CMN! no.1 (Autumn 1996)
映画日記

マイク・リーの秘密と嘘

山品 友美

 葬式、バースデー・パーテイ、結婚式。これは、普段は離散している個々の大家族が大集合する場である。葬式、バースデイ・パーテイは、この映画において、二大イベントとなるものである。葬式のシーンからこの映画は始まる。言うなれば、一つのストーリーの終わりから話が展開する。義理の母の死から実の母の発見へ。多様な意味における死と再生が繰り返される。
 かって顔を見ずに養子に出したホーテンスとそのシンシアの出会い。これは、ひどく惨めなものになる。シンシアは、ホーテンスが黒人であることを知らないで、待ち合わせ場所で気付かないのである。子供の方は、シンシアが実の母親である証拠(書類)を持っているが、母親はそれを認めようとはしない。このことは、喫茶店でのシーンにおいて、二人が横並びに座っている構図、決して交わらない二人の視線によって、これまで断ち切れていた人間関係の糸は容易に繋がらないことを見ることができる。二人の関係と会話は、その座っている位置と同じく、あくまで平行線なのだ。娘の前で泣き笑いしかできず、逃げるだけの母と溜息をつくしかない娘。ここでは、親子の感動の場面という印象からは程遠いものがある。交わりがたい白と黒という肌の色の違いもそれを盛り立てるかのようだ。それを強調するかの如くホーテンスは、いつも真っ黒の服を着ている。
 ホーテンスとシンシアの関係は、シンシアと実の娘ロクサンヌの関係を比較、連想させる。シンシアは、ロクサンヌに疎んじられており、娘は父親の名さえ知らない。この関係も不毛というべきものである。二人の会話のシーンにおいて、二人は横に並んで座るでもなく、向かい合うわけでもなく、筋違いに座る。そして、二人の会話は、どちらかが家を飛び出すというパターンで終わる。そして、母親は娘が出ていった後、娘を呆然と見つめる。ここで、アイロニカルで且つ対照的に、義理の娘ホーテンスの方は母親に会うことを切に望んでいる。アイロニカルな対照という点では、シンシアの弟夫婦は、シンシアと違って、子供を切望しているのに子供ができないということが挙げられる。ここに描かれているのは、とかくこの世はままならぬという家族模様なのである。
 家族関係あるいは、血族関係において、人間関係をややこしくするのが、この映画のタイトルである秘密と嘘である。Aという人が、秘密をもっていたとする。その秘密が、Bは、嘘をついたといってAを責める。A、B、C、という三人の人物の間に一つの秘密が存在するだけで話は、いかようにもややこしくなるのである。この場合、Aは嘘をついたことになるのか。家族関係においては黙っていることが、嘘をついたことになるのだ。家族のエゴイズムというものが存在する。秘密は、全て分かち合うべきであるというエゴイズム。しかし、秘密の持つ魔力は、分かち合った途端に雲散霧消してしまう。秘密は、嘘ではないが、嘘になりうるのだ。家族においては。
 家族にというものの持つ奇妙な特性として秘密あるいは嘘が、家族の会話を潤滑にしたり、家族を結びつけたりする。例えば、この映画では、シンシアが段々とホーテンスと親しくなっていくうちに、ロクサンヌは、母親にボーイフレンドでもできたのではという疑いを抱く様になる。それまでは、話をするのも嫌がっていたのに、何かと母親に探りを入れる。母親が、自分と母親以外の別の日常世界をもっているのではないかと疑うエゴイズム。母親は、ホーテンスと親しくなるに連れ、ホーテンスに愛情を示すようになる。横並びの平行線だった二人の関係もこの辺りから変化する。夜のバーで二人が会うシーンでは、二人は横並びだが、お互いが45度位身体を傾けて座っていって、目を見つめ会って話をしている。同じ横並びでも、すきま風が二人の間をゴーゴー通っていた様な初めの出会いのシーンとは大違いである。そして、ホーテンスの一週間遅れの誕生日を祝うシーンでは、二人は向かい合って、乾杯をする。この時点において、白と黒という相容れない要素は、一見融和したかの様に見える。  シンシアの実娘ロクサンヌのバースデー・パーテイという状況において、今まで蓄積され、隠されていた秘密は暴かれる。このパーテイは、一堂に家族を全員集合させて、そこで秘密を暴くためのセッテイングであり、一種の晒し台である。それもパーテイの主役が一番ショックを受けるような。パーテイにおいて、映画はクライマックスを迎える。このパーテイは、今まで断片的に繋がっていた個々の家族を統合する恒常的な日常の世界を描く。家族の恒常性、日常の普遍性は、カットのない長回しで取られ、家族のダイアローグが延々と続く。これこそが、日常たるべき日常、普遍的でいて、小さな死と再生を繰り返すもの。画面一杯にぎゅうぎゅう詰めの人たち。各々が個々の世界を持ちながら、バースデー・パーテイという空間でまた一つの日常生活をつくろうとする。これに大使、切り取られた日常、つくられた日常は、シンシアの弟モーリスの経営する写真館を訪れる様々な家族、人々によって垣間みせられる。カメラのファインダーの前でだけ仲むつまじい振りをする夫婦。一致団結しているようでいて、本当はバラバラの家族。保険料のために顔の傷をより醜く撮ってと頼む金髪美人。写真に写る人間の姿態は、あくまでつくられたものであり、つくろうと思ってつくれるものである。人は、カメラの前で自分達に都合のいい刹那だけを画面に写そうとする。カメラのシャッターを切る音は、断続的なショットに音響面、視覚面において句読点を付け、より際だったものにする。モーリスのシャッターを切る音によって、我々は瞬間的に現実に立ち戻り、現実と虚構の境界線の狭間にいることを冷たく感じる。秘密や嘘が露呈する前の刹那、刹那刹那の断片的な日常。写真館の中のシーンは、非常にカットが多く、ショットが短い。そのこと自体でフレームという枠に切り取られ続ける虚構の日常を表す。画面も切り取られるが、ここでは時間も切り取られ続ける。モーリスの使うカメラのファインダーは、実際のカメラのファインダーであると共に、つくられた家族、あるいは家族の嘘や秘密を見抜いてしまう千里眼的な眼でもある。この写真館に関わる一連のシーンにおけるカットの多さ、ショットの短さは、家族の非日常的側面、刹那性、瞬間性を示す。撮られた写真には、真実の家族の姿は、写らない。それと同じように、この映画で、最後に暴かれる真実というのはあくまで画面には出てこず、登場人物の口を通して、語られるだけである。我々観客は、プロットの進行状況に併せて、この家族に潜む真実を少しずつ知っていくが、それがいつ露呈するかは分からないし、センセーショナルにそれが暴かれるであろうことを期待かつ想像し、待ち受ける。パーテイにおける時間の緩慢性、シーンの切れ目の無さ、固定されたカメラは、写真館のシーンと極めて対照的である。それが伝えるものは、絶え間なく続く日常である。日常生活に巣くう不可解さ。いっそばれてしまった方が楽なような秘密は、なかなかばれずにいて、思わぬところで尻尾を出す。そのいらいらするような時間の流れの遅さなど、このバーベキューのシーンでは、日常生活の恒常性、非断片的で連続性のある世界を抽出するのである。モーリスのカメラと同様、ここの固定されて家族全員を傍観するカメラは、秘密を静かに暴く装置である。家族というサークルを形づくり、大きなテーブルを囲む大家族を正面から見つめるカメラ。我々観客の視線は、このカメラの眼と同化する。カメラは、家族の一員であるポジションにありながら、徐々にフレーム内、サークル内に収まり切らなくなってくる家族を写し出す。モーリスの大きなお尻が、カメラの前にボンと写って、パーテイ・シーンは室内へ移動する。そこで、我々はシンシアの秘密暴露によって、混戦状態に陥っていく家族の姿を見ることになる。興味深いのは、秘密が次々と明らかになるシーンは、それまでの息苦しい戸外のバーベキュー・シーンのワン・シーン=ワン・ショットのシーンと違って、多少編集されている。バーベキュー・シーンの長回しの意味。このバーベキュー・シーンは、秘密露呈のプレリュードと言える。我々観客は、登場人物の秘密を既に知っているので、何も秘密を張らすシーンを延々と見る必要はない。それよりも、秘密がいかにして、人間同士の微妙な感情の襞から見え隠れそるのかを見る必要がある。そして、その微妙さ(例えば、会話の奇妙なずれ、円を描いていながら、その末端が開いている{カメラが正面にいる}家族絵)というものは、この長回しの中でこそ煌めくものであろう。秘密は、静かにかつ確実に破壊的に明らかにされねばならないものであるが、静寂の中で徐々にボルテージを上げることに長回しの意味があるのであろう。バーベキュー・シーンで、観客の眼はカメラの眼の同化しているのだが、そのことは、言い換えれば、決して動かないカメラ、静止したままで眼を反らさないカメラの動きに、好むと好まざるに拘わらず合わせねばならぬということになる。このカメラの動き、これはつまるところ、逃げ場を持たない日常生活を見据えるものである。言ってみれば、それは、我々人間が現実、あるいは、日常というものをみる姿勢でもある。我々は、日常生活から逃げることができる訳もなく、そこにとどまらねばならないのだから。観客は、このシーンの進行過程において、次第にこのバーベキューの後に起こるであろう家族の阿鼻叫喚の地獄絵へのプロセスの途上にいることを実感するようになる。
 個々の家族という断片を縫い合わせる家族バーベキュー・シーンまでは、ホーテンスの正体を知らない人たちは、ホーテンスのことを感じがいいとか、いい人とか勝手なことを言う。ところが、シンシアが事実を告げると、そこにいる人たちは、初め驚愕し、次に疑い、シンシアを責める。そして、秘密は連鎖的に暴露され始める。誹謗が誹謗を喚び、美しかるべき家族は、泥沼に陥っていく。このシーンは、暴露大会のような様相を呈してくる。家族を愛するがゆえに、人は、秘密を持ち、嘘をつくのか。ここで描かれているのは、そのような秘密と嘘なのだろうか。そうではない。家族を愛するためでなく、家族という状態を守り、家族としてやっていくために、人は秘密や嘘をもつのだ。明かされる真実は、徒に人を傷つけるように思われるから。誰か一人の秘密が明かされ、その人が、嘘をついたと烙印を押された時点で、家族関係は膠着状態になる。個々で、臑に傷持つもの同士が、互いのフォローにまわる。白と黒は、一旦融和し、再び交わらなくなる。真実を知ったからといって、家族の関係がよくなるとは思えない。だからこそ、人は秘密を持ち、嘘をつく。
 真実の残酷さは、秘密や嘘のそれとは大違いである。真実を知った後、家族はどうなるのか。シンシアと二人の娘、弟モーリス夫婦という二つの家族は、また融和する。嘘が暴かれ、秘密が秘密でなくなった時、そこには一種の飄々とした捨て鉢気味の態度がついてまわる。家族は、所詮傷を舐め合って生きていくしかないのだ。分裂と融和の繰り返しである。死が再生を喚ぶ。半永久的に繰り返されるサイクル。嘘が潤滑油になったり、真実が家族の絆を深めることもある。まさに、嘘と真実は表裏一体で、秘密と嘘もそうである。ラストにおけるシンシアの「人生っていいものね。」という台詞は、いささか安っぽいが、秘密という起爆剤を持たない人間の清々しさがある。いわば、世界の縮図としての庭。そこで空を見上げ、お茶を飲む家族三人。葬式という家族セレモニーで離散した家族は、また別のところで別の家庭を、別の日常世界をつくる。