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第1章  第2章 第3章  結論
怪物と航海――『エイリアン』論
           
                     今井隆介
   
序章 ホラー映画とは何か
 
ホラー映画は、観客を怖がらせるという見世物的特徴を前面に押し出すジャンル映画である(サイレント古典期、とくにドイツ表現主義映画の傑作にホラージャンルに属するような作品が多いこと、エジソンが『フランケンシュタイン』を映画化していることも一考すべきであろう)。ホラー映画の大半がB級映画に甘んじてきたのは、観客を怖がらせるという一点のみを強調するあまり、観客の恐怖よりも失笑を買ってしまう、あからさまな“怖さの押しつけ”しかできなかったからだろう。多くの見世物小屋やお化け屋敷などが様々なホラー装置を揃えながら、観客は笑って怖がるという遊びを楽しんでしまうのと同じである。
 ホラー映画は観客の好みがはっきり分かれるジャンル、見る人と見ない人とがまったく分かれてしまうジャンルだろう。批評家からも軽蔑されるか軽視されるかで、まともに論じられることは稀だった。しかし、1950年代のスタジオ・システムの崩壊と1966年の映画検閲の規制緩和によって、おぞましさのスペクタクルを獲得したB級作品の成功により、ハリウッド・メジャーも潜在的なホラー映画の観客層を無視できなくなった*1。73年に『エクソシスト』、76年に『オーメン』『キャリー』が公開されて成功を収め、ホラー映画が巨額な予算(ワーナーブラザースは『エクソシスト』に1000万ドル*2、20世紀フォックスは『エイリアン』に840万ドル*3を出した)を組んだメジャー映画会社の作品として、次々と製作されるようになった。
 ホラー映画の隆盛とともに批評活動も活発になり、長らく行われなかった学術的なホラー映画論が展開され、その主題や隠れたメッセージの解読が始められた。分析に用いられた言説は主に精神分析理論やポスト構造主義であった。それは、ホラー映画がポルノグラフィー同様、性的・暴力的な「おぞましさのスペクタクルを提示」*4するジャンル(それ故に社会的に受容されてこなかった)だから、一見最善の方法であるかのようにみえる。 こうした批評の重要性は、ホラー映画のような文化のあり方を無視していた以前の批評とは違って、少なくとも部分的にはそれと真剣に取り組もうとする点にある。しかし精神分析学的手法を用いるポスト構造主義的なホラー映画論に問題がないわけではない。
 ホラーの物語の閉鎖性、すなわち混乱が収拾されて原初の秩序が回復されるという語りの構造は、次のように定義される。コミュニティーを煩わせる要素を悪とみなし、抑圧し封じ込めてカタルシスを得る仕組みは、支配的なイデオロギーを反復し再生産するイデオロギー装置として機能しているというのである。精神分析(とくにフロイト学派)では、映画のプロットや図像的表象、プロダクションデザインに至るまですべてを性的メタファーへと還元して、映画を解読する傾向がある。ホラーテキストにおいては、すべての怪物は抑圧から産み出され、物語はその抑圧と封じ込めを繰り返すものでなければならなくなるのである。
 個々の作品の一元的解読もさることながら、ホラーという特殊なジャンルのすべてのテキストが、ある支配的なイデオロギーの再生産の場だとして一律に定義されることも問題である。こうした分析の結果は、必然的に二者択一、あれか/これかというものへ集束する。
 例えばホラー映画論では、女性の性が抑圧されたものとして好んで取り上げられる。ある批評家によれば、ホラージャンルは女性を、男性を脅かす怪物として表現し、支配的イデオロギーによる抑圧を正当化していると批判する*5。逆に、ほとんどの怪物が男性であることを主張して、男性の欲望を喚起して怪物化させているのは女性の方だとする批評家もいる*6。彼らによれば、女性は男性である怪物によって、性的であることに対する罰を受ける。男性ヒーローに救ってもらえるのは、家父長的権威に自ら服従する意思を示した場合のみだ、ということになるのである。要するに、抑圧によって産み出された怪物を悪とみなすか、それとも抑圧する側を悪とみなすか、あるいは保守的なイデオロギーの再構築か、それとも脱構築か、という議論を展開するばかりになってしまうのである。
 精神分析あるいは無意識の分析に関わるいかなる理論についてもあてはまることだが、真偽を確かめたり異論を差し挟んだりすることが難しいという問題もある。精神分析は、われわれが無意識的に抑圧したり、否定したりしているとされているものに関心を持っている。そのため、精神分析的解釈に対して、自らのテキスト体験に基づいた反論を加えようとしても、抑圧や抵抗の産物として簡単に片づけられてしまう。テキストについての現実的体験と無関係なばかりでなく、そうした体験に強い反駁を加えるものとなる傾向をはらんでいるのである。
 ロビン・ウッドのホラー映画論“An Introduction to the American Horror Film”(1979年)は、優れて代表的なホラー映画評論である。ウッドのホラー映画論に奥行きを与えているのは、ホラーの主体が人間の抑圧から押し出された「他者」として立ち現れる、その現れ方の多様性であり、その多様性を生み出している人間の制度・文化・心理の絡み合った問題が提示されているからである。抑圧とは内面的に抑え込まれているものであり、「他者」とは抑圧されたものが「憎むべき他者」として投影される外的な姿である。ウッドの先駆的なところは、抑圧の対象となるものを性的なものだけに限らず、労働者階級・異文化・他民族・異なるイデオロギー・子供などへと拡大し、「ホラーのジャンルの真の主題は、われわれの文明が抑圧し、あるいは圧迫しているすべてのものを認識することだということができるかもしれない」*7と述べていることである。ウッドの論文は、アメリカにおけるフェミニズム・新植民地主義またはポストコロニアリズム・多文化主義などの動きに連動する先駆的なものと言える。
 しかしそのウッドが、『エイリアン』について、型通りの批評しかできないでいるのはまことに残念なことである。ウッドは“An Introduction to the American Horror Film”の最後で70年代の代表的なホラー映画をいくつか検証し、『エイリアン』も取り上げているのだが、論文全体のレベルからすると卑小と言わざるを得ない*8。ウッドは『エイリアン』を、同時代のスプラッター映画『ハロウィン』と同じ文脈で論じようとしているが、それは70年代後半から80年代前半にかけて流行したホラー映画群と併せて、「反動的」というレッテルを貼りたいからに過ぎない。ウッドは自らホラー映画の闇の深さ、抑圧の構造の複雑さを明らかにしておきながら、『エイリアン』に関しては、ジェンダーをめぐる議論に終始しているのである。
 『エイリアン』は、監督のリドリー・スコットがインタビューに答えて語っているように、SFXやスプラッターに頼った「頭を切り落とすだけの映画」ではない*9。SFとしてだけではなく、様々な面で『ハロウィン』をはじめとするスプラッター映画とは一線を画しているし、実際、映画は精神分析的理論によって一概に論じられる以上の複雑な構造をもっているのである。
 『エイリアン』はSFあるいはホラー映画として有名である。それはこの映画が創造した二つのキャラクター、H・R・ギーガーがデザインした表題のモンスターとシガーニー・ウィーバー演じるリプリーというヒロインの強烈な印象によるところが大きい。批評や分析が彼らに集中するのはやむを得ないことかもしれない。しかし映画が異生物同士のサバイバルをクライマックスとしているからといって、彼らだけに議論を限定して分析し、「映画が提示しているのは『ポップな』フェミニズム以上のなにものでもない」*10、「母性の悪夢的イメージを、テキストの家父長制的ディスコースにおいて抑圧する」*11などと結論づけても、『エイリアン』のすべてを述べ尽くしたことにはなるまい。
 本稿は、もっぱら生殖とジェンダーをキーワードに論じられるばかりだった『エイリアン』を、文明人による未開への進出とフロンティアの拡大という歴史的文脈でとらえなおそうという試みである。
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*1例えばジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68年)、トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(74年)、ジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(78年)など。Carol J Clover, Men Women and Chainsaws (British Film Institute, 1992)、23頁によると、『ハロウィン』は32万ドルで製作され、6年間で7500万ドル以上の収益をあげたという。
*2マーク・ジャンコヴィック著、遠藤徹訳『恐怖の臨界 ホラーの政治学』(青弓社、1997年)、190-91頁。
*3映画業界誌『シネフェックス』の編集長ドン・シェイによる、リドリー・スコットへのインタビュー。LD『エイリアン・スペシャルコレクション』に収録。
*4加藤幹郎著『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社、1996年)、223頁からの引用。
*5 Barbara Creed, ''Horror and the Monstrous-Feminine : An Imaginery Abjection,'' in James Donald, ed., Fantasy and Cinema (British Film Institute, 1989); Clare Hanson, ''Stephen King: Powers of Horror,'' in Brian Docherty, ed., American Horror Fiction : From Brockden Brown to Stephen King (Macmillan, 1990).
*6 Stephen Neale, Gerne (British Film Institute, 1980), p.61.
*7ロビン・ウッド著、藤原敏史訳「アメリカのホラー映画 序説」、岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『新映画理論集成1』(フィルムアート社、1998年)収録、50頁。
*8 Robin Wood, Hollywood from Vietnam to Reagan(Columbia U.P. ,1985)は、“An Introduction to the American Horror Film”を5章と9章に分割、大幅に加筆して所収しているが、『エイリアン』について記述した部分は省略されている。
*9ドン・シェイによるインタビュー。
*10『新映画理論集成1』、74頁。
*11 Creed, p.24.
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