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サイレント映画の見せる夢――第21回ポルデノーネ無声映画祭報告 キャセイ物語、或いは日港合作映画に関する覚書 ――第26回香港国際映画祭報告

サイレント映画に明け暮れて

サイレント映画に明け暮れて

21回ポルデノーネ無声映画祭報告――エディスン・22ミリ・フィルムとグリフィス・プロジェクトを中心に

                                   森村麻紀
 

初期映画の魅力
 今年(2002年)のポルデノーネ無声映画祭では、1896年に製作された映画から、「トーキー時代」以 降の1934年になっても製作された映画に至るまでの約250本のサイレント映画が上映された。本映画祭の魅力は、貴重な作品を大画面で見ることができること、ほとんどすべての上映に即興生伴奏がついていることにあるのは言うまでもなく、初期映画
(1895
年から1910年代半ばにつくられた映画)(初期映画以降「主流」となる)物語 映画の「話法」を確立していく過程をじかに感じとれることにもある。なぜそれが魅力なのかといえば、後に標準化される物語映画の「話法」に支配されない映画やその「話法」を持ちつつある過渡期の映画を現代の観客と共有するというレアな体験が、 私たちに既存の映画史を再考する機会を与えてくれるからだ。本報告では、今年の映画祭で上映された初期映画をいくつか紹介してその魅力に迫ることにしよう。

観客への呼びかけ
 映画の上映は朝9時半から深夜12時近くまで行われ、一日の終わりに上映されるのは
「グッドナイト、サイレント」特集の中から、というのがお決まりとなっていた。『女性の部屋着』Déshabillé féminin (1902、フランス、パテ製作)はそのひとつであり、深夜のお開きとしてふさわしい作品だった。それは、若い女性が就寝のために部屋着になったあと、ベッドに入って私たち観客に「おやすみ」とでもいうようにろうそくを吹き消すという一分にも満たない映画だが、そこには初期映画に特徴的な観客への直接的な呼びかけ[1]がみられる。映画の登場人物が、当時(1900年前後)のヴォードヴィルでもよくみられたように、観客(=カメラ)に直接挨拶をしたり、視線を投げかけたりする行為は、虚構世界内物語の成立する映画の「話法」ではタブーとされていること(なぜなら登場人物と観客の直接の出会いは虚構世界をたちまちのうちに崩してしまうから)だが、本映画祭で部屋着を着た女性が投げた視線は、まるで私たち観客に対して映画祭の長い一日の労をねぎらってくれるかのようでもあり、当時の観客が不都合を感じることなく楽しんだであろう瞬間を2002年の私たちも共有し、初期映画がヴォードヴィルや幻燈や漫画といった当時の娯楽と連繋していたことを改めて感じた。

タブロー映画
 また初期映画には、『アンクル・トムの小屋』Uncle Tom’s Cabin (1903、エドウィン・S・ポーター)やキリストの受難劇を題材にした映画に代表されるような長編物語を数十枚ほどのタブローで語ってしまうという映画、言い換えれば今日通用するような「物語映画」の「話法」には支配されない映画が多数存在する。本映画祭で上映された『クリスマス・キャロル』Christmas Carol (1910、エディスン社製作)もそのひとつであった。タブローで語る映画に特徴的なのは、その映画の物語がすでに観客にとって周知の物語であり、それぞれのタブロー(映像)に滑らかな連続性がなくても、観客は予備知識によって映画を楽しめることにある。もちろん各タブローの前に挿入される字幕も物語理解の助けにはなるが、それは映画研究者ノエル・バーチがいうようにあくまでも原作を読んでいることを前提として挿入された字幕[2]であり、『クリスマス・キャロル』にもその特徴を確認できた。たとえばスクリーンに亡霊があらわれることは事前の字幕によって説明されており、二重焼き付けされた亡霊の出現は、観客に驚きを与えるというよりは、観客の確認作業の欲望を満たしてくれる役割を担っている。ここまでの報告は、最近の初期映画研究が教えてくれることを本映画祭の体験にあてはめてみただけだが、『クリスマス・キャロル』にはタブロー語りのほかにも、以下の面白い発見があった。
 『クリスマス・キャロル』は、「アウト・オブ・フレイム」特集のひとつとして上映された。この特集はこれまで葬り去られていたフィルムを修復して上映するというもので、『クリスマス・キャロル』も100年近い歳月を経て今年、再びスクリーンに姿をあらわした。『クリスマス・キャロル』はもともとの22ミリ・フィルム(通常は35ミリ)の形態で保存されていたが、それを今年、オランダのハーゲフィルム社がデジタル修復して35ミリで披露してくれた。なぜ『クリスマス・キャロル』のフィルムが通常の35ミリではなくて22ミリだったのかの理由には特許王トマス・エディスンの戦略が隠されている。22ミリ・フィルムは、エディスンの従業員AF・ゴールによって開発されたもので、1912年に非劇場市場である家庭をターゲットに売り出された22ミリ・エディスン・ホーム・キネトスコープ(the 22mm Edison Home Kinetoscope)と呼ばれる映写機専用[3]のフィルムであった。映写機は作成されたが、22ミリ・フィルム専用の撮影キャメラは作成されず、主にエディスンが1910年から1914年の間に劇場配給を目的に製作した250本の35ミリ・フィルムすべてが、家庭上映のために22ミリ・フィルムへと変換、複製された。現存する家庭上映用の22ミリ・フィルムのひとつが、『クリスマス・キャロル』である。

エディソンの戦略を考察する前に、1912年のアメリカを振り返ってみよう。1912年には、一般に1906年から普及したニッケルオデオンと呼ばれる常設映画館の隆盛が終わりを迎えつつあり、翌年の1913年には、ピクチャー・パレス(映画宮殿)と呼ばれる映画館が登場する。ニッケルオデオン劇場はワン・コイン(ニッケル)5セントで映画を楽しめる場所であり主に移民や労働階級の観客を集めた。他方、ニッケルオデオンよりも高い入場料を要求していたピクチャー・パレスは、その名の通り豪華な外観で観客を迎え、冷えた飲料水を配ったり、席まで案内したりといったサービスを提供していた。

エディスン・ホーム・ムーヴィー
 1912年におけるアメリカの映画館の状況は、国内で映画を娯楽と考える中産階級の観客が増えはじめたことを示しており、エディスンがこの状況を察知して中産階級をターゲットに家庭用映写機を製作したと考えても間違いはないだろう。すでにエディスンは、1894年にキネトスコープと呼ばれる個人が覗きこんで映画を見る装置を公式に販売しており、個人で映画を楽しむという考えは常にエディスンの頭の中にあった。1912年の家庭用映写機の製作は、エディソンが彼のアイデアを形にした二度目の挑戦であった。いつでもどこででも個人で映画を見ることを可能にしたエディスンの家庭用映写機は、現在のビデオやDVDデッキにかわるものだ。また家庭用映写機で見るためのフィルムは、エディスンのフィルム貯蔵庫から直接、あるいは手紙で依頼して借りることができたが、このことは現在の私たちがビデオやDVDを借りて見るのと同様である。『クリスマス・キャロル』(現在、多様な『クリスマス・キャロル』が製作されている)が、現在でもクリスマスの時期になると(テレビ放映されることも含め)家庭で見られていることを考えると、当時エディソンが、劇場用に製作された『クリスマス・キャロル』(1910)を、家庭上映を目的に22ミリ・フィルムに変換、複製したことは偶然ではない気がする。
 このエディソンの試みは画期的ではあったが、映写機の扱いが困難だったことや、販売員の実演技術が未熟であったこと、そしてエディスン社が製作した映画しか見ることができなかったなどの理由で失敗に終わった。映画館に足を運ぶ観客がますます増える中で、別の鑑賞方法を考え出していたエディスンの功績は、失敗こそしたものの映画史にとどめてもよいだろう。というのも、エディスンの家庭用映写機が、2002年の現在、ビデオやDVDのみならずインターネット配信などによって好きな時に家で映画を見られる雛形をつくったともいえるからだ。本映画祭で再び命を吹き返した22ミリ・フィルム『クリスマス・キャロル』は、ソフト面(フィルム)のみならずハード面(映写機)について、そして当時や現在の映画を取り巻く環境(映画館と観客)について考える機会を与えてくれた。

グリフィス・プロジェクト
 最後に、本映画祭ではすでにおなじみの「グリフィス・プロジェクト」(デイヴィッド・ウォーク・グリフィスが製作した現存する映画作品を撮影日順に上映する企画)について簡単に報告しておこう。今年で6回目を迎えた「グリフィス・プロジェクト」では、1912年に製作された短篇映画55本が上映された。 1912年は、グリフィスのキャリアにおける最初の「ゴールデン・イヤー」と評されるだけあってどの作品にもグリフィスの実力が発揮されており、物語に劇的な効果をもたらすグリフィスの映画「話法」が随所にみられた。たとえば同じグリフィスによる『飲んだくれの改心』The Drunkard's Reformation (1908)を想起させる『野蛮』Brutality (1912)における客観ショットと主観(視点/POV)ショットを交互に繋げる編集もそのひとつだろう[4]。こうした編集の「話法」以外に、物語を劇的に演出するものとしてロケーション撮影されたショットがある。1910年にグリフィスの所属するバイオグラフ社が西海岸へ遠征した結果、グリフィスはニューヨークを拠点にするバイオグラフ社の製作班をロサンジェルス地域に率い、冬から4月中旬までは西海岸にて撮影を行うようになった。そして1913年には1年のうちの7ヵ月を西海岸で滞在するに至った。1912年の2 15日に海辺で撮影された『網の修繕者』The Mender of Netsや続けて222 日に砂漠で撮影された『燃える空の下で』Under Burning Skiesにおける西海岸の豊かな自然を背景にしたショットは、登場人物の心情をあらわす隠喩的表現の水準に達している。

ヒロインが海辺で魚網を繕うショットではじまる『網の修繕者』は、ヒロイン、ヒロインに求婚する男性(トム)、そして男性のかつての恋人(グレイス)との三画関係を描いたメロドラマである。導入部のショットで魚網を繕うヒロインのもとには、修繕が必要な沢山の魚網を持ってくる父親があらわれ、彼女は黙々と同じ作業を繰り返すのみである。導入部のショットはすべてミディアム・ロング・ショットで撮られ、ヒロインの表情や仕草が判別でき、彼女の物憂い表情から、彼女には、特にこれと言った楽しみもなくただ魚網を繕う日々を過ごしていることが見てとれる。また魚網を繕うヒロインの背景には、静かにそして単調に波打つだけの海が広がっており、その背景は彼女の表情やうつむき加減で魚網を繕う姿勢と呼応している。導入部のショットのあと、彼女の単調な生活を一変させるような男性(トム)が、彼女の前に求婚するために出現するが、それは幸福な兆しではなく、三角関係の始まりであった。導入部の海辺のショットは、嵐の前の静けさをもあらわしていたのだ。やがてヒロインは、求婚した男性(トム)が別の男性と銃を持って互いに争っているのを目撃し、仲裁に入る。その結果、男性(トム)が争っている相手はかつての恋人(グレイス)の兄であることに気づき、その争いは自らの恋のために生じたことを悟る。そのあとヒロインが、男性(トム)と彼のかつての恋人(グレイス)のために身を引くことによって三角関係は解消される。そしてスクリーンには再びヒロインが海辺を背景に魚網を繕うショットがうつしだされる。この最終場面のショットは、以前と同様の単調な日々が続くことを示している。加えて、海辺のショットが醸しだす湿気は彼女の悲しみの涙であり、涙の湿り気がスクリーン全体に漂いながらメロドラマは終了する。『網の修繕者』はカリフォルニアの海が、ヒロインの心情をあらわすグリフィス作品の一例である。

海辺と同様に砂漠もまたカリフォルニア地域に遍在する光景であるが、涙を想起させる湿気の漂う海とは相反する水の枯れた砂漠も、グリフィス作品では登場人物の悲しみを隠喩的に表現する背景である。たとえばヒーロー(ジョー)、彼のかつての恋人(エミリー)、そしてその女性の結婚相手の三角関係を描いた『燃える空の下で』では、砂漠と枯渇がかつての恋人(エミリー)と彼女の結婚相手のために身を引いたヒーローの心情と重ねられている。ヒーローは、かつての恋人(エミリー)の夫となった男性に復讐することを誓い、新たな生活の場を目指して砂漠を移動する新婚夫婦を追う。他方、まるでヒーローの復讐心が太陽の熱に化してしまったような灼熱の砂漠を移動中の新婚夫婦は、飲料水をラバの背から落とし、命の糧である水を失ってしまう。やがて妻(エミリー)は気絶し、夫は水を得るために素手で砂地を掘り起こそうとするが、そこには枯れた砂漠と太陽しかない。新婚夫婦の未来が途切れてしまうかのようにみえたそのとき、白馬に乗ったヒーローが登場し、復讐を誓ったはずの彼が、新婚夫婦に水を与え、かつ自ら乗ってきた馬を彼らに残し去る。これはヒーローの助けによって新婚夫婦の未来は途切れずに続くことを示す最終場面であり、また水も馬も手放したヒーローの未来が、先ほどまでの新婚夫婦の未来と入れかわってしまったことを示す最終場面でもある。かつてヒーローの心に潤いを与えていた恋人(エミリー)をも手放した彼の心情は、なるほど彼の背景に広がる枯渇した砂漠同様、渇いた虚しさと悲しみに満ちている。しかしヒーローの与えた水が砂漠で枯れた新婚夫婦の喉を湿らせたように、ヒーローの行動と彼の虚しく悲しい心情を代弁する砂漠の背景によって、観客の心は動かされ、潤いの涙で満たされるのである。

前述した両作品の『網の修繕者』と『燃える空の下で』の撮影がわずか一週間しか開いていないことや、1912年に55本(かそれ以上)の映画が製作されたことを鑑みて、撮影日順ごとにグリフィスの映画を見ると、グリフィスが週単位で撮影を敢行し、連続して撮影される作品の題材が似ていることは誰の眼にも明らかだろう。そしてグリフィスが「アメリカ映画の父」と呼ばれる理由は、似た題材を扱いながらも物語を展開させる登場人物の心情をその豊かな「話法」で表現したことにあることも実感できるだろう。しかしグリフィスが劇的な物語展開のためにうみだした「話法」のすべてが、その後の物語映画とぴったり合うわけではない。たとえば胸の近くで手を小刻みに激しく震わせ、ときに大きく頭をうなだれて恐怖や悲しみを表現する女性の大きな身振りは、物語ることに従事してはいるが、後の物語映画よりも初期映画に特徴的な身振りである。「グリフィス・プロジェクト」の魅力は初期映画に特徴的な「話法」と後の物語映画で使用されるようになる「話法」の混在を同じ一本の映画の中に見いだせることにもあるだろう。そしてそれは、そのままポルデノーネ無声映画祭全体の魅力にも通じる。なぜなら、映画祭で上映されるそれぞれの初期映画を含むサイレント映画を水平的(同時代的)かつ垂直的(時系列順)に体験することによって、映画「話法」の生成とその受容の過程を感じ取れるからだ。







[1]  初期映画における登場人物の直接的な呼びかけについては、初期映画研究者トム ・ガニングが随所で分析しており、たとえばTom Gunning, “The Cinema of Attractions: Early Film, its Spectator and the Avant-Garde,” Early Cinema: Space-Frame-Narrative, ed. Thomas Elsaesser (London: British Film Institute, 1990), pp. 56-62. Gunning, “‘Now You See It, Now You Don’t’: The Temporality of the Cinema of Attractions,” Silent Film, ed. Richard Abel (New Brunswick: Rutgers University Press, 1996), pp. 71-84などがある。

[2]  ノエル・バーチ「ポーター、あるいは曖昧さ」宮本高春訳『「新」映画理論集成 @歴史/人種/ジェンダー』岩本憲児他編(フィルムアート社、1998年)9092

[3]  22ミリ・フィルムや22ミリ・エディスン・ホーム・キネトスコープの詳細は、本映画祭のサイト (http://www.cinetecadelfriuli.org/gcm/edizione2002/FuoriQuadro.html)を参照されたい。

[4]  ガニングは『飲んだくれの改心』における客観ショットと主観ショットの編集が物語に与える効果を分析している(Gunning, D. W. Griffith and the Origins of American Narrative Film: the Early Years at Biograph [Chicago: University of Illinois Press, 1994], pp.164-172) 。同様の手法を採用する『野蛮』にも以下のような効果が見られる。『オリヴァ・ツイスト』の演劇を見るアルコール中毒の男(客観ショット) と演劇の舞台(主観ショット)が交互にうつしだされ、男の表情(客観ショット)は、劇(主観ショット)が進行するにつれて、凶暴なものから哀しみの表情に変化し、最後は男が酒を飲むのをやめることを誓い、妻や赤ん坊と幸せに暮らすというハッピー・エンディングで映画は幕を閉じる。客観ショットと主観ショットを交互に繋ぐ編集は、劇中劇(映画中劇)の『オリヴァ・ツイスト』が男の心理に影響を及ぼし、家族を和解へと導く過程を効果的に演出している。