POSTSCRIPTS

長谷正人

 世界中を自家用飛行機で飛び回って仕事をしていたころのハワード・ヒューズは、その行く先々に同じ別荘を建て、同じベッドルームで寝て、同じ朝食が食べられるようにしていたという。つまりモビリティの最大の実践者とでも言うべきヒューズは、逆にその極限としてのイモビリティを見いだし、それに快楽を感じ取っていたわけである。そして晩年のヒューズは高層ビルの一室から全く動かない生活を送るようになった・・・。この挿話と類比されるべき過程が、現在の私たちの生活のあらゆる場面に見られると言えよう。私たちは着実にイモビリティに向かって社会とテクノロジーを発達させようとしているのだ(電話やコンピューターは人間の不動化を目指す)。実際現在の海外旅行は、ヒューズの夢を大衆的に実現した。飛行場から飛行場へ私たちは宙づりのような何の移動感覚もないまま移動し、着いた後は移動前と同じようなシティ・ホテルのベッドで同じハンバーガーを食べているのだから。あるいは遊園地の歴史が、スピードによる快楽を探究していった果てに、ディズニーランド的なヴァーチャル空間のイモビリティを登場させたのも同じ社会変容の一部と考えるべきだろう。そしてむろん、映画もまた同じ運命を辿っている。
 ・・・つい先日、加藤氏に見習って(?)、新宿のアイマックスシアターへと赴き、『エイリアン・アドベンチャー』なるゲテモノ3D映画を体験した。移住先を求める宇宙人が、ある星のアドベンチャー・ランドに迷い込んで、極地や海やらをジェットコースターのように楽しむのを、観客は3Dのヴァーチャル・ライドで体験するという構成の30分ほどの映画なのだが、これが酷い。映画が終わると50人ほどの観客は全員吐き気をこらえて呆然と座っているという有り様だった。とにかくセンスが悪い映像を、知覚神経への過剰な暴力によって30分も押しつけ続けられるのは酷い拷問である。退屈な古典的映画というのは眠気を誘って私たちを幸福にするものだったはずなのに、出来の悪い3D映画は私たちを不快にさせ、そこから想像的に逃げることさえ許してくれない。これは、イモビリティ・テクノロジーの最悪の娯楽的実現だろう。だからヴィリリオが言うように、こうしたイモビリティテクノサイエンスを批判するようなテクノ芸術こそを、私たちの世界はいま必要としているのだ。私たちの思考や感覚を能動的に「動かす」ような芸術を。

斉藤綾子

 去年の11月に行ったシンポジウムからずいぶん時間が経ってしまった気がする。今、こうして原稿を読み直してみると、さまざまな問題が提起されていて個人的には非常に興味深いが(などと、話した当人が面白く思うのは至極当然のことかもしれないが、必ずしもそうとは限らないのだ)、同時に個人的な感想を言わせてもらえば、やはり自分の話し方の拙さがどうしても気になってしまう(とは言え、あたかも理路整然と話したかのように原稿に大幅に手を加えることもできたのだが、あまりにも意味不明の部分は除いて、敢えて手を加えなかった)。なんだか、話していた時はみなさんの巧みな展開につられて、理論に関する議論ができて、舞い上がっていろいろと発言したという、ただ楽しかったという記憶しか残っていなかったので、いざ読みなおしてみると、「センテンスの途中で、別のセンテンスに移って行く」と形容される私の話し方の悪癖が如実に出ていて、唖然としてしまった。まあ、言い訳がましいけれど、それも個性の一つになるということで仮想読者諸氏には容赦して頂きたく思う。
 と、いきなり弁明らしきことから始めたが、「映画学と映画批評の未来」の参加者に共通する認識は、やはり、当たり前のことだが、映画理論と批評が今どのような状態にあって、これからどのように展開していくかという問題意識ではないだろうか。参加者のバックグラウンドや研究分野にもよるが、アメリカ合衆国における状況を中心として議論が展開して行ったが、認知派、ドゥルーズの映画論が70年代からの映画理論言説(「スクリーン」から蓮實重彦まで)に対して、いかなる問題提起をしているか、そしてその問題提起をどのように位置付けるかという辺りで、それぞれに異なった視点から発言している。また、個人的な話になるが、シンポジウムをやった時が博士論文を完成して間もない時だったので、私の視点がややもすれば博論のテーマに結び付けてしまうという結果となってしまった。現在では、少し博論の呪縛から解放され、新たな視点や関心が出てきているので、また別の形での議論が可能であると思う。
 いずれにせよ、このように映画理論について半日近く議論ができたというのは、私にとっては至福のひと時でした(変態かな)。今度は、もっとわいわいがやがや、徹底的で、偏愛的、なおかつ理論で攻めるというテクスト論について話す機会があることを楽しみにしています。
 最後に、今回の機会を作ってくださった加藤幹郎さん、そして加藤さんを始め、なんだか、どこに行くのかよく分からない私のらせん状の語りに付き合ってくださった長谷さん、中村さん、北野さんと、そしてその場で静かに私たちの言いたい放題に付き合ったくれた"裏方さんたち"に感謝いたします。

中村秀之

 映画はコミュニケーションとは何の関係もない、と言ってのけたのはジル・ドゥルーズだった。至言だと思う。映画はメディアではないのだ。しかし、それをメディアとして、コミュニケーションの用具として、ある言説編制の内部での戦術的装置として、横領=転用(appropriate)しようとする諸力が映画を不断に攻囲する。だから映画について語るのはむずかしい。
 シンポジウムというよりざっくばらんな「雑談」と聞いていて、特に準備もしないまま出かけていったせいか、いろいろと無防備な発言もしてしまったようだ。無防備というのは、まさに言葉がそこで座礁する危険な地点に拘泥した、という程度の意味である。その点、私の発言はとりとめのないものになっているが、他の参加者の方から大いに教えられ、刺激された、貴重な一日だった。企画された加藤幹郎氏を始め、出席された全員の方々に熱い感謝の念を捧げたい。

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