最果てへの探検旅行あるいはアニメーション映画への遥かなる冒険
第22回ポルデノーネ無声映画祭報告

今井隆介

 ポルデノーネ無声映画祭は世界中の映画ファンを惹きつけてやまない特集を毎回組む確かな企画力で知られているが、2003年度は特撮映画の金字塔『キング・コング』King Kong(1933年)の公開70周年を記念して、その製作と監督を共同でつとめたメリアン・C・クーパーとアーネスト・B・シュードサックに関する大特集が組織された。無声映画祭において発声映画の『キング・コング』を視野に入れようという試みもさることながら、ともすればサイレント期の特撮あるいはトリック映画を集めただけの凡庸な企画になりかねないところを避け、映画史上最も有名な怪物のひとつを世に送り出した両人のサイレント作品に焦点を合わせたことは、まことに慧眼であったというほかない。というのも、今日『キング・コング』は常に特撮を担当したウィリス・H・オブライエンの名前とともにあり、のちのレイ・ハリーハウゼンや円谷英二へと続く特撮映画の系譜における重要性ばかりが強調され、クーパーとシュードサックが『キング・コング』以前にいくつもの秘境探検映画をものした冒険映画作家コンビであることは、今や知る人ぞ知る事実になっているからである。

 「クーパー=シュードサック(以下C&Sと略記)とその友人たち」と題された特集は、両人が製作した5作品Ra-Mu(1924年)、『地上』Grass: A nation’s battle for life(1925年)、『チャング』Chang(1927年)、『四枚の羽』The Four Feathers(1929年)、Rango(1931年)を中心とするほぼ同時代の秘境映画12本で構成されており、アフリカ、中東、東南アジア、アメリカ北西部、南極など撮影隊が訪れた地域を列挙していくと当時の帝国主義的関心が世界地図上に浮かび上がるようになっている。むろんすべてサイレント映画であるが、トーキー移行期に製作されたものが多かったこともあり、たとえばカリブーの群を追うネイティブ・アメリカンの暮らしを再現したThe Silent Enemy(H・P・カーヴァー、1930年)やアメリカの南極探検隊を取材したニューズリールWith Byrd at the South Pole(パラマウント社、1930年)などは、冒頭部のみがトーキー化されたハイブリッド作品であった。

 両者のプロローグはともに固定カメラによるワンショット・ワンシークエンスであり、過剰とも思えるロングテイクに特徴がある。すなわち、両者とも映画が始まるやいなや、一人の男性(前者はネイティブ・アメリカンの酋長、後者は海軍士官)があらわれてことのあらましについて長広舌をふるうのであるが、映画観客に向かって語りかける姿を延々ととらえた映像は非常に奇異なものに感じられた。バストショットとカメラ目線、固定カメラ、ロングテイクの組み合わせは今日でも国営テレビの政見放送等で目にするが、それ以外では『チャップリンの独裁者』(C・チャップリン、1940年)ぐらいしか思い当たらない。上記の2作品は単にリップシンクロ(口の動きと音声の同調)を誇示するだけの無邪気なものだったに違いないが、ある人物が同時に複数のスクリーンに登場し、不特定多数の観客に向かって一方的に話しかけるという形式はたちまちプロパガンダへと吸収され、十年を経てきわめて先鋭的に換骨奪胎されたのであった。この十年間が長かったのか短かったのか判断しかねるところであるが、それがサイレント映画の申し子たるチャップリンの手によって行われたことは、かの作品が当人にとって最初のオールトーキー映画であったことを考え合わせると、やはり歴史の必然ととらえられるべきであろう。

 C&S作品を時系列的に整理して反芻すると、当初純然たるノンフィクション映画だったものが次第にフィクション性を付加されていき、ついには異境の地でロケーション撮影した全くの物語映画となることに誰もが気づくだろう。たとえばGrass(1925年)はイラン高原を横断する遊牧民に同行して撮影された作品で、素人を役者に起用するような演劇的要素のないおよそノンフィクションの映画である。イギリスのジョン・グリアソンが「ドキュメンタリー」という呼称を発明する以前(1926年)、観客の「今」と「ここ」を離れた風光明媚で異国情緒あふれる映像を提供する映画は広く「紀行映画」(travel filmまたはtravelogue)と呼ばれていたが、レポーターという名の主人公が登場せず、彼または彼女に感情移入することで冒険旅行を効率よく疑似体験するというメカニズムを持ち合わせていない点で、結局のところGrassはリュミエール社が世界中にカメラマンを派遣して撮影させた初期映画群と変わるところがない。しかしタイで撮影されたChang(1927年)は千載一遇の瞬間が偶然フィルムに定着するのを待つという態度ではなく、たとえば象の大群に村を襲わせるような演出を行って映画をダイナミックかつドラマティックに盛り上げる工夫が凝らされており、Rango(1931年)にいたってはインドネシアの猟師親子を主人公とした起承転結ある物語が導入され(少年とオランウータンの出会いと別れ、凶暴なトラとの対決)、よりシステマティックに観客を猛獣が跋扈する東南アジアのジャングルへと誘う仕組みを有しているのである。

 ここでいったん歴史的経過を整理しよう。リュミエール以来、近くはアルプスや地中海沿岸から果ては両極地方にまで撮影隊が派遣されて数多くの紀行映画が制作されたが、鉄道の旅を疑似体験する「ヘイルズ・ツアー」(1904年にセントルイス万博で発表されたライド型アトラクションのはしり)に象徴されるように、A地点からB地点まで移動する間の記録的叙述以上のものではなかった。しかし「ドキュメンタリーの父」ことロバート・フラハティが『極北の怪異』Nanook of the North(1922年)においてナヌーク(またはナヌック)という名のイヌイットを主人公にストーリーを組み立てて紀行映画を刷新し、グリアソンがフラハティの次作『モアナ』Moana(1926年)を評してドキュメンタリーなる言葉を創始するにいたって、いよいよドキュメンタリー映画が概念として出現することになった。きわめて多義的なドキュメンタリー映画をひとことで定義づけるのは容易でないが、「撮影から生まれた物語の方が脚本に基づくそれより真実であり、素人の方が俳優より真実の演技を見せるという信念を表明するもの」ととらえるにせよ、より消極的に「劇映画に対して事実を記録するノンフィクション映画」ととらえるにせよ、いずれにしてもフィクション映画に対立する概念として想定されうることがこのさい重要である。というのも、ドキュメンタリー映画の出現をさしあたり1922年から26年の間とすると、これはヨーロッパ旧大陸を中心とするアヴァンギャルド映画(未来派、表現主義、絶対主義、抽象主義、シュルレアリスム、モンタージュ理論、映画眼理論など)の台頭とほぼ同時期であり、さらにアメリカ新大陸における「ハリウッド映画」の量産体制確立と世界制覇達成とも重なり合うからである。つまり、サイレント末期にあたる1920年代後半は、観客を違和感なく物語世界へ参入させるようにして、効率よく娯楽を提供するフィクション映画が大量消費を前提に量産される一方、ドキュメンタリー映画も含めた様々
なノンフィクション映画が、グローバルスタンダードと化した前者に対するアレルギー反応であるかのように、各地で同時多発的に噴出した時代と要約することができよう。

 同時代的な動向をふまえると、C&S作品が1924年(Ra-Mu)から31年(Rango)までの間にノンフィクションからフィクションへと漸進的に移行していったことについて、感情移入のメカニズムをもたない原初的な映画から「現実の出来事を創造的に処理する」ドキュメンタリー映画へと脱皮し、やがて素人を俳優に起用した劇映画にネオリアリズモを先取りつつ到達したと読み替えることも可能だろう。あるいは紀行映画からドキュメンタリータッチの劇映画へわずか数年のうちに、しかも作家一人(一組)の中で矢継ぎ早に「進化」していったことを素直に驚くべきなのかもしれない。しかしそうすると、サイレント期に製作された5つの作品を結んだそう遠くない延長線上に、『キング・コング』(1933年)が存在することはどう解釈したらよいのだろうか。

 今後の議論のためにも『キング・コング』のあらすじを確認しておこう。まず野生の猛獣をフィーチャーする「ジャングル映画」専門のプロデューサーがいて、彼は「収益を倍増させるために」急遽ニューヨークで金髪の美女をスカウトし、巨大生物が棲むという東南アジアの孤島へ向かう。コングを崇拝する島民によって美女はその生け贄に捧げられてしまうが、撮影隊はカメラを銃に持ち替えて彼女を救出し、あわせてコングの生け捕りにも成功する。プロデューサーはニューヨークにコングを連れ帰るが、見せ物としてのお披露目会場で鎖を断ち切ったコングは美女を片手に暴れ回り、最後にエンパイア・ステート・ビルの頂上から転落して絶命する。このようにごく簡単に要約しただけでも、『キング・コング』が特撮怪獣映画であると同時に秘境探検映画の荒唐無稽なパロディでもあることがわかるだろう。つまりC&Sはサイレント時代から『キング・コング』まで一貫して野獣と秘境と冒険が三位一体となった娯楽映画を製作し続けたのであり、物語性またはフィクション性といった属性が映画を盛り上げるスパイスとして回を重ねるごとに加えられ、しだいにエスカレートしていくのは当然の結果と考えられるのである。

 あるいはこうも言いかえられるのではないだろうか。「C&Sは一度もドキュメンタリー映画を製作したことがない」と。すでに確認したようにドキュメンタリー映画が本来はハリウッド的なフィクション映画に対するアンチテーゼとして政治的に立ち上げられたのだとすれば、C&S作品がドキュメンタリー映画と表現上で似通っていたとしても、それは観客のヴィヴィッドな反応を引き出すためにはある程度「演出」が必要だとする点が一致したからだけのことであって、その後の展開が示すようにC&S作品ははじめからドキュメンタリー映画とは全く逆の方向をめざした別物だったといえよう。むろんC&Sがフラハティその他のドキュメンタリー映画や同時代的な流行に触発された可能性は否定しないし、その方がむしろ事実に近いと思われるが、ここで言いたいのはC&S作品が今日あるようなドキュメンタリー映画を製作する身振りにおいて作られたのではなく、観客の「いま」と「ここ」を離れたインパクトあるスペクタクルをいかに効率よく提供するかという命題に貫かれている点で、ドキュメンタリー映画ではなく「ハリウッド映画」をこそ志向しているということである。

 自伝的ともいえる『キング・コング』が顕著にあらわしているように、C&S作品に一貫しているテーマは「野生動物の捕獲」である。映画作家というよりインディ・ジョーンズを地でいくような冒険家だったクーパーにとって、猛獣をライフル銃で撃つのも映画に撮影するのも「危険」を安全に(前者は毛皮や剥製、後者ならフィルムのかたちで)持ち帰る目的において同じひとつの行為(shoot)であり、スタジオの管理された環境を嫌ってハリウッドから飛び出したシュードサックにとっては、サバンナやジャングルにおける野外撮影こそ猛獣狩りに等しかったに違いない。C&S作品のねらいが観客に射撃/撮影(shoot)した猛獣を提示することにあり、そのためにこそC&Sが趣味と実益を兼ねた探検を繰り返していたとすれば、すでに踏破しつくされた観のある実世界に見切りをつけて、より近場で手軽に危険を冒すことなく荒唐無稽な巨大生物を提示できるアニメーションに行き着くことは、必然かつ時間の問題だったのではないだろうか。

 秘境探検映画と特撮怪獣映画の合流とはすなわちC&Sと「特撮映画の父」ウィリス・H・オブライエンが協力関係を取り結ぶことに他ならないが、猛獣を実地において射撃/撮影(shoot)する冒険映画作家コンビとスタジオに閉じこもってミニチュアを一コマずつ動かしながら撮影していく特撮監督、ハンター(命を奪う者)とアニメーター(命を吹き込む者)はいかにして出会い意気投合したのだろうか。実際に両者を引き合わせたのは当時RKOに移籍したばかりのデイヴィッド・O・セルズニックであるが、細かな経緯に文面を割く代わりに、双方が全く別な場所で対称的な方法を選択しつつ、よく似通った映画の製作にたずさわっていたことを紹介しよう。オブライエンが一躍その名をとどろかせた『ロスト・ワールド』(H・O・ホイト、1925年)は、古生物学者と新聞記者(映画を見る一般大衆の代表者)が南米で恐竜に遭遇し、ロンドンに連れて帰った恐竜が街を踏み荒らすという内容である。オブライエンの次作Creation(1932年)は世界恐慌のあおりで未完に終わった幻の超大作であるが(今回のC&S特集の目玉として上映され、筆者は幸運にもその歴史的瞬間に立ち会うことができた)、完成していたのは恐竜が生息する秘境に探検家がやってきて子供の恐竜を射殺し、怒った親の恐竜に追い回されるところまでであった。つまりC&Sとオブライエンは、片や「実録性」を重んじるドキュメンタリーの手法を用い、片や全く対称的と思われるアニメーションの手法を用いていながら、結局同じ秘境探検映画に属する作品を製作していたのである。したがって、予算と技術を投入するに値する物語と映画作家を欲していた技術屋オブライエンと、トラやライオンに代わる前代未聞の怪物を欲していたC&Sの利害が一致するのは当然の結果と考えられよう。

 このように欠点を補い合うようにして生み出された『キング・コング』は、特撮映画の長い歴史の中でもまれに見る傑作として今日も語り継がれている。しかしこの映画が見せ物にするために野生動物を捕獲し持ち帰る秘境探検映画のパロディであり、コングに先んじて金髪の美女が「捕獲」されていることに言及した著作はそれほど多くない(拙稿「怪物と航海----『エイリアン』論」http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN3/text2.html参照)。すなわち、冒頭において映画プロデューサーは「収益を倍増させるために」ニューヨークの雑踏(アスファルト・ジャングル)へ「美女狩り」に向かい、偶然めぐりあった彼女をスカウトして行き先も告げずに船に乗り込ませてしまうが、大衆の好奇の目を引きそうな動物を捕らえて利益をあげようという態度において、彼には美女もコングも大差ないのである(彼はコングの悲壮な死に対しても、「(野獣は)美女に殺されたのだ」と独言つことしかできない)。しかしそれにしても、観客の好奇心に奉仕するためこれほど一貫して「野生動物」の捕獲に打ち込み、そのためには実地に赴く労苦も猛獣に襲われる危険もいとわなかったC&Sが、世界中を探検したあげくアニメーションに到達したということは一体何を意味するのだろう。今日ますますCG化しつつあるハリウッド映画のように、スペクタクルへの欲望と経済性を追求していくと逃れられずアニメーションに突き当たるということなのだろうか。

 あるいはこう問い直すことができるかもしれない。スクリーンを安楽に眺めている観客の日常から離れれば離れるほどスペクタクルとして価値をもちえるとするならば、この世に存在したことのない運動と時間を提示するアニメーションこそ観客の「いま」と「ここ」から最も遠い存在であり、より遠く、より異なり、より大きな危険を求める冒険映画作家が探検の果てにアニメーションを「捕獲して持ち帰る」のはやはり必然だったのではないか、と。たとえ当時としては世界最高水準の特撮とアニメーションであったとしても、「実録性」をもって世に知られたC&Sにとって、長年培ってきた自らのフィールドに荒唐無稽な要素を持ち込むことは、猛獣を射撃/撮影(shoot)するよりはるかに困難な冒険だったに違いないのである。

 このようにわずか数年で紀行映画からネオリアリズモを走り抜け、今日のCG実写ハイブリッド映画を先取るようにして特撮怪獣映画に到達したクーパー=シュードサック作品は、映像史上迂回すべからざるアニメーションと映画の結節点であり、デジタル化が進行しつつある映像の未来を占う上でも重要なヒントを与えてくれることだろう。



(追記)

 C&Sは紀行映画からアニメーションを用いた特撮映画へ移行したが、逆にアニメーションからドキュメンタリーへと移行したケースも映画史には存在する。ウォルト・ディズニーはいうまでもなく史上最強のアニメーション製作者であるが、1940年代後半以来多くのドキュメンタリー映画を手がけていたことはあまり知られていない。『あざらしの島』(1948年)から始まった「自然と冒険」シリーズは動物や昆虫、野鳥の生態をあつかっており、『アラスカのエスキモー』(1953年)を第1作とする「民族と自然」シリーズは典型的な紀行ドキュメンタリーである。長編では『砂漠は生きている』(1953年)が有名だが、他にも『滅びゆく大草原』(1954年)、『百獣の王ライオン』(1955年)などがあり、晩年の作品『クーガー荒野に帰る』(1967年)はディズニーの没後に公開されている。

 テレビが普及する以前、短編アニメーションはニュース映画や文化映画等と組み合わせて上映されていたので、ディズニー・スタジオが本業のアニメーション作品を効率よく売るために、ドキュメンタリー映画の自社製作に乗り出したのは自然の成り行きであったろう。しかしここで注目したいことは、ディズニーのドキュメンタリーには動物を主題とするものが多いことである。『白雪姫』(1937年)において人間身体の運動を忠実に「再現」して以来、ディズニーは軟体動物のように柔軟で自由な身体をアニメーションから放逐し、動物キャラクターにはモデルと同じ骨格と関節を与えて「本物らしい」身体運動を提示するという方針を打ち出した。動物の運動あるいは構造に対する解剖学的研究はやがて『ダンボ』(1941年)や『バンビ』(1942年)、『子ぐま物語』(1947年)といった動物アニメーション作品に応用されるが、その間に研究資料として動物を撮影した記録フィルムは膨大な量となったに違いない。ディズニー・スタジオにドキュメンタリー部門を設置するきっかけとなった『あざらしの島』は、「映画の取材のために」(どの作品のためなのかは今後の調査を待っていただきたい)アラスカへ派遣された撮影隊が持ち帰ったフィルムを編集したものだとされるが、このエピソードはドキュメンタリーとアニメーションという全く相反するかのようにみえる表現形式が動物に対する解剖学的な関心において通底しており、本文の論旨に則していえば、ドキュメンタリーを「捕獲して持ち帰る」という逆のケースもありえたことを証明するものとなるのではないだろうか。