書評
なぜこのような書物が書かれてしまったのか 視覚障碍の日本学
吉本光宏著『クロサワ 映画学と日本映画』(デューク大学出版局)Mitsuhiro Yoshimoto, Kurosawa: Film Studies and Japanese Cinema (Duke U.P., 2000)

今西悠一郎

 いくら無知蒙昧な一般のアメリカ人向けに書かれたものとはいえ、これではあまりにもひどすぎるというものだろう。書名の『クロサワ(Kurosawa)』が示すように、クロサワといえば黒沢清でもなければ黒沢直輔でもなく、ただ黒沢明のことしか意味しないひとびとのためにだけ書かれた本書は、古今東西に書かれた多くの黒沢明論を引証しながら、そこに付け加えるべきものを何ひとつもっていない。先行研究に多くを負いながら、残念ながら先行研究に何ひとつ報いることのないまま終わるのである。
 本書『クロサワ』は二部構成をとっており、第一部でもっぱら先行研究批判を、第二部では黒沢明全作品の解説をおこなっている。しかし第一部でノエル・バーチをはじめとした錚々たる映画学者の批判的検討をしておきながら、第二部では440頁をも費やしながら、ついにただ一行の新しい黒沢像も提示できない。ひたすら先行研究(二次資料)の引用に終始し、黒沢映画について独自の考察をなんら構築しえないまま終わってしまう。要するに著者は黒沢映画の全作品を解説しながら、黒沢映画のただの一本も見(え)ないまま終わってしまうのである。いったい著者はこの480頁もの大著を何のために書いたのだろうか。アメリカの大学で職を得るためだけだとすれば、それが「映画学」の名においてなされたことは悲惨な出来事だとしか言いようがない。
 以下、本書の本質的弱点を指摘し、なにゆえにそのような致命的弱点を本書がかかえこむ仕儀になったのかを分析し、今後二度とこのような書物が「映画学」の名において書かれないことを祈りたい。
 著者の基本的スタンスを見るためには、本書でもっとも長い紙幅がさかれている『七人の侍』論(第15章)を見るにしくはないだろう。
 著者はまず映画評論家佐藤忠男の有名な言説(黒沢がこの映画の準備にあたり脚本家の橋本忍らといかに入念なシナリオ構成にあたったか)を紹介し、『七人の侍』を創造する黒沢の「意図」は「紋切り型ならびに無内容の定式を破壊し、ジャンルとしての時代劇を更新することにあった」(p. 205)と、それじたい「紋切り型」にすぎない主張をくりかえす。
 ついで『七人の侍』をめぐる先行研究のなかで支配的なアプローチは「アレゴリカルな」ものであったとし、その「アレゴリカルな読み」(p. 206)の一端を紹介する。すなわち著者によれば、ある者はこの映画について「現在と未来をイデオロギー的に処理するために過去を映画的に処理した」ものだと述べ、また別のある者は「人間の生を凌駕する環境の力」について指摘し、別の論者は「日本における市民社会の不在と知識人の脆弱さ」を論じ、さらに別の論者(ふたたび佐藤忠男)は『七人の侍』は「日本の再軍備化[自衛隊成立]を正当化する」ものだとみなしたなどなど。
 しかし、これら多様な「アレゴリカルな読み」を列挙しながら、著者はそれらを再検討するわけでもなければ、それらに取って代わる新しい「読み」のパラダイムを提示するわけでもない。ではどうするのかというと、唐突に議論の力点を変更し、「本章ではジャンルとしての時代劇映画」の定義に力点をおくと述べる。つまり『七人の侍』論として措定された第15章では時代劇の歴史を概説し、そのジャンルの歴史のなかに『七人の侍』をおき直すことに主眼がおかれると言うのである。
 したがってわれわれ読者は日本人なら誰もが知っているであろう凡庸な時代劇概略史を長々と(20頁以上にわたって)読まされ、そのあげくに西部劇と時代劇との粗雑な比較論まで読まされ、その果てにようやく本題たる『七人の侍』論にいたるのだが、そのころにはすでに本書でもっとも長いこの章も紙幅が尽きかけている。
 では肝腎の『七人の侍』論はどのように展開するのだろうか。著者は例によって「作者の意図」を尊重して、黒沢本人の弁を長々と引用することからはじめる。これも有名な一節なので、わざわざ再引用するまでもないだろうが、念のために概略すると「[自分は]アクションのためだけのアクション映画」は撮りたくなかった。「人間描写を犠牲にすることなしに大アクション映画が撮れれば、どれほどすばらしいことだろうか」、「わたしはまったく新しい角度から時代劇を再吟味したかったのだ」(p. 240)。この「意図」を実現するために黒沢は「個人と集団」との均衡をおそろしくうまくはかったと著者は指摘する。すなわち『七人の侍』では主に三つの集団が描写される。武士と農民と盗賊である。そしてその三つの順番にそれぞれ個人としての明確さがあたえられていると言う。つまり「七人の侍」たちは集団であると同時に各人各様個性にあふれており、農民はときに個人として描かれるが多くは集団として描かれ、対照的に盗賊はおよそ個人としては描かれない集団そのものである。そして「七人の侍」たちの個性はその(リ)アクションによって描かれるのであり、かならずしも説明的台詞によってではない。この映画はあくまでも具体的なアクションによって進行し、抽象的な観念によって進行するのではない。
 ここまでは『七人の侍』の観客なら誰でもわかることである。上述のごとき著者の指摘は凡庸な指摘ではあるが、それじたい正しい指摘である。しかしそれではどのような(リ)アクションがどのような具体的個性を描いているのか、その肝腎要のことを著者は具体的に指摘することができない。つまり著者はこの映画が説明的台詞によって進行するのではないと正しく指摘しておきながら、映画のアクションというその具体的な視覚的テクスチュアをその著書のなかで言語化することができないのである。言いかえれば著者にはこの映画が見えていない。『七人の侍』という映画の個性がアクションという視覚的要素によってなるのだと正しく指摘しておきながら、彼にはそのアクションが具体的に見えもしなければ読めもしない。つまりこの『七人の侍』論は映画を見なくとも、先行論文(二次資料)だけ読んでいれば書ける「論文」であり、あるいは脚本を読んだだけでも書ける「論文」なのである。しかしそれでは映画学の書物ではないではないか。それでは『七人の侍』が説明的台詞によってではなくアクションによってなった映画であることを正しく読者に説明したことにはならないのである。それは結局それを説得的に論じなければ作家クロサワの個性を論じたことにはならない類の具体性であり、それを論じられなければ、そもそもなぜ「クロサワ」という特異な作家を論じる必要があるのか、その正当性を証明できない種類の問題なのである。著者にはそのことがわからない。
 さらに悪いことは、黒沢映画でもっとも有名な作品を論じた、本書でもっとも長いこの第15章だけが、このような視覚障碍を起こしているのではないということである。他の章においても同様の映画的盲域がいたるところに生起し、それゆえこれが黒沢映画を論じたアメリカの映画学の最新の成果だとはにわかに信じがたい、そのような書物となっている。万一アメリカの映画学が本当にこのような書物を許容したのだとすれば、それはひとえに日本に対する無知のなせるわざ(未熟な日本学のせい)である、とりあえずはそのように信じたい。本書はその副題とはうらはらに、残念ながら「映画学」の書物ではなく正確に「日本学」の書物(しかも誰にでも書ける入門篇)にすぎないのである。