書評
作品考察の前提作業
加藤厚子著『総動員体制と映画』(新曜社 2003)

齊藤佑介

 加藤厚子著『総動員体制と映画』(新曜社、2003)は、「総動員体制」と「映画」との関係というよりは、「総動員体制」という状況における「映画」について記されている。また、ここで言われる「映画」とは、個別の映画作品でなく、映画産業と言ったほうがより正確になるだろう。
 全体は三部構成となっており、「第一部 総合的映画統制への模索―映画国策への道」、「第二部 映画国策の確立と戦時国民動員の実施」、「第三部 映画国策による国民動員の限界」という題目が掲げられ、それぞれは映画統制における「樹立期→展開期→崩壊期」(p.265)に対応していると言える。
 「総動員体制」と「映画」という二つを見るときに本書は、たとえば櫻本富雄の『大東亜戦争と日本映画 立見の戦中映画論』(青木書店、1993)で見られるような「官庁=加害者、映画会社・製作従事者=被害者」(p.9)という善悪二元論の図式を採用しない。もちろん、このような図式によって見出されるものは多いだろうが、逆に官庁側の意図や動きが見えにくくなるという難点もある。その難点を克服するために、本書ではそのような図式は採用されない。逆に内務省警保局警務課事務官・館林三喜男の日記という新たな資料を掘り起こし、官庁側の動きに焦点をあてることに成功している。
 また本書は非常に丁寧に「国策」という概念について分析し、「国策映画」という用語の使用を禁じている。その上で著者は映画の統制について1939年の映画法から1940年の映画新体制を経て1941年の映画臨戦体制を含む形で記述する。本書は、このように非常に細やかな前提作業の上に書かれえたものであり、またその視点は日本国内に限定されてはいない。
本書の第三部の第五章、第六章では大陸と日本支配地における映画工作の展開も考察されている。このために全体の四分の一という分量が割かれているが、それは決して無駄ではないだろう。このことによって日本の戦時下における映画統制を包括的に見る視点を築きえたこともまた本書の成果のひとつであろう。
 本書の慎重さは、その冒頭部分にも如実に表れている。本書は映画法にいたる道程の起点を満州事変におくものの、それ以前から行われていた検閲についても記されている。すでに検閲は地方ごとに行われていたのである。アメリカのヘイズ・コードの例を出すまでもなく、このような規制、検閲と映画とは切っても切れないものであろう。映画の規制とは、戦時下という特殊な状況において突如として出現したものではないのである。二十年代の『ジゴマ』の例を想起すればわかるように、『バトル・ロワイヤル』事件同様、映画が害悪をなすものであり、取り締まるべきだという凡庸な議論は長い歴史をもっている。それゆえ本書は、戦時下における検閲、規制とは突発的な出来事というよりは、すでに存在していたものが時局に合わせて姿を変えたにすぎないという主張を明確に打ち出している。
 官庁側と映画会社側、つまり一般には相対立し、利害が一致しないと思われる両者は、映画統制においては一つの目標を共有することとなる。それは端的に言えば映画作品の「質的向上」である。つまり良質の映画作品をつくりたいということだ。しかし、ここで一見、両者の目標は一致しているように見えるものの、実際にはそれほど単純な話ではないということを本書は教えてくれる。つまり、ここで言われる映画の「質的向上」というものが具体的には何を意味しているのか。そしてまた、その目標への到達にはいかなる手段を講じるべきなのかということが問題化され、その問題についての議論が本書を通して繰り広げられることになる。
 それは早くも映画法成立時から問題となるだろう。この段階では映画法とは文化統制というよりは、むしろ事業統制であり、まさにその点が問題となる。はたして会社側が望むように、事業統制によって「製作制限→濫作防止→『質的向上』」(p.76)という図式が成り立つのか。他社との競争が沈静化することを一番に望む経営者とは違い、映画作品の質的向上に加えて国家による指導体制の確立こそ官庁側が欲したものだから、両者は根本的な部分で食い違っている。作品自体を直接、積極的に統制する方法でなく、その基盤である事業を統制するということが果たして映画統制として正解なのか。このような問題はすでに映画法を可決するための議会審議でも議論の的となっており、本書はそれを第一章で詳述する。
 続く映画臨戦体制においては、会社側の論理を否定する形で自由競争は存続させられている。それによって質的向上を目指すということである。また国民映画という名のもとに積極的にシナリオの募集と委嘱製作も試みられている。しかし、そのような試みはいかなる成果を出したのか。

実際には製作における優遇も興行助成措置もない非一般用映画が、観客の嗜好に支えられ高い興行成績を上げていた。逆に、官庁側の興行助成を受けていても、作品の観客吸引力がなければ、高い興行成績は上げられないのが実情であった。(p.168)

官庁側の要望と映画会社の製作傾向、観客の観覧嗜好が咬み合わないというこのような状況は、計画経済下で生産―流通過程の統制管理を確立しても、消費を予測し一定収入を確保することができないという映画の経済的特性が如実に現れた結果であるといえよう。(p.168)

このように本書に記されているように、当時、国民教化手段としてあった「国民映画」より時代劇を中心とした娯楽作品のほうが収益をあげている事実を見れば、ここで如実に示されているのは国民教化、質的向上におけるひとつの挫折であると言えるだろう。映画にあってはこのような成功、失敗というものは観客動員数とか興行成績とかいったものによって客観的に判断できる(むろん本当の「映画の質」というものについては別であろうが)のだから、本書でもそのような数字を確認した上で、そのような試みが失敗であったという判断がなされている。ここで興味深いのは、いかにして「質的向上」を達成して「いい映画」を作り出すか、そもそも良質の映画とは何か、といった議論が一つの数字によって敗北するという事実である。
 
映画国策の終末的状況は、映画による国民動員が、観客嗜好にもとづく市場理論の前に挫折した過程であったということができるであろう。(p.264)

上記の文章はこの事実を端的に要約している。そして
 
映画国策の展開過程は、国民動員の装置としての映画(とその産業構造)を戦時統制システムに組み込み、その動員装置を作動させながらも、映画作品を受容する国民(または日本支配地の住民=擬似的国民)の観覧傾向が官庁の移行と相反するという状況に直面し、装置の性格を変化させてきた過程であるといえる。(p.270)

と本書にあるように、映画統制はほとんど失敗したような形で最終的に映画産業による自治的な統制に移行し、それに伴い国民教化を目的とした映画統制は国民慰安へと変化していくことになる。このように本書がつぶさに分析する変容は、映画という困難な対象を前にした官庁側の最終的敗北を示しているように思える。
 本書はこのように閉じられた書物ではない。「おわりに」に課題として書かれているように、戦中には一つの題材を新聞小説とその映画化、または映画とその小説化というように、さまざまなメディアを通して流通させる、いまで言うならばメディアミックスのような方法が採られており、これは研究に値する興味深い事象である。また同時に映画統制の世界規模の考察や、映画統制が戦後に与えた影響についても語られなくてはならないだろう。
 しかし、私が真に切望するものは、『鴛鴦歌合戦』や『続清水港』の内容について語ることである。

 作品が置かれた環境から切り離して、作品内容の周辺のエピソードだけで「時代の風潮」を語るのでなく、まず映画作品をとりまく環境の変化、すなわち映画国策の展開過程を明らかにすることが、作品内容を考察する前提作業として重要でないだろうか。(p.7)

と本書の冒頭でも語られているように「環境の変化、すなわち映画国策の展開過程を明らかにする」という「作品内容を考察する前提作業」が本書によってなされたのだから、われわれは映画作品の内容について語るということをしなければならない。たとえば、榎本健一の主演映画が当時人気の高かった榎本健一=エノケンというコメディアンの存在によってのみ観客に好まれたのか、それともそれが本当に「質の高い」作品だったからなのか、といようなことを考えなくてはならないはずだ。
 しかしそもそももし本当に「映画国策の展開過程を明らかにすることが、作品内容を考察する前提作業」であるとするならば、それはいかなる根拠で、そう言えるのか。その本質的問題が本書では触れられていない以上、われわれは映画の「作品内容」とは何なのか、そのこと自体をまず考えてみなければならないだろう。