映画的省察 台湾、日本、アメリカ

加藤幹郎

日本で台湾人監督が映画を撮ること 侯孝賢『珈琲時光』

 チューリッヒの街は歩くようにできている。アムステルダムは自転車に、東京は電車に、そしてロサンジェルスは車に乗るようにつくられた街である。それだけのことを侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の新作『珈琲時光』(2003)は示している。かつて小津安二郎が『東京物語』(1953)を撮ったとき、電車は脇役にすぎなかった。五〇年後に侯孝賢がいまひとつの「東京物語」を撮るとき、電車は映画のなかの空位の中心となる。錯綜する東京の電車網のなかで『珈琲時光』のヒロイン(一青窈)はどこにもたどり着かない。各駅停車にもかかわらず、あるいはそれゆえに、彼女にはどの駅で降りるべきかわからないように見える。物語の萌芽はいたるところに散り嵌められているのだが、そこから開花すべき駅にいたることはない。電車はたんなる移動手段にすぎないはずなのだが、移動そのものが目的になってしまっているように見える。開花も結実もしない物語の萌芽はどこにもたどり着くあてのないまま、ぐるぐると山手線を経巡っている。それゆえ映画は奇妙な時間のうつろいを浮かびだしてしまう。喫茶店ですごされる茫漠たる時間がヒロインの人生の貴重な時間と重ならないわけでもない。たとえばかつて江文也という音楽家がいた。一九三〇年代から四〇年代にかけて日本楽壇の寵児となった台湾人留学生である。しかし日本敗戦とともに表舞台から姿を消してしまった。その江文也の数奇な人生を取材するヒロインのおなかのなかにもまた父親が台湾人の国境越境者であるこどもが宿っている。しかし映画はいっかな江文也のこともおなかのなかの子の父親のことも描こうとはしない。日常の時間のたゆたいのなかに歴史と空間の裂け目が厳然と横たわっている。じっさい『珈琲時光』には饒舌な物語がいっさい存在しない。日常の時間のなかに、いったい物語るにたる何があるというのか。ここには『ラスト・エンペラー』(ベルナルト・ベルトルッチ1987)のような大文字の歴史=時間は流れない。
 かつて日本統治下の台湾から数多くの留学生が日本をおとずれていた。その多くは江文也ほどの名声を博することはなかったが、そのなかに日本の小型映画あるいはアマチュア映画の世界で名をのこした者たちがいる。わたしはかつてそうしたひとびとが撮った短篇映画を台北の国家電影資料館で見せてもらったことがある。とりわけ登南光(登謄輝)と劉吶鴎のふたりは抒情的客観性をもったアマチュア映画作家として今日なお見る者の心を打つ。法政大学に留学していた登南光の『海女を見る』(1941)は小型映画界ではつとに有名だが、彼が描く台北の『淡水河、驟雨、蟲、春』(1940)や『東京』(1938)は、一足先に慶応大学に留学していた劉吶鴎の描く『淡水河』(1934)や極東版「カメラを持った男」シリーズとも言うべき『持撮影機的男人 東京巻』(1930)とともに台湾と日本、故国と外国を往還する者のもつまなざしの強靭さと繊細さがうかがえて興味深い。じっさいそれらの作品はアメリカ亡命直前にビリー・ワイルダーらが故郷で撮ったピクニック映画『日曜日の人々』(1929)を想起させる。身辺に生起するささやかな「祝祭日」を写し取る日記映画ないしホーム・ムーヴィーとして、これらの映画は同時代の個人の心の綾を記録している。

映画館で台湾人監督が映画を撮ること 蔡明亮『さらば、龍門客桟』

 いっぽう蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の新作『さらば、龍門客桟』(2003)は一面タールを流したような黒い映画だ。映画館のなかで撮られた映画なのだから、あたりは漆黒の闇につつまれ、明滅するスクリーンがかろうじて登場人物=観客の生態を浮かびあがらせるだけである。われわれは一般に「映画を見る」ことは動性(モビリティ)と見世物(スペクタクル)に満たされた経験だと考えている。しかしながらここで「映画を見る」ことを「見る」経験は不動性(イモビリティ)に首まで浸かることである。ここに流れる時間はハリウッド映画が躊躇なく切り捨てる時間であり、この八〇分の映画から、どこをどう繋ぎ直してみても八〇秒のハリウッド映画すらできはしまい。それどころかゴダールもキートンもポーターもだれもこんな映画を撮ったことがない。第一、ゴダールもキートンもポーターもみんなスクリーンに向かって登場人物=観客が突進する映画しか撮っていないではないか。彼らは観客として正しくスクリーンの向こう側へ不可能な旅にでかける。しかるに蔡明亮の登場人物=観客は、スクリーンにたしかにあの偉大な胡金銓(キン・フー)の武侠映画『龍門客桟(血斗竜門の宿)』(1967)が上映されているにもかかわらず、みんなてんでんばらばらに別の空間を見つめ、別の時間を生きている。なるほどスクリーンに視線をそそぐ観客がいないわけではない。スクリーンを見つめながら涙を浮かべる初老の観客さえ見える。しかし彼らが本当に見つめているものは、映画的物語以外の何ものかなのである。だれもが胡金銓の『龍門客桟』に惹かれて映画館をおとずれたにはちがいないのだが、にもかかわらず『龍門客桟』の物語にのめりこんで(虚構世界に向かって突進して)いる登場人物=観客の姿はどこにもない。この意味で蔡明亮の『さらば、龍門客桟』は徹頭徹尾映画館についての映画なのである。映画についての映画でも、映画の観客についての映画でもなく、映画館についての映画である。映画館の外では一日中雨が降りやまず(台湾の降雨量は多い)、映画館の天井はひどい雨漏りである。便所も通路も映写室も切符売り場もじっとりと濡れ、この巨大な映画館に龍が仮住まいしていたとしても何の不思議もあるまい。この映画館は『龍門客桟』の上映を最後に閉館する運命にある。だからこの映画の題名(『さらば、龍門客桟』)は映画に別れを告げているだけでなく映画館それじたいに万感の別れを告げている。長い歴史をもつこの実在の映画館は映画撮影後取り壊されてしまった。

台湾で日本人監督が映画を撮ること 藤田修平『寧静夏日』

 神戸で生まれた日本人青年が留学先のUSC(南カリフォルニア大学)映画学部で知り合った台湾人同級生らとともに台湾をおとずれる。そしてそこでデビュー作を撮ってしまう。主人公を演ずる青年と監督(兼脚本家)以外、ほとんど台湾人スタッフとキャストでしめられる藤田修平の『寧静夏日』(2004)は清新な映画である。監督同様、初めて台湾の地を踏んだ主人公(日本人青年)はこれからどうしてよいのかわからない。台湾で生まれ育った亡き母親の遺言にしたがって、その遺骨の一部を抱いて台湾にやってきた主人公は、どうすれば母親の魂を鎮めることができるのか、どうすれば母親の生きた台湾を想像することができるのか皆目検討がつかない。彼は逡巡し、停滞し、迂回し、台湾のあちらこちらを何度もくりかえし立ち廻ることしかできない。映画『寧静夏日』は逡巡と停滞と迂回と堂々巡りについての視覚的考察である。この意味でこれは『珈琲時光』の転倒した続篇のような映画である。しかしながら『珈琲時光』がいかなるメロドラマの生起も、いかなる歴史の生起も立ち塞いでみせたのとは逆に、『寧静夏日』には幾度もメロドラマと歴史が顔をのぞかせそうになる。しかし若い映画作家藤田修平は賢明にも母親の過去を、本省人の老教師の過去を物語ることを回避する。そこにあるのは現代の台湾の静かな風景だけである。けだし新しい才能の登場である。

アメリカでカメラ・オブスクラを見ること

 以前サンタモニカに住んでいたことがあるが、そのアパートのまえにカメラ・オブスクラが建っていた。陽光あふれる海岸リゾートなら、かつて世界中いたるところにあったカメラ・オブスクラがいまも椰子の木陰に隠れるように建っている。太平洋に突き出た近くの桟橋には賑やかな遊園地があり、もはや誰からも見向きもされなくなったこの小さな映像娯楽施設は、わたしにとって文献で読む以外、初めての本物の(博物館に再現されたレプリカではない、まがりなりにも一九世紀から生きのこった)カメラ・オブスクラである。テント式カメラ・オブスクラでも、書物式カメラ・オブスクラ(「宇宙劇場」)でもない、ベルトルッチの映画『革命前夜』(1964)にでてくるような、そのなかに入ってゆける一軒の立派な建物式カメラ・オブスクラである。サンフランシスコでもロサンジェルスでも、二〇世紀中葉の一流映画館がそのエキゾチックな外観をそのままにスポーツ・ジムや本屋に転業しているのを見てきたので、移築されたものとはいえ、一九世紀末のカメラ・オブスクラが解体もされずに今日までのこっていることにいささかのおどろきを禁じえなかった。数年前、ハーグに現役保存されている巨大パノラマ館をたずねたときにも感じたことだが、これらの初期視覚娯楽施設は、文献で読むのと実際におとずれるのとでは、まったくその印象を異にする。カメラ・オブスクラはその名が示すように、写真史や写真原理を解説する書物ではかならずと言っていいほど言及される、ごくありふれた映像装置=施設である。しかしながら、わたしにとってそれは写真の起源というよりも、むしろ正確に映画館の起源であるように思われた。実際、写真の起源という言い廻しが、もし永遠に凍りついたモノクロ画像を想起させるとすれば、カメラ・オブスクラの実体(カラー動画像をスクリーンに投射する最初の映像装置のひとつであるという事実)を忘却していることになる。はたせるかな仄暗い建物(カメラ・オブスクラ)の内部に入ると、床から突き出た直径一メートルほどの円卓が闇のなかに光っている。その光り輝く円卓が外界の景色を写すスクリーンである。なぜスクリーンが丸テーブルなのだろうかと思っていると、やがて暗闇に目が慣れてきて、テーブルのかたわらに舵輪のようなものが立っている。なるほどこれを廻すと、天井から屋根に突き出た潜望鏡のような恰好の集光レンズが廻り、建物の周囲三六〇度の光景を写し取る仕掛けである。連れに舵輪を廻してもらいながら、わたしはかつてパノラマ館でそうしたように(ただし今回は非常に小さな円周を)ぐるり回遊しながら風景のパノラマを眺めた。動く風景に合わせて、自分も円卓の周りを動きながらスクリーンを見つめていると、不思議な気持に襲われた。たしかに風に揺れる椰子の葉も、打ち寄せる白い波も、海岸通りを行きかう車や人の姿も見える。しかしわたしをおどろかせたものは、それらがわたしの両腕におさまるくらいのミニアチュールとして無音で動いているということである。それはふだんカメラ・オブスクラの外で目にしている光景とまったく変わらない非常にリアルなものである。唯一の相違点は、大理石の円卓のうえに見えている「現実」は、そこには実在しないということだけである。レンズと鏡というミディアがもたらしたこの不可思議な感覚をいま不在の実在感と呼ぶことにすれば、手をのばせば届くところに見えていながら、それが実在しないというある種の喪失感と諦念、それこそが映画であれ写真であれDVDであれ、すべての映像ミディアが本源的にかかえ込むことになった文化的桎梏(ストゥディウム)である。なるほどそれが実在することを確かめたければ、カメラ・オブスクラの扉を開けて明るい戸外に出ればいい。しかしわたしたちはいつのまにか、どの扉を開けても、もはやどこにもその実在が見あたらない、そんな永遠のカメラ・オブスクラのなかにみずからを閉じ込めてしまったのではないだろうか。

本稿は『未来』(未来社)2004年9月号に掲載されたものを改訂したものである。