『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講議』はどのように読まれたか
以下は『週刊読書人』2004年11月26日号より引用

伊藤洋司
 ・・・劇場公開から二十年以上が過ぎた今、加藤幹郎による『ブレードランナー』の本格的な研究書が出版された。早速読んでみたが、これが滅法面白い。この数年に日本語で書かれた映画の本のなかで、最も優れたもののひとつだと言ってよい。・・・加藤氏は細部を議論する際にも、それが作品全体においてどういう意味を持つかをたえず意識しており、細部の細部のための分析には決して陥らない。しかも細部の議論は頻繁に映画論全般における根本的な問題の考察にまで至っている。・・・審美眼を競い合い目利きであることだけを誇示するだけのような映画評論が目立つ近年の日本において、本書の議論の姿勢は突出している。最近の映画評論が無条件に引き受けてしまっている議論の前提に安住せずに、根本から全てを思考し直そうとする姿勢がみられる。本書は、映画について思考するとはいかなる行為なのかということを教えてくれるのだ。・・・(中央大学講師)



以下はすべて読者カードからの引用です。

長谷川清久
 まごうことなく傑作と呼べる出来です。『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社1988年)以来、くじけそうになりながら、お付き合いしてきた甲斐がありました。断章のなかに惜しげもなく振舞われるのは「情報」(内容)ではなく「知」(形式)。ロラン・バルトの美しい本に似ている。手にしてみたものの、とても読みおおせるシロモノではなかった『映像/言説の文化社会学』をこき下ろしていたのにも溜飲が下がりました。次のリュミエール叢書も楽しみです。(阿南市53歳)

内田浩司
 膨大な資料から客観的で普遍的な論理を導きだすことに成功していると思う。是非シリーズ化してある特定のジャンル映画を論じる必読書となって欲しい。世界には『ブレードランナー』ファンが多く存在するが、ファン心理をよくつかんでおり、論理的で、氏の懐の広さ、深さを堪能出来た。良書だと思う。(大阪市35歳)

アノニマス
 『ブレードランナー』の分析がそのままフィルム・ノワールというジャンル全体の重層的な分析となっていくあたり、これぞ加藤批評という感じでとても興味深く読めた。注に書かれていたジジェクのノワール論への痛烈な批判も刺激的。最近は「ジジェクの語る80年代ノワール」を代表しているとして『ブレードランナー』を評価するという声もあがっただけに、少なくない波紋を呼びそうな気がします(僕自身、ジジェクの『ブルーベルベット』分析に感心しているくちなので、加藤氏の批判はなかなか飲み下しにくかった)。加藤氏のこれからの『ブレードランナー』、フィルム・ノワール論の展開を楽しみにしています。(目黒区36歳)

安井大輔
 教科書として買いましたが、それ以上に得るものが多い、いい本でした。2800円は高いと思ったけれど、読了した今となっては全然損したとは思えない出来だといえます。(京都市24歳)

佐藤康宏
 昔観たとても好きな映画ですが、ずいぶん見落とし、聴きもらしていたことがよくわかりました。常に映画史を参照しながら引用の織物としての『ブレードランナー』を読み解き、あくまでもテクストの内部で起きていることを明らかにするために細部に徹底して執着する著者の姿勢には共感がもてます。(東京大学大学院文学研究科教授・美術史)



以下はすべてAmazon.comの読者評からの引用です。

いちろう
 この本を書店で手に取った時のショックは言いようがない。まさに目を疑った。映画史上最も芸術性の高いSF映画である Blade Runnerについては、公開以来22年間多くの海外出版物やネットでの論評があり、今日なお増殖をしている。本書はその日本語での最初の記念すべき網羅的文献となった。文章の多くが直接内容と関係のない論説で占められるため、ボリュームの割には新発見や新解釈が書かれていないが、これはBRを論ずる解読者の顕著な傾向であり、私は非常に共感する。しかしScott Bukatmanの著書に似て、内容が映画学の範囲にとどまり原作であるDADoES、シド・ミード、リドリー・スコット等に対する分析がない。これらは次の違う著者に期待しよう。(札幌市)

sentakki
『映画芸術』ていう雑誌に加藤幹郎のこの本の匿名書評(EMの署名あり)が乗ってて、この本がけなされていた。これは加藤個人にとって不幸なことと言うよりも、俺たちの時代全体にとって不幸なことなんだよな。文化的な知識もセンスもIQもないEMのような低レベルの奴が、この本のすごさがわからないのは当然のこととしても、レベルの低い連中が匿名でこの本をけなす、その情けなさが半ば許されている今の日本の知的文化環境が不幸の元凶なんだよな。(杉並区)

crowe
まず筆者にとって重要と思われるシークエンスを『ブレードランナー』というこの映画の内部の情報から推測してゆきます。推測自体は的確で検証可能なものに見えます。たとえばデカード役(ハリソン・フォード)は本当にこの映画の主人公なのか? またこの映画はポストモダン的映画なのか?それともフィルム・ノワールなのか?ということが少しずつ明らかになってゆきます。ジジェクのこの映画の評論が「間違って」いることやあまたの評論の「誤り」が露呈してゆきます。つまり筆者加藤氏こそが探偵であり、ブレードランナー的であると言えます。逆に言えば本書の途中付近から、もう「結論」は読者にはうすうす気づいてしまいます。とはいえ評者は、この本を読み終わった時点で、『ブレードランナー』をレンタルせざるをえませんでした。筆者はぎりぎりの地点で、この映画を解体していると思えます。恣意的にならない限界点での批評と言えそうです。(埼玉県)



以下は『みすず』2005年1/2月合併号「読書アンケート特集」より引用

山根貞男
 一本の映画をとことん細密に論じることで、一本の映画にはあらゆる映画史と映画理論の達成が流れ込んでいるという事実を明らかにしていく。そんな大胆不敵な試みがスリリングでないわけがなく、映画を見るとは何か、どういう営みなのかを、挑発的に問いかける。見ることに徹した思考であればあるほど、監督の思惑など踏み越えてしまう点が、大胆不敵さをさらに深める。(映画評論家)



以下は『新潮』2005年5月号より引用

蓮實重彦
 畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(映画評論家)





「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』正誤表

『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(筑摩書房2004年9月)の二刷(2006年1月)を機会に明らかな誤謬を訂正した。拙著の誤謬を指摘していただいた読者諸賢ならびに講義受講者にこの場を借りてお礼を申し述べたい。以下に正誤表をあげておく。(加藤幹郎)

正誤表

頁   行                誤→正
53  最終行        内燃機関→外燃機関
138  後より2行目  これが最初で最→映画後半部ではこれが最初で最
194  前より10行目  『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』→『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』
235 下段後より11行目 『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』→『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』
235 下段後より7〜6行目 『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』→『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』 
235 下段後より6〜5行目 『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』→『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』