初期映画の多様な顔
第22回ポルデノーネ無声映画祭報告

森村麻紀

1. はじめに

 第22回ポルデノーネ無声映画祭が、2003年10月11日から18日までの間、北イタリアの水路に囲まれた街サチーレ[1]で開催された。地元の市民にくわえて、世界中から集まった映画研究者、映画愛好家、フィルム・アーキヴィスト、ジャーナリストらは、朝9時半から深夜までひっきりなしに上映される無声映画に見入り、食事中や劇場と宿を往来するバスのなかでは、さきほど見た映画について語りあう。本映画祭がイタリア語で「無声映画の日々(Le giornate del cinema muto)」と名づけられているように、観客は文字通り無声映画一色の一週間を過ごす。そんな日々を提供する本年度(2003年)の上映プログラムは、サイレント期のスター「イワン・モジューヒン[2]」特集、「初期映画[3]と初期飛行」特集、英国の映画作家「ミッチェルとケニヨン2003」特集、『キング・コング』King Kong(1933年)の共同製作、監督をつとめた「クーパー、シュードサック[4]、そしてその仲間」特集、今年で七回目を迎える「グリフィス・プロジェクト」、長い間葬られていたフィルムを修復して蘇らせる「アウト・オブ・フレイム」特集、20世紀前半のバルカン地域を撮影した映画作家でバルカン・リュミエール兄弟とでも呼べる「マナーキ兄弟[5]」特集などで構成されていた。初めてこの映画祭に参加した昨年(2002年)に引き続き、本年度のどの特集にも新たな発見や驚きがあった。そのなかでも印象に残った三つの特集における初期映画を紹介しながら、第22回ポルデノーネ無声映画祭について以下に報告したい。


2. 空へ連れて行く映画――動力飛行から100年

 1903年12月17日、アメリカのライト兄弟の飛行機が人類最初の動力飛行に成功した。その成功から100周年を記念して、本年度(2003年)の上映プログラムに「初期映画と初期飛行」特集が組まれた。この特集は、1909年にフランスで世界最初の飛行競技会が開催された模様をおさめたニュース映画をはじめ、その他の飛行競技会や飛行会議を撮影したもの、飛行機を扱ったフィクション・フィルム、飛行機の操縦法や操縦失敗の様子を伝えるものなどで構成されていた。これらのフィルムは、1909年から1914年の間に一般上映されたフィルムであり、現在は英国の映画・テレビ・アーカイヴに収蔵されている。本特集のフィルムについてかいつまんで紹介しておこう。
 初期映画は飛行機や飛行船の姿を当時の新しいテクノロジーとしてとらえ、文字通り新しいものがニュース映画の題材として選ばれた。たとえば前述の「世界最初の国際飛行協議会」の映像では、三次元空間を自由自在に飛びまわる飛行機とその周りに浮かぶ飛行船や気球が地上から見上げる角度で撮影されており、当時、英雄扱いを受けていた飛行士の姿もおさめられている。飛行士は子どもむけのニュース映画の題材にもしばしば選ばれ、『飛行士レイサム、ブルックランド飛行中に奇跡の脱出』Latham, the Airman, has a Miraculous Escape during a Flight at Blooklands(パテ社、1911年)でもその姿を見ることができる。ニュース映画がとらえた飛行機や飛行士はすべて地上から撮影されているものだった。
 動力飛行が成功した1903年12月17日の模様は撮影されていないそうだが(一枚の写真が記録しているだけだという)[6]、動力飛行成功の1903年以前から、そして本特集に組み込まれている飛行機の映像が当時上映された1909年以前から、既に映画は地上以外の場所から空をうつし、地上を俯瞰していた。たとえば『エッフェル塔に昇るエレベーターからの景色』Scenes from the Elevator Ascending the Eiffel Tower(エディソン社、1900年)には、エッフェル塔内に据え付けられた昇降するエレベーターから撮影した空や、パリ万国博覧会場の俯瞰図が見られる。当時の観客はパリのエッフェル塔内のエレベーターに乗らなければ見ることのできない空間やエレベーターで昇り降りする感覚を、映画を見ることによって体験できたのだ[7]
 19世紀末から20世紀初頭にかけて誕生した映画は、同時期に出現したテクノロジーと相伴って、人々に新たな視覚や感覚をもたらした。飛行と映画の関係もその一例であり、本特集のフィクション・フィルム、『飛行機からの狩り』Eine Jagt im Aeroplan(ゴーモン社、1911年)は、まさに飛行機と映画の共同制作である。飛行機に乗り込む飛行士、狩人、そしてカメラマンの三人が登場したのち、スクリーンには離陸した飛行機の翼越しから見た空や地上の畑、羊、街の俯瞰図がうつしだされる。機上で銃をかまえて獲物を狙う狩人が背後からうつされ、狩人の眼下に広がる景色は、観客がスクリーン上に見る景色であり、その結果、観客は狩人同様に飛行機に乗っているような気分に比較的浸りやすいと考えることは可能であろう。『飛行機からの狩り』が製作される前年の1910年に、ツェッペリン飛行船による旅客運送がはじまり、1914年までに3万4千人を運んだという記録があるが、それでも当時、多くの人を空へ連れて行ってくれるのは「飛行船や飛行機」ではなく、娯楽として定着していた初期「映画」であったことが、本特集を見ても実感できる。

3. スクリーンにうつる観客――ミッチェルとケニヨンの記録映画

 次に「ミッチェルとケニヨン2003」特集について紹介しよう。1897年11月にイングランド北西部のブラックバーンに映画会社を設立した二人の映画作家セイガー・J・ミッチェル(1866−1952年)とジェイムズ・ケニヨン(1850−1925年)の特集は、今年で三年目を迎える。彼らが1900年から1913年までに撮影した800本のネガ・フィルムが、1990年代のはじめにブラックバーンで発見され、その後2000年にこれらのフィルムは英国の映画研究所(British Film Institute、以下BFIと明記)に収蔵されている。BFIと英国の移動遊園地アーカイヴ(National Fairgrounds Archive、以下NFAと明記)が、引き続きその修復、保存、調査にあたっている最中[8]だが、今年もその仕事の成果が本映画祭で披露された。
 本年度の特集では、ミッチェルとケニヨンの1901年から1905年までに撮影された記録映画が【1】海辺、【2】ミュージックホール、海岸リゾート、縁日、パレード、プレジャー・ガーデン[9]などの娯楽あるいはその施設、【3】市電、【4】船に分類されて上映された。【1】から【4】のすべての映画に共通するのは、主役が「人」であることだ。海辺や縁日などの場所または市電といった、それじたいスペクタクルの中心たりうる場所そのものではなく、そこに集う「人」がスクリーンを占めた。そして集う「人」は、群衆と言ってもよいほどの大人数である[10]。たとえば【1】の海辺を撮影した『ブラックプール・ヴィクトリア桟橋 第1、2番』Blackpool Victoria Pier, No.1, No.2(1902年)では、桟橋にあふれかえった老若男女の姿が撮影され、スクリーンは数百人の顔、顔、顔で埋め尽くされ、スクリーン後景にうつる人々の頭は豆粒ほどの大きさである。また【2】のプレジャー・ガーデンの入り口を撮影した『ハリファックス近郊ヒッパーホルムのサニー・ヴェイル・プレジャーガーデン、第1番』Sunny Vale PleasureGardens, Hipperholme near Halifax, No. 1 (1902年)では、入り口から続々と入る人々が撮影されている。調査によると入場者のなかには、興行師に引率されて入り口から撮影カメラに向かって進む子どもたちも含まれていたという[11]。ミッチェルとケニヨンは、何故、かくも大勢の「人」を撮影したのだろうか。その理由のひとつは映画を縁日などで見せる巡回興行師と被写体となった「人」の関係に隠されていた。
 巡回興行師は、ミッチェルとケニヨンに普通の人々やその暮らしぶりを撮影するように依頼した。そして縁日が開催される週になると、ミッチェルとケニヨンの撮影した映画は「スクリーンにうつったあなたを見にいらっしゃい」、「地元の人々のための地元の映画」という惹句と共に興行師によって宣伝されたのである[12]。観客はスクリーンにうつった自分の姿を見るために映画に行き、そしてまた映画にうつるためにミッチェルとケニヨンの撮影現場に訪れたのだとすれば、先述のプレジャー・ガーデンの入り口から興行師に率いられてカメラに向かって歩く子どもたちの存在も理解できる。また【3】の市電からの街並みを撮影した『市電に乗ってノッティンガムを通過、第1、2、3番』Tram Rides through Nottingham, no.1, 2, 3 (1902年)においては、当時目新しかった市電を追いかけ廻す子どもたちが再三映っているのは、市電に搭載されたカメラ(とそれを撮影するミッチェルとケニヨン)を追いかけるためだろうと推測できる。くわえてミッチェルとケニヨンの撮影した映画のなかに、スクリーン(=カメラ)を興味深く凝視する人やスクリーン(=カメラ)に向かって微笑む人が多く登場するのもおそらく同じ理由からであろう。映画にうつる自分や知人の姿を見て楽しむ1900年代前半の観客を想像してみると、興奮して驚喜する彼らの姿が目に浮かぶだろう。この映画体験は、古典映画期のそれとは明らかに異なり、多くの初期映画期のそれとも異なる。しかしそこで得られる興奮は、初期映画研究においてしばしば言及される短い驚きを提供する初期映画のアトラクション的な要素から得られる興奮と近いものであったことは想像に難くない。

4. 情景と表情の「話法」――バイオグラフ社時代最後のD・W・グリフィス

 デイヴィッド・ウォーク・グリフィスが製作した現存する映画を撮影日順に上映する企画「グリフィス・プロジェクト」は、いまや本映画祭に欠かせない特集である。第七回目を迎えた本年度の特集では、グリフィスが、バイオグラフ社時代最後の年である1913年に製作した映画が上映された[13]。昨年度の「グリフィス・プロジェクト」ではグリフィスが1912年に製作した映画が上映され、その多くの作品において、カリフォルニアでロケーション撮影された情景が、登場人物の心情を隠喩的に表現していた。1912年は、グリフィスがカリフォルニアでロケーション撮影を開始した年であり、物語を劇的に展開する情景の「話法」とでもいうべき話法が本格的に出現した年でもあった[14]。そして1913年も1912年に引き続き情景の「話法」が使用されていたが、それと同時に1912年には見られなかった新たな「話法」も登場した。今回は1913年のグリフィス映画における二つの「話法」について紹介したい。
 まずは情景の「話法」を紹介しよう。『悲しみの海岸』The Sorrowful Shore(1913年4月29日撮影終了)では、その題名が示す海岸に打ち寄せる波が登場人物の心情を表現し、物語を劇的に演出している。女性一人と男性二人のメロドラマ『悲しみの海岸』は、挿入字幕「男やもめとわがままな息子」の後、静かに波打つ海岸のショットからはじまる。男やもめの主人公は、わがままな一人息子を育てることだけに専心していた。ある日、主人公は、嵐のなか、難破船から海に投げ出された少女を救う。その後、主人公とその少女は年の差を乗り越えて結婚する。しかしわがままな息子と妻が仲良くしているのを見た主人公は、妻に対して怒り、家を飛び出してしまう。妻は夫に対する愛を主張するために「私があなたを愛していることに気づかないほど、あなたは年老いていて愚かだ」というメモを夫に書く。父親の妻となった少女を未だにあきらめられない息子は、そのメモをみつけ、メモに書かれた文章の一部分を破り捨て、「あなたは年老いていて愚かだ」という文章だけをメモに残す。主人公がそのメモをみつけ悲嘆にくれる頃、妻は岸壁に立っていた。息子は彼女を追いかけ、彼女に追いついた息子と彼女が岸壁で揉み争っていると、両者は波にさらわれてしまう。岸壁で死にかけの息子をみつけた父親は、息子から彼女を救うようにいわれ、彼女を救うために海に飛び込み彼女のもとへ泳ぐ。夫婦が互いに愛を確信するやいなや、引き潮が夫婦をさらに深い海のなかへ飲み込んでしまう。死後も一心同体となった夫婦の死体は、やがて海岸に打ち上げられる。最終部は、導入部と同じく静かに波打つ海岸のショットで終わり、メロドラマは幕を閉じる。
 題名にも示されている「悲しみの海岸」の波は、効果的にメロドラマを演出している。少女(後の妻)は二度も波にさらわれ、その度に主人公(後の夫)に助けられるが、三度目に波にさらわれた彼女と彼は死んで海岸に打ち上げられる。波が少女をさらう度に、海のなかで彼女と主人公は互いの愛を確信する(一度目は結婚を予感し、二度目は結婚後の危機を克服した)。命に関わる危機に直面する最中に愛を確信するのはもっともなことである。しかし未だ「映画の文法」が整っていない1913年の時点で、男女の強い感情を、人間を飲み込むほど激しい波の流れで隠喩的に表現した情景の「話法」は、1912年の春から開始したカリフォルニアでのロケーション撮影で培ってきたグリフィスならではの「話法」である。またグリフィスは、波のショットを、人間の激しい感情を隠喩的に表現するためにだけに使用しなかった。導入部と最終部に見られる海岸に打ち寄せる波の情景は、愛を確信する際の激しい波の情景とは異なり、太陽に照らされて輝き一定のリズムで穏やかに波打つ情景である。導入部の波は男やもめの退屈なくらいの平穏な日々を、そして最終部の波は、この世を去った夫婦が、死後の世界では争うことはない平穏さを隠喩的に表現している。物語における劇的な出来事は、平凡ともいえる単調な日々のなかで瞬時に起こるからこそドラマティックなのであり、グリフィスは、その構造を波の対比によってうまく表現している。
 情景の「話法」に続いて、表情の「話法」を紹介しよう。表情の「話法」とは言い換えれば「リアクション・ショット」である。古典映画や古典期以降の映画において、主人公が何かを見てそれに反応するときに用いられる「主観ショット」と「リアクション・ショット」を交互につなげる編集があるが、その編集が『養弟』TheAdopted Brother (1913年7月15日撮影終了)において確立している。右記は表情の「話法」が頻繁に見られるシークエンスである。兄と彼の仲間が自分たちの犯した罪を、雇われ農夫にかぶせたのを知った養弟は、兄たちに事実を口外することを止められている。やがて罪のない農夫が保安官に連行され、保安官の事務所で尋問される。その次に、外に立ってうろたえている養弟の様子がうつされる(リアクション・ショット)。再びショットは保安官の事務所に戻り、無実であることを訴えるが無駄におわる農夫がうつしだされる。外で涙を流す養弟のショット(リアクション・ショット)の後は、農夫が拘置所へ連行されるショットがうつしだされる。そして外にいた養弟が保安官のもとへ行き(リアクション・ショット)、農夫には罪がないことを伝えるショットでこのシークエンスはおわる。養弟の表情(リアクション・ショット)は、すべてミディアム・ショットでとらえられており、兄に怯えるが最後には兄を裏切って正義を貫くことを決心する養弟の心情の変化が表現されている。また養弟を演じる俳優は、表情が自然でかつ豊かであり、グリフィス映画に特徴的なジェスチャーの激しい女優と異なる点も、『養弟』が初期映画期から古典期へ移行する過渡期の映画であることを示している。
 初期映画、特にグリフィス映画の楽しみは、初期映画に特有な「話法」やそうではない「話法」の混在を見ることにあるが、昨年度と本年度の「グリフィス・プロジェクト」を見て感じるのは、スクリーンにうつる100年近く前にロケーション撮影されたカリフォルニアの情景が単純に美しいということだ。はじめはニューヨークを拠点に活動していたグリフィスが、カリフォルニアをロケーション撮影地に選び、数百本ものカリフォルニア産の美しい映画を早い時期に製作した点も、グリフィスが「アメリカ映画の父」と呼ばれるゆえんのひとつではないだろうか。

5. おわりに

 最後に「アウト・オブ・フレイム」特集の紹介と共に、本映画祭のポリシーを確認しておきたい。「アウト・オブ・フレイム」特集とはこれまで長い間葬り去られてきたフィルムを修復し、再びスクリーンに上映する企画であるが、そのなかで次世代のフィルム修復者育成を目指すハーゲ・フィルム・セルズニック・スクール・フェローシップと、テクニカラー・セルズニック・フェローシップが設けられている。いずれもフィルムの保存と修復を専門とする大学院生に贈られる賞であり、受賞者は本映画祭で上映されるフィルムの修復作業を行うかたちでアムステルダムで修復、保存のインターンシップを受けることができる。受賞した二人の大学院生が、観客の前で自ら修復したフィルムを上映し、その修復作業の過程を説明すると、会場からは彼らの仕事に対する賞賛の拍手がおくられた。
 また本映画祭で上映される無声映画には、当時の上映形態に従ってそのほとんどに即興生伴奏がついており、毎年、京都映画祭でもおなじみのベテランの伴奏者数人が即興伴奏を行う。即興生伴奏といわれるゆえんは、奏者が一度も見たことのない映画の筋を追いながら同時に作曲、伴奏を行うためである。無声映画ピアノ伴奏者の次世代の育成を目指し、今年からマスター・クラスが開設され、次世代のピアノ伴奏者は、本映画祭にて即興生伴奏する機会が与えられた。
 ポルデノーネ無声映画祭はフィルムの発掘から修復、保存、調査、上映に加え上記のような次世代の育成を行っている。その驚異とまでいえる映画祭側の成果を体験するためには、朝から深夜までの過酷な上映スケジュールをこなすことが当然のように思えてくるが、映画祭も最終日が近づくと疲労もピークに達する。しかし不思議なことに、帰国するや否や思い出すのは映像と音楽の幸せな日々のみであり、更なる無声映画への探究がはじまり、また来年の参加を切望するようになる。一度ポルデノーネ無声映画祭を体験した観客なら誰しもそう思うことだろう。

[1] ポルデノーネ無声映画祭は、その名が付されているポルデノーネ(サチーレの東隣街)で毎年開催されていた。しかし現在、上映会場であったポルデノーネのヴェルディ劇場が再開発のため閉鎖されており、1999年よりサチーレにてポルデノーネ無声映画祭が開催されている。

[2] ロシア生まれのイワン・モジューヒン(1889−1939年)は、1911年に舞台俳優、そしてその後、映画俳優としての名声を獲得し、1914年までに帝政時代のロシア映画のなかで最も人気のあるスター俳優となる。ロシア革命時にロシア人の監督と俳優陣から成るグループと共にフランスに亡命後、フランス映画界に入り、そのエキゾティックでミステリアスな役柄でたちまち人気スターとなる。しかしトーキー映画の到来と共に彼の人気は次第に衰えてゆく。

[3] 初期映画(early cinema)は草創期の映画のことをいい、トーマス・A・エディソンがキネトスコープを一般公開した1894年及びフランスのオーギュストとルイ・リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した1895年以降から1910年代半ばまでに製作された映画の総称。

[4] アメリカ人のメリアン・C・クーパー(1893−1973年)とアーネスト・B・シュードサック(1893−1979年)は、南西ペルシアにおける人々の暮らしを撮影し『地上』Grass(1925年)を製作。『地上』の大ヒットにより、パラマウントの融資でクーパーとシュードサックの二人は二年の月日を費やし、タイのジャングルにて部族とトラとの闘いや象の群れの突進などを撮影し『チャング』Chang(1927年)を製作する。『地上』『チャング』で名を馳せた二人は『四枚の羽』Four Feathers(1929年)を製作後、RKOにて怪獣映画の古典となる『キング・コング』を製作する。

[5] マケドニア生まれのラナーキ(1878−1954年)とミルトン(1880−1964年)・マナーキ兄弟は、1905年よりバルカン地域の撮影をはじめる。マナーキ兄弟のフィルムは、ベオグラードとマケドニアのフィルム・アーカイヴにしか残存しておらず、またそのフィルムのなかには、過去の旧式な修復作業によってさらに劣化が進んでいるものもあるという。今回、新たに修復された数少ないマナーキ兄弟のフィルムを見ようと最終上映まで劇場に残った観客は、23時をまわってもバルカン地域のフィルムに熱心に見入っていた。

[6] The 22nd Pordenone Silent Film Festival Catalogue (2003), p.102.

[7] 『エッフェル塔に昇るエレベーターからの景色』の撮影場所と同じパリの万博会場では「シネオラマ」と呼ばれる映画を利用したアトラクションが用意されていた。「シネオラマ」は映像によるパノラマを見せるもので、客が巨大な気球に乗り込むと、気球を360度囲んだスクリーンに映像がうつり、まるで気球が上昇しているような感覚に陥るアトラクションであったようだ。しかし映写機のアーク燈の放つ熱が火災を起こす危険性があったためわずか三回の上映で閉鎖され失敗におわったが、撮影カメラを列車正面に搭載して撮影した映像を、列車そっくりの部屋のなかで見せるという「ヘイルズ・ツアー」や揺れる船の甲板の上に立って移りゆく景色の映像を見るという「マレオラマ」は、初期映画期によく見られたアトラクションであった。

[8] ミッチェルとケニヨンのフィルム・リサーチ・プロジェクトの創設についてはVanessa Toulmin and Patrick Russel, “Research News: The Mitchell and KenyonResearch Project,” in Living Pictures: The Journal and Projected Image before 1914, 1: 2, (2001), p. 111.の短い報告を参照されたい。

[9] 舟遊び場、遊戯所、温泉施設、宿屋、居酒屋などが併設され、興行師によって見世物のショーや映画上映が行われたところもあり、今日の遊園地的な存在である。

[10] ミッチェルとケニヨンとほぼ同時代に撮影されたリュミエール兄弟やエディソン社の記録映画と比べてみると、ミッチェルとケニヨンが「人」を主役にし、かつ相当な数の「人」を撮影していることが一層明らかになる。

[11] The 22nd Pordenone Silent Film Festival Catalogue (2003), p. 98.

[12] ミッチェル、ケニヨンと巡回興行師との関係はNFAの調査経過が記してあるNFAのホームページhttp://www.shef.ac.uk/nfa/mitchell_and_kenyon/index.php(2003年11月16日)を参照した。

[13] グリフィスは、1907年に脚本家、俳優としてバイオグラフ社に採用され、翌年1908年には『ドリーの冒険』The Adventures of Dollieで監督として世に出る。その後、グリフィスは1913年にバイオグラフ社を辞めるまでに数百本の映画を製作し、アメリカ映画産業界において確固たる名声を得る。

[14] 1912年のグリフィス映画における情景の「話法」については、拙論「サイレント映画に明け暮れて 第21回ポルデノーネ無声映画祭報告――エディスン・22ミリ・フィルムとグリフィス・プロジェクトを中心に」(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN6/morimura-porde.htm)を参照されたい。