bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.18 山本佳樹 加藤幹郎著『列車映画史特別講義 ― 芸術の条件』書評

加藤幹郎著『列車映画史特別講義 ― 芸術の条件』
(岩波書店、2012年12月)



山本 佳樹(大阪大学大学院言語文化研究科准教授)



 吉田秀和賞を受賞した名著『映画とは何か』(みすず書房、2001年)の第IV章「列車の映画あるいは映画の列車 ― モーション・ピクチュアの文化史」のなかで、加藤幹郎氏は「映画と列車は1世紀以上を閲し多様な関係を結び、それを論ずるには1冊の書物ではたりないくらいの沃野を形成してきた」と書いていた。本書は、それからおよそ10年の歳月を経て、同著者が満を持して「列車映画史」に取り組んだ、待望のモノグラフィである。
 リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)をはじめとして、映画史の最初期から、列車は映画の特権的な被写体であった。運動を再現できる最初の本格的表象媒体であった映画が、自らの特性を生かすために、同時代の最大の運動媒体であった列車を好んで題材としたのは、 歴史的必然であったといえる。それからというもの、映画と列車のカップルは、種々の経験をくぐりぬけながらも、つねに多産であり続けた。それゆえ、「列車映画」という本書のジャンル設定そのものがすでに、汲めどもつきない豊かな可能性を秘めた切り口として、読者の関心を強く惹かずにはいないだろう。
 だが、「列車映画」のジャンル規定や歴史的変遷や下位分類などについての体系的な概説を期待して本書をひもとくとすれば、読者は面食らうことになる。というのも、いずれもカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞した3人の映画監督エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチによるオムニバス映画『明日へのチケット』(2005年)の詳細なテクスト分析から本書は始まるのだが、その分 析が終わった時点ですでに全体の半分ほどの頁数に達しており、その後はまた、アンチ・ロマン作家アラン・ロブ=グリエの監督・脚本・ 出演による『ヨーロッパ横断特急』(1966年)の詳細なテクスト分析に残りの紙幅の大半が割かれるからである。もちろん、ほかの映画に触れられないわけではない。上記の2作品を緻密に論じていくなかで、必然的に数多くの映画が引きあいにだされ、そのつど自由に惜しみなく横道に入って、さらに新たな映画が呼び起こされることになる。こうして、あくまでも映画と映画との関係性のなかで、「列車映画」ジャンル的なものの変遷が画期的に説明されていくのである。映画史とは規範的な年代記ではなく、映画テクスト間の参照や引用によって常に編纂され続けるものだ、という映画史記述に対する著者のかねてからの姿勢が、本書でも見事なかたちで実践されているといえる。
 『明日へのチケット』の分析において卓越した洞察力によってあきらかにされていくのは、たとえば「視線のリレー」といった古典的ハリウ ッドの「文法」を、この映画が明確に、しかし一見すると見落としそうなほど精妙に回避している点である。とりわけ、第2部(キアロスタミ監督・脚本)におけるブラインド越しに列車のコンパートメントを撮った4分間のロングテイクに関する指摘はきわめて刺激的であり、ブラインドの鏡面ストライプに(スクリーンオフの列車車窓から太陽に照らされて)映りこんだ、列車の疾走にあわせて揺れ動く田園地帯の明るい緑の光沢と、その等間隔の横縞越しに垣間見える主人公たちのやりとりは、どちらが地でどちらが図なのかという見分けを無意味にし、観客に何をどう見せるかを二元論的に構築してきた古典的画面構成を覆すことになる、と述べられる。一方、『ヨー ロッパ横断特急』は、映画(動画像)における写真(静止画像)の意味を強調することで、列車の運動(モーション)と人間の 情動(エモーション)を連動させて充溢した虚構空間をつくりあげてきた従来の列車映画の物語構造を脱構築する(その題名にもかかわらず)「反列車映画」であるとされる。まったく異質なこの2つの映画に共通するのは伝統的物語映画の原型の否定であり、旧弊様式を奔放かつ誠実に転回してみせることこそが、本書の副題のいう「芸術の条件」だということになる。
 こうした「芸術」性が問題にされるために、ヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』(1977年)にせよ、タル・ベーラの『ニーチェの馬』(2011年)にせよ、本書でとりあげられる映画の多くが、映画や映画史への言及に満ちた革新的な作品である。『アメリカの友人』では、デニス・ホッパーの起用、男性主人公間の友情、エンディングでの死など、『イージー・ライダー』(1969年)からの直接・間接 の引用によって、「ロード・ムーヴィー」へのオマージュが捧げられている。さらには、冒頭部から提示されていた列車の静態的イメージ(贋作画家〈ニコラス・レイ〉が描いた列車絵画、額縁職人〈ブルーノ・ガンツ〉の息子のベッドに置かれた蒸気機関車の絵のついた動 態的電灯など)が、しだいに本物の列車の動態的イメージになり、映画の後半では、アルフレッド・ヒッチコックの『疑惑の影』(1943年)や『見知らぬ乗客』(1951年)を連想させずにはおかない列車内殺人へといたる。ヴェンダースは「ロード・ムーヴィー」と「列車映画」を結合しながら、「列車映画」の映画史的意義を問うのである。また、『ニーチェの馬』については、映画史の終焉を具体的かつ 象徴的に映画化した作品として、きわめて示唆に富んだ解釈が行なわれている。⻄部劇における馬(ホース)と蒸気機関車(アイ アン・ホース)の表象の検討を橋渡しにしつつ、本書の「列車映画史」は運動主体としての馬や馬車を被写体とした映画へと視線を 伸ばし、そのコンテクストのなかで、映画誕生の契機となったマイブリッジによる馬の走行の連続写真(1878年)と、『ニーチェの馬』 における動けなくなった馬が結びつけられるのだ。こうして、19世紀末の最新テクノロジーであった映画の時代が、21世紀におけるコンピュータ産業の浸透とともに終焉を迎えつつあるという、『ニーチェの馬』のメッセージが浮き彫りにされる。むろんベーラがそう主張した としても、映画が突然作られなくなるわけではない。しかし、運動を再現してみせる技術がとっくに最新テクノロジーではなくなった現在、 列車の出発で始まり列車の到着で終わるような物語映画(これは古典的な映画一般の比喩でもある)が、鋭い自己批判の眼差しなしに「芸術」たりえなくなっていることは、間違いないだろう。
 本書ではさまざまな映画間に関連の網の目がはりめぐらされているが、そこでひとつの要となるのが、映画史元年といってよい1895年に製作された『ラ・シオタ駅への列車の到着』である。この50秒ほどの短編映画は、列車という代表的な運動媒体を表象すること で、静止画像が動画像になることの驚きと喜びを真に具象化した記念碑的な作品である。ヴァンダースの『アメリカの友人』冒頭でニ コラス・レイが手にしている列車の絵は、『ラ・シオタ駅への列車の到着』の構図(左右逆ではあるが)を想起させる。『アメリカの友人』では、列車はこの1枚の絵からしだいに動きを獲得して、ヒッチコックのサスペンスを思わせる殺人事件の舞台となり、列車の運動と人間の生/死のドラマとが精緻に結びあわされていく。ヴェンダースが列車の静態的イメージから動態的イメージへの移行によって映画 史の展開を表現したとすれば、ベーラやロブ=グリエが意図するのは(それぞれ方法は違うが)その逆の方向である。ベーラは、『倫敦から来た男』(2007年)を港湾列車の出発風景で開始する。それは、『ラ・シオタ駅への列車の到着』のラ・シオタが南フランス の歴史的港湾都市であったためである。そして4年後にベーラは、馬(動的媒体)の運動停止でもって『ニーチェの馬』を終わらせる。ベーラは2つの作品にまたがって動態的イメージのはじまりと静態的イメージへの回帰を示し、モーションもエモーションももはや冷えきって動かなくなってしまった21世紀の映画の現実と、それによる映画史の終焉とを、われわれに突きつけるのである。ロブ=グリエの『ヨーロッパ横断特急』もまた、港湾都市アントワープの駅を描くことで、港湾列車映画としての『ラ・シオタ駅への列車の到着』と連繋する。しかし、商港のかたわらに山積みにされた列車の残骸が暗示するのは、列車=映画がすでに機能しなくなってしまったことである。ロブ =グリエのこの「非列車映画」では、写真(静止画像)と動画像との差異をともなった反復のうちにあらゆる運動性が失われ、人間の生/死をめぐる物語(たとえば『アメリカの友人』のような)を成立させてきた虚構空間そのものが解体される(殺されたはずの主人公は最後には生き返って、自分が殺したはずの娼婦と抱きあう)ことになる。動態的イメージと静態的イメージのあいだのこうした諸関係が、映画媒体がはらむ本質的な問題性として、110 年を超える(列車)映画史のなかに組み込まれるのである。
 本書は48の節からなる。各節は1頁から10数頁ほどの⻑さで、大半は3頁以内の短いものである。大きな章分けがないために、48の節はそれぞれ等価であるような感じを与える。目次を開くとその印象はさらに顕著になる。目次では偶数節が半字下げられて、凸凹に並んでおり、⻑々と連結された車輛のようにも、あるいは、どこまでも続いていく線路のように見える。節の⻑さは駅間の距離にも思えてくる。評者の深読みかもしれないが、本書では、通例の研究書における秩序だった階層構造があえて避けられて、列車の旅に呼応するような叙述形式が大胆に試みられているのではないだろうか。各節のあいだにはもちろん連続性があるが、ある程度は 独立しても読めるようになっており、基本的にどこから乗ってもよいし、どこで降りてもよい、という列車の性格に類似している。ちなみに、 最初の 22節がほぼ『明日へのチケット』論、次の 2節がヴェンダース論、そこからはベーラ、(古典的ハリウッド映画隆盛期に列車の 運動と乗客の情動を結びつける斬新な手法を次々に生みだした)ヒッチコック、(『鉄路の白薔薇』〈1922年〉において、本物の機 関車の爆走〈動態的イメージ〉と息をひきとる元機関士が手にする機関車の模型〈静態的イメージ〉を稠密に対比してみせた)アベル・ガンスらに触れられながらも、主として『ヨーロッパ横断特急』論、そして最終節が(スクリューボール・コメディと「非動態列車映画」 を合体させた)ハワード・ホークス論となっている。主役級もいるけれど、多くの脇役もいる。しかし最終節では、主役かと思われていた2作品(『明日へのチケット』と『ヨーロッパ横断特急』)は姿を消し、ホークスの(題名とは裏腹に、列車の走行性を極端に希薄化 させた)『特急二十世紀』(1934年)を論じて本書は終わる。まるでオムニバス列車映画『明日へのチケット』での登場人物の扱い(主役と脇役の非区分)を模倣するかのように。こうして、映画と映画の関係のなかで(列車)映画史全体を再編する本書じたいが、まさしく「オムニバス・トレイン・フィルム」ブックとなるのである。語りかけるような文体もまた(もちろん著者には論述の質を落と すつもりは毛頭ないので、語りかけるように書かれていても必ずしも平易だとはかぎらないのだが)、列車の旅でたまたま同乗した著者 にとびきりの映画の話(「特別講義」)を聞かせてもらっているような気分を醸しだしている。いつまででもどこからでも話ができるけれど、降車する駅になったからこの辺で、といった感覚があとに残る。本書の読書そのものが至福の旅の時間のように感じられるのは、このような形式上・文体上の仕掛けのためでもあるだろう。

 

(『日本映画学会会報』第34号より)

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