CMN! no.1 (Autumn 1996)
映画雑記---映画共同体のために

他人の褌で行司をやる猿 あるいは映画史への愛情を忘れた新聞たち

中西悠一郎

 他人の褌で相撲をとる者は困りものである。まして他人の褌で行司をやろうとする者は粗忽者の謗りを免れない。
 『映画新聞』(一九九六年二月一日号)紙上で、同紙の「編集スタッフ」景山理氏なる人物が、映画批評家加藤幹郎氏の一文「映画雑記」(CineMagaziNet!創刊準備号所収)を引用した。以下に、その景山氏の文章を引用しよう。

 〔加藤氏は「映画雑記」のなかで〕『錨を上げて』の「ジーン・ケリーがアニメのトムとジェリーと踊った」という〔『毎日新聞』の〕記事の誤りに触れている。踊ったのは「鼠のジェリーとであり、猫のトムは踊らない」、よくある誤りだが、なぜ「猫は踊らないのかと問うことも可能」だと書かれている。もっともである。

 愚鈍な私には何が「もっともである」のかよくわからないが、ひとつだけ判然としていることがある。それは、ここで景山氏が他人の褌で相撲の行司役をやろうとしているということである。景山氏の文章だけを読めば、先般亡くなった反赤狩りの偉大な反骨ダンサー「ジーン・ケリーがアニメのトムとジェリーと〔仲良く三人で〕踊った」という『毎日新聞』の記事の誤りを「よくある誤りだ」と判断しているのは、景山氏当人のように聞こえる。しかし実は、その判断をくだしているのは、景山氏が引用している加藤氏の方である。つまり景山氏は、加藤氏がくだした判断をあたかも自分の判断ででもあるかのように引用を再構成しているのである。景山氏の文中の「よくある誤り」という一言は、実はそっくりそのまま加藤氏の文章から取ってこられたものなのだ。
 ところでCineMagaziNet!創刊準備号に掲載された加藤氏の一文の趣旨は、彼自身がその企画に最初期から協力していた『大阪毎日新聞』中の映画史の誤謬の数々を訂正するよう、同紙に求めることにあった。
 そして景山氏は(『映画新聞』紙上で)、加藤氏の一文を引用しつつ、加藤氏と『大阪毎日新聞』とが相争う土俵にあがりこんで、行司役を買ってでようとする。ところが、それが他人の(つまり加藤氏の)褌をつけた行司なのである。
 『大阪毎日新聞』紙上に、ジーン・ケリーが猫と鼠と三人で仲良くダンスを踊った旨記した某映画評論家は、映画『錨を上げて』の細部をよく確認しなかったために誤りを犯したわけだが、犯さないにこしたことはないけれども、それでも犯してしまうのが誤りだとすれば、それは早々に訂正しなければならない。ところが『大阪毎日新聞』は、映画史百年企画を長々とやりながら、頑として訂正記事を載せようとはしない。
 さてここで問題なのは、他人の褌をつけたジャーナリストの方である。行司役を買ってでたつもりのこの滑稽な猿は、『錨を上げて』の細部に関する加藤氏の判断を、まるで自分自身の判断ででもあるかのように擦り替える。
 私の愚鈍さも並はずれたものであるが、このジャーナリストのそれは桁はずれである。その第一点。加藤氏は「『朝日新聞』には日々これ訂正記事が掲載されている」のだから、『大阪毎日新聞』も同じように映画史の誤りの訂正記事を載せればいいではないかと提案する。これに対して、『映画新聞』の景山氏は加藤氏の言うことが信じられない様子で、「朝日も本当にホイホイと〔訂正記事を〕書くだろうか?」と自問する。しかし景山氏は自問はしても、自分で答えをだすことはできない。もよりの図書館に行って(あるいはコンピュータ・ネットを通して)、一九九五年度の『朝日新聞』の任意のバックナンバー一週間分にでも目を通せば、加藤氏の言っていることが事実であることは明らかになる(一九九五年度の『朝日新聞』は、どんなに些細な誤りでも、どんなに滑稽な誤りでも、たちどころに訂正記事を掲載していた)。ところが、この行司役を気どる猿は、行司役としては甚だ無責任なことに(そしてジャーナリストとしては甚だ無気力なことに)、そのような簡単な調査もしないまま、大新聞に訂正記事を期待することなど無理な相談なのだと分別ありげに肩をすくめてみせる。要するに、この『映画新聞』編集発行者は、ごく簡単な事実関係すら調べられないジャーナリストなのである。
 第二点。これはなぜこのジャーナリストが簡単な事実関係さえ調べられないのかということと関連するが、結論から先に言えば、彼にはおよそ知的好奇心が欠落している。加藤氏は『大阪毎日新聞』の映画史の誤りにふれて、映画史における「シリアル」と「シリーズ」の違いについて、先頃大ヒットした映画『シリアル・ママ』を引いて説明する。それを行司役を買ってでたつもりのこの猿は、ただ茶化すことしかできない(メディアに登場する猿とはつねにそういうものだが)。彼は『映画新聞』という媒体を編集発行しながら、『シリアル・ママ』の「シリアル」が連続殺人の「連続」を意味するということを知らなかった。それはいいだろう。映画ジャーナリストでありながら、それを知ろうとしなかったことも、まあ大目に見よう(彼はさしずめ「シリアル・ママ」とは、ケロッグのシリアル・コーンを朝食にだす母親のことだと思っていたにちがいない)。彼の最大の愚かしさは、シリアルの意味を知る絶好の機会となった加藤氏の一文に対して、猿の振舞いしかできなかった、その知的頽廃にある。この映画ジャーナリストもどきは、映画史について何事かを学びとろうという気もなければ、『大阪毎日新聞』がPKOやPL法といった不分明な「日本語」を使うことを放置しておきながら、その映画史欄で、自分の知らない「シリアル」という言葉が使われることには怪音をならして異議をとなえるのである。
 ジーン・ケリーとトムとジェリーのダンスの一件において、景山氏は厚顔無恥にも加藤氏の判断を自分自身の判断ででもあるかのように擦り替えていたが、なるほど映画評論家ですらまちがう映画の細部に関して、事実関係をきちんと調査できず、また知的好奇心も欠落させた映画ジャーナリストが自分なりの判断などできるはずがない。
 いくたの誤謬を放置したまま映画百年史を連載しつづけ、いつまでたっても訂正記事を掲載できない『大阪毎日新聞』にも困りものだが、そのマスコミ紙の「文化的蛮行」を、その気もないのに、軍配片手に支持する格好になった『映画新聞』もまたいかにもおめでたいミニコミ紙である。
 映画ジャーナリズムにかかわりながら、正確な映画史を探究しようという熱意も愛情ももちあわせていないこの二点の新聞に、映画史への愛にめざめる日はいつやってくるのだろうか。かれらの仕事が映画共同体の構築に誠実に貢献できる日を心待ちにしたい。