メロドラマとホラーの擦れ違い
デヴィッド・リンチ監督『イレイザーヘッド』小論

堀江亮二

序章

 本論はデヴィッド・リンチ監督の長編第一作『イレイザーヘッド』(1974)のテクスト分析である。ここでは一つの映画作品を二つの分析台にのせる。その二つとは映画の形成要素たる物語と映像/音声である。この両面から分析することによって一つの作品について十全な記述ができることが期待される。
 第一章では物語形態の観点から分析する。物語分析とはその映画のあらすじをつかみとることではなく、その一本の映画が映画史のなかでどのような物語ジャンルに属するかを見定めることである。すなわち『イレイザーヘッド』という一本の映画が他の無数の映画とどのような関係を取り結ぶかということが主眼となる。しばしば恐怖映画と称される『イレイザーヘッド』が、実のところ恐怖映画ではなく、メロドラマを相対化する新しい形態としてジャンル分けされるべきであることを明らかにしたい。
 第一章がひとつの作品とその外部の関係の分析であるとすれば、第二章では、徹底してその作品内部の諸関係に分析の目を向ける。
 第二章では、一本の映画を総体とするとき、その構成要素たるショットが分析の対象となる。『イレイザーヘッド』のショットには何が写っていて、何が写っていないのかを正確に見た上で、それぞれのショットが一本の映画の視覚設計上どのような働きをしているのかを分析したい。また、あるショットがあるショットと繋がれることによって、どのような意味が生成するのかというショット間の分析を通して『イレイザーヘッド』がいかに特異なショット繋ぎを用いているのかを明らかにしたい。
 以上のように、第一章では一つの映画と映画史の関係を、第二章ではショットとショットの関係、一つのショットの中の映像と音声の関係というように、分析の焦点をマクロからミクロへと移して行くことで、一つの作品についての十全な記述をめざすことが本論の目的である。
加えて結論では第一章、第二章の分析から『イレイザーヘッド』に関するひとつの分析結果を導き出したい。すなわち本論は『イレイザーヘッド』が古典的な映画文法を踏襲しながらも、それを革新し、映画における現実と非現実の境界を破棄しようとする映画であることを明らかにするものである。

第一章 感情移入不能の映画 『イレイザーヘッド』の物語形態

 本章では『イレイザーヘッド』の物語形態を分析する。『イレイザーヘッド』とはどのような映画ジャンルに属する物語を持っているのであろうか。まず、これまで『イレイザーヘッド』がどのような物語として観られてきたか、その先行研究批判から行いたい。
 ケネス・C・カレタは『イレイザーヘッド』は「通例のストーリーラインと呼ばれるものを持たず、無意識的な、しばしば恐ろしいイメージを羅列する。観客は主人公ヘンリーと共に次は何が現れるかと不安になり、そのイメージに恐怖を覚える(1)」という。カレタの指摘からは、『イレイザーヘッド』がホラー映画というジャンルに属する印象を与えるかもしれない。たしかに家族の血肉を養う夕食の卓上で血を噴出しながら足をばたつかせるローストチキンや、家族の成長の指標たる奇形の赤ん坊は、観客に恐怖を与えるだろう。しかしながら先のカレラの指摘が誤っているのは、観客と主人公がともに不安を持つという点である。『イレイザーヘッド』の主人公ヘンリーは恐怖を感じていない。
 そもそも「ホラー映画」とは何であるのか。映画学者ロビン・ウッドはホラー映画の基本的な図式を「正常さがモンスターによって脅かされている(2)」状態ととらえたが、ここで言われている正常さとは観客にとっての正常さであり、それはつまりは市民生活における正常さである。ここで映画とは、観客が登場人物に自己を投射する感情移入の装置であって、その映画が悲劇であれホラーであれ、観客が悲しみや恐怖を感じるためには、当の映画作品の中でそういった感情を持った登場人物を必要とする。登場人物が見、聴き、感じたことが観客に伝わるのであって、その逆ではない。ホラー映画においてはまず正常さを代理する登場人物として主人公が設定され、彼や彼女がモンスターの登場に驚き、恐怖し、逃げ惑うのだ。その登場人物の恐怖が、観客に伝わるというわけである。ウッドの言うこの図式がホラー映画には不可欠である。たとえば一本のホラー映画、『エイリアン』(リドリー・スコット監督、1979)を見てみれば、そこで表面的には正常さとは宇宙船の乗船員であり、非正常すなわちモンスターはもちろんエイリアンであり、その裏面では正常さとは捕食と生殖という己のライフサイクルを完遂させようとするエイリアンと被捕食者身分から逃れようと懸命に戦う人間たちの姿であり、一方、非正常とは、そうしたエイリアンと人間の捕食/被捕食の関係をそのまま宇宙船内にパッケージして地球に持って帰らせようとする宇宙船所有者、法人の資本主義システムである。
 しかるに『イレイザーヘッド』はホラー映画ではない。この映画の冒頭、一人の男が歩き続けるシーンが連続し、やがてアパートの部屋についたあたりで、その異様な映像と音の世界に放りこまれた観客は、カメラが絶えずとらえ続けているその男にとりあえずの感情移入するだろう。後にヘンリーという名前を持つことがわかるこの男は、この時まで目立った感情は何も表していない。観客が映画が始まってから感じているこの薄気味悪い世界に対する不安を、主人公も少なからず持っているに違いないと感じることは許されている。しかしヘンリーが恋人であるメアリーの家に招かれ、メアリーの家族と共に行われる夕食のシーンで、その感情移入は否定されるのである。ヘンリーの目の前に出されたローストチキンが突如血を噴出し、壊れた玩具のように足をがたがたするショットを見て、観客の誰もがある種の恐怖を感じるだろう。そのローストチキンはいわば『ポルターガイスト』(トビー・フーパー監督、1982)の主たる要素である。しかし、それを見ているはずのヘンリーの表情はまったく恐怖を表していない。ホラー映画の主人公なら悲鳴の一つや二つも上げて、逃げ出してしかるべきシーンである。観客は自分の感情と主人公の感情にずれを感じるのだ。先述のカレタが指摘したように、観客はヘンリーと共に恐怖したわけではないのである。先に感情移入が否定されると述べたのはこのことである。観客は自分が一瞬感じた恐怖はこの映画では認められていないことを知る。なぜならその感情は主人公が感じていない以上、感情移入の手続きとして間違っていることになるからだ。以後、この映画を見続けるためには(主人公ヘンリーに感情移入し直すためには)、「ポルターガイスト」としてのローストチキンに対する恐怖は解消されなければならないのである。そこでは観客は「生理的感覚の異化(3)」が要求されているのだ。観客には非日常的に感じられたローストチキンが、この作品世界では、もはや日常的なものであると認識せねばならない。恐怖という感情の認められない映画は、もはやホラー映画ではない。それでもなお生理的感覚を異化することができず、映画外の現実の価値基準に拘泥し、ローストチキンや赤ん坊に恐怖と嫌悪しか感じられない観客のみが『イレイザーヘッド』を誤って恐怖映画と呼ぶことになるのだ。  
 以上のように『イレイザーヘッド』はこの映画をホラー映画として感情移入することを否定する。つまり『イレイザーヘッド』はホラー映画ではないのである。
 ホラー映画でないとすれば、『イレイザーヘッド』は他のいかなる物語ジャンルに属するであろうか。感情移入が認められない映画は普通アンチメロドラマと呼ばれるが(それに対して感情移入を促す映画はすべてメロドラマといえよう)、『イレイザーヘッド』はあらゆる感情移入を否定するわけではない。主人公ヘンリーはホラー映画としての感情は持たないが、その他の感情を表さないわけではないのである。彼は妻と言い争いをするときには正常に声を荒げて怒りをあらわにするし、子供のことで妻の母親に激しく詰問される時には正常に困惑した表情をしている。こういったファミリー・メロドラマ的なシーンでは観客は正常に感情移入することができる(この場合の正常とは観客の現実世界の判断尺度における正常、非正常という意味での正常である)。
 今一度定義しなおせば、映画においてメロドラマとは「物語展開のために二元的葛藤(愛と死、正義と悪、光と闇、個人と社会など)を要請するあらゆるジャンルを横断する一つの支配的物語形態、統一的想像力の型(4)」であり、さらに下位ジャンル、ファミリー・メロドラマとは「世代交代の物語(5)」である。なるほど、『イレイザーヘッド』は一人の青年(ヘンリー)が期せずして父親になり、若き母親(メアリー)と共に育児に悪戦苦闘する物語と読める。それは「子供であること」と「親になること」との二元的なモラルの葛藤が描かれる世代交代の物語=ファミリー・メロドラマである。ヘンリーは、じくじくと腐されてゆく赤ん坊の病気の手当てをして立派な「父親」たろうとする一方で、隣人との情事のために赤ん坊の存在を隠そうとする(つまり「父親」であることを隠そうとする)駄目な「子供」でもある。一方その赤ん坊の「母親」たるメアリーは「母親」を演じなければならないヘンリーの家と「子供」を演じなければならない実家とを、文字通り往復する存在でしかない。また夜泣きする赤ん坊の側で交わされる会話(6)を聞けば、『イレイザーヘッド』がいかに伝統的なファミリー・メロドラマのプロットを踏襲しているかがわかるだろう。それはファミリー・メロドラマ『理由なき反抗』(ニコラス・レイ監督、1955)の中で、ジェームス・ディーン演じる息子に対して交わされる両親のふがいない会話といささかも変わらない。それでは『イレイザーヘッド』とはハリウッドの伝統的な系譜に連なる正当なるファミリー・メロドラマであるといえるだろうか。『イレイザーヘッド』は伝統的なファミリー・メロドラマの形態を継承するだけでなく革新する。『理由なき反抗』などの伝統的なファミリー・メロドラマのプロットを踏襲する一方で、定義上ファミリー・メロドラマを起動させる当の赤ん坊が常識を逸しているのだ。それはもはや奇形を通り越してSF映画やホラー映画に登場する地球外生命体の容貌をしている(7)。『理由なき反抗』でいえば、あのジェームス・ディーンが『エイリアン』のモンスターの容貌をしているようなものである。その赤ん坊はどう見ても、伝統的なファミリー・メロドラマの文脈には収まりつかない存在なのである。先の感情移入の流れでいえば、観客はローストチキンに対する恐怖という感情を否定することに成功しながらも、ファミリー・メロドラマを演じるヘンリーに素直に感情移入することができないのである。なぜなら、その赤ん坊が常識を逸した状態であると感じるのは我々観客のみであるからである。赤ん坊はその怪物的な容貌とは裏腹に、きわめて赤ん坊らしく振舞うし(弱々しく夜鳴きし、熱を出し、両親を困らせる)、両親もまた極めて普通の赤ん坊として扱う(病気の看病をし、傍で様子を見守る)。超現実は現実として、ファミリー・メロドラマの中に無理やりに押し込められているのだ。それはホラーあるいはSFとファミリー・メロドラマの融合というものではない。ファミリー・メロドラマに投入されたそのホラーなりSFなりの超現実的な存在は非現実性を否定されているのであるから。観客は、奇形の赤ん坊が現れる度に、それに対する恐怖心や驚きを否定しつつ、主人公ヘンリーに感情移入するという極めてあやうい立場に置かれる。言い換えれば、ヘンリーに感情移入しつつも、ヘンリーが持っていない感情を持ってしまう。ここに感情移入のずれが生じることになる。このずれを端的に表すのが赤ん坊が病気になるシーンである。ヘンリーが赤ん坊に食事を与えているときに赤ん坊がその顔に得体の知れない湿疹を露にする。そこでヘンリーは非常に驚き、「お前病気なのか」と言う。ここでも湿疹を伴ったその表情の異様さとは裏腹に、物語のなかでは赤ん坊のホラー性は否定されている。我々観客にとってはその赤ん坊は、湿疹があろうがなかろうが、病気である前に奇形であり、人間を超えた存在である。だがヘンリーは赤ん坊が奇形であることに無自覚であり、ただ病気になったという事実のみに自覚的である。このように登場人物たちは超現実的存在を否定し、それを現実として看過し、懸命にファミリー・メロドラマを、時に怒鳴りながら、時に途方にくれながら熱心に演じる。そこで、登場人物たちと映画内の現実に対する感覚のずれている(つまりその映画の非現実性に自覚的な)観客は、『イレイザーヘッド』で演じられているファミリー・メロドラマを相対化する。ここで、『イレイザーヘッド』のファミリー・メロドラマ性に限って論じることが許されるならば、それは今まで述べてきたようにハリウッドの伝統的なファミリー・メロドラマそのものである。したがって観客は、映画史上に無数に存在するファミリー・メロドラマをジャンルごと異化する。もはや、そこで描かれているファミリー・メロドラマの「現実」なるものはいささかも信頼するにたる安定した「現実」ではない。それは伝統的なファミリー・メロドラマをパロディとして笑い飛ばすことを可能にする。この感情移入の歪みこそが『イレイザーヘッド』の核心である。事実我々は超現実的な赤ん坊を現実的な方法で看病するヘンリーの姿に、つい笑ってしまう。これは、ヘンリーへの感情移入がずれを生じている証拠である。しかしここで生まれる笑いはいささか皮肉めいている。なぜなら我々観客はみなそれぞれ家族というもののなかに生まれ、またやがて新たなる家族を形成することになっている。つまり、映画館を出れば、今度は我々が熱心にファミリー・メロドラマを演じていることになっているのである。『イレイザーヘッド』は、実際我々が生活するこの、家族という一つの物語形式に潜む欺瞞を鮮やかに客体化させるのである。
 だが、『イレイザーヘッド』は単なるファミリー・メロドラマのパロディにとどまらない。ラストシーンにおいて『イレイザーヘッド』はその物語構造を大転換させる。ファミリー・メロドラマにおける役割を律儀に守っていたこの赤ん坊と父親ヘンリーとの関係が全く新しいものに変わるのである。ラストシーンで、ヘンリーはまるでパンドラの箱を開けるかのように赤ん坊の身体にメスを入れる。熱を出し、加湿器の蒸気をあてがわれていた姿からすれば、体中を切り刻まれた赤ん坊は、そこに死体をさらけ出すのが妥当と思われるが、実際は胴体を消滅させ、頭だけの存在になり宙を飛び回る。赤ん坊はそれまでファミリー・メロドラマの名の下に否定されていた超現実性を爆発させる。もはやファミリー・メロドラマを演じていた赤ん坊の存在はそこにはない。ヘンリーはヘンリーで今まで赤ん坊の姿には全く驚かなかったのが嘘のように赤ん坊の姿に目を丸くしている。やがて、赤ん坊は何の前触れもなく完全に消滅する。そこに残されたヘンリーとのメロドラマ的構造(それはこの映画の物語構造である)そのものを消滅させるのである。

 以上のように『イレイザーヘッド』は、伝統的なファミリー・メロドラマのなかに、非現実的存在を、その非現実性を否定した形で導入することによって、観客の感情移入を歪曲し、ファミリー・メロドラマを相対化するという物語構造をもっている。またそれはメロドラマというジャンルそのものを相対化させる作用を持つという意味においてネオ・メロドラマとも呼ぶべき、新しい映画ジャンルに分類することができるだろう。
 監督デヴィッド・リンチに関して言えば、彼はこの『イレイザーヘッド』の後、『ブルー・ベルベット』(1986)、『ワイルド・アット・ハート』(1990)、『ロスト・ハイウェイ』(1997)、などの傑作群においても、日常と非日常の奇妙な融合を果たしたメロドラマ作品を作り続けてゆくのであるから、処女作の段階においてネオ・メロドラマティストとしてのスタンスを確立した作家であるといえるだろう。

第二章 ラジエーターの悪夢 『イレイザーヘッド』のショット分析

 一本の映画のジャンルの戦略と物語形式が理解されたところで、次は更なる細部へ向かおう。すなわち映画の最小構成単位であるショットの分析である。ショットの分析はさらに二つの分析に分けることができる。一つは個々のショットがどのようなものか、そこに実際何が写っているのかを分析することであり、もう一つはショットとショットの間にいかなる意味が生成するかを分析することである。
 まずはショットに何が写っているかを見ていこう。『イレイザーヘッド』のオープニング・ショットでは無数の星の中に浮かぶひとつの惑星とそこに二重写しされる一人の男から構成されている。ここで、ミシェル・シオンが指摘するように「この作品は精神世界を描くものであることがわかる(8)」と読み取る前に、中央にとらえられた惑星が円形であることがわれわれの注意をひくであろう。
 映画作家とは「長方形と円との葛藤を煽りたてる造形的組織者に他ならない(9)」のである。監督デヴィッド・リンチはそのことにこの長編第一作『イレイザーヘッド』から極めて自覚的である。すなわち『イレイザーヘッド』の主題は円という名の穴であり、それが四角を凌駕するのだ。これは文字通り、見た目どおりの意味である。傑作『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1960)や傑作『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982)がそうであるように傑作『イレイザーヘッド』もまた無数の円=穴を組織的に配置する。
 まず先ほどのオープニング・ショットでは円形の惑星がズームアップされることにより拡大していき長方形のスクリーンを飲み込む。ここで「飲み込む」あるいは「飲み込み」とは以後すべて、このように円形の被写体がズームアップされて長方形のスクリーンいっぱいに映され、もはやその被写体が円形であることがわからなくなる手法を指すことにする。観客自身が飲み込まれるようなショットである。次に四角い屋根にあいた黒い穴のショットでもその穴が拡大し画面を飲み込む。闇の中に光の穴があるショットが画面を飲み込むと、ようやく主人公ヘンリーが歩行を許される世界が現れる。丸い穴が四角いスクリーンを飲み込むごとに新しい世界が生まれ、ようやく現出したこの世界は、果たせるかな直線と四角形の世界である。観客がこの世界に不安を覚えるとすればそれは工場から流れる機械音のような不気味な音楽や、表現主義的な照明が原因というよりも、人間よりも大きな四角がヘンリーを飲み込もうとしているように見えるからである。しかしヘンリーはこの映画において円い穴から生まれた存在である以上、やがて円い穴に飲み込まれてその生涯を終えるのが(すなわち映画が終わるのが)主題論上正当であるはずだ。よってヘンリーは四角に飲み込まれることはないのである。実際、『イレイザーヘッド』において四角い被写体がズームアップされることはない。その四角は決して拡大することなく(つまりヘンリーを飲み込むことなく)そこに存在し続ける。また、丸いモチーフはズームアップされるという意味で動的であるのに対して、四角は極めて静的である。四角と直線の世界とは人工的な作業の所産であるから、これは我々の馴染み深い現実の都市社会そのものでもある。ヘンリーが四角い世界に迷い込み、円に再会するのは、彼が四角いアパートの四角いエレベーターに乗り終えた後だ。彼は自分の部屋に着き、真円のレコードをかける。ここでヘンリーはつかの間の円と曲線の世界を取り戻す。ここでヘンリーの心を潤すメロディとは五線譜上の音符が作る曲線に他ならない。この意味で、野外の四角い世界で聞こえたあの機械音のような音は極めて直線的である。再びヘンリーが暗黒の円に飲み込まれるのは、映画の上映時間のちょうど中盤に当たるショットである。ヘンリーが箪笥に保管していた虫の幼虫のようなものが、突如自らの身体を穴に変えスクリーンを飲み込むのである。このカットは説話論上の中間点である。すなわちその分岐点以前に登場していたヘンリーの妻とその両親が以後何の脈絡もなく登場しなくなるのである。ヘンリーの妻メアリーはヘンリーとともにあの球形の赤ん坊を生み出した本人であるのだが、彼女は円の世界に飲み込まれることはなかった。彼女は絶えず四角と直線の世界に閉じ込められていたのである。それは見た目どおりの意味である。つまり始めてこの映画に登場するショットにおいて彼女はフレームの中の窓というもうひとつの四角によって枠取られ、文字通り(映像通り)そこにとじこめられている。またヘンリーとメアリーの母親が言い争っているショットでも彼女は直線的な造形の配管によって、画面構成上、独り閉じ込められている(四角の住人メアリーの父親の職業は配管工である)。さらに彼女がヘンリーと喧嘩し、ヘンリーの家から実家に帰ろうとするときには、ヘンリーのベッドのパイプがさながら牢獄の鉄格子のようにメアリーを閉じ込めている。こうしてメアリーは円の飲み込みによって生まれる新しい世界に登場することはできないのである。
 冒頭、ヘンリーが四角と直線の世界にやってきたのは、闇の中の光の穴が画面を飲み込んだ後であった。しからばヘンリーがこの四角と直線の世界から抜け出るのは同じ光の穴に飲み込まれることによってであろうか。ヘンリーが産着というよりも包帯に包まれた赤ん坊の身体にメスを入れるラストシーンにおいては、いよいよ円のショットが連続する。まず体から切り離された赤ん坊の頭がクロース・アップされ、次に電気スタンドの傘を真上から撮ったショットが続く。このショットはヘンリーが初めて現れた冒頭の光の穴と相似形をなす。事実、この電気スタンドのショットの後に冒頭と同じ惑星のショットが続く。本論の一章では、メロドラマを物語構造の内側から破壊することになった赤ん坊の変身が、ここではまるで、円という視覚上の主題の統一のために行われているようでさえある。
 以上のように『イレイザーヘッド』は円をその視覚設計の主題とし、円と四角を対比的に配置している。また、円をズームアップさせる「飲み込み」によってより一層その視覚設計が強調されることになっている。
 「飲み込み」について今一度まとめると、オープニングシーンでは三回の「飲み込み」があり、惑星の「飲み込み」→屋根の穴の「飲み込み」→光の穴の「飲み込み」というように「飲み込み」が行われるたびに映画の世界が一変し、最後に四角と直線の世界へと到る。四角と直線の世界においては「飲み込み」は中盤の幼虫による「飲み込み」の一度だけであり、ここでもやはりその「飲み込み」により、登場人物(メアリー等)が姿を消すという場面転換が起こっている。そしてラストシーンにおいては、赤ん坊の頭→電気スタンドの傘→惑星と円のモチーフが連続し、最後、惑星の穴の「飲み込み」によって四角と直線の世界が終焉をむかえる。オープニングシーンとラストシーンに相似したモチーフと手法を使うことでこの作品の構造自体も始まりと終わりが重なり合うという円環構造をとっている。また特に「飲み込み」という手法は『イレイザーヘッド』の場面転換の重要な指標となっていることがわかるであろう。これはデヴィッド・リンチを特徴づける手法であり、彼のその後の作品『ブルー・ベルベット』(1986)でも再び繰り返される。すなわち、カイル・マクラクラン演じる青年が、空き地で人間の耳を見つける冒頭のシーンである。そこには耳の穴がズームアップし、その青年の視線を飲み込むショットがある。ここでもそのショットは、光まばゆい日中の日常的な世界から悪夢のような夜の世界へと向かう、極めて重要な契機となっている。
 このような表現に関してジジェクが同じような問題意識をもって述べている。ジジェクは言う、「リンチの『存在論』はすべて、安全な距離をおいて観察される現実と、極限まで接近される〈現実界〉との間の、不調和にもとづいている。リンチの基本的な手法は、固定したショットで現実をとらえた後、気分が悪くなるほどカメラを対象に接近させて、嫌悪をもよおす快楽の実体、てかてか光る不滅の生命体が地面をはいまわる姿を間近に見せるものである(10)」と。この指摘は「飲み込み」の特質を的確に表しているようにみえる。実際、リンチほど対象を極めて接近した距離で捉える作家もいまい。だが、この指摘はリンチに関する限り不完全なものである。リンチは安定したショット(対象の大きさが十分スクリーンに収まっている状態)と超近接ショット(対象の全体がスクリーンに収まりきらず、その全貌が把握できない状態)における対象の表情の差異に異様に執着するが、その差異を表現する方法を二つもっている。一つはズームアップを用いる方法で、「飲み込み」はこれにあたり、その差異を一ショットで表現する。もう一方はショットを割る方法であり、安定したショットに続けて近接したショットがつながる。『イレイザーヘッド』においてはその両方が使われている。ズームアップの方は「飲み込み」において既に見てきたとおりであるが、一方のショットを割った超近接ショットは、ヘンリーがラジエーターを見るシーンにおいて使用されている。ラジエーター全体が写されているショットはヘンリーが靴下を乾かすことからわかるように箪笥や電気スタンドと同じ家具の一部にしか見えないが、超近接ショットではラジエーターと同定できないほどのクロース・アップでありジジェクの言うようにそのリアリティは全く異なるもののようにみえる。
 だが、このショットを割った超近接ショットは「飲み込み」のような大きな場面転換をもたらさない。具体的に、物語中盤の幼虫の「飲み込み」のズームショットとヘンリーがベッドからラジエーターの中に歌う女を見るショットとで比較してみよう。どちらのショットもヘンリーの視線のショットであるとわかるが、「飲み込み」は視線の対象である幼虫の穴が拡大していくことによってヘンリーの身体自体がその対象に向かって接近しているかのように見える。それはまるで何かの乗り物に乗ってその穴の中に入って行くかのようである。つまり「飲み込み」はヘンリーに見せかけ上の運動を生み出すのである。そしてその見せかけ上の運動によってヘンリーは「飲み込み」の前の世界から後の世界へと移動することができるのである。これに対してショットを割った超近接ショットにおいては、ヘンリーは同一の世界に止まったままのようである。ラジエーターの見かけのサイズの変化はあくまでもヘンリーの焦点の変化にすぎないのである。事実、「飲み込み」においてはその視線の先にヘンリーがいるのであるが(ヘンリーは場面の移動を果たしている)、ラジエーターの中にはヘンリーはいない(ヘンリーはいまだベッドにいる)。
 今、「飲み込み」によってしか場面を越える方法はないということを示したのであるからここで、その規則違反を犯しているかのように見える、ラジエーターの中にヘンリーが登場するシーンを説明すべきであろうか。そのためには議論を、個々のショットの分析から、ショット間の関係の分析に移さねばならない。

 『イレイザーヘッド』において、四角と直線の世界に辿りついた直後、ヘンリーがサイレント映画の喜劇役者さながら、水溜りに足をはめてしまうショットがある。その後ヘンリーは部屋に帰り濡れた靴下をラジエーターで乾かそうとする。何気ない、直線的な時間軸に沿ったショットつなぎにみえる。しかし賢明なる観客は見逃さないであろう。すなわち、水溜りにつけた足は右足で、乾かしている足は左足である。これは論ずるに値しない細部であろうか。滝本誠の言うように(11)ただのつなぎ間違いであろうか。ここで映画史の記憶を辿れば『キッスで殺せ』(ロバート・アルドリッチ監督1955)のオープニングシーンにおいて、ハイウェイを素足で走る女のショットは路肩よりに、足元のクロース・アップはセンターラインよりに撮られた。この一見つなぎ間違い(撮り間違い)に見えるショット間の異様な連続カットバックが、異様なフィルム・ノワールの全体を予見させたのではなかったか。そしてその異様さこそが、リンチに『キッスで殺せ』から40年の時を経て『ロスト・ハイウェイ』(1997)という歪んだフィルム・ノワールを撮らせたのではなかったか。「細部はそれ自身のうちに、細部を細部たらしめる『見ること』の全体的制度と習慣を具現している。(12)」とすれば、このつなぎ間違いは『イレイザーヘッド』のいかなる全体性を表象するであろうか。
 リンチの他作品と同じように『イレイザーヘッド』が悪夢のような映画と称されることがしばしばであるのは、あながち間違いではない。いかにも夢のようなシーンが数多く登場する。ここで夢のショットと現実のショットを繋げること程、その作品、その作家のスタイルを同定させる問題もない。先ほどの靴下のつなぎ間違いが重要な意味を持ってくるのはこのような文脈においてである。はたして、右足を水溜りにつけたショットと、左足の靴下を乾かしているショットは同じ次元に存在するショットなのだろうか。どちらかが夢でどちらかが現実という可能性はないのであろうか。その可能性もあるし、恐ろしいことに、『イレイザーヘッド』の場合全てが夢であるという可能性さえも残っている。
 夢を映画で描く場合用いられる手法は、つごう二つある。ひとつは現実のショットと夢のショットの光学的情報を変える方法である。現実のショットをカラーで、夢のショットをモノクロで撮るというような情報の差異によって区別されるもの。もうひとつはそのショットごとの物語的な情報によるもの。一般的には(ハリウッドの古典的映画文法では)、ショットA(眠っている)⇒ショットB(夢の内容)⇒ショットA´(眼をさます)という手法がとられる。『ターミネ―ター2』で恐ろしい未来の夢を見たサラ・コナーが恐怖で飛び起きるシーンなどはその典型である。『イレイザーヘッド』の場合は上記の二つとも異なる。具体的に、ヘンリーが部屋の片隅にとりつけられラジエーターの中に女を見つけるシーンのショットを、どのショットが夢でどのショットが現実かを分析してみると、

 ショットA(ベッドでヘンリーが一人でラジエーターを覗く)
           ↓
 ショットB(ラジエーターのなかで歌う女)
           ↓
 ショットC(ベッドでヘンリーが眠っている)
          ↓
 ショットD(ベッドでヘンリーとメアリーがともに眠っている)

となっている。ここで問題になるのはショットDである。仮にショットA、B、C、だけであったならば、ショットAが眠る前のヘンリーを、ショットBがヘンリーの見ている夢の内容を、ショットCが夢を見ているヘンリーを意味していると誰もが判断することであろう。実際、このシーンを初めて見た観客はショットCまでを見た時点では、ショットBが夢であったと思うだろう。それがハリウッドの古典的映画文法を身につけている者の正当な反応である。しかしショットCで一人で眠っていたかに見えたヘンリーは、ショットDの存在によって実際はメアリーと一緒に寝ていたことがわかる。ショットAではメアリーは確かにいなかったのであるから、ショットAとショットC,Dは異なる時系列に存在するはずである。そうするとショットBが、夢であったとするにしても、ショットAのヘンリーがこれから見る夢なのか、それともショットCのヘンリーが今見ている夢なのかを判断することはできないのである。そうなればショットBは、もはや夢ではなかったのだという判断も可能であり、単にショットAのヘンリーがショットBの女を見ていた後に、いつかはわからないが眠っているショットC,Dが続いているだけであると判断することもできる。しかしここで挙げたどの解釈も、その確証となるショット間のつながりが無いわけであるから、もはやどれが現実で、どれが夢であるかは判断できないのである。これが人をして悪夢のような映画と言わしめる『イレイザーヘッド』の性質を説明する映画的な手続きである。
 リンチの巧妙さは、この場合のように、全くのでたらめさによってそのショットのつながりが理解できないのではなく、むしろ映画の観客にハリウッドの古典文法を利用させておきながら、その文法が通用しないショットつなぎをおこなっている点であろう。
では、先ほど個々のショットの分析において問題としていた、幼虫の「飲み込み」とラジエーターの超近接ショットにも、ショット間のつながりという観点から分析を加えていこう。まず幼虫の「飲み込み」のシーンにおいては
  
 ショットA(ヘンリーの視線ショット)
        ↓
 ショットB(幼虫のクロース・アップの後、「飲み込み」)
        ↓
 ショットC(部屋の外からヘンリーの後頭部をとらえたショット) 

となっている。ここでショットAでのヘンリーの視線を辿って行くとショットBの幼虫に飲み込まれ、その先にショットCのヘンリーを見つけてしまう。ショットBもショットCもズームアップされているから同じ視線の運動が継続しているかのようであるが、その視線の主体であるヘンリーがその視線の対象になってしまうのである。このような見るものが見られるものになるという視線の奇妙なずれに加えて、そのシーンの状況として、ショットAでは存在していたメアリーが、ショットC以後にはもはや存在しないという物語上の変異も生じている。よってショットAとショットCのヘンリーがいる場面は、互いに異なる時系列であるといえることから、「飲み込み」は先の分析どおり、その視線の主体を異なる世界へ移動させる機能を持っていると理解できるだろう。

 ついでラジエーターの中にヘンリー出てくるシーンを分析してみよう。果たしてラジエーターの中を見ていたヘンリーが「飲み込み」なしにラジエーターの中に入ったのであろうか。『イレイザーヘッド』の中には計三回ラジエーターの中が登場する。
 ラジエーターのシーンのショットは最初の二回はヘンリーがラジエーターを見ているショットの後にラジエーターの外観ショット、ついでラジエーターの内部(舞台)のショットが続いていたが、三回目にヘンリーがラジエーターの中に登場するショットには先行するヘンリーの見ているショットが存在しない。そもそもラジエーターの外観のショットが存在しない。突如ラジエーターの中の歌う女が登場するのである。そして、さかのぼって最後にこのラジエーターの中に視線を投げかけた主体の候補はヘンリーの隣人の女だけである。よって三回目のラジエーターの中のショットはヘンリーが見たという確証は得られないのである。最初の二回は実際にヘンリーが見ていて、三回目のみヘンリーの夢かもしれないし、三回目は隣人の女が見たのかもしれないのである。よってヘンリーはラジエーターの外から中に移動したとはいえないのである。
 以上のように『イレイザーヘッド』には、つなぎ間違いや、視線の食い違い、夢の始点、終点の不在などにより、古典的映画文法では理解され得ないショットつなぎが存在する。
しかし、人と人との会話は伝統的な映画文法であるカットバックで撮られている。そこは安定した同時系列であるように見える。上記のようなつなぎ目が不明瞭なショットつなぎを構成するショットには必ず非現実的なモチーフが登場しているのだ(奇形の赤子、奇妙な幼虫、ラジエーターの中の女など)。では現実的なモチーフ同士のショット同士は安定した現実空間であり、非現実的存在を含むショットつなぎのみが現実と非現実の境界を失っているのであろうか。むしろ、つなぎ間違いや、視線の食い違い、夢の始点、終点の不在により、すべてのショット間のつなぎに対して、安易な意味の決定を否定しているのである。

結論

 本論は、第一章では物語分析の観点から、『イレイザーヘッド』が、ファミリー・メロドラマの現実を相対化する新しい映画ジャンルに属するネオ・メロドラマであることを明らかにした。第二章においては『イレイザーヘッド』が円という主題にもとづいてショットが配置され、また現実と超現実をつなぐショットつなぎに古典的な映画文法を革新する特異性を見た。以上から一般化して、『イレイザーヘッド』は現実と超現実との間に境界線としてはたらく、映画の物語的、映像的、音声的な約束事を革新し、現実と超現実の境界を消滅せしめた映画であるといえよう。

(1)Kenneth C. Kaleta ,David Lynch (Twayne Publishers,1993), p.27.
(2)ロビン・ウッド、藤原敏史訳「アメリカのホラー映画 序説」(斉藤綾子他編『新映画理論集成』フィルムアート社1998年)、54頁。
(3)三宅晶子「違和する<生命体>」(小川功他編『銀星倶楽部15 デヴィッド・リンチ特集』ペヨトル工房1991年)、86頁。
(4)加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』(勁草書房、1990年)、50−51頁。
(5)加藤幹郎『夢の分け前』(ジャストシステム、1995年)、130頁。
(6)「眠れないので実家に帰ります」「バカ言うな」「一晩ぐらいあなたが面倒を見て下さい」というもの。
(7)武満徹『夢の引用』(岩波書店、1984年)、96頁の指摘する通りその奇形はリンチが多大な影響を受たといわれるフランシス・ベーコンの絵画に似ているが、むしろ『ET』に似ていると思うのは私だけであろうか。両者とも病気になり口に体温計を突っ込まれる。
(8)Michel Chion , Robart Fischer , David Lynch (British Film Institute,1992), p30.
(9)蓮實重彦『映画の神話学』(泰流社、1979年)、188頁。
(10)スラヴォイ・ジジェク、松浦俊輔他訳『快楽の転移』(青土社、1996年)、186頁。
(11)滝本誠『きれいな猟奇』(平凡社、2001年)、121頁。
(12)加藤幹郎『映画の領分』(フィルムアート社、2002年)、102頁。

本稿は2003年度に京都大学総合人間学部に提出された卒業論文の改訂版である。