書評
合作映画に見る荒唐無稽
山根貞男『映画監督 深作欣二』(ワイズ出版、2003)

大傍 正規

 本書『映画監督 深作欣二』は、かねてから「聞書き」の体裁をとった良書を上梓してきた山根貞男氏が、「最後の活動屋」として惜しまれながら亡くなった深作欣二監督(2003年1月死去、享年72歳)に、1999年2月末から2002年1月まで断続的に試みたインタビュー集である。従来の現場関係者の回想録、第三者による聞書きの類には、ある時期に限定した不完全なものが少なくなかったが、本書は山根氏の執念によって、深作監督のデビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(1961)から未完の遺作『バトルロワイヤル』(本作は実子の深作健太監督により『バトル・ロワイヤル【鎮魂歌】』(2003)として完成・公開された) までの、実に42年間に渡って撮影された全62作品が網羅されている。
 しかし、ここで深作監督の経歴を編年体で追ったり、深作監督が観たという種々の映画を列挙したりすることで本書をなぞるようなことは控えよう。さらに深作作品と東映システム(時代劇−仁侠映画−暴力団映画といったジャンルの史的展開)を再確認することも、本書が随所に見せる既存の映画史を逸脱する荒唐無稽なエピソードをすくい上げるためには留保せねばならない。すなわち、ここでオルターナティヴな視点として導入したいのが、合作映画にまつわるエピソードから見えてくる東映の隠れた側面、あるいは当時の日本映画界の荒唐無稽な実情である。当時の映画界を象徴する形で深作監督のフィルモグラフィーにもいくつかの合作映画が含まれている。それらを再発見することは、従来の映画史が軽視していたある重要な側面に光を当てることである。

 山根「『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(1966)はにんじんプロダクションと国光影業股有限公司の合作ですが、にんじんプロダクションは岸恵子・久我美子・有馬稲子を中心に1954年発足した「にんじんくらぶ」の残党ですね。国光影業は台湾の映画会社ですか。」
 深作「台湾の製作委員会みたいなもので、寄り集まりの製作プロダクションです。にんじんくらぶは、小林正樹さんの『怪談』(64)で大変な借金をつくって、空中分解しちゃったんです。それで解散して、にんじんくらぶの代表は若槻繁さんという真面目な人なんだけれど、あとの人が少し乱暴な人で、とにかく映画は作りつづけないと駄目だ、アクション映画を作ってくれというオファーがあった。それで、にんじんくらぶと企画そのもののギャップにちょっと違和感を持ったり、アクション映画がそんなことでうまく成立するのかという不安もあったんですけど。外国ロケはやったことがなかったし、外国のことも少し経験しとかないといけないんじゃないかということで始めました。」(p.135)

 なぜ1966年という時期にジリ貧のプロダクションと合作までして映画を撮らねばならなかったのか。このような動機も目的も曖昧な作品に、仁侠映画のスターであった高倉健までを動員して撮影する意味はどこにあったのだろうか。これは日本映画界がその後長くつづく低迷期に入り、大手スタジオが自力で資金を融通できなくなる過程で起こった珍事として映画史的には片付けることもできる。しかし別の観点からみれば、大手映画会社が内外の独立プロダクションとの提携というかたちで自社のリスクを軽減することは、映画製作そのものを放棄してゆくその後の日本映画産業史の長い終焉のはじまりを象徴する事態でもあるのだ。
 ここで採りあげる三つの深作作品に共通するものは、製作資金を東映本社以外の外部組織が出資しているという事実である。本作『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(1966)は台湾の資産家が出資しており、『ガンマー第三号宇宙大作戦』(1968)はアメリカ資本、『復活の日』(1980)は角川春樹氏の出資である。このような事態は一体何を意味するのだろうか。後述するように、この時期に多くの合作映画が企画・製作されている事実は大手映画会社が自力で資本の運転をできなくなり、死に体になっていたということである。多くのシリーズものを連作して一見活況を呈しているかに見えた日本映画産業史の裏面が合作映画に見られるのである。

 山根「これ〔『ガンマー第三号宇宙大作戦』〕は日米合作なんですか。」
 深作「これは最初、東映が日本で封切る予定はなくて、アメリカのラム・フィルムというプロダクションが、SFアクションを作りたい、ついては日本で作った方が安く上がるから、スタッフと撮影所を貸してほしい、と東映に申し込んできたんですよ。SFだから撮影所を使わないと無理ですし、東映はアクション映画が売り物になっているからいちばん良いだろうというわけです。それで、主役役者二人はハリウッドから連れていくので、あとは全部、日本在住の外人でいってくれ、日本人は出さないでくれ、と(笑)。オール白人。」(p.177)

 1968年3月、東大卒業式が安田講堂占拠で中止。4月、マーティン・ルーサー・キング牧師暗殺。5月、パリ大学ナンテール分校で学生と警官隊が衝突、大学閉鎖。6月、アメリカ民主党の大統領候補R・ケネディ暗殺。このように世界規模でアナーキーな雰囲気が醸成されていた中、東映恒例の「ちびっ子まつり」の四本立ての一本として公開されたのが『ガンマー第三号宇宙大作戦』であり、本作は東映がラム・フィルムなるアメリカの映画会社から請け負ったいわば下請け仕事である。前年には黒沢明監督が撮るはずであった製作費2250万ドルを標榜した20世紀FOX社製作の大作太平洋戦争映画『トラ・トラ・トラ!』の尻拭いを任されるなど、当時の深作監督はつねにやっかいな仕事を任されていた。
 特撮ものであれば、二年前の1965年にはワーナー映画が出資した『勇者のみ』という東宝系の東京映画とシナトラ・エンタープライズとの提携作品が特撮監督円谷英二のもとに撮られているし、『フランケンシュタイン対海底怪獣』という東宝とベネディクト・プロとの提携による空想怪獣映画もあるので、『ガンマー第三号宇宙大作戦』のような映画は東宝に依頼するのが筋だとも思われるのだが、他社の路線をうまくアレンジして吸収することに長けていた東映の企画部がうまく話を持ってきたのかもしれないし、当時日本映画界を独走していた東映に儲け話が来ただけなのかもしれない。前年の1967年には東宝から完全独立した黒沢(明)プロダクションがアメリカのエンバシー・ピクチャーズと『暴走機関車』の製作を決定しているし(しかしその後、企画は流れる)、同年設立の「優秀な日本映画の海外進出を選定してその製作費を融通し、国際競争力を増強せしめ、もって我が国映画産業の健全な発展を期」(田中純一郎著『日本映画発達史」』p.56)して設立された「社団法人日本映画輸出振興協会」の第一回選定作品として融資されたものも、大映とソ連ゴーリキー撮影所との合作映画『小さい逃亡者』であった。要するに合作映画は時代の潮流でもあったわけだが、本作『ガンマー第三号宇宙大作戦』には東映側の主体的な契機が希薄で、深作監督が「黒人はどうだ」と言って作品にヴァラエティを出そうとしたところ「いや、いらない」とアメリカ側に一蹴されたり、「ベトナム戦争」を作品に導入しようとしてこれもまたすんなり拒絶されたというエピソードは、ユダヤ人のプロデューサーを「ウハウハ」にし、深作監督には東映の二倍ものギャランティーが与えられたとしても、アメリカの弱小プロダクションの世界戦略による主体的な日本映画製作の抑圧であったと言えるだろう。
 いずれにせよこの時期、映画史的には、大手映画会社の製作本数が軒並み減少し、それを補うかのように独立プロダクションによる映画製作が登り調子であったという事実はくりかえし強調せねばならないだろう。そしてその背後には、安価な製作費を求めて、国境を越えたグローバルな資本の流動に翻弄された映画作りが行われていたのである。ハリウッドの二流、三流の映画会社でさえもが、日本で合作映画を撮ったことはその最たる例であろうし、中平康監督が香港映画界に招かれて『狂った果実』のリメイクを撮ったのもその変種であろう。今日なら中国や台湾を目指すであろうグローバルな資本はようやく経済が軌道に乗り出した当時の日本に資金を振り向け、安価に映画を製作し、その流れがいわば日本映画製作のいかがわしさを助長したのである。
 アメリカでは『ガンマー第三号宇宙大作戦』は『エイリアン』(リドリー・スコット監督、1979)や『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、1982)に先んじた突出したSF映画として、その先駆性が評価され、カルト的人気を博し、クウェンティン・タランティーノが来日した折には、深作監督に『ガンマー第三号宇宙大作戦』のレーザーディスク版にサインをねだったということだが(p.178)、日本映画産業の崩壊過程はこのように偶然撮られてしまった佳作(合作映画)からも、うかがい知ることができるのである。

山根「〔『復活の日』(1980)の〕スタッフは日本とカナダですね」
深作「日加混合チームですな。アメリカの大統領官邸とかアメリカ部分のセットもロケーションも全部カナダ。カナダ人のスタッフを雇い、カナダでロケーションをする。そのころ、アメリカ映画でも予算的な都合でほとんどカナダを主体に使っていたわけです。そういう情報が入っていて、たしかに予算は半分とまではいかないけど、三分の二あればできちゃうということだったから、それはいいじゃないかと、全部ハリウッドの俳優もカナダに呼んで、そこで撮った。」(p.376)

 この奇妙な合作映画を日本の資本のみで製作することを可能にしたのが当時の角川書店社長角川春樹であった。『柳生一族の陰謀』(1978)に公家の役で特別出演した折に『スター・ウォーズ』(1978)に入れあげていたため、「SFをやってみたいんだ」と言っていたことを実現したのが本作である。このころ見られる合作映画にはSFが多い。なぜSFなのかといった問いには様々な答えが考えられるだろうが、ここで重要なことは、これまで出資してきたのが国外の人物/組織であったのに対して、今回は日本人である角川春樹が出資したという点である。1960年代後半からの急速な経済成長によって日本人資本家の投資余力が増大し、ハリウッドが仕掛けてきた大型戦略を日本の一企業家の手で行えるようになってきたのである。しかしだからといってその戦略が成功したわけでない。『復活の日』が当時異例の製作費22億円をかけたのに対して配収24億円では、深作監督も言うように「銀行利子のほうがいい」だろうし、そこが日本映画界とハリウッド映画界との差でもあるだろう。
 そして深作監督自身はハリウッドと日本映画界の差として、脚本に対する投資の力点の置き方に不満をあらわすのだが、ここで明らかになっていることはハリウッドが脚本だけを買い、グローバルに資金を振り向け、初期投資を効率的に回収していたのに対して、当時の日本最大手である東映が力点を置いたのが、『スター・ウォーズ』人気に便乗するかたちで、その公開二か月前に『宇宙からのメッセージ』(深作欣司監督、1978)を製作するという安易な企画と、崩壊過程にあるにもかかわらず(そしてそうであるがゆえに)荒唐無稽な合作映画を奨励していたという事実である。このように、これら複数の合作映画に留意しながら本書『映画監督 深作欣二』をひもとくことで、荒唐無稽とは裏腹にある深作映画が持つ熱気と冷気の交錯に触れることができるだろう。
 『映画監督 深作欣二』を読むことは、既存の深作監督像、東映像を再確認/認識することにのみ開かれているのではない。崩壊過程での合作映画という荒唐無稽な試みに目を向けることで、また新たな視点を得ることができるだろう。