映画『寧静夏日』を台湾で撮る

藤田修平

においの印象

 私が初めて台湾を訪れたのは2000年5月の終わり頃で亜熱帯の台湾ではすでに夏の季節に入っていて、中正国際空港の到着ロビーに出た時、何か物を蒸したような独特のにおいがあった。空港からは台北行きのバスに乗ったのだが、薄い緑の床に紺色のシートが並んだ薄暗い車内には湿った黴のようなにおいがあって、窓を通して初めて見た台湾の風景はそのにおいと共に記憶されることになった。台湾では風景が人間あるいは人間の生活と強く結びついているように感じたのだが、それは場所のにおいとも関係があるように思う。のちに台湾で映画を撮ることになった時、どうすればこのにおいと共にある場所の感覚や人間の生活を映像で捉えることができるのかについて考えさせられることになった。

日本との関係の記憶

 私はその当時、南カリフォルニア大学の映画学部に在籍していて、そこで出会った台湾の友人たちに映画制作の手伝いを頼まれて台湾に来たのだった。私の先輩にあたる人1は16ミリでの映画制作を予定していたが、延期を強いられることになり、その間、同級生2のドキュメンタリー制作3に参加することになった。その内容は、第二次世界大戦後、台湾に残された零式戦闘機を彼女の祖父が手に入れて、それらを溶かして食器として売り出し、そこから現在の工場を立ち上げたという家族の歴史についてだった。零式戦闘機のスクラップの競売があったという宜蘭県などへリサーチと撮影のために赴いたが、訪れた先々で年配の人々は私が日本人とわかると何のためらいもなく、どこか響きの異なる日本語でその当時の状況と自らが辿ってきた人生を語ってくれた。台湾がかつて日本の植民地であって、ある年齢以上の人々は日本語を使用できるという事実は頭の中で理解していたが、初めて訪れた異国の地で、続けざまに日本語を聞くという体験には何か奇妙な感じがあった。また、台湾では国民の一人一人にIDカードが与えられていて、そこに父親と母親の名前が書かれているのだが、その同級生のIDカードを見せてもらうと、母親の名前の最後の二文字が菊子となっていた。それについて尋ねると「母は二歳まで日本人だったのよ」と彼女はあっさりと答えた。日常の生活の小さな出来事においても、日本と台湾の関係を感じさせられることは多かった。

 のちに映画を撮影することになり、撮影場所を探していた時、花蓮県にある林田山という日本の植民地時代に拓かれた林業の村を訪れることになった。当時の日本風の木造建築がそのままの形で残り、今も村の人々が当時の建てられた家屋に住んでいるのだが、多くは緑や青に塗られ、いくつかの家の壁には小さな蛇の模様が彫られていた。そこは日本、先住民、客家の文化が混じった不思議な空間だった。私が初めて訪れた時、廃校になった小学校の広場でアミ族の老人たちがゲートボールをしていたのだが、そのゲームの最中に「一、二、三、四」という日本語の数字が聞こえてきた。戦後、この村は国民党によって管理されることになり、ほとんどの日本人は本国へ引き揚げたが、ある日本人一家がこの場所に留まった。その息子は中国風の名前に改名して、原住民の女性と結婚し、林業に従事したが、自殺という悲しい結末を迎えることになった。私はこの事件を知らず、同じような脚本を用意して、その舞台としてこの村とその墓場で撮影することを予定していたが、それを知った村の迷信深い人々は少し怖がって、その事実を私に教えてくれたのだった。結局、この家族の戦後の詳しい状況はわからなかったが、忘れられつつある何かに対して、日本人である私が招かれたような気もしないではなかった。日本と台湾の間には記録されずに忘れ去られつつある小さな出来事や歴史がまだ多くあるのではないかと思う。

外省人と日本

 私が映画制作を手伝うことになった先輩の父親は第二次世界大戦後に国民党の兵士として中国大陸から台湾にやってきた外省人で、子音の強い中国語を話したが、彼の妻は第二次世界大戦前から台湾にいた本省人(あるいは台湾人)であった。そして本省人と結婚した国民党の兵士の一部がそうであったように、晩婚で子供はひとりだけだった。どこの国であれ、兵士や警察の人間には共通した特性のようなもの、つまり厳格さや規律といったものを感じるのだが、彼の父親にもそうしたところがあって、家の中はとても簡素かつ機能的で不必要な装飾物がなかった。蔡明亮の『河』で描かれていたのは、外省人の父親と少し年が離れた本省人の母親に一人の子供という家族で、こうした家庭の様子(そして文化の違い)が極めて正確に描かれているのだが、それを理解したのは先輩の自宅を訪れてからだった。台湾では、家族構成や言葉、アクセント、服装、家の内装、食事といった日常の生活に中に歴史、階級や出身地と深く結びついたさまざまな小さな(多くの場合、悲しみの)物語(エピソード)が存在する。また、そうした物語(エピソード)が台湾の風景の中に溶け込んだ形で、場所と空間に結びついた形で存在していた。例えば、ある建物や路地、あるいは部屋の内部にカメラを向けた時、すでにそこで語られる生活上の物語や人物が漠然と想像できるように。

 ところで、先輩の父親は内陸の小さな村の出身で、故郷を離れて台湾へ来るまでの経緯を話してくれたのだが、それは冒険と波瀾に満ちたものだった。外省人と呼ばれる人たちは中国の異なった地域から、様々な事情とルートで台湾に渡って来たのであり、もし8ミリのプライベートな映像が残っていれば、興味深い人生を記録したドキュメンタリーが多く作られただろうと思う。私は映画の中で彼らの人生を扱うことを考えて、外省人である常楓という八十歳を超えた俳優に会うことになった。彼と最初に会った時、驚いたことに私に日本語で話しかけてきた。彼は満州の出身で、満州国時代に横浜商業銀行で働いていて、日本語を毎日使っていたということだった。のちに穏やかな口調で、中国では「満州」より「東北」という言葉を使ったほうが好ましいですよ、と助言されるのだが、数多くの重要な映画に出演した台湾の俳優から満州国の記憶を聞くとは予想もしていなかった。またその時、同席した林贊庭氏は、金馬映画祭で4回最優秀撮影賞を獲得したというカメラマンだったが、台中一中の出身で、常楓氏とは違った日本に対する感情があり、満州国に渡って終戦で引き上げることになった彼の友人の話をしてくれた。その話の内容と話し方があまりに感動的で、後に映画の中で、この情景を生かして常楓氏が演じる男に長いエピソードを語ってもらうことにしたのだった。

台湾の外国人

 初めて台湾に来た最初の年は民族西路近くのアパートに住んでいた。少し東に歩くと中山北路があり、そこにはフィリピン人の教会があって、日曜日になるとその周辺に彼らは集まって、食事をしたり、恋人と待ち合わせたり、酒を飲んだりと休日を楽しんでいた。私はロサンゼルスにいた時、国際電話のプリペイドカードを郊外の中華街で購入していた。そうしたカードは1−800の無料の電話番号につなぎ、そこでカードに書かれた暗唱番号を押して、残った金額を確認して相手に電話するというシステムで、20ドルで300分ほど日本まで通話ができるという格安のものだった。台湾で同じような国際電話のプリペイドカードを探していた時に、フィリピン人向けの食料雑貨店の店先に貼ってあった宣伝ポスターをたまたま見つけたのが、フィリピン人社会との関わりのはじまりだった。日曜日に教会周辺に集まるフィリピン人を対象に国際電話のプリペイドカードを販売していたのが、のちに映画に出演してもらうことになる男だった。

 台湾で働く外国人はフィリピン人、インドネシア人とタイ人がいた。彼らはOCW(Overseas Contract Worker)と呼ばれていて、主に男性は工場での労働者、女性は家政婦として働き、数年間の契約期間が終わると本国に戻ることになっていた。しかし、ビザを取得して台湾に入国した後は別の仕事を期待されることもあり、私が滞在した小さなホテルでは彼らは洗濯や受付の一部をしていた。映画に出演してくれた男も同じように国際電話のプリペイドカードを扱う小さな会社の社長の元で様々な雑用をこなしていた。彼と話をするとフィリピンに五人の子供がいるということで、ハンドバックに入れていた写真を何度か私に見せてくれた。一番上の娘はすでに二十歳を超えていたが、一番下の娘は5歳になったばかりだった。とてもユーモアがあり生活を楽しむことのできる人間で、台湾へ来る前にいたドバイでの話、イスラム社会での酒や女性の話をしてくれたが、異なる国々を移動して年齢を重ねていくことになんとなく悲哀を感じさせられたのだった。

 台湾のフィリピン人を取り上げるために、彼に俳優として映画に出演してもらうことになった。彼に言わせれば、友人として(その時はそれほどの関係に至っていなかったように思うのだが)私を助けてあげようということだった。彼のシーンは二年間に二回に分けて撮影されたのだが、二年目になると彼が働いていた会社は休業状態になった。法律ではこうした場合、転職は許されず本国へ一度帰国する必要がある。しかし、彼は台北の郊外の工場で仕事を見つけ、正式な許可なく働いていた。OCWには年齢制限があり、彼の年齢では再び台湾へ来ることはとても難しいということだった。

 映画の中では彼が働く工場で毎日行っている仕事を再現してもらうことにした。撮影は土曜日の午後六時頃から始めたのだが、正式の許可書とビザを持っていた他のフィリピン人はとても若く、彼と同じ年齢の者はいなかった。彼らは仕事が終わると明日が休日ということでリラックスして、近くの別の会社の工場にいる友人の所で一緒に飲むために出かけて行った。そして誰もいなくなった工場で朝の二時頃まで撮影を行うことになった。

 その撮影を終えてから数ヶ月後にビザで認められた滞在期限は過ぎた。できるだけ長い間台湾で働きたいと言っていた彼だったが、一年もしないうちに捕まり、本国へ送り返されてしまった。ところで、映画の中で、彼が夜市で台湾式パチンコをするシーンがある。この時、彼は演技など忘れてパチンコに集中し、撮影中に大当たりが出たのだった。賞金と引き換えに人気子供番組の大きなぬいぐるみをふたつ獲得したのだが、それらを両腕に抱えて、嬉しそうに店から出てきた時の表情は忘れられない。彼はすぐにフィリピンに送っていた。

台湾での撮影

 私は台湾に滞在して様々な体験をするうちに、それらを映画という形で表現したいと考え始めたが、「台湾で映画を撮りたい」と口にすると、多くの人に「なぜ外国人であるあなたがここで撮りたいのか」と確認されることになった。それは貧しい人の住む場所をエクゾティックな風景として利用してほしくないということだった。先進国の人間がそうでない国で撮影する時、こうした問いについて考えることは重要だが、特に文化が近く、歴史を共有した国の場合は人々はより敏感に反応する。私はエクゾティックな風景に惹かれたことは否定できず、そこに貧しさが存在したことも確かだったが、単なる背景としてではなく、そこにある人間と生活を描きたいと思っていた。しかし、厳密に分けることができる問題ではなかった。とはいえ、日本人である私が台湾で撮影することについて、いつも頭の片隅では考えていた。

 撮影機材の多くは台北郊外の板橋という場所にある国立台湾芸術学院でほとんど無料で貸してもらえることになった。侯孝賢や李安(アン=リー)を輩出した映画学校として有名で、以前は専門学校であったのだが、最近四年制の大学として改編され、大学院も設置されることになっていた。この大学には日本人の学生4が留学していたが、彼は落語家を目指していたという変わり種で、中国語でも面白い話ができ、目立った存在だった。私は彼と知合ったおかげで、この大学から機材を借りることができ、また彼の友人たちに手伝ってもらえることになった。

デジタル時代の始まりと淡い期待感

 映画は撮影だけでなく、その後、編集、そしてサウンド、その後、ネガをカットして、タイミング、フィルムのプリント、字幕作成というような様々なプロセスを辿り、ひとつひとつの段階を経るごとに大きなお金がかかるという仕組みになっている。つまり、撮影の時に使える予算は総額の一部であって、それ以外のためにお金を残して置かなければならないのだが、これは個人制作ではあまりに厳しいことだった。しかし初めて台湾を訪れた年はFinal Cut Proというノンリニア編集ソフトが発売された翌年で、アメリカや台湾のインディペンデントで映像制作を行っている人間の間には29.97フレーム(ビデオ)と24フレーム(映画)の壁を超えて、自宅のマックでも映画を編集できるのではないかという期待感があった。台湾で知り合って、のちに『寧静夏日』のカメラマンになる劉吉雄は、彼の最初の作品の『沒參加』5を編集していたが、技術的な問題に直面するとwww.2-pop.comなどのアメリカのインディペンデント映画のウェブ・フォーラムで解決法を根気よく探していた。彼は台湾で最初にFilmlogic6というソフトで編集することに成功したのだったが、その当時、彼を含めて多くの人はデジタル技術に対して淡い期待感をもっていたように思う。デジタル技術とインディペンデント映画の結びつきによって映画界全体に何らかの影響があるかもしれないと。結局、何も変わらなかったのだが、ともあれ私はポストプロダクションに関しては楽観的に考えて、撮影にすべてを費やすことにして映画制作を始めたのだった。結局、撮影は2年(2回)にわたって行われ、制作工程のひとつひとつの段階で足踏みを強いられることになるのだが。

新しいコラボレーション

 『寧静夏日』は個人と個人の結びつきに基づいた国境を超えたインディペンデント映画となった。日本の会社が企画したことを台湾の制作会社に依頼するという上下関係は当然なく、台湾の学生の同級生や後輩であった人物として私が人間関係を築いたため、対等な立場で意見交換しながら映画制作ができたのだった。そのため、今までに台湾で制作された日本映画と異なった内容になったと思う。日本社会に多くの外国人が生活しており、また歴史的に振り返ってもアジアでは異なる文化や人々の様々な結びつきがある。こうした中で、国境を超えて、お互いに深く関わりながら映画やドキュメンタリー制作ができればとても興味深い作品が生まれてくるのではないかと思う。将来的には日本の映画学校の周辺で、アジア諸国を中心として海外の人々とのこうしたコラボレーションが活発に行われるのではないかと思っています。

因宏文
郭亮吟
『尋找1946消失的日本飛機』(2002年、33分、ベータ、 DV、公共放送) 。2002年度金穂賞最優秀ドキュメンタリー作品賞受賞。台北国際映画祭出品。
北村豊晴
(2000年、40分、16ミリ)。2000年度台北国際映画祭最優秀実験映画賞受賞。サンダンス映画祭、香港映画祭出品。
のちにAppleに買収されて、Final Cut Proに統合された。