映像テクストからみるカートゥーン・アニメーションの誕生
ーー映像装置における「再現」から「創造」へのメディア・シフト

今井隆介

0.はじめに

 日本製アニメーションは1960年代から絶えず海外へ輸出されてきたが、対外的な評価や受容の有様が日本国内で盛んに報道され始めたのは『AKIRA』(大友克洋、1988年)が欧米で青年層の人気を博して以来のことであり1、いわゆる「アニメ」が「世界に誇る日本の文化」として称揚されだしたのは、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(押井守、1995年)がアメリカのBillboard(1996年8月24日号)誌上でビデオ部門の週間売り上げ第一位に躍り出た前後であろう。日本でアニメーションがマンガやテレビゲームとともに将来有望な競争力ある商品として認知されたのはここ十年のことであり、近年ようやく行政支援のための法整備も実施されているが2、これらは自発的なものというよりむしろ、「アニメ」を日本文化研究の俎上に載せた著作3の出版や2002年度ベルリン国際映画祭における『千と千尋の神隠し』(宮崎駿、2001年)の最優秀賞受賞に象徴されるように、海外での受容/需要の変化に触発されてこれに追従した結果であるといえる。
 フランスの研究者イラン・グェンが指摘しているように4、国内外あるいは官民間における認識のギャップには著しいものがあり、行政主導のアニメーション熱は期待感だけが先行して空転する様相を呈し始めているが、たとえ副産物的であるにせよ、日本において長らく行われてこなかった学術的なアニメーション研究は今や着実に本格化しつつある。しかし日本では作家や作品に対する主題論的あるいは社会反映論的研究が依然として多く5、また「バブル」に便乗したかたちで近年様々なビジネス書が出版されているが6、いずれにしてもアニメーションそのものに対する根本的な問題は棚上げされており、アニメーションの歴史を詳述した書物も現状では数点を数えるのみである7。本稿の目的は、こうした欠落を補うべく表現媒体としてマンガとも実写映画とも異なるアニメーションの特性を明らかにするとともに、そのような性質をもったアニメーションがいかなる過程を経て今日ある体裁を整えていったのかを、現存する映像テクストから追跡しようとするものである。

1.アニメーションとは何か

1−1 アニメーションと実写映画
 本稿ではすでにアニメーションという言葉を繰り返し用いたが、これらはいうまでもなく最も支配的な形態として認知されているカートゥーン・アニメーション(以下カートゥーンと略称)のことである。日本では平面的な絵に運動を付加する形式のものを「セル(ロイド)・アニメ(ーション)」と呼び慣わしてきたが、セルロイドに彩色してフィルムに撮影する工程は今日ほとんどコンピューター上で処理されるようになり、制作現場からセルロイドは姿を消しつつある。アメリカの初期作品を分析する点も考慮すると、本稿ではより該当範囲の広い「カートゥーン」という呼称を使用するのが妥当であろう。
 カートゥーンはその名の通りマンガと親密な関係にあり、なかでも「アニメ」は同様に海外で評価の高い日本製のマンガと一括して扱われがちであるが8、出版物として受容の進行が全く読者に委ねられているマンガに対してカートゥーンは受容速度があらかじめ制作者側に規定されており、この点でマンガよりもはるかに実写映画に近いといえる9。カートゥーンとマンガの親和性を否定するわけではないが、マンガとの関連性に偏りがちな傾向を是正する意味でもカートゥーンに対する研究は実写映画についてのそれを大いに参照すべきであり、本稿のようにアニメーションそのものの特性を考える場合には、実写映画と対比させて論を進めるのが最も効率的であるに違いない。
 実写映画とアニメーションの違いについて、日本におけるアニメーション研究の草分けである今村太平は「活動写真は運動の再現ではあっても創造ではない。(中略)その動きは、現実の複製である。ところが動く絵は、動く写真と違い、無からの創造である」10とし、大著The History of Animation: Enchanted Drawings(Outlet, 1994)をものしたチャールズ・ソロモンも、「イメージはひとコマずつ記録されたものだが、運動の錯覚は記録されたものというよりむしろ、創造されたものである」11とアニメーションを定義する。実写映画とアニメーションは、断続的な視覚的継起にすぎないものに対して見た目の運動印象をもつ仮現運動12の原理を共有し、持続的な運動を提示する点においてともに写真や絵画、あるいはマンガと一線を画するが、小出正志が「映画は運動する具体的対象の視覚的性質の再現・映写であり、アニメーションは運動する視覚的性質の形成・映写である」13と簡潔かつ積極的に対比させているように、動く映像として両者が実際に提示する運動は全く対称的なものと考えられるのである。
 実写映画が運動の視覚的再現であり、アニメーションは創造であるという単純化には多分に補足する必要があるだろう。ロラン・バルトによると、写真とは《それは=かつて=あった》という感覚、すなわち「事物がかつてそこにあったということを決して否定できない」14感覚をもたらすものであるとされる。実写映画を等時間隔に撮影された連続写真の集合体とみなしてバルトの主張を演繹すれば、実写映画が提示するのは被写体もしくは撮影したカメラ自体の運動が〈かつてあった〉という感覚に他なるまい。一方、被写体に変化をつけながら一コマずつ撮影していくアニメーションの場合、写真像の集積である限りにおいて実写映画と同じく被写体とカメラが〈かつてあった〉という感覚をもたらすが、しかし被写体はそれが何であれ撮影された時点では一切運動しておらず、撮影したカメラもまたしかりである。したがって、アニメーションが提示する運動は被写体のものであれカメラのものであれ〈かつてあった〉運動ではなく、〈かつてなかった〉創造された運動だということになるだろう。つまり、実写映画は〈かつてあった〉運動を二次元平面に視覚的に再現するものであり、一方アニメーションは同様にして、しかし全く対称的に〈かつてなかった〉運動を創造するものと対置させることができるのである。

1−2 アニメーションと写真技術
 前節の結論を実効力あるものとするためには、アニメーションと写真技術の関わりについてさらに補足しておかねばなるまい。前節では実写映画とアニメーションの対称性を際だたせるために、実写映画と同じ写真技術に立脚したいわゆる「コマ撮り」アニメーションをとりあげたが、レン・ライやノーラン・マクラレンの実践が示す通り、アニメーションは必ずしも撮影カメラを必要としない15。コンピュータ上で演算的に作成されるCGI(Computer Generated Image)は、前映画的な光学装置16同様カメラはおろかフィルムも必要としないが、〈かつてなかった〉運動を視覚的に創造する点で間違いなくアニメーションである。一方、浅沼圭司が「カメラは、どのようにしても、現にレンズの前に存在するもの、生起しているものしか捉えることができない。すでにないもの、未だないものをカメラが捉えることはまったく不可能である。」17と述べているように、実写映画はカメラと被写体の実在および同時性を絶対条件としており、写真技術とは無関係に成立でき、それゆえその限界から自由なアニメーションとはこの点でも対称的といえるのである。
 以上のように実写映画とアニメーションの対称性に着目して整理してみると、写真技術の干渉が事態を混乱させ、本来は単純な問題を複雑にしていることがわかる。そして、その原因は「写真における絶対的に過去的な性格」18にあると考えられるのである。ただし、映像の時間性について論じる前にまず確認しておかねばならないのは、体験者の目前で生起しつつあるものとして知覚される以外にないという意味で、映像には現在という時制しかありえないということである19。しかし映像が提示する運動に対して時間性の概念軸を導入し、像として指向する時間領域を区別することは十分可能であろう。
 体験者の現前で実演される幻灯や影絵は、映像を生成する実在の対象=原像の運動と提示される映像=模像のそれとが逐一対応しており、かつ同じ時間に居合わせる同時性に規定されている点で、テレビの生中継と同じく像としての指向領域を「現在」にもつといえる。実写映画では原像と模像の運動が一対一の対応関係を保ちつつ、しかし同時性には拘束されておらず、〈かつてあった〉撮影時においてのみ同時性が成立している。持続的な運動が付帯しているにせよこれはまさに写真の時間性であり、バルトの主張を繰り返すまでもなく、実写映画は像としての指向領域を「過去」にもつといえよう。アニメーションの提示する運動は視覚的に創造されたものであり、模像として遡及すべき原像をもたないために原像と模像の一対一対応関係や同時性は成立しえない。したがってアニメーションは常に実在のものとは似て非なる運動、つまりC・S・パースの記号区分20でいうイコン(類似)的な運動しか提示できないといえる。しかしアニメーションはそのイコン性ゆえに、現実的対象に類似した具象的な運動から実在しない抽象的なものまで自在に創造し提示できるのであり、「人々の知覚を方向づけ世界を新しい相貌のもとに見せ始める」21像として、本稿の文脈に則していえば「未来」という時間領域を指向するということになるだろう。
 以上のようにアニメーションの時間性を画定してみると、写真技術がアニメーションの定義付けを混乱させる理由は一目瞭然のものとなる。すなわち、写真技術に立脚したコマ撮りアニメーションの両義的な曖昧さは、過去的な性格をもつ写真技術を用い、時間的指向領域を「未来」にもつアニメーションを創造するという点に起因していたのである。

2.テアトル・オプティークから映画装置へ

2−1 テアトル・オプティークとは何か
 
アニメーションが原理的に写真技術を必要としないことは、カートゥーンが今日ほとんどコンピュータ上で電子的に制作されるようになったことからも傍証されよう。動画を作成する作画工程は紙と鉛筆から液晶タブレットによる入力作業に置き換えられつつあり、以前からデジタル化されていた彩色や背景画との合成などの工程も今やデジタル通信回線を介して進められるようになって22、透明なセルロイドに動画を描いて背景画とともに撮影台にセットし、一枚ずつ写真撮影するという物理的作業は急速に過去のものとなっているのである。こうしたデジタル技術への転換が示しているのは、照明機材も含めて大がかりな撮影設備を必要とする写真技術は、カートゥーンにとって、これに代わる有効な制作手段があるならばすぐにでも交換すべき必要悪だったということであろう23
 実在する物体そのものに運動を付加するのではなく、絵が運動する印象を提示しようとするカートゥーンにとって、画材の物質性をも撮影してしまう写真技術の特性は原理的にも制作の実際においても克服すべき障害でしかない(セルロイドが透明なのは背景画を透かし撮るためであるが、被写体の物質性を隠蔽する側面もあったとは考えられないだろうか)。にもかかわらず、カートゥーンは今日デジタル技術に取って代わられるまで一貫して写真技術によって制作されてきた。カートゥーンが不本意ながらも写真技術に依拠した理由はおそらく、「複製技術時代の芸術」として実写映画が築き上げたフォーマットに則る必要があったからに違いない。このことについては、実写映画に先んじてカートゥーンを商業化する戸口に立っていたにもかかわらず、ハードとソフトの両面で複製を量産することができなかったために、変革の波に乗って複製技術時代に雄飛することができなかったエミール・レイノーとテアトル・オプティークの顛末が何よりの証左となるだろう24
 1877年に前映画的な光学玩具の一つであるプラクシノスコープを発明したレイノーは1880年これに幻灯機を組み合わせ、絵の〈かつてなかった〉運動を複数の観察者が同時に体験できる投影式とし、さらに1889年には背景画と動画を重ねてスクリーンに投影するテアトル・オプティークの特許を取得した。この装置が画期的なのは、のちにリュミエール兄弟が発明するシネマトグラフやエディソンのヴァイタスコープと同じ投影式で、しかも一連の長い動画の帯を交換可能なソフトウェアとする点にあり、これをカートゥーンはおろか映画装置の先駆けとみなすことも不可能ではない。
 しかし、レイノーはテアトル・オプティークを映画装置のような複製技術時代の申し子とすることができなかった。まず、この装置の特徴は一旦停止や逆回転などの映写テクニックを自在に駆使できることにあり、動画の帯自体は実質1分程度しか持続しないにもかかわらず、これを行きつ戻りつさせることによって上映時間を10〜15分程度にまで伸長させることができたが、この長所がかえって装置の普及を妨げる原因となった。というのも、即興で動画の帯を進退させるテアトル・オプティークを興行として成立させるためには、ただ装置の操作に習熟しているだけでなく、口上と映像の進行を同調させるショーマンシップを備えた上映者が必要であり、このように人を選ぶハードウェアが当時の幻灯興行者に嫌厭され、レイノーの期待に反して全く流通しなかったのも当然だったのである。
 テアトル・オプティークはさらにソフトウェアの面でも大きな弱点を抱えていた。上映を行っていた蝋人形館との契約によって、レイノーは上映技師と弁士を兼ねるばかりか旧作ソフトの修理と新作の開発も一人でこなさなければならず(経済的な理由で助手を雇うことさえままならなかった)、1892年から1900年までに制作上映した作品は7本25に過ぎなかったのであるが、ソフトの量産を阻んた最大の障害は他ならぬレイノー自身であった。レイノーは発明家として世に出たが伝統的なデッサンの修行も積んでおり、19世紀に教育を受けた画家の多くがそうであったように26、写真を技術的な補助手段以上のものとは考えていなかった。実際レイノーは等時間隔で連続撮影可能なカメラをリュミエール兄弟と同じ1895年に完成させていたが、連続写真をそのまま上映しようとは決してせず(もしそうしていたならば映画の発明者はレイノーということになっていただろう)、取捨選択した写真像をもとに一枚一枚動画を手描きし彩色したうえで上映したのである27
 レイノーがテアトル・オプティークの商品化に失敗した直接の原因は、契約によって蝋人形館で上映するソフトの複製を作ることが禁じられ28、そのためハードとなるテアトル・オプティークを販売する道も閉ざされてしまったことにあるが、たとえそうでなかったとしても、レイノーはやはり凋落せざるをえない運命にあったのではないだろうか。というのも、映画装置の直前まで到達しておきながら、19世紀的な自然科学のパラダイムを踏み越えてまで映画を発明しようとはしなかった生理学者エティエンヌ=ジュール・マレー29と同様に、実演者が不在(absent)では上映(present)できず、ましてや写真技術を用いて実在した運動を写実的に再現(represent)することなど眼中になかったことからも明らかなように、エミール・レイノーは映画装置よりはるかに長い伝統を持つ幻灯のパラダイムのうちにとどまっていたと考えられるからである。

2−2 映画装置からの再出発
 テアトル・オプティークは映画装置と同じく19世紀末にあらわれた幻灯ショーのひとつとして人気を博したが、写真技術を前提としていなかったために日々量産される映画フィルムの氾濫に太刀打ちできなくなり、複製技術時代の映像メディアとして定着することはなかった。写真技術に立脚した映画装置が次世代のハードウェアとして地歩を固めつつある以上、カートゥーンもこれに乗り換えるべく積極的に「複製技術時代の芸術」へと脱皮しなければならないが、そのためには映画フィルムのかたちをとって流通する必要がある。すなわち、写真技術に基づいて作品を制作し(動画をコマ撮りし)、ネガ・フィルムから映写用のポジ・フィルムを大量に複製し、映画配給ルートを介して映写機にかけ、映画観客の集まる場所(常設映画館が欧米で一般化するのは1908年前後のことである)で上映せねばならないのである。つまり、実写映画より一足先に登場したカートゥーンは写真技術とは関係なく成立していたが、ハードとなる映画装置へ新規参入するために、制作・配給・興行の全部門において「フィルム」たらんとしなければならなくなったといえよう30
 しかし、第1章で論証したようにアニメーションと実写映画は動く映像の原理を共有しながらも全く対称的な関係にあり、アニメーションのなかでも絵が動く印象を創造するカートゥーンは、実在する物体の運動を視覚的に再現する実写映画の対極に位置しているといえる。したがってカートゥーンが映画装置において再出発を果たし、実写映画に依拠しながら独自に分派していく際には様々な矛盾や混乱が生じたに違いなく、横車を押した痕跡は映像テクスト上にこそ克明に刻み込まれているはずである。
 カートゥーンと映画装置の出会いは漫画家(cartoonist)が実写映画に出演することから始まった。写真技術によってアニメーションを制作するコマ撮り法の発見と、その実用化に大きく貢献した人物のひとりJ・スチュアート・ブラックトンは、もともとライトニング・スケッチ31を持ち芸とする舞台芸人であり、新聞に記事付きの挿絵を描く漫画家でもあった。ブラックトンが実写映画に出演したのは1896年に取材でエディソンを訪ねた折のことであり、エディソンの要望でその早描き芸をブラック・マライヤ(可動式映画撮影スタジオ)で映画撮影することになったのである32。初期映画研究者チャールズ・マッサーによると、ブラックトンは1896年のうちに計3本の実写映画においてライトニング・スケッチを披露しており33、これらがカートゥーンへの第一歩を用意したことは間違いない。というのも、カートゥーンの前身と目される作品のひとつThe Enchanted Drawing(ブラックトン、1900年)は、漫画家が行うライトニングスケッチの記録と再現を基本とする一方、コマ撮り法発祥の土壌となったトリック撮影の要素をそこに加味しているからである。
 この作品はイーゼルに置かれた大きなキャンバスにブラックトンが中年男の顔を描くところから始まり、ついでワインボトルとグラス、シルクハット、葉巻が描き加えられ、絵から実物を取り出したり逆に実物を絵にすり替えたりするトリックが展開される。このトリック映画がコマ撮りカートゥーンの先駆とされるのは、漫画家の手を借りることなく似顔絵がひとりでに表情を変えるかのようにみえるためであり、運動印象を与える滑らかさにはほど遠いにせよ、トリック撮影によって絵に自律的な運動を付加できることが発見されたという意味で、十分にカートゥーンの萌芽とみなしうる。しかし、あくまでその準備段階に過ぎないことも確かであり、この実写映画を即カートゥーンと断じてしまうのは明らかに勇み足であろう。
 というのも、この作品で行われているトリックは撮影を中断している間に絵を描き換える形式のものであるが、描く過程を省略し飛躍させることに重点が置かれているという意味で広義の編集技法に属しており、ライトニング・スケッチを行う漫画家の身体運動を前提とするかぎりにおいて、〈かつてあった〉一回限りの運動を記録し再現する実写映画の範疇を出るものではないからである。実際ブラックトンが一度も画面から姿を消さず、絵を描く以外にもワインを飲んだり葉巻を吸ったりしてキャンバスの前を常に動き回っていることからも明らかなように、このトリック映画の命題はあくまで〈描く身体〉の〈かつてあった〉運動を再現することにあり、似顔絵はトリック操作を施されているものの描く運動の副産物で文字通りの背景であるに過ぎず、ましてコマ撮りによって〈かつてなかった〉運動を付加されてもいない。実写映画からアニメーションが分岐するには、カメラの前に実在する運動を持続的に撮影する映画装置の原理を換骨奪胎し、運動量ゼロの静止状態から仮想上の運動を創造するコマ撮り法が考案されなければならないのである。

3.実写映画からカートゥーンへ

3−1 〈描く身体〉の退場
 
コマ撮り法はいつどこで誰が発見したのだろうか。1900年前後にトリック撮影の一種として開始されたことは間違いないが、類似した作例が欧米各国で同時多発的にあらわれているために、多様なヴァリエーションの中から最初の作品とその作者を特定することは容易でない。当時のフィルムや資料が散逸して現存していないことにも原因があるが、何をもってアニメーションとなすかという共通了解が醸成されていない以上、起源をめぐる議論は可能性の広がりを確認する作業に終始しがちである。この問題について、世界各国のアニメーション史を収録したCartoons: One Hundred Years of Cinema Animationの著者ジャンナルベルト・ベンダッツィは、現時点で有力視される人物や作品を列挙しつつ現実的な判定を下している。すなわち、コマ撮りは低速度/高速度撮影や逆回転撮影、二重露光などと同じく、発明された当初の手回しカメラを扱う者なら誰でも発見しうる技法であり、映画カメラマンが修得すべき特殊撮影技術のひとつでさえあったというのである34。コマ撮りの起源を厳密に同定する作業も重要には違いないが、ベンダッツィの判断は錯綜した事態を俯瞰した総括として妥当なものであり、有効な発想の転換であるといえよう。
 フィルムが現存する最古のアニメーション作品のひとつHumorous Phases of Funny Faces(ブラックトン、1906年)は、依然としてライトニング・スケッチを土台としているものの、絵と実物をすり替える置換トリックに代わって本格的なコマ撮りアニメーションを導入しており、一見してそれとわかる特徴的な構造を有している。すなわち、漫画家の〈描く身体〉が画面外へ退くと同時にアニメーションを開始し、再入場する間際に終了するよう実写映画とアニメーションを交互に配置しているのである。
 具体的にいうと、前半において〈かつてあった〉運動を再現される漫画家の身体は右手だけとなっており(当然ながらショットの等級はクロース・アップである)、右手に〈描かれたもの〉(似顔絵やピエロなど)がコマ撮りによって〈かつてなかった〉運動を獲得するとき、右手は例外なく画面左へ姿を消す。つまり、漫画家の〈描く身体〉は絵を描いたり消したりする主体の役割を保持する一方、前出のThe Enchanted Drawingとは違って〈手〉という必要最小限にまで縮小され、〈描かれたもの〉に主題の座を譲り渡してもいるのである。〈描く身体〉の出入りがアニメーションの開始と終了を印付ける規則は、ブラックトンがライトニング・スケッチを披露する後半35でも一貫している。後半では〈描かれたもの〉(似顔絵や酒瓶とグラスなど)が自律的に動くだけでなく、画用紙自体がコマ撮りによってひとりでに折りたたまれたりするが、前半同様アニメーションが提示される間〈描く身体〉=ブラックトンの上半身は必ず画面左に姿を消すのである。この作品が実写映画とアニメーションをこのようなかたちで折衷させているのは、原理の異なる両者を同時に提示する術がなかったからというよりも、トリック映画の一種として、絵や具体的な事物が人の手を借りずに運動することを強調する必要があったからであろう。
 アニメーションが実写映画の導入と結尾をもつという構造は、アメリカにおけるカートゥーンの祖ウィンザー・マッケイのLittle Nemo(1911年)やGertie The Dinosaur(1914年)にもみられる。前者において、カートゥーン開始のきっかけとなるのは一枚目の動画を撮影台に差し込む右手の超クロース・アップであり、カメラが寄って指がフレームアウトするとカートゥーンが開始され、終わると逆にカメラが引いて最後の動画(4000枚目)をつまむ指がフレームインし、全体としての幕が下ろされる。後者では、カートゥーンが開始する直前にロングショットAからキャンバスの前に立つマッケイのバストショットBに切り替わり、マッケイが画面左へフレームアウトしたのちカートゥーンが始められ、終了後には再びロングショットA’による結尾が付け足されているのである。
 マッケイは当時すでに有名な新聞漫画家だったが、ライトニング・スケッチ芸人としても人気を博しており、カートゥーンを制作したのも本来は自分のヴォードヴィル・ショーにおける出し物のひとつとするためであった。実際、上記2作品の間に制作されたHow A Mosquito Operates(1912年)はマッケイ自身が出演するショーと競合しない場合にのみ映画館で上映され36Gertie The Dinosaurも当初はヴォードヴィルの舞台上でマッケイが自ら猛獣使いに扮し、〈描かれたもの〉=恐竜に芸をさせるという映画史上にも他に類をみない折衷的なパフォーマンスのかたちをとって上映されたのである37
 マッケイ作品における実写映画の「縁取り」も実は映画専門館での上映用に後付けされたものであり38、映画装置において再登場したばかりのカートゥーンを映画館というハードウェアに適合させる役割を果たしていたといえよう。そして、ウォルト・ディズニーに関する著作を数多くものしている有馬哲夫が指摘するように39、マッケイが上記したような独特な方法でカートゥーンを上映したのもハードとなるヴォードヴィルに適応させた結果であり、旧ハードにおいて新ソフトを提示する際に生じる現象の好例であるといえる。このように、マッケイは新旧のメディア間を文字通り身をもって仲介した人物として映像史上重要な位置を占めているが、本稿において指摘すべきなのは、実写映画によって再現されているにせよ舞台上にあって無媒介に現前するにせよ、マッケイの初期作品には〈描く身体〉が常に付随し、コマ撮りによって運動を付加されるべき〈描かれたもの〉の存在そのものを動機付けていたということであろう。

3−2 〈手〉の再登場
 つまり、アニメーションはコマ撮り法の発見によって〈かつてあった〉運動の再現から決別し、〈かつてなかった〉運動を創造する独自の領域を開拓したが、フィルムのかたちで再登場したばかりのカートゥーンは、〈描く身体〉を画面外へ放逐する一方で〈描く身体〉に開始と終了を規定されており、カートゥーンが提示する〈描かれたもの〉の〈かつてなかった〉運動は、実在する作者の〈描く身体〉が根拠付けていたと考えられるのである。
 しかし、これはヴォードヴィルや映画館に順応する過程だけにみられる傾向ではなく、セルロイド法の発明40でフォード式分業による大量生産が可能となった1915年以降においても、必要最小限の〈描く身体〉=〈手〉41が絵を描き出す導入にその名残を留めているといえる。たとえば、Keeping Up with the Joneses(ハリー・S・パーマー、1915年)のMen’s Styles編では〈手〉が安楽椅子に座る主人公を描き出すが、絵そのものは小説や絵本、マンガの表紙画のように本編の前にあって登場人物や物語設定を紹介する役割を担っているに過ぎず、終始匿名のままでいる〈手〉にはブラックトンやマッケイの作品のように作者を同定する機能ももちあわせていない。〈手〉はただひたすら見事な筆致でライトニング・スケッチ的な早描き芸を披露するためだけに召喚されているのである。したがって、冒頭で描く過程を実写映画によって再現する必然性といえば、カートゥーンの開始を古式に則って宣言すること以外になく、この作品もやはり〈かつてなかった〉運動を始める前に、〈描く身体〉によっていわば描き始められる必要があったといえよう。
 キャラクターや物語の紹介を兼ねて〈手〉が何かを描き始めるという導入形式は、Bobby Bumps Puts A Beanery On The Bum(アール・ハード、1918年)やフライシャー兄弟のココ・シリーズ(1918〜29年)、オットー・メスマーのフィリックス・シリーズ(1919〜31年)、さらにはウォルト・ディズニーのアリス・コメディー・シリーズ(1924〜27年)など1920年代に入ってもなお数多くの作品に継承されており、カートゥーンを始動させる常套句として広く定着していたことをうかがわせる。それにしても、カートゥーンの系統発生を反復するかのような導入形式はなぜこれほど長く命脈を保ち続けたのだろうか。まず考えられることは、カートゥーンという表現形態そのものとの相性のよさであろう。というのも、カートゥーンは描き始めることによって事前に紹介すべき内容はもちろん、自らの来歴も描く運動に翻訳して提示することができ、〈描かれたもの〉に〈かつてなかった〉運動を付加するソフトウェアの導入としては、すばらしく理にかなっているからである。
 本稿ではしかし、カートゥーンにおける〈描く身体〉がセルロイドの導入を契機に変容し、記号としての意味内容を一変させた事実をこそ強調すべきであろう。たとえばブラックトンやマッケイの作品のように、当初〈描く身体〉は作者本人と固く結びついて作者を同定する指標となっていたが、セルロイド法によってカートゥーンの制作が家内制手工業的に分業化した結果、〈描く身体〉は文字通り集団化して特定の作者を指し示すものではなくなり、誰かのものではあるが同時に誰のものでもない匿名の〈手〉となってカートゥーンを描き始めるようになったのである。つまり、〈描く身体〉はカートゥーンが体裁を整えるにしたがって〈描かれたもの〉=キャラクターに主題の座を譲り、制作の集団化とともに作者一般を象徴する匿名のキャラクター=〈手〉となって、カートゥーンにしばしば登場する「案内役」もしくは「脇役」へと役割を縮小していったといえよう。
 1920年代、カートゥーンはキャラクターの人気を動力源として飛躍的に生産量を増やしたが、ここでは前節で確認したような〈描く身体〉と〈描かれたもの〉との主客関係は完全に転倒しており、コマ撮りによって運動を付加されたキャラクターたちは、象徴的にも文字通り(映像通り)にも〈描く身体〉から独立して一定の主体性を獲得するにいたっている。フィリックスと〈手〉の関係はまさにその好例であろう。Felix Save the Days(メスマー、1922年)では結尾でペンを持った〈手〉が画面右から入ってくるが、写真の切り抜きである〈手〉はそれ以上動こうとはせず(still)、フィリックスはもはや描かれるのではなく自力でペン先から這い出るようにして登場し、自分で尻尾を描き足しさえする。Comicalamities(同、1928年)の冒頭では〈手〉がフィリックスを描き始め、古式通り〈手〉が画面から姿を消すと同時にカートゥーンが始まるが、〈手〉はフィリックスに尻尾の描き忘れをとがめられ慌てて描き足しに戻るのである。このように、フィリックス・シリーズにおいて〈手〉はもはや「作者」を意味する象徴的なキャラクターでしかなく、〈描く身体〉と〈描かれたもの〉との関係自体が朗らかに戯画化されているのである42

4. 終わりに

 本稿で明らかにしたように、実写映画とアニメーションはともに映像でありながら全く対称的な関係にあり、それぞれ〈かつてあった〉運動の視覚的再現と〈かつてなかった〉運動の創造とに役割を分担し、車の両輪のようにして映像メディア史を牽引してきた。両者の軌跡は当然ながら平行線ではなく複雑に交差した構造を有しており、本稿のようにカートゥーンが実写映画から発生する過程を映像テクスト上に求めると、前者の後者に対する依存と独立が〈描く身体〉それ自体の表象をめぐる問題系として浮上するのである。
 アニメーションのなかでも絵が運動する印象を提示するカートゥーンは、実在した運動を視覚的に再現する実写映画の対蹠に位置している。したがってカートゥーンが実写映画から派生するということはまさに対極から対極への構造的転換であり、映像メディア史上にあっては映画装置の発明に次ぐ大事件であったといえる。コマ撮り法の発見によって実現したカートゥーンの「復活」、そして実写映画に対する依存と自立の物語において何よりも興味深いことは、転換の過程が〈描く身体〉の運動を再現した実写映画の痕跡となって映像テクストに刻み込まれていることであり、〈描かれたもの〉=運動を付加(animate)されたキャラクターが〈描く身体〉=作者(creator)から文字通り(映像通り)独立を獲得する過程とほぼ完全に一致するという事実なのである。
 身体運動の表象は映像メディアの中心的命題であり、実写映画はもちろんカートゥーンにおいても例外ではない。本稿がそうであるように、身体表象の問題を精査することは映像メディアの歴史を再考するうえで重要な論点を提供するに違いない。カートゥーンから〈描く身体〉が完全に排除される時期と、トーキー化によって新たに〈声〉が導入される時期とがほぼ一致するという事実などはその好例であろう。今後の課題としたい。
草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか』、徳間書店、2003年、32頁および180−197頁。
2001年、メディア芸術の振興も謳った文化芸術振興基本法が公布施行され、2002年にはテレビゲーム、アニメーション、映画、音楽、出版など、コンテンツ産業を戦略的に創造・保護・活用する〈知的財産立国〉の実現を目標とする知的財産基本法が成立した。
Susan J. Napier, ANIME: From Akira to Princess Mononoke: Experiencing Contemporary Japanese Animation (Palgrave Macmillan, 2001)など。
イラン・グェン「閉塞の「アニメ」、開放の「漫画映画」─日本動画映画をめぐる価値観について─」、『日本漫画映画の全貌』、「日本漫画映画の全貌展」実行委員会、2004年、240頁。
井上静『宇宙戦艦ヤマトの時代と思想』、世論時報社、1997年、上野俊哉『紅のメタルスーツ アニメという戦場』、紀伊國屋書店、1998年、野田真外『前略、押井守様。』、フットワーク出版、1998年、久慈力『『もののけ姫』の秘密―遙かなる縄文の風景』批評社、1998年、切通理作『宮崎駿の〈世界〉』、筑摩書房、2001年、清水正『宮崎駿を読む―母性とカオスのファンタジー』、鳥影社、2001年など。
日経BP社技術研究部『アニメ・ビジネスが変わる』、日経BP、1999年、同『進化するアニメ・ビジネス』、日経BP、2000年、宮下真『ネット時代に加速する!キャラクタービジネス 知られざる戦略』、青春出版社、2001年、多田信『これがアニメビジネスだ』、廣済堂、2002年など。
山口且訓・渡辺泰『日本アニメーション映画史』、有文社、1977年、伴野孝司・望月信夫『世界アニメーション映画史』、ぱるぷ、1986年、津堅信之『日本アニメーションの力─85年の歴史を貫く2つの軸─』、NTT出版、2004年、山口康男編著『日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡』、テン・ブックス、2004年、有馬哲夫、『ディズニーとライバルたち アメリカのカートゥン・メディア史』、フィルムアート社、2004年など。
2003年に文化庁とASEAN諸国在京大使館が共催した「国際アニメ・マンガフォーラム」など。また、斉藤環『戦闘美少女の精神分析』、太田出版、2000年はその優れた論考において一読に値するが、表現媒体としてマンガと「アニメ」を峻別する必要を認めていない。
加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』、勁草書房、1990年、146−165頁ならびに同『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』、フィルムアート社、2002年、173頁。
10 今村太平『漫画映画論』、岩波書店、1992年、16頁。なお本書において、今村は実写映画やアニメーションの原理を網膜上の残像現象としているが、今日では生理学よりむしろ心理学によって説明するべきものとされている。
11 Charles Solomon, ‘Toward a Definition of Animation’, The Art of Animation (AFI, 1988), p10.
12 映画やテレビはもちろん、運動印象を与えるネオンサインや電光掲示板などあらゆる動く映像の原理を心理学的に説明するもの。また、ゲシュタルト心理学では運動印象が出現している事態をさして「ファイ(φ)現象」と呼ぶ。
13 小出正志「ヤン・シュヴァンクマイエル」、佐藤博昭・西村智弘・フィルムアート社編集部編『スーパー・アヴァンギャルド映像術 個人映画からメディア・アートまで』、フィルムアート社、2002年、34頁。
14 ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房、1985年、93頁。
15 ライはフィルムに直接描き込んだ自作『カラーボックス』A Color Box(1935年)を「ダイレクト・フィルム」と呼び、マクラレン作品など同様の手法を用いたアニメーションは今日「ノンカメラ・フィルム」や「カメラレス・アニメーション」などと呼ばれている。Ira Konigsberg, The Complete Film Dictionary (Penguin Reference, 1997), ”direct film”および”noncamera film”の項を参照。
16 ジョセフ・プラトーのフェナキスティスコープ(1832年発明)やウィリアム・ホーナーのゾーイトロープ(1834年発明)、エミール・レイノーのプラクシノスコープ(1877年発明)など。なお、ジオラマ館の経営者ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが銀板写真(ダゲレオタイプ)を発明するのは1839年である。
17 浅沼圭司『映画学』、紀伊國屋書店、1994年、118頁。
18 谷川渥『形象と時間 美的時間論序説』、講談社、1998年、162頁。
19 浅沼、前掲書、117-119頁。
20 パースは記号と意味内容との間に類似関係が成り立つ場合を「イコン(類似)」、物理的あるいは具体的な因果関係が認められる場合を「インデックス(指標)」、恣意的で社会的合意にもとづく場合を「シンボル(象徴)」と呼んで区別した。ジョゼフ・チルダーズ&ゲーリー・ヘンツィ編『コロンビア大学現代文学・文化批評用語辞典』杉野健太郎・中村裕英・丸山修訳、松柏社、1998年、「ICON」および「SIGN」の項を参照。
21 谷川、前掲書、168頁。
22 日本ではたとえば東映アニメーションが作画工程をデジタル化・ネットワーク化・データベース化し、2000年より運営を開始している。山口康男、前掲書、151−155頁を参照。
23 東映アニメーションの吉村次郎氏は同社のデジタル技術導入に関するインタビューにおいて、セルロイドと撮影台の制約を具体的に述べている。電子学園総合研究所編『アニメの未来を知る ポスト・ジャパニメーション キーワードは「世界観+デジタル」』、テン・ブックス、1998年、28-32頁を参照。
24 以下レイノーの事績については、ジョルジュ・サドゥール『世界映画全史1』村山匡一郎・出口丈人訳、国書刊行会、1992年、149-172頁、同『世界映画全史2』村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳、国書刊行会、1993年、29-45頁と177-187頁、ならびにGiannalberto Bendazzi, Cartoons: One Hundred Years of Cinema Animation. (Indiana U. P., 1994), pp.3-7を参照。
25 サドゥール『世界映画全史2』によると、『道化師とその犬』『うまい一杯のビール』『哀れなピエロ』『脱衣小屋の周りで』『炉辺の夢』『ウィリアム・テル』『最初の葉巻』の7本。
26 ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」田窪清秀・野村修訳、佐々木基一編集解説『複製技術時代の芸術』、晶文社、1999年、63頁。
27 サドゥール『世界映画全史2』、179-182頁。
28 サドゥール『世界映画全史2』、38頁。
29 マレーの事績については、松浦寿輝『表象と倒錯 エティエンヌ=ジュール・マレー』、筑摩書房、2001年に詳しい。
30 映画館は今日、物理的なフィルム映写機の代わりに電子的なデジタル映写装置を導入しつつある。映画の代名詞たるフィルムが映画館から駆逐されるという事態は、映画が積極的に「デジタル」たらねばならなくなったという意味で、写真映像技術の終焉を示す何よりの兆候であるといえよう。
31 19世紀末にミュージック・ホールやヴォードヴィルに登場した舞台演芸のひとつで、軽快な漫談を交えながら素早いタッチで似顔絵を描き上げたり、描き込むたびに内容が変化して描きだした当初とは全く異なる絵として完成させたりするもの。チョーク・トークとも呼ばれる。Donald Crafton, Before Mickey: the animated film, 1898-1928. (MIT Press, 1982), p.48を参照。
32 具体的な経緯については、エリック・バーナウ『魔術師と映画 シネマの誕生物語』山本浩訳、ありな書房、1987年、88-92頁ならびにCrafton、前掲書、44-46頁に詳しい。
33 エディソンの似顔絵を描くものと、当時のアメリカ大統領クリーブランドならびに対立候補のマッキンリーの似顔絵を描くもの、そして等身大の女性像を描くものの3本。Charles Musser, History of the American Cinema Vol. 1 ‘The Emergence of Cinema: the American Screen to 1907’. (Maxwell Macmillan International, 1990), pp.120-121を参照。
34 Bendazzi、前掲書、7-8頁。なお、ベンダッツィは現時点で一個の作品として最初のアニメーションはMatches: An Appeal(アーサー・メルボルン・クーパー、1899年)であるとしている。
35 後半部分は人種差別的な表現を含んでいるとして、The Library of Congress Video Collection Vol.3 ‘Origins of American Animation 1900-1921’には収録されていない。
36 Bendazzi、前掲書、16頁ならびにCrafton、前掲書、110頁。
37 2002年度ポルデノーネ無声映画祭では、最初の常設映画館ニッケル・オデオンにおける映画興行の様子を再現する特集が組まれたが、その中にはGertie The Dinosaurを上映するとともにマッケイのパフォーマンスを忠実に実演してみせる一幕もあった。21st Pordenone Silent Film Festival Catalogue, pp.9-11を参照。
38 Bendazzi、前掲書、16-17頁。なお、Crafton、前掲書、107頁によると、現在では失われてしまったが、How A Mosquito Operatesにも実写映画による導入が付属していたという。
39 有馬哲夫、前掲書、54-59頁。
40 アール・ハードは1914年に動画部分を背景から分離して透明なセルロイドに描く方式を考案、アニメーション制作の簡略化をめざしていたジョン・R・ブレイと提携して、カートゥーンの産業化に大きく貢献した。Bendazzi、前掲書、20頁を参照。また、ブレイの事績については、Mark Langer, “John Randolph Bray; Animation Pioneer”, in American Silent Film: Discovering Marginalized Voices (Southern Illinois U. P., 2002), pp.94-114に詳しい。
41 カートゥーンに登場する〈手〉は筆者の知る限りすべて右手であり、左手があらわれる作品は未だに見たことがない。
42 紙面の都合上本稿では割愛したが、フライシャー兄弟のココ・シリーズ(1918年〜1929年)こそまさに〈描く身体〉と〈描かれたもの〉の葛藤を基本プロットとしており、「作者」と「被造物」が形成する問題系は稿を改めて考察すべき課題である。