『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』を書き終えること

加藤幹郎


 本書は『ブレードランナー』(1982/92)というフィルムと映画史/映画理論をめぐる書物である。『ブレードランナー』は映画史上の記念碑的作品である。この映画は米国議会図書館の国立映画保存委員会によって「文化的、歴史的、美学的に重要な」アメリカ映画に選ばれ、国立映画登記簿に登記された。過去百年程に製作された何十万本のアメリカ映画の中から『ブレードランナー』は未来の世代に手渡されるべき文化遺産のひとつに選ばれたのである。この映画はこれまで多くの観客を動員し、その少なからぬ観客に、それについて論じるよう駆り立ててきた稀有なフィルムである。実際これほど多くのひとびとにこれほど熱心に論じられてきた映画も他にないのではあるまいか。『ブレードランナー』は映画批評家や映画学者や映画監督は言うにおよばず、インターネット上の電子掲示板への書き込み者からサイト製作者をへて哲学者や社会学者や精神分析学者にいたる実に多様な観客を魅了し続けてきた。その意味で『ブレードランナー』は、ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』(1922)と同様の運命をたどってきているようにも思える。作者本人が「わたしは読者がこの小説をめぐって数百年でも議論し続けるよう、小説の中にありったけの謎を込めた」と語った、あの迷宮都市小説に。無論ジョイスほどの作家が単に膨大な量の謎を込めただけで、そのような大言壮語を吐くはずもなく、同様に『ブレードランナー』がかくも多くの観客を惹きつけてやまないのは、それが単に謎めいているという理由からだけではない。量的な謎はいつかそのすべてが解き明かされ、観客=読者の関心を惹かなくなる日がくる。しかし質的な謎はそうはゆかない。功利主義的合理主義だけでは説明のつかない、人間とは何なのかという質的な問いは、量的な問いに還元されることがない。『ブレードランナー』は人間にかざされた鏡たる人造人間の物語として、これからも未知なる姿を観客の瞳にさらし続けてゆくにちがいない。
 『ブレードランナー』を見た後に本書を繙く読者諸賢の中には、自分が見て理解した(つもりの)映画と本書で記述されている映画とがあまりにもかけ離れていることに驚いて、何かの手違いでまったく別の映画が本書で論じられているのだと感じる読者もおられるかもしれない。しかし本書の賭金はまさにそこにある。つまりわれわれ観客はある一本の映画を見たつもりでいながら、実際にはしばしばその映画を見損なっているということがあるのだということ、それが本書の出発点である。そもそも対象の理解というものが可能だとして、対象の意味と文脈をめぐる最低限の同意から出発しても、その同意の向こうに怪物じみた表情の意味と文脈がさらに生成され続けたとしても、何ひとつ驚くことはあるまい。もし驚くに値することがあるとすれば、それは過去百年をこえる映画史と映画理論が一本のフィルムを貫くその多様性の息吹にあるはずである。それは映画を見て聴くという必要最低限の営為が、いかなる条件のもとで新しい意味と文脈の生産に結びつくのかということを明確にすることである。
 本書はいまのところ世界でもっとも網羅的な『ブレードランナー』論である。しかし単なる作品論ではない。本書は作品論であると同時に映画技法論であり、映画史論であると同時に映画理論である。本書がそうした複数のスタンスをとるのは、いかなる作品も、それが帰属すべきミディアムとジャンルの創造と展開の方法と歴史なしには存在しえないからである。本書は『ブレードランナー』がいかに自己展開してゆくかを、もっぱらテクスト論的立場から解きほぐしてゆくが、同時にそれは、この作品がそれによって不断に裁ち直される映画史と映画理論についての再検討となる。そして個別的なものが論じられるのは、そこにつねに普遍的なものの再編の契機が認められるときである。一本のフィルム=テクストを織りあげるものはインターテクスチュアルな裁断であり、その意味でここにあるのは、映画百般をめぐる理論と実践、範例と実例である。本書で俯瞰されるのは、映画史と映画前史の縮図、映画後史の見取図、あるいは映画館論と観客論、あるいは映像と音響のダイナミズム、俳優身体のパフォーマンス論などである。それから古典的ハリウッド映画と実験映画、探偵小説とSF、メロドラマと悲劇、ヴィデオ・ゲームと写真と絵画といった各種パラミータもある。そうした概念と歴史のせめぎあいの中で本書は「映画学特別講義」と謳いながら、むしろ映画とともにその臨界を生きるという意味で正確に映画批評の書物たろうとしているにちがいない。 

(本書は2004年9月25日に筑摩書房より刊行)  
           


 一本の映画について五〇〇枚(今風に言えば一・五メガバイト分)も書き連ねることなど、ほとんど狂気の沙汰であろう。本書を書きはじめる前にそう友人に言われた。しかしそれならばこそやってみなければならない、わたしはそう思っていた。
 一本の映画とは『ブレードランナー』のことで、SF=フィルム・ノワールとしてカルト的人気を誇る映画である。そのカルトぶりはインターネットの検索結果からも一目瞭然である。『ブレードランナー』Blade Runnerを鍵言葉に検索すると、瞬時に何十万件というサイトとページがヒットする。世界中でつねに誰かが誰かと『ブレードランナー』について議論している。実際『ブレードランナー』については欧米で何冊もの本が出版され、そのうちの何冊かは日本でも翻訳されている。実に多くのひとびとが『ブレードランナー』を論じ、それは映画批評家/映画学者は言うにおよばず、社会学者から建築学者をへて哲学者や精神分析学者にいたっている。映画ファンから精神分析学者にいたる多くのひとびとを巻き込んで、『ブレードランナー』はその謎と魅力について語ることをわたしたちに要請している。
 それではわたしは何をやらねばならないのか。これまでの議論を整理することであろうか、それもあるだろうが、むしろまずこの一本の映画を見ることである。一本の映画を見て聴くこと。一二歳以上の者なら誰にでもできるであろうことが、実はなかなかできない。なぜなら一本の映画は、そこに交差する無数の映画の線からなり、ひとつのショットはそこに連なる無数の可能なショットの配列からなり、ひとつの映像と音響は無限に反響するからである。
 実際『ブレードランナー』を見たあとに本書を繙く読者のなかには、自分が見て理解した(つもりの)映画と本書で記述されている映画とがあまりにもかけ離れていることに驚いて、なにかの手違いでまったく別の映画が本書で論じられているのだと感じられる読者もいるかもしれない。しかし本書の賭金はまさにそこにある。つまりわたしたち観客はある一本の映画を見たつもりでいながら、実際にはしばしばその映画を見損なっていることがあるのだということ、それが本書の出発点であった。
 無論わたしたちは対象について、そのすべてを言い尽すことなどできない。せいぜい委曲を尽すのが関の山である。神ならぬ人間の身であってみれば、全体をそれ自体で統べることのできる者などいない。しかしそれでも全体の構造を把握することはできるかもしれない。全体が複数の細部に転位され、それゆえ細部が全体を反映するその動的構造をである。それゆえある種の細部を仔細に検討することで、全体への不可能な漸近線を引けるかもしれない。いや、そもそも全体という概念自体が人間にとって虚構であってみれば、わたしたちがなすべきことは、拡張しつづける穴だらけの境界線が、全体をいかに確定不可能な現在として囲い込むかを観察することだけだろう。そう思いながら、本書をある種の断章形式で書いてみた。
 『ブレードランナー』(1982/92)はハリウッド映画史上もっともすぐれた映画ではないにせよ、もっとも複雑精妙な映画である。それにしても映画史とは何か。それはフィルムの年代記や分類誌ではない。ましてチャート的評価体系でもない。それは単なる映画諸機械の発明と改良の歴史でもなければ、単なる映画の上映や興行の記録でもないはずである。ジャンルや国民映画や映画作家の記述分類でもない。映画史とはむしろフィルムとシネマの出遭い方、映画と人間の遭遇の記述、すなわち映画の生産的な読解の歴史である。フィルムがどのように複数の結節点を構成するのか、そしてわたしたちがそれをどのように受容するのか、そうしたことを記述するものが映画史であろう。そしてここにあるのは二一世紀初頭に『ブレードランナー』がどのように見られたのかという記録である。

(本稿2は『ちくま』2004年11月号に掲載された拙稿を改訂したものです)



 これはどのような書物かと訊かれて、ロラン・バルトの『S/Z』の映画学版だと答えられれば、それは幸福なことだろう。『S/Z』がバルザックの短篇小説『サラジーヌ』の構造分析であるという意味で、本書は『B/R』と名づけられてもよかったはずである。というのもこれはBlade Runnerの物語ではなくRoyの物語だからである。
 映画『ブレードランナー』の監督リドリー・スコットは、遡及的にプロデューサーズ・カット版と呼ばれることになる1982年公開版を、その10年後にディレクターズ・カット版として(再)公開するとき、「作者の意図」を楯にプロデューサーズ・カット版に映像と音響の改訂を加えた。以来、その新版の存在意義と商品価値を高めるために「作者の意図」という古色蒼然たる概念がインターネット上に跋扈しはじめ、「『ブレードランナー』を理解するためにはユニコーンの謎が解かれねばならない」とする監督のメッセージに応えるように、世界中の数えきれぬほどの『ブレードランナー』サイトにFAQ(よくある質問)コーナーが開設され、謎解きのパラダイムが提示された。そしてそのパラダイムは、いまをときめく精神分析学的批評家スラヴォイ・ジジェクの『ブレードランナー』論と同一のものであった。すなわちこの映画の主人公ブレードランナー(デッカード/ハリソン・フォード)は、自分がそうであると信じていたもの(人間)ではなくレプリカント(擬似人間)である。それゆえ主人公は象徴的同一性を喪失し、いま声にならない叫び声をあげていると。
 すべての人間は危うい象徴的同一性にすがって生きている。この精神分析学的寓意を喧伝するため、ジジェクはフィルム・ノワールの歴史を捏造した『ブレードランナー』論を発表し、それを序章にもつ大著『否定的なもののもとへの滞留 カント、ヘーゲル、イデオロギー批判』を刊行した。
 『ブレードランナー』を論ずるアマチュアのインターネット・サイトからジジェクのようなプロの批評家まで、ほとんどすべての言説が「作者の意図」にしたがい、ディレクターズ・カット版とともにブレードランナー(デッカード)は人間ではなくレプリカントであることが明らかになったと主張した。しかるに本書『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』は「作者の意図」がいかに謬見に満ちたものであるかを論証し、それにもとづくインターネット上のFAQサイトからジジェクその他まで、いかに多くのまちがいが踏襲されているかを検証している。
 というのもそもそも『ブレードランナー』の真の主人公はBlade RunnerではなくRoyだからであり、古典的ハリウッド映画のほとんどすべてがメロドラマであるという意味で、この映画もまた本来メロドラマとしてはじまりながら、きわめて例外的に悲劇として終わろうとしているからである。
 真の主人公がロイである以上、これはブレードランナー(デッカード)が人間なのかレプリカントなのかと問う物語でないことだけはたしかである。なぜならロイ(レプリカントのリーダー)は、レプリカントが本源的に人間に似ようとする存在であるのに対して(彼らが地球に落ちてきて、わずか四年の寿命を人間並みに延ばしてもらおうとするのもそのためであるが)、最終的に人間(他者)に似ようとしないことによって積極的にレプリカント(自己)にも似ようとしないからである。つまりロイは人間とレプリカント、オリジナルとコピー、実体と鏡像という二元論的対立を越えた悲劇的存在者となりおおせるのである。
 『S/Z』がたんなる作品論ではないという意味では、本書もまた『ブレードランナー』論とは呼べないかもしれない。むしろ積極的に映画史と映画理論のハイブリッド的読み換え作業と自称すべきだったかもしれない。この映画のすべてのショットに映画史の伝統が貫流し、各ショットの配列が共有された複数個の映画理論を反映するからである。しかしながらスラヴォイ・ジジェクのような精神分析学的批評家やリドリー・スコットのような映画監督が『ブレードランナー』を見誤り聴き誤るのは、映画史と映画理論に無知だからというだけでは説明がつかないだろう。むしろ彼らはたんに映画を見てもいなければ聴いてもいないだけなのである。
 亡命の地パリで客死した旧ソ連の偉大な映画監督アンドレイ・タルコフスキーは、大勢の人間が何年もかかってつくりあげた映画をたった一回だけ見て理解できるわけがないと言ったことがある。わたしたちは少なくとも二回『ブレードランナー』(プロデューサーズ・カット版とディレクターズ・カット版)を見る機会があったはずなのに、「作者の意図」が後者の優位を主張したために、この好機を失するはめになった(悪貨が良貨を駆逐するがごとく、もはやプロデューサーズ・カット版の入手は困難である)。そもそも『ブレードランナー』が最初に劇場公開されて興行的に失敗に終わりながら、今日なおカルト的人気を誇っているのは、それが初公開されたころに、それをいつでも好きなときに複数回見ることができるヴィデオ的環境が全世界的に整備されはじめていたからである。『ブレードランナー』が初公開された1982年から「再公開」されるまでの1992年とは、同じ映画を少なくとも二度見ることが映画的当為となる、そういう時期だったのである。
 ジョイスの『ユリシーズ』を一度読んだだけで理解できる者はいない(そもそも『ユリシーズ』は少なくともそれを二度読むことになるような構造になっている)。読むとはつねに複数回の行為なのである。その意味で初公開から20年以上経つのに、だれも『ブレードランナー』を正しく読もうとしてこなかったのは不思議なことだと言わねばならない。もっとも『ユリシーズ』が公刊されて四半世紀後に、それが「正しく」読まれていたかというと、同時代の批評書から判断するかぎり、かならずしもそうではなかったことが窺える。
 『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(筑摩書房)は、その意味でも二一世紀初頭に、この映画がどのように読まれたのかを示す記録たろうとしている。映画を見て聴くという、ただそれだけのことがいかに困難であるのかを示しながら、本書はおのずとテクスト分析と脱構築批評の方法に拠り、新しい映画史の可能性を実践的に切り拓こうとしているようである。

(本稿3は『新潮』2005年2月号に掲載された拙稿を改訂したものです)