CineMagaziNet! no.1(Autumn 1996)

横田商会神泉苑現像所はどこにあったか
京都映画史研究序説2

鴇明浩



 本調査報告は、CMN!創刊準備号掲載の「二条城撮影所の謎を追え!」の報告内容を補足するものである。「二条城撮影所の謎を追え!」を未読の読者は本報告書より先に、お読みいただければ幸いである。

はじめに


 横田商会はシネマトグラフ興行を行って間もなく、京都は神泉苑付近、すなわち二条城南に面する界隈に現像所を設置し、フランスから輸入したフィルムを複製していた。およそ明治38年頃である。このことは、田中純一郎が『日本映画発達史』に記述してから、いわば日本映画史の通説となっており、同所は京都の映画史においては、はじめての映画現像所完成と位置づけられることになる。明治43年、初の撮影所がその近辺にできたことも偶然とは言えないだろう。ところがその立地場所は今まで皆目検討もつかなかった。
 百年の映画の歴史を刻んだ京都に住んでいると、至るところで映画人たちの遺香を感じることになるのだが、歴史的な場所としてそのエリアが確定できる場所というのは大正末期以降のものといってよいのではないだろうか。確かに左京区真如堂(牧野省三はじめての監督作品である『本能寺合戦』が撮影されたロケ地)のように、特定の社寺仏閣や文化財のような場所であれば、古い文献の記述が一言であっても、現在の私たちがそのスポットを映画史に刻むことは可能となるのだが、横田兄弟商会発足の頃の興行に係る場所や尾上松之助映画のロケ地などは場所を限定することはほとんど不可能に近い。
 たかだか百年の歴史が霧中に隠れてしまった京都の映画史研究(特に京都文化としてそれを位置づける研究)は映画が文化的特権を持ち合わせる機会がごく少数の間に限られていたことを示しているのだが、生き証人がほとんど亡くなってしまった現在その細部を改めて蘇生させることはもはや困難である。せめて取材方法として、優先順位を定めること、つまり場所は重要と思われるものから、証人は(超)高齢者の方から行っていくことが必要と私は考えている。この方針から、これまで私は次の2点の区画をおよそ限定した。

1.横田商会二条城撮影所(『CMN!創刊準備号』)
2.横田商会法華堂撮影所後の日活関西撮影所(『FB』6号「聞き書き:高津嘉之」・行路社)
 
 本調査では、引き続き横田(兄弟)商会に関係する歴史的スポットとして、京都初の映画フィルム現像所の立地状況を示してみたい。ただし、土地区画を示す公文書や写真は存在しないので、本報告は映画史の上では推測の域を出ることはないだろう。 
 したがって、日本映画史を研究される読者にあっては、さらなる情報収集や新たな仮説の可能性をご提示いただけたらと思う。

 本文に入る前に、まずは、次の略年譜によって、当時の関連事項の流れを確認していただきたい。

横田兄弟商会と日本の映画事情略年譜

1895(明治28年)

シネマトグラフ発明される。

1897(明治30年)

シネマトグラフ日本に伝来。京都にて試写実験。コンスタン・ジレルが日本各地を撮影する。横田永之助に関東方面の興行が委ねられる。しかし、ほどなく、永之助はシネマトグラフ興行から手をひく。

1900(明治33年)

7月、高木永之助(当時は高木家養子であった横田永之助)は兄横田万寿之助や稲畑勝太郎とともにフランス万博を視察し、シネマトグラフ・フィルムを持ち帰る。再びシネマトグラフ興行を行う。

1903(明治34年)

6月、横田兄弟商会設立。6月、京都新京極夷谷座にて、フランスより持ち帰った「軍事的教育映画」(北清戦争やパリ万博の模様のドキュメント)を興行。浅草にはじめての映画専用劇場「浅草電気館」開館。映画館のはじまり。

1904(明治37年)

日露戦争。『日露戦争活動大写真』公開される。

1905(明治38年)頃

横田商会は、それまでは外注していた現像作業を自家製で行うようになる。土屋常二(アメリカ帰りの技術者)を京都へ招き、「京都神泉苑」(『日本映画発達史1』に記述)へ現像所を作った。

1907(明治40年)

3月、横田商会、大阪角座と東京錦輝館を特約興業場とする。7月7日、横田商会による千日前電気館開館。我が国2番目、京阪神初の活動写真専門館。

1908(明治41年)

東京の吉沢商会、最初の撮影所を建設。横田商会、『いもりの黒焼』制作、またこの年4月にはメリエスの『月世界旅行』を錦輝館にて興行。

1909(明治42年)

 『碁盤忠信・源氏の礎』で尾上松之助デビュー。

1910(明治43年)

横田商会、二条城西南方向にあたる押小路女学校通西北角に撮影所を建設

1912(大正元年)

日活創立


1.当時の現像技術、生フィルム購入事情などについての考察


 まず、映画史料をたどって、当時の技術レベルの推移を概観してみる(いずれ、写真技術関係資料からの新たな考察が付加えられるかもしれないので、しばらく後に再び訪れていただきたい)。
 『稲畑勝太郎君傳』(*1)には、上方俳優の中村雁治郎、同福助一座の芝居撮影をシネマトグラフで行うことになり、京都祇園の有楽館跡で『石橋』を撮影したことが記され、続いて次の記述がある。

 「然るにこれを現像する一段になって、当時西陣にあった君の邸宅は、塵埃のために井戸水が濁り、現像に不適当だというので、態々大阪の店(現在の東区順慶町二丁目)で、その当時始めて出来た水道の水を以て現像したが、折柄夏日の暑熱のために水道の水が、一定以上に温度が騰つていたのに心づかず、フィルムのゼラチンが浮かび上がり、どうすることも出来ず、せっかくの撮影を台無しにしたのであった。」(*2)

 さらにフランスから同伴してきたリュミエール社の技師ジレルに、稲畑自身の家庭や保津川の筏流し、心斎橋通の光景等を撮影させた後も・・・

 「そのジュレールすらネガチーフからポジチーフを撮る方法を弁へず、一旦リュミエールの許へネガチーフを送って、改めてポジチーフを逆輸入するといふ有様で、今日から見れば、実に隔世の感に堪えぬものがある。」(*3)

 この記述の後には、当時の税関がフィルム輸入の際、包装を解いて台無しにしてしまったことと、輸入経路においてもインド経由により熱に禍されることがあったため、ある時期からはアメリカ経由のルートで輸入したことが記される。
 このことから、明治30年2月から数カ月、映画のフィルムをまともに扱える人物は皆無であった様子がうかがえる。もちろん専用の現像施設などのぞむべくもない頃だったのである。
 しかし、『日本映画発達史1』(*5)には、明治30年6月には小西写真機店がヴァイタスコープ用のゴーモン社製の撮影機を購入し、浅野四郎という技術者が自ら撮影したフィルムの現像にかろうじて成功したと記されている。ヴァイタスコープであったこの場合、ネガを紙屑篭の胴へ巻き付け、薬を入れたタンクに浸して廻したという。またできたネガからポジは撮影機を使って現像したという。
 その後については、『映画史料発掘35』(*6)に頼ってみよう。それから4年後の明治34年10月25日の京都日出新聞の「楽屋風呂」と名付けられた興行通信欄を紹介しているのだ。

 「南座の活動写真は過日駒田好洋が高瀬川の曳船、木屋町の電気鉄道等を苦心撮影した活動写真が出来上つたのでいよいよ今夜から公衆の観覧に供すると・・・」

 当時の駒田の活動写真会なる巡業の売り物は、興行を打つ地で撮影したものをその地で即上映することであった。この場合、駒田は京都の最新技術を映像化し、地元の人々に映像スペクタクルとして提示していたのである。
 このことを念頭に置いて、この10月25日に至るいきさつを追っていくと、9月22〜28日の間、駒田の一行は京都夷谷座で興行を打っている。10月1日からは大津での興行が行われたとみられる。10月14日の京都日出新聞には、10月20日から駒田一行が、今度は南座で興行を行うと伝える。その際、祇園新地、本斗町の芸妓の踊、四条橋その他を上映するという。しかし、実際これらのフィルムは上映されていないように思われる。地元新聞が伝える「見物」の中には、その記述がないのだ。「見物」とは橋は橋でも東京の日本橋であり、芸妓は富士見町芸妓の越後獅子である。各地で撮影、即現像を行っていた駒田一行が9月の京都滞在の間に同地を撮影したか、別部隊が別行動で撮影したかのいずれかであり、10月13日の段階では、そのフィルムの10月20日からの上映予定をしていたが、それは撮影の失敗などで(ネガがある以上、現像の失敗という理由だけで上映中止に至ることはない)結局上映できず、20日から24日の間に京都で新たな撮影済のフィルムを現像したということが言えないか。

 明治34年の段階では、映画のフィルムは日本人興行師によって何度も現像されていた。しかも、それには特定のラボは必要とせず、興行巡業隊が巡業先の各地で現像をしていた事例が存在するのだ。フィルムの尺も70尺とも言われる短い時代、大きな専用設備は必要なかったはずである。
したがって、横田商会が設置した「現像所」もけっして大層な施設ではなく、簡易な暗室に道具を持ち込んだにすぎないのではないかと、私は考える。むろん、それは借家であってもよい。

 補足であるが、これからずっと後、明治43年頃には映画フィルム輸入業は映画産業にしっかり組み込まれていた。『日活の社史と現勢』(*4)では日活設立を画策した人物の一人である頼母木桂吉(民政党代議士、許逓信政務次官)が東京京橋で生フィルムの輸入業を営んでいたことが記されており、フィルム取り扱い業者が映画産業の体制改善に積極的に加担するからである。

3.横田商会の現像所は「神泉苑近く」のどこにあったか


 『CMN!創刊準備号ブックレット1京都映画史』の「二条城撮影所の謎を追え!」に私はこう書いた。

 「・・・神泉苑(の近くの現像所)については現・神泉苑西側よりやや北に上がるエリアのどこかであることが推測される。その根拠は1.現・神泉苑西隣は丸紅の染工場があり、水路をはさんでその西側にも資材置場があり、そこではない 2.現・神泉苑の東から南のエリアは昔からの宅地であり、明治の頃に「映画人」の仕事場に家屋を提供するということはありえない。3.したがって、現像所は現・神泉苑西北方向の当時の空き地の辺りである。ということが、今回の竹島さんの話から推測された。今後の調査でこれを裏付けていかなくてはならない。」



 これに新たな情報を加え、改めて展開する。
結論じみたことを言うが、今回の推定箇所を限定した根拠は大きく、可能性のある神泉苑周辺エリアの消去法による絞り込み(前回も簡単に記述)と当時の人間関係の二つである。

限定場所の消去法

 二条駅は明治32年に開通し、それから一挙に周辺が資材のターミナルとなった。主な土地の利用状況は、民家、工場、農地、資材置き場、そして水路であった。
 現・神泉苑東と南には民家が建ち並んでいた。もしくはそれらの住民たちの農地があった。得体の知れない見せ物興行者に面識もなく場所を提供する者はまずいない。
 現・神泉苑西隣の区画は丸紅の染工場があり(昭和6年移転ののち更地となり、その後現在の民家群)、その西には二条城の掘の水を神泉苑の池まで流す幅広い(今の車道)水路(当時、水の音がはげしく「どんど」と呼ばれた)が通っていた(現在では想像もつかない)。そして、NTT東に沿った今の歩道は当時も路であったが、そのNTTの区画も当時は材木置き場であった。したがって、この区画でもない。
 今の天理教教会は畑であった。まったく問題外である。
 問題は、現・教会、当時の畑地の南側に、唯一変わった利用がされていた場所があっり、当時はそこが周辺では唯一の空き地であったことだ。正確にいうと遊休地ではなく、小屋が一軒ぽつんと建つ挽粉(ひきこ)の干し場として利用されていた。
 挽粉とは製材の際に出る大鋸屑(おがくず)を干したもので、型友禅の染料がなじむように使われた。木材のターミナルであった場所で生じる廃棄物が至近にある西陣の染め物の消費材として再利用されていたのである。製材の際は丸鋸の刃先の磨耗を防ぐため水滴を落としながら材木を加工していたので挽粉も濡れることになり、約五日ほどは日干しをしなくてはならなかった。したがって、このような挽粉の出荷には干し場が必要であり、干し場は製材場の近くである必要があった。量で売らなければ仕方のない製品である挽粉を入れた袋は1メートル四方ほどの俵などで運んだというから、製材所に至近でなければコストも手間も大変だったろう。そう、製材所はこの周辺から目と鼻の先の三条千本通り南の界隈に集中していたのである(現在の信用金庫がそれらを取り仕切る千本組親分邸宅であった)。
 本調査は、とりあえず、前回に引き続き竹島初太郎氏の証言による以上の消去法から、その挽粉干し場の中にある小屋が現像場所であった可能性を指摘する。

人的関係

 そこで挽粉業を営んでいた人物が林長次郎氏(天領農地を借りていた農家である林家11代目)で、「おがちょうさん(大鋸長)」と呼ばれていたが、彼には写真撮影の趣味があった。明治時代に写真撮影は明らかに特殊な趣味であり、近辺でそのような趣味を持っていた人物は彼と富豪の矢野氏(『CMN1創刊準備号』参照)くらいのものであった。
 現像技術共有と立地が奇妙な符合をもって、現像所の場所をほのめかすのだ。

4.課題

 横田永之助の土地所有状況を調査する必要がある。また、現像技術を当時の横田商会がいかに取得したか、文献調査が求められる。

つづく


(*1)『稲畑勝太郎君傳』(昭和13年/稲畑勝太郎翁傳記刊行會)
(*2)同上 p.312-313
(*3)同上 p.313
(*4)『日活の社史と現勢』(昭和5年/日活の社史と現勢刊行會)
(*5)『日本映画発達史1』(昭和32年/中央公論社/田中純一郎)
(*6)『映画史料発掘』(1980年/製作・著作 塚田嘉信/私家版)

1996/8/31