端となったチュニジアのジャスミン革命においては、政府に抗議する行商の青年の焼身自殺が、携帯のカメラで撮影され、動画サイトにアップロードされることを契機に、革命の機運が高まったという経緯がある。
 このことからわかるように、私たちが普段何気なく使用しているスマートフォンとYou-tubeに代表される動画投稿サイト、さらに情報の拡散と議論を呼び起こすFacebookやTwitterに代表されるソーシャルネットワーキングサービス(SNS)は、私たちが権力によって苦しめられて際に、対抗する手段になりうるのである。このようにネットワーク上にあたかも蜘蛛の巣のごとく広がったメディアのことをソーシャルメディアと呼ぶ。そして、ソーシャルメディアは平素新聞やテレビなどの権威づけられたメディアにアクセスすることのできない普通の市民が、より簡単に自分の置かれた状況を社会に訴えることができるとう特性を持つ。
 勃興期のメディアが民衆の意見を代弁するというのは、歴史的にも裏付けられたことだ[1]。たとえば、新聞もその発生当初は、支配階級に対して労働者階級の声を代弁する弱者の武器として役割を果たしていたという経緯がある。
 それでは、具体的にソーシャルメディアやスマートフォンに搭載されたカメラは普通の市民が苦境に立たされた際にどのように機能するのだろうか?具体的な事例にのっとって検証してゆきたい。

1−2.研究の動機と目的
 このような論考を始めるきっかけとなったのは、筆者がソーシャルメディアで発信するに足る行政的な事件に巻き込まれたためである。筆者は、昨年度から持病の慢性腎不全が悪化し、2012年6月の段階で障害者手帳を申請する段階の病状となった。しかし、居住地において必ず発行されるはずの障害者手帳が、京都市及び、厚生労働省の不手際によって、申請が不許可になったのだ。後々わかることだが、この行政の対応は誤った運用であるのに加え、全国的に学生障害者に対して手帳が発行されていないという大きな社会問題であった。
 この問題を解決するために、筆者は弁護士という司法の領域にある人々、あるいは大学の障害学の専門家や京都新聞の記者など、様々な人々に助言をいただき、理論的に行政と交渉をすることができた。しかし、この過程でこれらの組織が単なる検証の以上のものとして機能したことを体感した。
 それは理論的な交渉とは別の「圧力」というかたちで立ち現れた。三権分立による行政の監視機能、そしてメディアや大学が四つ目の監視機能として働いていることを目の当たりにすることができたのだ。
 ただ、このような既存の権力による「圧力」とは別にソーシャルメディアが「圧力」と機能していた手ごたえを感じることもできた。これはもちろん既存のメディアに比べれば、ごくわずかなものである。ただし、そこには新たなメディアが生まれようとする萌芽のようなものがあった。今後のソーシャルメディアの進展を期待しつつ、この微弱な圧力がどのように機能したのかを報告したい。

1-3.研究の構成
 本稿は筆者が闘病において直面したふたつの「権力」について述べている。ひとつは先に述べた障害者手帳交付拒否問題における行政についてである。そして、もうひとつは医療についてである。
 行政の場合は、権力と民衆という構造が見えやすい。だが、医療の現場においては若干異なった様相を見せる。医療の現場に関していえば、医療者と患者はパートナーであり、医療者側を「権力」として位置付けるのは不適切かもしれない。しかし、その一方でごく例外的に医療ミスや高圧的な医師によるドクターハラスメントの問題も発生している。このような問題について、私たちが持つ小さなメディアが少なくない貢献ができる可能性がはらんでいる。ただ、この小さなメディアを行使することによって、医療者と患者の関係が悪化する可能性もはらんでいる。
 私たちのスマートフォンには写真、音声、動画を記録するカメラとマイクが入っている。これは私たちがほぼ「映画」というものをポケットのなかに手にしたのと同然である。
 しかし、私たちが「映画」というものに簡単に使いこなすことができるだろうか。 言うまでもなく、新しいテクノロジーを持て余し、あるいは間違った使い方をしてしまうだろう。その結果は、動画投稿サイトにアップロードされた「作品」たちが物語っている。百年以上の歴史を持ち芸術的に洗練された映画と、スマートフォンで撮られた「映画」の品質は比べるべくもない。
 ただし、勃興期の映画が低俗なものと貶められていた。それならば、私たちがポケットのなかに持つ「映画」も今後どのような発展を遂げるか全くわからない。本論文においては、草創期の媒体であるソーシャルメディアとスマートフォンがいかに2012年の段階でいかに活躍していたのか、あるいはどのような限界にぶつかったのかを記録する歴史的な資料としての役割も期待したい。

2.障害者手帳交付拒否問題について
2−1.障害者手帳交付拒否問題の概要

  まず、論考自体を始める前に考察を始めるきっかけになった。障害者手帳の交付拒否問題について整理する。
 身体障害者福祉法の条文第9条に基づけば、障害者に対する援護は、居住地の市区町村が行うこととなっている。ただし、私が障害者手帳を申請するにあたっては少し状況が異なっていた。まず、2012年の6月の段階で左京区総合区役所において私の障害者手帳の発行は断られてしまった。
 それまでの慣例上、疾病を患った学生は学校のある居住地ではなく、地元において手帳を発行しなければならなかったのである。このような状況は他の8政令都市においても発生していていた。それでは、このような状況にさらされた学生はどのような困難に直面するのだろうか。
 この場合、交付を拒否された学生は、地元において障害者手帳の申請を行うことになる。しかし、これでは現実的に生活を行っている都市での行政サービスが受けられない。しかも、居住もしていな市町村からの行政サービスが支給されるという矛盾に満ちた状況に置かれてしまう。
 学校がある居住地での行政サービスが受けられないとい場合、即座に学業の継続が困難となる。加えて、実家での手帳の発行という扱いは、案に学業をあきらめ、地元に帰るように促している印象を受ける。身体障害者福祉法には、「身体障害者の自立と社会経済活動への参加を促進する」という一文があるが、その内容に則った対応であるとは思えない。
 先のような行政の対応は、学生の勉学を行う機会を奪い、社会活動から疎外するものにほかならない。また、障害者手帳は基本的に治らない疾病に対して発行されるものである。つまり、先のような行政の配慮は、地元で静養を行い治癒したら戻ってくるということを意味したものでないことも付け加えておかねばならない[2]

2—2.障害者手帳問題の解決までの経緯
 2012年の6月からほぼ半年間、筆者自身がこのような法制度の不備に巻き込まれることになり、健康とは決して言えない体調でもって、行政に対して異議を申し立てなければならなかった。この作業の結果、なぜ行政の対応がこのように歪なものになったのか、以下のように明らかになっていった。
 先の行政の対応は明らかに異常であるが、一応この処置にも根拠が存在していた。厚生労働省が発行する支援費制度関係Q&A集においては、「親元から仕送りを受けている場合については、親元の居住地のある市町村が援護の実施者」となるとの一文がある。さらに、厚生労働省の障害者福祉室企画課の「指導」において「学生の申請は親元で」という内容が繰り返されていたようだ。
 もちろん、これは法令の歪んだ運用である。そのことは厚生労働省の障害者福祉室支援課という主に法令を担当する課が、別の見解を表明していることからも明らかである。障害者福祉室支援課の見解は「手帳の申請はあくまで居住地でなされるべきである」というものである。
 つまり、厚生労働省の内部で法の運用のダブルスタンダードが発生していたのである。さらに、2008年度7月から、親元での申請を促す政令上の根拠も失効していたため、先のような交付拒否は明確に誤った法制度の運用であることは明らかであった。
 この件を取り扱った京都新聞の記事においては「院生から指摘を受け、市が厚労省に問い合わせたところ、学生が住む自治体が手帳を交付する仕組みに変わっていた」[3] との報道となっている。もちろん、事実関係として、この報道に全く誤りはないが、このような表現では京都市が、比較的簡単に自らの非を認めたような印象になる。しかし、報道には載らない残滓のようなものを筆者は交渉のなかで味わった。

2−3.行政によるモラルハラスメント
 上述のように手帳がきちんと発行されるまで、筆者は何度も左京区役所の福祉課へ足を運んだ。そこで私は奇妙な体験をすることになる。これらの経験を通じて、私はスマートフォンのカメラやソーシャルメディアの有用性を徐々に意識していくこととなる。ひとまず、以下において私が区役所で体験した奇妙な出来事について記載していく。
 まず、6月28日の段階で左京区役所に手帳の申請に行った際、区役所からはこのような説明を受けた。
「京都は大学の多い学生の街で、学生に行政サービスを提供するお金がない」
 この説明は申請を不受理にする法的な根拠が述べられていないのに加えて、全く論理的でないことがわかる。「学生が多い街だから、交付できない」という理屈は、そのまま逆転して「学生が多い街だからこそ、手帳の交付を受理し、彼らが学業を続けられるよう援助する」というものに転化することが可能だ。このような説明にはほとんど意味がない。
 以上の点が不満で、説明を求め再度左京区役所に出向いた。その際に、一応「法令」とされる資料を渡されたが、その体裁はA4の紙、法令の条文とおぼしき一部が印刷されているだけのものであった。
 この条文がどの法令、あるいは政令に準拠しているのかも明記されておらず、ともすればその場で文章を打ち込んで、プリントをしたかのような代物であった。筆者自身は、この乏しい資料から、この法令とおぼしき文章がどこに由来するものなのか、自身で調査する必要があった。この行政の対応は、倫理的に言えば、説明義務を怠っているといえるだろう。
 さらに、この「資料」の提供を受ける際に、窓口の行政官から奇妙な進言をいただいた。
「障害者であるならば、いずれ実家に帰って生活することになるでしょう。 そのためにも、住民票を実家に戻して、地元で申請された方がいいのではないですか?」
 一見すると筆者の立場を配慮したかのようなものに見えるこの発言には、様々な問題点が含まれている。この発言のなかには、障害者は自活が難しいために、庇護者の元で生活する必要があるというニュアンスがあるが、ただ、こうした行政官の認識は、筆者自身の現状を把握していないのに加え、障害者全体の差別につながる発言である。
 この時点で、左京区役所は私の用意した書類を全く受け取っておらず、筆者の情報を全く認識していなかった。つまり、この発言は、私がどのような人物で、どのような病状を抱えているかを全く把握していない時点で発せられたものである。区役所側は、私の治療及び、生活上どの都市で暮らすのが最良であるか判断する要素がないのにもかかわらず、住民票の移転を勧めたのである。
 筆者は確かに遠くない将来において透析が必要なほどの慢性時不全を患ってはいたが、その時点で既に生体腎移植の準備を進めていた。この手術が成功した場合、私の体調は格段に回復し、自活することが可能になる。そのような比較的希望的な病状を抱える障害者に対して、障害者の自立を援助するはずの福祉部支援課の行政官が、先のような全く病状の回復を想定していない発言をすることは、かなり冒涜的である。
 さらに、このような偏見を、あらゆる障害者に対して適応しているとすれば、行政官は彼らを援護「のみ」が必要な存在として見なしていることになる。障害者支援の基本的な理念は、障害者は社会における「バリア」さえ取り払えば、健常者と全く同じように生活できるのに加え、社会貢献も可能であるというものである[4]。しかし、窓口における奇妙な進言は、障害者を援助の客体としかみなさず、彼らが社会貢献を行う可能性を完全に排除した偏見に満ちたものである。
 問題は、これが一般の人間ではなく、福祉課支援部という障害者福祉のプロフェッショナルからの発せられたことである。無論、冷静に考えれば、この行政官の発言は明らかに非常識であり、一笑に付すべきものである。しかし、行政という一種の権威から、先の発言を受けた場合、専門知識を持たず、また、障害者手帳を申請するまでに体調が悪化し心細く感じる当事者としてはそれを信じ込んでしまうに違いない。
 この窓口での応対を受けた後、筆者も障害者としての自分が社会に参画する道が絶たれてしまったかのような暗澹たる気分になったことを覚えている。このような明らかな説明義務違反やモラルハラスメント的な事態を受けて、自身が公権力と真っ向から敵対していることが明確となった。

2−4.記録の必要性
 障害者手著の交付拒否という実際的な不利益があるのに加えて、先のような行政官の義務違反も、窓口において説明をうけるにつれて前景化していった。このような不備を受けて、私は行政訴訟を想定しつつ交渉を進めていくことになるのだが、ここから事実関係の確認と行政官の義務違反を証明する証拠として、記録の必要性を強く感じ始める。
 障害者手帳の交付拒否という問題は記録せずとも存続し続けるが、窓口対応において頻繁に発生するトラブルの事実関係を証明するためには、録画及び録音するしか方法がない。このような窓口でのトラブルを体験して以降、スマートフォンのカメラを利用していくことになる。
 ただ、記録を始めた動機はそれだけではなかった。このような行政の対応を私は不合理だと感じた。それと同時にこのような不合理を何とか世の中に訴えたいと感じるようになった。筆者は確かにこの時点で「当事者」として困っていた。しかし、この問題意識はあくまでも当事者のエゴイスティックなものかもしれないと感じていた。この点について、事実をありのままに提供し、みなで議論をしたいという欲望が湧き上がっていったのである。ソーシャルメディアはその受け皿となる可能性をおおいにはらんでいた。

3.行政事件においてのソーシャルメディアの利用価値
3−1.ソーシャルメディアの果たしたポジティブな役割

 しかし、現実的な地平において、このような筆者の欲望の受け皿となったのは弁護士や新聞記者、また京大病院及び府立医大病院の保健福祉課や京都大学の障害者支援室などの既存の権力に属する人々であった。彼らの冷静なアドバイスと交渉力によって、私の障害者手帳は無事発行されるに至ったのである。
 しかし、それとは別の地平でソーシャルメディアがそれと似た役割をはたしていたことを指摘しなければならない。
 この障害者手帳交付拒否問題に関しては、一時期行政訴訟に発展する可能性もあった。しかし、当事者が一名であることに対して不安を覚えた筆者は、TwitterやFacebookを用いてこの問題を拡散し、同じような被害にあった人々を捜索した。このような作業を通じて、筆者と同様に京都市で手帳の交付拒否にあった学生を発見する。結局のところ行政訴訟に発展する前に、事態は解決することになったが、自身と同じ被害者を見つけることができ、新聞報道の際に記事の客観性を増すことができたといえる[5]
 しかし、本来の目的とは別に私は、ソーシャルメディアにおいてより大きな成果を得ることができた。それは司法や新聞などがになった役割をごくわずかならもソーシャルモディアが果たすことができたということである。
 まず、この事件において問題となっているのは、障害者手帳の発行が各地方自治体において差異があるという点である。この事実は、京都新聞の新聞記者の取材によって事実関係が確認できたものであるが、筆者自身はソーシャルメディアの力によってこの情報を事前につかんでいた。
 たとえば、横浜市在住の障害を持つ学生が自身の障害者手帳が、無事居住地において発行されたことを伝えていた。また、別な方からは東京都においても、学生に対する障害者手帳の発行が、問題なく行われているという報告もあった。さらに、専門家を名乗る人々から直接意見をうかがうこともでき、一定の水準の議論をすることもできた。
 ただ、これらの具体的な成果とは別に、筆者が心強く感じた点は別にある。ソーシャルメディアにおいてこの事件のことを訴えた際に、多くの人が「それはおかしい」と私の側に賛同をしてくれたという点である。それまでほとんど一人で行政と交渉を行っていた私は、ネットを通じて届けられた声に非常に勇気づけられていた。それまで、自分の訴える内容が、独りよがりのものかもしれないと疑っていた私が、堂々と自分の権利を訴えるきっかけを作ってくれたのである。
 そして、このようなたくさんの人々の声に、筆者はより大きな可能性を覚えた。 先の障害者手帳の交付拒否の問題が解決したのは、新聞によって報道されたためである可能性が高い。この問題は、3月19日に京都新聞紙上において大きく報道されることになり、後追いで読売新聞の社会面において報道されることとなった[6]
 この報道がなされる前は、この問題の発端となった厚生労働省の障害者福祉室企画課の「指導」はウェブ上に残されていた。しかし、新聞報道の後に該当ページにアクセスするとURLが失効していたのである[7]。これは新聞社による取材と分析、そしてメディアにおいて広く世の中に訴えられることによってなされた成果であるといえるだろう。

3−2.ソーシャルメディアの限界
 ただし、筆者はこの新聞社による達成を、ソーシャルメディアにおいてごく低い精度ではあるが感じることができた。まず、前述のとおり私は自身と同じ境遇にある被害者をFacebookにおいて発見することができた。また、さまざまな人物が集まるネット上において、一定の水準の議論も深めることができた。さらに、Twitter及びFacebookにはある情報を自分の友人に拡散するリツイートやシェアという機能が存在している。
 ソーシャルメディアは単独で、取材、分析、そして報道のすべての機能を満たしうると示唆されているが[8]、まさに同様の機能がこの事件においても果たされたのである。もちろん、その精度は既存のメディアである新聞社に及ぶべくもない。私が有益な情報を得られたのは、偶然によるところが大きく、専門家を名乗る人間も、本名を明らかにしておらず彼の情報の信頼性は微妙であった。
 それに加えて、数十万単位の読者に確実に情報を届けることができる新聞社に対して、ソーシャルメディアの拡散の度合いは情報の質によるところに大きい。また、ソーシャルメディアの利用者自体も具体的な人数が不明であり、どれほどの人数に情報が届くかも未知数である。
 さらに、それとは別に利用者自体の質も問題となる。前述したように、ネットを通じて応援の声が届けられた一方で、また別に罵倒のような声も届いた。加えて、罵倒ではないが情報の真実性について疑問視する声も届けられた。
 このケースの場合、筆者自身が当事者であり、発信者である。そのため自分の情報が事実であることは疑いえないが、ネットワーク越しにこの情報にアクセスする人々は情報の真実性に疑問を持ってしまう。ネット上には有益な情報が転がっている一方で、事実無根の情報も多数あるのは常識である。
 これは情報の受容者としては当然のことである。だが、情報の発信者としてこのような疑問を向けられるのは多大なストレスとなった。ソーシャルメディアにおいて情報を発信する際には、裁判と同様の立証責任が当事者に生じることになるのである。このような情報の質をプロのジャーナリストではない、ごく普通のソーシャルメディア利用者に求めるのは極めて難しい。
 また、この事実関係立証を求める人々は、法制度の運用が間違っているか否かといった本質的なことを気にしているのではない。ネットでこの事件を発信する筆者が嘘をついていないのか、はたまたこの事件に巻き込まれた私が本当に存在しているのかという非常に次元が低い疑問を抱いていたのである。このような事態が発生するのは端的に、いまだソーシャルメディアが未発達である証拠である。

3−3.ソーシャルメディアの利用に際しての倫理的問題
 ただし、私たちが所有するスマートフォンを利用すればこのような立証責任をたやすく果たすことができる。スマホにはカメラとマイクが搭載されており、事実をありのままに記録することができる。たとえば、私の場合は、先の区役所で受けた不適切な対応を記録し、You-tubeにアップロードすれば、この事件が事実であることは簡単に証明できるだろう。そして、音声や動画といったかたちで情報の精度を上げることによって、ニュースの価値をあげ、さらなる情報の拡散も可能になったことだと予想される。
 加えて区役所の担当者から発せられた言葉は、非常に心ない冷たいものであった。彼らの生の発言がウェブに上がれば、人々の感情を刺激し、より扇情的なかたちで情報の拡散に拍車がかかったかもしれない。
 だが、報道に関して専門性を持たない私が、このような「力」を行使することは危険ではないだろうか。情報が不用意に拡散すれば、対応にあたった区役所職員の肖像権が侵されることにもなる。個人の肖像を罵倒が溢れるネット上に拡散することは危険極まりない。
 私たち市民は、スマホとネットの発達で確かに第四の権力に匹敵する力を得ることができた。ただし、いまだ草創期であるために、その力を監視するものが未だ存在していないのである。この事件において、司法が行政に対するチェック機能を果たしたのと同様に、ソーシャルメディアを縛るまた別の権力が早急に求められるであろう。
 このように権力としてのスマホとネットは、多大な可能性がある一方で、解決すべき問題も多く含んでいる。このような葛藤を顕在化するために、病院において撮影した動画の扱いについて検討していきたい。

4.医療現場における撮影の問題
4−1.診察室にカメラを持ち込むメリット
 解決すべき問題は多くあるにしろ、われわれは第四の権力に等しい力を手に入れることができた。
 そして、私たちが身近に触れる権力として医療があげられる。3.11の原発事故以降、高度な専門知識を持つ学者の議論に一般の人々が参加できず、疎外されてしまうという問題が発生した。この問題は、医療の現場で発生しうる事例でもある。医療現場においても、医師と患者の立場の差から、ドクターハラスメントという精神的な問題から、医療過誤という命に関わる問題まで、様々な問題が発生する可能性がある。この問題を解決する手段として、筆者は診察室へカメラを持ち込むのが有益ではないかという仮説を立てた。

4−2.「診察室の可視化」とその問題点
 まず、診察室で行われる撮影の模様のことを暫定的に「診察室の可視化」と呼ぶことにする。この呼び名はもちろん「取調室の可視化」に倣ったものである。取調室の可視化は、行き過ぎた捜査による自白の強要や、それに伴う冤罪など被疑者の人権を守るために、日本での導入が検討されているものだ。
 この状況を病院に置き換えた場合、患者は身体・行動の自由が制限されているわけではないのだから、自身で録音撮影を行うことが可能であり、診察室の可視化にあたっての法的な障壁はほとんどない。
 この記録行為には、様々なメリットをもたらす。まず、医師の説明を漏らさず記録することが可能であるというログとしてのメリットは言うまでもないが、前述のように医師と患者の権力関係を中和させる効果が期待できる。
 まず、先の身体障害者手帳の問題においては、手帳が発行されないという現実的なデメリットの他に、行政官が説明義務を怠たり、説明の際にモラルハラスメントを行うという派生的な不利益が生じた。
 この問題が医療現場で発生した場合には、より深刻な事態が生じることとなる。ドクターハラスメントが近年社会問題化しているのに加え[9]、医療者が患者に対して、治療に対する十分な情報を提供しなかったり、あるいは独善的な診断を下したりした場合には、患者の自己決定権を侵害したこととなり、損害賠償請求を求める裁判に発展する可能性がある。診察室の可視化によって、カメラというひとつの客観的な視点が導入されることにより、これらの問題の発生を防ぐことが期待できるかもしれない[10]
 加えて、診察室の可視化は、訴訟の際に起こる医療者側と患者側の資料の不均衡をある程度補うことを可能にする。医療訴訟の際には、どうしても医療者に比べて、患者側がアクセスできる資料が少ない傾向にある。また、ごく稀なケースとして、医療者が患者側の立証を妨げるために、証拠資料を毀滅する証拠妨害が起こる危険性もある。
 このような証拠資料の機会の不平等を、患者側が記録した映像により解消できる可能性があるのだ。

4−3.医療現場におけるカメラ
 ただし、先の障害者手帳の交付拒否問題が様々な課題を残したのと同様に医療現場にカメラを持ち込むことにもさまざまな課題がある。
 そのような課題を私の体験からあぶり出してゆきたい。
 筆者は慢性腎不全に対する唯一の根本治療である腎移植を受けるため、2月13日より京都府立医科大学付属病院に入院した。その後、前述のようなメリットを期待し、医療者側からの説明をiPadの撮影機能を利用し撮影していた。もちろん、個人のパブリシティー権の問題[11]から、撮影の前にはきちんと医療者に許可を取っていた。
 ただ、その一方で腎移植という特殊な経験を記録するために、個人的な目的でも撮影を行っていた。また、今回の生体腎移植は父をドナーとするものであり、極めて家族的なイベントであった。そのため、この記録がホームムーヴィーとなることも私は期待していた。この入院において、私は四権のひとつとしての「映画」とホームムーヴィーとしての「映画」という二種類のものを利用していたのである。
 この動画を友人に見せようとした際に、病院との間に問題が生じたのである。 それは院内で撮影した動画を第三者に見せることに医療者たちが懸念を示したのである。もちろん、私は家族のイベントである腎移植を見せたかったのであって、医療行為を第三者に見せる気持ちはなかった。しかし、現実問題として、父をメインに撮影した映像においても医療者は映り込んでおり、彼らの肖像権に配慮しないわけにはいかなかった。
 結論から言えば、私のケースにおいては、撮影した動画を友人に見せることはおろか、動画サイトに投稿し全世界に公開することは「法的」に全く問題ない。
 私が治療を受けた京都府立医科大学付属病院は公共の機関である。そのため、捜査中の警官が、テレビに映り込むのが問題ないのと同様に、公共団体の医療者が映像にうつりこむこと自体に問題はないのである。
 ただ、これはあくまでも「法的」な問題である。もちろん、常識的な地平で考えれば自分の治療を担当する医師や看護師を撮影し、ネット上で公開するなど異常なことである。
 私自身もそのような行為をする気は全くなかった。私が公開しようとしたのは、あくまでもホームムーヴィーとしての映像であり、病院側との対立はあくまでも誤解に基づくものである。では、その誤解はなぜ生じたのであろうか。もちろん、診察室にカメラを持ち込んだためである。
 診察室にカメラを持ち込むという行為は、少なからず医療者と患者の信頼関係に亀裂を入れる危険性がある。先に述べた通り、診察室にカメラを持ち込むメリットは、医者がハラスメントを行い、医療ミスが起こるなどネガティブな自体を想定したものである。現に私の担当医は「何らかの医療事故が起こった際に、一般に公開することは構わないが、通常の治療行為を公開することには反対である」との意見をいただいた。この点から、いかに医療現場の人間がカメラに対して不快感を覚えていたのかがわかる。
 スマートフォンやタブレットに搭載されたカメラは、患者の権利を守る武器であることは間違いない。しかし、武器を突きつけられる側の医師が、それを快く思わないのは当然である。映画史の草創期において、カメラは銃であった。診察室を可視化するためにカメラを利用することは、治療者に銃を向けることに等しいのかもしれない。
 ただし、このような医療者の不快感は共感できる一方で、問題の本質自体を覆い隠している可能性がある。問題それ自体は、医師と患者でアクセスできる情報に差異があるという点である。その点を患者側から補う一つの方法として、診察室へのカメラの持ち込みを試みたのである。もし、この情報格差の問題の解決をはかるとするならば、医療記録へのアクセスの自由化を検討する必要がある、現状ではそれが十分でないことはここに指摘しておかねばならない[12]

5.まとめ
5−1.ソーシャルメディアの未熟さ

 ソーシャルメディアを通じて中東諸国の民主化運動がドミノ式に広がっていったのは非常に衝撃的な出来事だった。われわれが日常的に手にしているスマホとそこからアクセスすることができるインターネットをきっかけに歴史的な事件が起こったのである。
 そして、筆者も同様に新聞の一面を飾る程度に深刻な行政的なトラブルに巻き込まれた。先のアラブの春のエピソードから、私はこの事件の解決にソーシャルメディアが多いに活躍すると期待した。
 しかし、その期待は少しばかり裏切られることとなった。この事件の活躍において直接的な役割を果たしたメディアは新聞だ。新聞の取材力と分析力、そして発信力によって自体が解決したのである。確かにソーシャルメディアも新聞と同様な機能を備えている。しかし、それらはあまりに未熟で、あくまで新聞を補助するような役割しか果たし得なかったのである。これらは技術的に未熟であるというより、利用者自体が未熟であることに起因する。もし、新聞記者がソーシャルメディアを利用して、情報を発信した場合、少なくとも私よりは社会的なインパクトを与えられただろう。
 ソーシャルメディアで情報を発信する際にも、ネットリテラシーはもとより一定のジャーナリスティックな能力が必要とされると考えられる。確かに、私たちは社会に対して情報を発信するインフラを手に入れることはできた。しかし、それを巧みに利用するためには訓練が必要だと思われる。このような教育的な課題について、今後も調査を進めていきたい。

5−2.芸術としてのソーシャルメディアの可能性
 最後に、我々が手に入れた新しいメディアがいかに未成熟であるかを述べておきたい。スマホにカメラが搭載され、インターネットにアクセスすることが可能になった私たちは、いわゆる「映画」を世界に発信する機会を得たのである。この技術革新について人々は頭では理解している一方で、体感的に理解していないように思われる。
 たとえば、医療現場において筆者がカメラを回した際、医師は明確な不快感を表明した。それは医師が、撮影された動画が証拠資料として裁判に用いられるという想定しかしていなかったためである。ただし、現実問題として私は動画をホームムーヴィーとしても撮影しており、「映画」は記録以外の別な様相を呈していたのである。
 映画は映画史100年の歴史から明らかなように、「芸術」としても発展を遂げてきたメディアである。確かに、現在、スマホで撮られ、動画投稿サイトにアップロードされ、ソーシャルメディアにおいてシェアされる動画は、草創期であるが故に議論や研究が進んでおらず、それらがどの程度芸術的に価値があるかの判断は微妙な問題である。しかし、今後の投稿者の技術の向上や、研究の進展によっては十分に「芸術」としての地位を占める可能性すら秘めているのではないだろうか。
 先の医師が表明した違和感も、動画をあくまでもツールとしてしか認識しない、硬直した視点から発生したとも考えられる。動画が記録を行う道具であると同時に、芸術的な意味合いを備えていれば、診察室での撮影もより和やかであったかもしれない。
 本稿においては、情報技術革命によって私たち一般の人々が、四権である「映画」の力を手に入れたことを、体験的な地平から記録していった。これは現代の人々が手に入れた大きな武器である。しかし、その一方で、より気軽に可能になった「映画」を撮る機会を、権力という非常に狭い用途に限定してはいけないと考えている。
 映画は本来であるならばもっと晴れがましいメディアであると同時に、美しい芸術であるべきだ。現段階で、私たちが利用するスマホによって撮影された動画で、圧倒的な芸術的成功を収めた作品が存在することは寡聞にして知らないが、ごく近い将来においてそのようなブレークスルーが発生する可能性は十分にあるだろう。あるいは、そのような兆候は既に始まっているかもしれない。
 もし、このような芸術的な成功が全く起こらず(あるいは起こっている現象を黙殺し)、ソーシャルネットワーキングサービスをごく一般的なコミュニケーションと非常事態における情報拡散のツールとしてしか認識しなかったとしよう。そうすれば、ソーシャルメディアは非常に貧困なメディアに成り下がってしまう。そのような事態を防ぎ、これまでの映画史が積み重ねてきた芸術的な英知を、ソーシャルメディアに流通する「映画」に注ぎ込んでいくこと。さらに、映画史的な知見で、流通する動画の是非を判断することが、私たち映画学者の仕事になるのではないだろうか。
 筆者はこの一年、疾病と行政上のトラブルによって、映画のメディアとしての側面、つまりは「道具」としての役割に頼らざるを得なかった。しかし、今後は映画学者として、私たち一般人の身近に手に入った映画メディアの「芸術」としての側面を検討していきたいと考えている。

【註】
[1]新聞メディアがその草創期に支配階級の影響を脱し、労働者の側につくまでの過程は以下の文献に詳しい。フランシス・ウィリアムズ『脅かす第四階級 ここまで来た言論』上原和夫・志賀正照共訳、有紀書房、1958年

[2]この事件については、京都新聞において詳細に報道されている。
『京都新聞』2013年3月19日朝刊第1面  「障害者手帳の交付拒否 制度誤解 「仕送り」学生に」
『京都新聞』2013年3月19日朝刊第26面 「京都市 障害者手帳交付拒否 『学生の街なのに…』」
『京都新聞』2013年3月19日夕刊第1面  「学生障害者手帳 8政令市でも不交付 変更知らず」

[3]『京都新聞』3月19日朝刊、1面、同上

[4]この問題については『障害学の挑戦』、明石書店、2002年に詳しい。その一方で、障害者の社会貢献によって得られるメリットが、バリアを取り除くコストより大幅に少ないという現実的な問題についても今後多いに検討する必要がある。  

[5]『京都新聞』2013年3月19日朝刊第26面、同上 

[6]『読売新聞』2013年3月19日夕刊第10面 「障害者手帳を交付拒否 仕送り学生 京都市変更知らず」

[7]この論文を執筆中の4月6日の段階で確認したところ、ネット上から削除されていた。

[8]津田大介『twitter社会論』、洋泉社、2009年、80稿

[9]ドクターハラスメントの実態については、土屋繁裕『ドクターハラスメント』、扶桑社、2002年に詳しい。

[10]医療現場における記録の重要性は、前掲書、140-144項に詳しい。

[11]パブリシティ権を取り巻く現代的な状況は、丹野章『撮る自由—肖像権の霧を晴らす』、本の泉社、2010年に書かれている。また、肖像権をめぐる実際の訴訟問題については、金井重彦『パブリシティ権−判例と実務』、現代産業選書、2003年

[12]患者の医療記録へのアクセスに関しては、谷田憲俊『患者の権利』、明石書店、2007年、293-318項を参照。

 

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