小津安二郎と侯孝賢―その映画的感性の近しさをめぐる覚書



伊藤 弘了

0. はじめに
 小津安二郎(1903〜1963年)と現代台湾を代表する映画監督の一人である侯孝賢(ホウ・シャオシエン、1947年〜)の映画作品との間にはいくつかの興味深い共通項がある。じっさい、侯孝賢は小津安二郎の生誕100年を記念した映画『珈琲時光』(2004年)を撮りあげており、小津を記念する映画を製作するために松竹がわざわざ台湾から侯を招いたという一事からも、小津と侯が近しい映画的感性を共有しているということが一般にも認知されていることがわかるだろう[1]。批評家の言葉を参照してみても、たとえば、最も早い時期に小津映画について体系的に論じた映画評論家の佐藤忠男は、1998年のとあるパンフレットの中で「台湾の侯孝賢などは撮影方法が小津によく似ていると多くの人に言われた」[2]と書き記しているし、侯孝賢自身もインタビューの中で「(小津監督の作品は)自分の作品と共通していると思いますか」と問われた際に「スタイルは絶対に違う。でも、家族や社会に対する目、態度などは持っているものに少し近いものがあります」[3]と答えている[4]
 ただしこうした類似の感覚はいずれもあくまで漠然とした印象レヴェルのものでしかなく、その意義を厳密に考察した研究は依然として存在していない。この二人の傑出した作家の映画的感性の似通い方をつぶさに検討してくと、世界映画史上、侯孝賢は小津安二郎の系譜を受け継ぐ映画作家であるといえるほどの親和性の高さが浮かび上がってくるのだが、それについての本質的な議論は小津の再評価とともに今後なされていかねばならない研究の一つである。その本格的な議論を導くための下準備として、本稿ではまずは二人の映画作家の演出上の類似点について、具体的に「子役の使い方」、「列車表象」、「演出方針」の三点について整理してみたいと思う。

1. 子供ごのみ
 小津安二郎と侯孝賢は、ともに自身の映画の中で好んで子どもを取り上げた映画作家である。小津のサイレント期の代表作の一つである『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)は、大人社会の不条理を目の当たりにした子どもたちの動揺を活写した傑作である。翌年公開の『出来ごころ』(1933年)でも、男やもめの主人公(坂本武)の子ども(突貫小僧)が物語の重要な鍵を握ることとなる。また、『生れてはみたけれど』に引き続き『出来ごころ』への出演を果たした子役の突貫小僧(青木富夫[5])は、さらに翌年の『浮草物語』(1934年)にも登場している。
 一般に小津のトーキー第一作[6]とされる『一人息子』(1936年)は、信州の田舎で育った少年がやがて東京へ出ていくものの、親の思うような出世ができず、息子の様子を見に上京してきた母親を落胆させる話で、『東京物語』(1953年)との連続性を感じさせる話型を備えている。戦後第一作の『長屋紳士録』(1947年)は戦災孤児を扱った話で、その翌年に公開された『風の中の牝どり』(1948年)では、サイレント期の『東京の合唱』(1931年)と同様に子どもが病気にかかるエピソードが物語展開上重要な役割を果たしている[7]。『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)の「紀子三部作」における子どもたちの好演も印象深く、特に『東京物語』では、これまでもっぱら指摘されてきたような親と子の関係だけでなく、子役たちが演じた孫を含めた三世代の人間模様が精妙に描かれていることにも注目しなければならないだろう。
 晩年に撮られたカラー作品の『お早よう』(1959年)は、テレビを欲しがる兄弟が「ハンガー・ストライキ」や「だんまりストライキ(大人たちへの抵抗を示すために一切言葉を発しなくなる)」[8]に打って出る姿を大変ユーモラスに描き出している。『お早よう』で弟役を演じた島津雅彦は戦前の『浮草物語』のセルフリメイク作品『浮草』(1959年)にも続けて出演し、好演を見せている。
 一方の侯孝賢も三作目の監督作品である『川の流れに草は青々』(1982年)において、田舎の学校に通う子どもたちの姿を、みずみずしい田園風景の中で魅力的に描き出している。『川の流れに草は青々』は田舎の小学校に新しく赴任してきた青年教師(ケニー・ビー)と子どもたちとの交流、音楽教師(シャン・リン)との恋の行方をユーモラスに描いた秀作である。子どもたちの中には、家庭に不和を抱えている者もおり、そうした家族内での問題をいかに解消していくかというのもこの作品の見どころの一つである。また、青年教師と音楽教師との恋愛に関しては、青年教師が都会に住む父を呼び寄せ音楽教師の父親に対して正式に交際の申し込みをしてもらうといった具合に、単に若者同士の(凡百の映画作品に見られる軽薄な)恋物語を描くのではなくて、その家族や背後にある台湾社会の慣習を描き込もうとしている。若者の恋愛に親が関与するというのは侯孝賢の初監督作品である『ステキな彼女』(1980年)や『冬冬の夏休み』(1984年)においても同様で、こうした点は、娘のお見合いに奔走する大人たちを好んで描いた戦後の小津映画(『晩春』、『麦秋』、『彼岸花』、『秋日和』、『小早川家の秋』、『秋刀魚の味』など)を連想させもする[9]
 『冬冬の夏休み』は冬冬(トントン)とティンティンの兄妹が田舎の祖父母宅で過ごしたひと夏を切り取った作品で、彼らが同年代の子どもたちと遊びや悪戯に興じる姿を見ることができる。あるいは、『恋恋風塵』(1987年)には、調味料や胃散をつまみ食いして母親に叱られる男の子が出てくるが、その姿からは、自由自在にオナラが出せるようにと軽石を飲んで、その結果下痢をしてパンツを汚し、母親に怒られていた『お早よう』(1959年)の男子中学生の姿に通じる、ある種の毒を含んだユーモアが感じられる。フランスで撮影された近作の『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』(2007年)は一人の男の子と、そのあとをついてまわる赤い風船との奇妙な交流を描いた映画である[10]

2.列車表象へのこだわり
 小津安二郎と侯孝賢の映画には非常に頻繁に列車が登場する[11]。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)、『父ありき』(1942年)、『晩春』(1949年)、『お茶漬の味』(1952年)、『東京物語』(1953年)、『早春』(1956年)、『東京暮色』(1957年)、『彼岸花』(1958年)、『浮草』(1959年)、『秋日和』(1960年)、『秋刀魚の味』(1962年)など、小津映画には列車の外観または列車内のショットを含むものが多くある。それに対して、侯孝賢の映画でも、列車が出てくるものとして『川の流れに草は青々』(1982年)、『冬冬の夏休み』(1984年)、『童年往事 時の流れ』(1985年)、『恋恋風塵』(1987年)、『悲情城市』(1989年)、『憂鬱な楽園』(1996年)、『珈琲時光』(2004年)[12]、『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』(2007年)など、多くのものを挙げることができる。
 これらの列車にまつわる両監督の作品群の中で、『東京物語』と『憂鬱な楽園』を比べると、その演出の仕方が非常に似ていることがわかる。小津の『東京物語』は尾道に住む老夫婦が東京で暮らしている子どもたちのもとを訪れる話であり、尾道と東京を結ぶものとして列車のショットが要請されている。開巻から3つ目のショットで貨物列車が映し出され、4つ目に線路脇の民家の洗濯ものが列車の通り過ぎるのにあわせてはためいているショットがくる。そしてその線路の近くにある老夫婦の家の外観が映し出され、屋内にいる老夫婦のショットへと続く。列車と洗濯ものの同様の構図はラストの数ショットでも反復されている。このとき注目しなければならないのは、老夫婦やその子どもたちは尾道から東京(あるいは東京から尾道)、そして熱海や大阪へと移動しているにもかかわらず、実は列車内のショット自体は、本作の終末部にただ一度だけしかあらわれないという歴然たる、しかしながら大方の映画学者や批評家たちが見逃してきた事実である。加藤幹郎はこの点に正しく注意を寄せ、列車運行シーンが省略されている理由を「この映画の小さなクライマックスをエンディングのただ一度だけの列車内部シーンにおいて強調せんがためである」[13]と明快かつ説得的に論じている。また終盤には、危篤の母を見舞うために東京の子どもたちが尾道の老夫婦の家に集まる場面があるが、そこでは彼らの会話の間に汽笛の音が挿入されている。
 侯孝賢の『憂鬱な楽園』は台湾ヤクザのままならない生き方を描いた映画作品である。この映画は列車内のショットから始まり、そのあとに列車の外観のショットが続く。ここではヤクザの兄貴分のもとを訪ねるにあたって数名のヤクザたちが列車で移動しているということが事後的にわかるようになっている。兄貴分のいる目的の場所は、線路の近くにあって、屋内でヤクザたちがやりとりしている際には、『東京物語』と同じように、汽笛の音が聞こえている。また、ヤクザの一人が屋外で食事をとるシークエンスにおいて、洗濯ものと通り過ぎる列車とを同時に収めたショットが存在する。
 また、小津の『生れてはみたけれど』と侯孝賢の『冬冬の夏休み』とでは、両作品とも作品の随所で、これでもかとばかりに電車を走らせているのを確認できる。登場人物たちが会話をしている背後を列車が通り過ぎていくというショットが非常に多いのだが、これらのショットの撮影には莫大な労力を伴うことになる。なぜなら、俳優たちは列車が来るタイミングに合わせて演技をするしかなく、NGを出せば、また次の列車を待たなければならなくなるからだ。
 これほど似通った列車の使い方をしていながら、驚くべきことに、『冬冬の夏休み』を撮った時点で、侯孝賢はまだ小津の作品を一度も見たことがなかったという事実がある。侯孝賢は前述の『SAPIO』のインタビューで、『童年往事―時の流れ』(1985年)を撮ったあとに、評論家のマルコ・ミューラーに強く薦められて、彼にとって初めての小津作品となる『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』を見たと答えているのだ。つまり、侯孝賢は全く意識することなく小津に似た画面を作っていたのである。このときにミューラーが薦めたのが『生れてはみたけれど』であったというのには十分に納得がいく[14]。先にも確認したように『生れてはみたけれど』は子どもが中心的な役割を果たす作品であり、また、この章でも言及したように列車が非常によく出てくる作品だからである。

3.演出の徹底ぶり
 俳優の自由な演技を一切禁じ、短いショットを大量に積み重ねていくことで一本の映画を作り上げていった小津安二郎と、あってないような脚本をたたき台として俳優に自由な演技をさせ、近年ますます長回しを多用する傾向にある侯孝賢では、たしかに映画のスタイルという点では決定的に違っているということになるだろう。しかし、その演出の徹底ぶりにおいて、両者には通じる部分がある。
 小津が俳優たちの一挙手一投足に至るまで徹底して演出したことや、その厳しさについては多くのスタッフや俳優たちが証言を残している。たとえば、小津は俳優がアドリブで脚本の台詞を変えることを一切許さなかった。『早春』に主演した池部良は後年のエッセイで「台詞は一言、一句、テニヲハも変えちゃだめだ」[15]と指導されたことを書き記している。『秋刀魚の味』でヒロインを演じた岩下志麻は、毎回50〜60回のテストを行ったことや、終盤のあるシーンに至っては100回以上ものテストを行ったことを回想している[16]。戦前のサイレント期から戦後のすべての作品を含む、ほとんどの小津映画に出演している笠智衆は小津の演出の細やかさについて具体的な思い出を語っている。笠によれば、台詞の上げ下げや間合いから、全ての台詞の音に至るまであらかじめすべて決められていたということである[17]。また、笠は小津の演出について以下のような言葉も残している。

先生は、なにしろオーバーな演技が嫌いで、僕に限らず、ちょっとでもやり過ぎると、絶対にNGになります。俳優さんによっては、ある程度の芝居をしないと演技をした気にならない人もいて、先生がそういう俳優を演出する時は、何度もテストをやらせて疲れさせ、クタクタで何もしなくなったところでキャメラを回したようです。[18]
笠のこの言葉を裏付けるようなエピソードが残っている。『東京物語』における大坂志郎の演出である。母親の葬式の場面での大阪の演技が小津の気に入らず、大坂は何度もテストを繰り返させられた。その真意について、小津は当時助監督としてついていた高橋治に「夜行でも死に目に間に合わなかった、通夜も眠れなかった」ことを表すために「睡眠時間一時間の顔」になるまで大坂を疲れさせることにあると語っている。この場面では、本番前に大坂の汗でぐっしょり濡れて色が変わってしまった畳を取り替えさせたという[19]。また、高橋は俳優の肩の高さが約2センチメートル違っているからという理由で小津がOKカットを差し替えたというエピソードも紹介している。
 こうした小津の演出の仕方には、侯孝賢の演出の仕方と通じ合う部分がある。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(1998年)でトニー・レオンの相手役を演じた羽田美智子は、それまでに出演していた日本映画が基本的には「一発OK」の世界であったのに対し、何度も本番を撮り直す侯孝賢の演出の特異さを語っている。この映画では、OKを出したシーンも後で撮り直しを行い、全体の撮り直しを三回行ったという。これはOKの1から始まって、極端なときにはOKの7や8が存在していたという小津を彷彿とさせるエピソードである。
 また、小津と同様に俳優の熱演を嫌った侯孝賢は、羽田がヒステリックな演技を見せた箇所や伊能静[20]が号泣するシーンなどをことごとくカットしたという。羽田は、自分の目からは完璧に見えるトニー・レオンの演技について、侯孝賢が「彼は昔に比べると芝居癖がついた」と言って不機嫌になる場面も目撃している。そうした「芝居」の部分を外すために侯孝賢は何度も撮り直しを行った。これは小津が『東京物語』で大坂に対して行った演出と響きあうものがあるだろう。羽田は以下のようにも証言している。
一日1シーンに関して、最高で10テイクくらいまでは撮るんです。「もう一回」って言われたら、こちらもさっきとは違うことをやろうと思って、動きを変えてみたり、いろいろ試すんですが、なにがいいのか、なにが悪いのか、どんどん迷ってくるんですよ。それで、「もう疲れちゃった。もう一回こんなことやるのか」と思って、たぶんこれをやっても、またもう一回って言われるだろうから、今回はちょっと適当にやっちゃおうと思ってやってみると、「よかったよOK。おしまい」って言われて、どうしようなんて思ってその連続でした。[21]
俳優の自由な演技を徹底的に禁じた小津と、細かい指示をほとんど与えず俳優に自由な演技をさせることでその良さを引き出した侯孝賢とでは、一見アプローチの仕方は異なっているが、演出姿勢が徹底している点と、その結果として自然な演技を引き出すことに成功している点で、共通していると言うことができるだろう[22]
 本稿では、小津安二郎と侯孝賢という二人の卓越した映画作家が、子役を好んで使ったこと、列車や洗濯ものを頻繁に画面に映し出したこと、演出が徹底していたことの三点において通じ合うものを持っていたということを確認してきた。しかし、今一度ここで強調しておきたいのは、両監督の映画的感性の近しさは、単に作品のモティーフやエピソード、あるいは演出上の細部が一致しているといったことにとどまるものではないということである。こうした細部の一致の積み重ねは、画面上に独特のリズムを生み出し、やがてはそれがより高次の主題の近しさなどとも結びついていくことになる。今後、別の機会に具体的な作品を取り上げつつ、侯孝賢がより高い次元で小津安二郎と共鳴していることを確認していきたいと思う。
 

[1]小津の生誕100年に際してオマージュを捧げた監督には、他にアッバス・キアロスタミ(1940年〜)がいる。このイラン出身の傑出した映画作家の『5 five〜小津安二郎に捧げる〜』(2003年)の革新性は詳細に分析したい論権であるが、それは別稿に譲ることとしたい。本作を含むキアロスタミ映画の卓越性については、京都大学大学院教授で映画学者=批評家の加藤幹郎による『列車映画史特別講義―芸術の条件』(岩波書店、2012年)を参照されたい。

[2]佐藤忠男『完本 小津安二郎の芸術』、朝日文庫、2000年、592頁。

[3]市山尚三「侯孝賢監督、小津安二郎を語る」、『SAPIO』、小学館、2004年8月号、87頁。

[4]別の雑誌のインタビューでは「小津監督とわたしとではスタイルはちがうけれども、家庭を見ている、人の生活を見ているという点では同じです。その態度に近いものがあって、小津作品はくりかえし見ていますね」(宇田川幸洋「侯孝賢―電車と家族の東京物語」、『芸術新潮』、新潮社、2004年10月号、95頁。)と『SAPIO』でのインタビューの時とほぼ同じ内容をコメントしている。ちなみにこのインタビューの中で、侯孝賢は好きな作品として『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)、『晩春』(1949年)、『東京物語』(1953年)の三本を挙げており、なかでも『晩春』が一番好きだと述べている。侯孝賢の『好男好女』(1995年)には主人公の部屋のテレビ画面に『晩春』の一場面(原節子と宇佐美淳が七里ヶ浜でサイクリングに興じる場面)が映し出されるシーンがあり、ここでの監督の発言を裏付けている。

[5]小津の『晩春』をリメイクした特異なピンク映画『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)でデビューした周防正行(1956年〜)は、その後の監督作品で竹中直人に「青木富夫」という名前の役を繰り返し演じさせることで、小津にオマージュを捧げ続けている。最新作の『舞妓はレディ』(2014年)においても竹中は「青木富夫」という名前の男衆を演じている(また、小津を意識していると思われる日本家屋のロー・ポジション撮影も随所に用いられている)。

[6]厳密に言えば小津のトーキー第一作は『一人息子』に先立って撮影されたドキュメンタリー映画の『鏡獅子』(1936年)である。ただし、これは世界に日本の歌舞伎を紹介するために作られた短編の記録映画で、基本的に国内では公開されていないため、劇映画としては『一人息子』が小津のトーキー第一作ということになる。

[7]『東京の合唱』で病気にかかる子どもは子役時代の高峰秀子が演じている。傑出した映画女優である高峰秀子の出演作品等については、拙稿「京都文化博物館フィルムシアター「映画女優高峰秀子を再考する」報告」(CineMagaziNet!(No.17)、http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN17/report-ito-2013.html)を参照されたい。

[8]子どもたちが沈黙を貫くことで大人たちへの抵抗を示すというエピソードは、サイレント映画とトーキー映画という媒体の質的差異を示唆していて興味深い。すなわち「無音」であることが異常事態とみなされるためには、前提としてその映画がトーキー映画であるという素地が必要になるということである。また『お早よう』では「オナラの音」が重要な機能を持つことにもなる。

[9]『ステキな彼女』は、財閥の一人娘(フォン・フェイフェイ)が、故郷の村で出会った青年(ケニー・ビー)と結ばれるまでをコメディ・タッチで描いたさわやかな青春映画である。ここでは深入りはしないが、侯孝賢と小津がそのキャリアの初期にコメディ調の映画を撮っていたことは両者の共通点を考える上で興味深い事実である。たとえば侯孝賢の『川の流れに草は青々』(1982年)や『風櫃の少年』(1983年)、『冬冬の夏休み』(1984年)にも喜劇的な要素を見ることができる。小津は第三作の『女房紛失』、第四作の『カボチャ』、第五作の『引越し夫婦』(いずれも1928年、フィルムは現存せず)と立て続けに「スラップスティック・コメディ」と呼ばれる種類の笑劇映画を監督している。

[10]この作品は1956年にカンヌ国際映画祭の短編部門でパルム・ドールを獲ったアルベール・ラモリスの『赤い風船』をオマージュしたものである。

[11]世界映画史における列車表象の意義を考えるためには前述の加藤の『列車映画史特別講義―芸術の条件』が必読であり、本稿もそこでの議論から多くの示唆を受けている。

[12]前述の通り『珈琲時光』は『東京物語』を踏まえて作られた作品であるため、両者の間には映画内で描かれているエピソードや小道具の水準でいくつかの共通点が見られる。たとえば『珈琲時光』ではヒロインの陽子が列車内で懐中時計を見るシーンがあるが、これは明らかに『東京物語』でヒロインの紀子が義母の形見として懐中時計を譲られたことを踏まえている。また両親が上京して子どものアパートを訪れたり、隣家から酒や食器を借りたりするのも共通している。この辺りの具体的な比較分析については星野幸代「侯孝賢映画『珈琲時光』を読む」(http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/socho/mirai/mirai-hoshino.pdf)に詳しいので、そちらに譲ることとする。

[13]加藤幹郎『日本映画論 1933-2007―テクストとコンテクスト』、岩波書店、2011年、148頁。

[14]侯孝賢の『百年恋歌』(2005年)は三部形式をとっており、その第二部がサウンド形式(サイレント映画の一様式、台詞は字幕だがBGMが流れている)になっている。侯孝賢がサイレント形式の映像を撮ったのには、この『生れてはみたけれど』をはじめとする、小津のサイレント映画の影響があったことは充分に考えられることだろう。また、侯と同じ台湾出身の映画監督である周美玲(ゼロ・チョウ)の『彷徨う花たち』(2008年)は明らかに侯の『百年恋歌』を意識的に踏まえた三部形式の映画となっており、ここに小津を起点とする一つの映画史的な流れを見てとることもできるだろう。

[15]映池部良『山脈をわたる風』、小学館文庫、1998年、123頁。

[16]岩下志麻インタビュー『小津安二郎名作映画集10+10―第7巻秋刀魚の味+出来ごころ』、小学館、2011年、15頁。

[17]笠智衆『小津安二郎先生の思い出』、朝日文庫、2007年、49〜50頁。

[18]同書、62頁。

[19]高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』、岩波現代文庫、2010年、53頁。

[20]伊能静は侯孝賢の『憂鬱な楽園』(1996年)や『好男好女』(1995年)にも出演している。同じ俳優やスタッフを繰り返し起用したという点も小津との共通点と言えるだろう。俳優では、林阿祿(リー・ティエンルー)、高捷(カオ・ジエ)、林強(リン・チャン)、舒淇(スー・チー)らが侯孝賢複数の作品に出演している。林強にいたっては、『戯夢人生』(1993年)、『好男好女』、『憂鬱な楽園』への出演に加えて、『憂鬱な楽園』、『ミレニアム・マンボ』、『百年恋歌』では映画音楽も担当している。また、脚本家の朱天文(チュウ・テンウェン)やカメラマンの李屏賓(リー・ピンビン)も侯孝賢の映画には欠かせない存在である。小津安二郎も気に入った俳優やスタッフを繰り返し起用した。笠智衆を始め、戦後で言えば原節子、杉村春子、東野英治郎、佐分利信、中村伸郎、北竜二、高橋とよらは小津映画の常連だった。また脚本家の野田高梧や、カメラマンの厚田雄春、音楽の斎藤高順、美術の浜田辰雄、編集の浜村義康らの存在なくしては、小津のあの映画はありえなかっただろう。

[21]羽田美智子、市山尚三、宇田川幸洋「侯孝賢を語る」(2006年)、『百年恋歌』公式ホームページ(残念ながら2014年10月現在このページは閲覧できなくなってしまっている)。 http://www.prenomh.com/prev/hhh-movie/index.html

[22]他にも、たとえば『恋恋風塵』に出演した楊麗音(ヤン・リィリン)は、DVD(紀伊國屋書店、2007年)に収録されているインタビューで「仮に“悲しそうに語る”場面があり俳優が端的に悲しむとします。監督はそれがダメなんです。嫌なのです。だから“悲しんでくれ”とは指示しません。意図を明確にしないのです。そして繰り返し撮るのです。“もう一回、もう一回”と」と証言している。また『風櫃の少年』で主演を務めた鈕承澤(ニウ・チェンザー)も、DVD(紀伊國屋書店、2006年)特典のインタビューの中で、父親の死の知らせを聞いたときに、侯孝賢が露骨に悲しみを表現する演技を嫌ったということを言っている。

<参考文献>
―単行本―
池部良『山脈をわたる風』、小学館文庫、1998年。
井上和男編『小津安二郎―人と仕事』、蛮友社、1972年。
加藤幹郎『日本映画論 1933-2007―テクストとコンテクスト』、岩波書店、2011年。
加藤幹郎『列車映画史特別講義―芸術の条件』、岩波書店、2012年。
佐藤忠男『完本 小津安二郎の芸術』、朝日文庫、2000年。
高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』、岩波現代文庫、2010年。
田村志津枝『悲情城市の人びと―台湾と日本のうた』、昭文社、1992年。
蓮實重彦『監督 小津安二郎』、ちくま学芸文庫、1992年。
笠智衆『小津安二郎先生の思い出』、朝日文庫、2007年。
吉田喜重『小津安二郎の反映画』、岩波現代文庫、2011年。
岩下志麻インタビュー『小津安二郎名作映画集10+10―第7巻秋刀魚の味+出来ごころ』、小学館、2011年。

―雑誌記事―
市山尚三「侯孝賢監督、小津安二郎を語る」、『SAPIO』、小学館、2004年8月号、86〜88頁。
宇田川幸洋「侯孝賢―電車と家族の東京物語」、『芸術新潮』、新潮社、2004年10月号、92〜95頁。
蓮實重彦、山根貞男、吉田喜重「小津安二郎生誕100年記念国際シンポジウム―生きている小津」、『論座』、2004年2月号、53〜67頁。
前田晃一「生誕100年いま、小津安二郎を発見する―ニューヨーク映画祭での取材から」、『世界』、2004年1月号、岩波書店、206〜213頁。

―WEB―
『百年恋歌』公式ホームページ(最終閲覧日:2012年1月8日)、
http://www.prenomh.com/prev/hhh-movie/index.html
「京都文化博物館フィルムシアター「映画女優高峰秀子を再考する」報告」、CineMagaziNet! (No.17)、(最終閲覧日:2014年10月6日)、
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN17/report-ito-2013.html
星野幸代「侯孝賢映画『珈琲時光』を読む」(最終閲覧日:2014年10月6日)、
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/socho/mirai/mirai-hoshino.pdf