未来に手渡されるべき日本時代劇の傑作群
第4回京都映画祭の愉しみ

加藤幹郎

 今年も京都映画祭が開催される(九月一八日ー二六日)。今回は時代劇映画特集である。実に三〇本近くの時代劇レトロスペクティヴである。しかしたんなるノスタルジーの対象として時代劇映画が集められているわけではない。未来の映像文化(ヴァーチュアル・リアリティ)の担い手たちに手渡されるべき確かな文化遺産として厳選されている。しかもここに厳選された日本映画は、世界のアクション映画と相互影響を生きた古典的傑作である。そもそも今回、日本の時代劇にまじって一本だけ上映される一九二〇年のアメリカ映画(ダグラス・フェアバンクス主演『奇傑ゾロ』)は同時代の日本の時代劇に大いなる影響をあたえながら、逆に『奇傑ゾロ』と同様の政治的剣戟ジャンル(「スワッシュバックラー」)たる『スター・ウォーズ』シリーズ(一九七七年ー二〇〇二年)の方は日本の時代劇から多大な影響を受けている。日本の時代劇と外国のアクション映画とが相互に影響をあたえあう関係は時代劇とスワッシュバックラーにとどまらず、中国の武侠映画(たとえば『HERO』二〇〇三年)と日本の時代劇にも見られる。百年の長きにわたる日本の時代劇ジャンルの変遷は、世界のアクション映画に影響をあたえながら、みずからもまた外国アクション映画に再影響を受けるという相互受容の歴史を生きてきたのである。
 むろん日本の時代劇が独自の芸術的展開を見せてきたことも言い漏らされてはなるまい。今回上映される作品のなかではやはり『決闘高田の馬場』(マキノ正博監督一九三七年)が突出している。ひとり果たし合い場に向かった伯父の加勢に駆けつけねばならぬ阪東妻三郎は、「パンつなぎ」走法とでも呼ぶべき世界映画史上類を見ないカメラワークと編集で宇宙論的な運動と情動の展開を見せてくれる。焦燥感と加速感への大胆にして入念な配慮、それがなければこの映画は成立しないだろう。あるいは『鞍馬天狗横浜に現る』(伊藤大輔監督一九四二年)では時代劇と西部劇が混淆し、過去に何度も鞍馬天狗を演じてきた嵐寛壽郎がひょうひょうとした表情で自己言及的な仕草を見せ、とても戦時国策映画として撮られたとは思えない味わい深い一作となっている。むろん『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(山中貞雄監督一九三五年)は日本が世界に誇るもっともすぐれた映画のひとつであるし、『長恨』(一九二六年)と『斬人斬馬剣』(一九二九年、ともに伊藤大輔監督)は、これを見ないひとは今後一生映画を見る必要がないと言うべき大傑作である。しかしこの二本は残念ながらいまだわずかな断片しか発見されていない。実際、一九二〇年代以前の日本映画の残存率は惨憺たるものがある。もし自宅の書庫や倉庫に題名定かならぬ古いフィルムが眠っているという読者諸賢にはぜひとも御一報いただきたい。そこに失われた日本の名作映画がふくまれているかもしれない。
 今回の京都映画祭は時代劇以外にも見るべきものが多い。とりわけオープニング・セレモニー(九月一八日)の無料上映会は必見であろう。長らく失われていた無声映画『特急三百哩』(一九二八年)が復元されて京都駅ビル階段で屋外上映される。映画史が『ラ・シオタ駅への列車の到着』(一八九六年)ではじまったとすれば、京都駅で列車映画を上映することは映画史的に言っても正しい身振りである。ポルデノーネ無声映画祭でもその超絶技巧が絶讃を浴びているサイレント映画伴奏家ギュンター・A・ブーフヴァルトが音楽をつけてくれるのも楽しみのひとつであるし、そもそも暴走する蒸気機関車を追って蒸気機関車が駆けつけるこの『特急三百哩』のダイナミックな運動性は映画の醍醐味そのものである。茶の間でテレビゲーム『電車でGO!』をやっているときではないのだ。      

(本稿は『読売新聞』2004年9月17日付け掲載分を改訂したものである。)