書評
現代ハリウッド映画におけるジャンルとの対話とその意義
Steve Neale ed., Genre and Contemporary Hollywood (British Film Institute, 2002)

河原大輔

 撮影所システム下におけるジャンル映画、すなわち古典的ハリウッド映画にその対象が偏りがちであったジャンル映画研究において、現代ハリウッド映画と従来のジャンル映画理論との時間的、理論的距離を埋めることを目的とした修復作業が近年盛んに行われているが、編者であるスティーヴ・ニールも例に漏れず本書Genre and Contemporary Hollywoodをその流れの中に位置づけている。ニール自身も2000年にGenre and Hollywoodを上梓しているが、本書はリック・アルトマンのFilm/Genre など近年のジャンル研究における理論実践を受けた形でのケース・スタディを中心とした実証的研究論集という趣が強い。
 本書を考察する前に、ジャンルの定義について触れておく必要があるだろう。ジャンル映画とはまず「スタジオ・システム下で製作配給公開されたフィルムのこと」(1)である。またアルトマンの定義(2)を待つまでもなく、ジャンルはそうした複数の映画群を束ねる条件なるものを提示することはあっても、それが本質的な定義を持つことは決してない。したがってジャンルとは流動的かつ抽象的な概念でもある。ジャンルは形式と内容によってのみその絶対的な定義が下されることはない。ジャンルは製作、配給、興行、批評といった限定的な空間でのみ発生、流通するのではなく観客による受容と認識、さらにはその時代の社会状況を含めた広範囲におよぶ相互関係の中から複合的に形成されるものである。それゆえジャンルは今も昔もハリウッドの映画製作の中心的役割を担うと同時に、常に変容する可能性に満ち溢れていると言えるだろう。以上のようにジャンルが定義されるとき、撮影所システム崩壊以降のハリウッド映画を考察していく上においてもジャンルは重要な参照枠であることが理解できる。そこにはジャンルを古典的ハリウッド映画にのみ適用可能とする論拠はどこにもないし、映画史の暴力的な断絶を回避する手助けとしても有効である。現代におけるハリウッド映画を映画史という俎上に載せる上で、本質的に(定義が)存在しないからといってその存在を軽視することはできまい。ジャンルとの対話なくしては現代のハリウッド映画について語ることは到底不可能であるだろうし、それを怠る者は「映画の死」への安易な絶望と古典的ハリウッド映画への感傷旅行に就くか、現代におけるハリウッド映画を、突如出現したグローバリゼーション下における特異な現象として片付けることしかできないだろう。さまざまな空間における対話によってジャンルは時代時代によってその形を変容させ、また新たなジャンルも生み出すことで脈々と生き続けているのである。
 少なくともそうした試みのもと出発しているかのように見える本書の構成を簡単に説明しておくと、大きく分けてTradition and Innovation とNew Cycles and Trendsの二つのセクションから構成されている。前半部においては、古典的ハリウッド映画におけるジャンルとの比較などから現代においていかにそれぞれのジャンルとの対話がなされ、またそこからの質的変化がどのように起こっているかが、西部劇、ミュージカル、戦争映画、恐怖映画などの古典的映画ジャンルを例にとって考察されている。
 時代の移り変わりと共にジャンルが常に定義の修正、書き換えへの要請から逃れ得ないのであれば、本書が少しでも生産的な議論を生み出す瞬間というのは、まさにその時代時代によって異なるジャンルの本質を探るという知的活動に参加することによってしかありえないだろう。アンドリュー・テューダーは第8章"From Paranoia to Postmodernism? The Horror Movie in Late Modern Society" において、ジャン=フランソワ・リオタールの著書『ポスト・モダンの条件』(水声社、1986年)を出発点にして芸術分野のみならず広範囲に流通したポスト・モダンという用語、それによって語られる映画研究に対して、恐怖映画を題材にして疑問を投げかける。はたしてポスト・モダンホラーというジャンルは有効なのか、と。彼は『スクリーム』(1996 ウェス・クレイブン監督)を中心に1990年代の恐怖映画の特徴を、続編製作、コメディ的要素の導入といった形式的なものから、ストーリーの断片化、登場人物のアイデンティティの不確かさや正統的な語りの手法の回避といった内容にまでおよぶものを列挙しながらも、そこに古典的ハリウッド映画との対話、質的変化を見ようとはしない。彼はそれらの特徴が結局は20世紀を通して行われてきたモダンな様式の遅れた適用でしかないと結論づけて終わることしかできないのである。(3)しかしそもそも一体誰が90年代の恐怖映画が古典的ハリウッド映画の様式を応用していないなどと仮定したのだろうか。それはテューダー本人が出発点にしているリオタールでさえも、ポスト・モダン状況なるものが歴史の終わりと世界新秩序の確立である、などとは決して定義していないことからも理解できるだろう。(4)つまりテューダーの論文は、自明の事実を、間違えた前提を否定する形で確認したに過ぎないように感じられるのである。この印象は、テューダーの論文とは対照的に、第2章"Tall Revenue Features: The Genealogy of the Modern Blockbuster"においてシェルドン・ホールが、現代ハリウッド映画に特徴的とされるブロックバスターという概念が実は新しい現象ではなくそうした用語が発生する以前からハリウッドにおける映画製作の中心的な性格であったことを確認したうえで、興行形態、顧客対象、上映するジャンルなどさまざまな側面から古典的ハリウッド映画との差異を発見することで、現代ハリウッド映画の姿を鮮やかに炙り出していくさまに出会うときに一層強まるのである。
 ジャンルをめぐるダイナミズムがより実感できるのは、本書の後半部New Cycles and Trendsに収められた、撮影所システム崩壊以降新たに誕生した(サブ)ジャンルについて考察したいくつかの論文からだろう。例えば、S.クレイグ・ワトキンスによる第16章"Ghetto Reelness: Hollywood Film Production, Black Popular Culture and the Ghetto Action Film Cycle"では、ギャング映画と70年代前半の黒人観客を対象に製作されたブラックスプロイテーション映画という既存のジャンルを土台として、「ゲットー・アクション・フィルム」が、
(1)活動的な黒人映画作家が次々と登場してきたこと
(2)拡大する貧困層、少年犯罪、人種的不平等などといった黒人社会の問題解決を映画を通して訴えようとする彼ら新進作家たちによる政治的意図
(3)80年代以降MTV世代と呼ばれるラップ・ミュージックを消費する白人若年層が増大し黒人文化への需要が伸びたこと
などの経済的社会的要請を取り込みながら、いかに形作られていったかが、『ボーイズ・ン・ザ・フッド』(1991年、ジョン・シングルトン監督)を例に述べられる。また、ケビン・S・サンドラーの第14章"Movie Rating as Genre: The Incontestable R"は、1968年のプロダクション・コードの廃止とレイティング・システムの導入後、保護者層やモラリストなどのイデオロギー装置と産業の交渉の中からティーンエイジャーを観客として呼び込めるR指定映画(Incontestable R)が形成される経過を雑誌記事や産業の変遷などから読み解いていく。これらの論文は、ジャンルの形成が社会運動との接触、交渉を経る常に複雑で多面的なものであること、そしてサンドラーも語っているようにそうした経過を経て生まれたジャンルの協約(generic contract)は常に切断される可能性すらある不安定なものでもあることを感じさせてくれる。(5)だからこそ生き物のごとく変化を見せるジャンルとの対話が撮影所システムが崩壊した現代においてもいまだ重要な作業であり続けていることを、本書は改めて教えてくれるだろう。


(1)加藤幹郎『映画ジャンル論』(平凡社、1996年)10頁。
(2)Rick Altman, Film/Genre (British Film Institute, 1999), p.14.
アルトマンはジャンルを多様な意味を持つ複合的な概念として以下のように定義づけている。
・ 青写真としてのジャンル つまり、映画制作を進め、計画し、方向付ける方式としてのジャンル
・ 構造としてのジャンル つまり個々の映画が基盤としている形式骨組としてのジャンル
・ ラベルとしてのジャンル つまり配給会社および映画館の決定やコミュニケーションの中心カテゴリーの名称としてのジャンル
・ 協約としてのジャンル つまりそれぞれのジャンルの観客から要求される見地としてのジャンル.
(3)Andrew Tudor, "From Paranoia to Postmodernism? The Horror Movie in Late Modern Society" in Steve Neale ed., Genre and Contemporary Hollywood (British Film Institute, 2002), pp.114-116.
(4)浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫、1999年)250頁。リオタールはポスト・モダンという用語の使用について、自ら誤解を招いたことを自覚しながらも、「これまでの前衛の遺産を清算してページを繰ることができるといわんばかりの軽薄な主張」が存在することを知りながらもあえて「挑発の意味もこめてこの言葉を使った」と語っている。
(5)Kevin S. Sandler, "Movie Rating as Genre: The Incontestable R" in Genre and Contemporary Hollywood, p.213.