bplist00?_WebMainResource? ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO?G CineMagaziNet! no.18 加藤幹郎 『みすず』読書アンケート回答の10数年(1999年-2013年)

『みすず』読書アンケート回答の10数年(1999年—2013年)


加藤幹郎

1999年

 1 トム・ガニング氏の論文を集中的に読んだ。秋に京都映画祭で同氏(シカゴ大学映画学教授)を招いたからだが、映画史と文化史の接点をさぐる彼の方法はナイーヴだが魅惑的である。なかでも映画学術誌Wide Angleの「都市」特集号 (vol. 19, no. 4) に収められた論文「万華鏡からX線へ」と Leo Charney et al. eds.,  Cinema and the Invention of Modern Life (University of California Press, 1995)  所収の「個人の身体をトレースする」 が印象的だった。

 2 また同書所収のジョナサン・クレイリーの論文「マネと一九世紀後期の注意深い観察者」は、視覚的主体の誕生の経緯を博覧強記の文体で物語ってくれるのだが、肝腎のマネの絵画(『温室にて』)の分析がおよそ説得力を欠いている。この手の文化史家たちはもっとロラン・バルトやガストン・バシュラールを読むべきであろう。そうすれば「温室」の男女が申し合わせたように黄金色の結婚指輪をし、顎髭とスカーフ、頭髪と帽子がそれぞれ同系色で描かれる根拠に眼がゆくはずである。

 3 平板だが網羅的な記述と豊富な図版が目を惹くのが、見開き五〇センチ、厚さ五センチのプール型書物 Thomas A. P. van Leeuwen, The Springboard in the Pond  (MIT Press, 1998) である。これはスウィミング・プールの文化史だが、一〇年ほど前、筆者がロサンジェルスに住むことになったとき、どうしてもプール付きアパートに住まなければ気がすまなかったことがあったが、それが単なる個人的妄執ではないことが本書を読んでわかった。

 4 それからEndless Night: Cinema and Psychoanalysis,  Parallel Histories (University of California Press, 1999)  所収のメアリ・アン・ドーンの論攷「時間性、貯蔵、読解可能性----フロイト、マレー、映画」がおもしろい。彼女の代表作は以前、勁草書房から『欲望への欲望 一九四〇年代の女性映画』(松田英男他訳)として訳出されたが、彼女のセンスはますます磨きがかかり、ここでは映画の構造的不可視性と時間の非分割性が寓話的に物語られる。

 まだまだおもしろい本や論文がいっぱいあったが、紙幅が尽きたようなのでここらでキーを打つのをやめよう。

2000年
 1 二〇〇〇年の春休暇、英国のレディング大学で開催された国際映画学会でペーパーを読み、その帰りにアムステルダムによって白亜のオランダ映画博物館を訪ね、トマス・エルセサー教授と会ってきた。彼は一〇年前、アムステルダム大学に映画学部を創設するため英国から招かれ、同学部を同大学一の人気学部にしたてた人物であり、『新映画理論集成①』(フィルムアート社)にはフランス市民革命から説き起こす彼の卓抜なメロドラマ映画論が収められている。その彼の新著がThomas Elsaesser, Weimar Cinema and After: Germany’s Historical Imaginary (London: Routledge, 2000)である。この五〇〇頁の大著は、ワイマール映画史をたんなる国民国家映画史として素描するのではなく、ウーファのスタジオ政策史分析からラング、ムルナウ、パブストらの映画のテクスト分析をへて、それらがハリウッドにもたらしたもの(「カリガリからカリフォルニアへ」いたるもの)を国際的な社会不安に通底する横断的思想史として読み換える作業である。各章ごとに匂い立つような官能性をもった論攷がつづき、これは映画史と映画理論の幸福な結婚の書である。

 2 Michael Putnam, Silent Streets: The Decline and Transformation of the American Movie Theater (Baltimore: The Johns Hopkins U. P., 2000)
 これは映画を上映しなくなった映画館のモノクロ写真集である。かつてアメリカの地方都市ならどこにでもあったような、これといって特徴のない小規模映画館の写真群。なかには銀行や教会や本屋に生まれ変わった幸運な映画館もあるが、大半はもう誰も訪れる者のない夢の跡、往時の姿をそのままさらしながら都市のスラム化とともに廃墟と化した映画館である。都市は様々なものを商う。夢を商う映画館とて雑貨屋同様、流行もすれば廃れもするだろう。街中に立ち枯れた映画館。それは見る者をノスタルジーに誘わずにおかない。

 3 さて二〇〇〇年に新シリーズがはじまった荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社)は連載開始からもう一五年程になるにもかかわらず、その荒唐無稽な想像力と精緻な表現力はいっこうに衰える気配を見せず、そのマニエリスムはいよいよ洗練され、イタリア語をはじめ世界各国語に翻訳され圧倒的な発行部数を誇り、日本の漫画のクオリティを内外に喧伝する最高傑作のひとつとなっている。このような作品を読むにつれ、かえすがえすも残念なことは、いまの日本の小説界に、ポーとラヴクラフトの、そして川端とシモンの嫡子ともいうべきこの荒木飛呂彦に匹敵する作家がまったく見当たらないということである。もっとも小説というジャンルがすでにジョイスとベケットで終わったということなら、いたしかたないことなのかもしれない。しかしそれにしても唯一人、荒木飛呂彦の想像力を凌駕しえていた漫画家花輪和一が二年間の獄中生活によって、すっかり芸術家としてのポテンシャルを喪失してしまったように見えるのは、今世紀最後の、いやワイルドの投獄以来の痛恨事であろう。

2001年
 1 Stanley Fish,The Trouble with Principle (Cambridge: Harvard U.P.,1999)
 アメリカ合衆国が西欧の信念たる民主主義の制約と拡大解釈を通して映画『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』を現実に実践する二一世紀の幕開けなればこそ、諸国民は本書のようなプラグマティスト文学研究者の成果を熟読玩味すべきであろう。

 2 ロバート・R・マキャモン他、夏来健次訳『死霊たちの宴(上下巻)』(創元推理文庫、一九九八年)
 やむにやまれぬ人肉食嗜好に衝き動かされる「生ける屍ゾンビ」は一九七〇年代から八〇年代にかけて銀幕上でスーパースターの地位をしめたが、本書はゾンビとはポスト・フォーディズムが行き着いた究極の消費主体=対象にほかならないことを示した名訳アンソロジー。

 3 ニコル=リーズ・ベルンハイム編、松岡葉子訳『私は銀幕のアリスー映画草創期の女性監督アリス・ギイの自伝』(パンドラ発行、現代書館発売、二〇〇一年)
 アリスはたんに世界最初の女性映画監督というにとどまらない。彼女は初期映画を誰よりも(どの男性映画監督よりも)うまく演出した女性であり、たんにフランス映画の草創期に傑出した手腕を示したというにとどまらず、夫とともにアメリカへと渡ったのちは、アメリカ映画の革新にすら貢献している。彼女が撮った膨大なフィルムはいまだに再発見されるのを待っている。

 4 池田浩士編訳『ドイツの運命〔ドイツ・ナチズム文学集成第一巻〕』(柏書房、二〇〇一年)
 ゲッベルスについてのいかなる伝記も、プロパガンダと全体主義に関するいかなる研究も、本書収録のゲッベルスの日記体小説のスペシフィックな説得力にはかなわないだろう。ロマン主義の変容がいかに暴力と結びつきやすいかが如実に伝わってくる。

 5 本秀康『レコスケくん』(ミュージック・マガジン社、二〇〇一年)
 雑誌『ガロ』がまた一人すぐれた漫画作家を世界の文化市場に送り出した。これはノスタルジーの際限のない模像と微少な差異を梃子に人生を生きる日本人青年を描いた漫画である。レコード・ジャケットのような真四角な齣で埋め尽くされた画面は、形式が内容を決定するポストモダン・ポップ・アートとなっている。

2002年
 今年(二〇〇二年)は八月からアメリカに移ったので、上半期に読んだ日本語の本と下半期に読んだ英語の本からそれぞれ三冊ずつ挙げておく。

 1 谷田博幸『極北の迷宮 北極探検とヴィクトリア朝文化』(名古屋大学出版会、二〇〇〇年)。
 行方不明になった極地探検隊を求めて営々と捜索隊を派遣しつづける帝国主義黎明期の英国の時代精神(フランクリン・シンドローム)をパノラマ、絵画、文学、政治といった複数の文脈の内に同定する本書のおもしろさはヴェルヌ=メリエス級。

 2 竹沢尚一郎『表象の植民地帝国 近代フランスと人文諸科学』(世界思想社、二〇〇一年)。
 水で稀釈したソフト・ドリンクPCCS(ポスト・コロニアル・カルチュラル・スタディーズ)が氾濫する昨今に珍しく、フランスの地理学=民族学=社会学がいかに植民地経営の政治軍事に奉仕しつつ芸術文学諸言説へと浸透したかを辿るハード・コア。

 3 小倉孝誠『推理小説の源流 ガボリオからルブランへ』(淡交社、二〇〇二年)。
 忘却されたメロドラマ小説家=推理小説家エミール・ガボリオの再発見を通して一九世紀フランスの隠された精神史を語り直す試み。

 4 Harun Farocki, Imprint: Writings (Lukas & Sternberg, 2001)
 このところカタログ注文することが多いので、本屋で本を探すといあたりまえのことが妙に贅沢な時間となっている。本書はUCバークリー近くのコーディーズ書店で見つけた今年一番の収穫。ドイツをベースに国際的活躍を見せるこのドキュメンタリー映画作家の批評集は、現状を追認するだけのドキュメンタリー映画監督佐藤真の評論集のように甘くはない。獄死したかつての盟友の人生と作品から、工場、ショッピングモール、監獄の監視モニターがとらえる故殺まで、あるいはチャウセスク政権の失墜をとらえる映像から古典的ハリウッド映画の制度的文法まで、この老獪な映画作家が向ける現状批判の眼はつねに的確である。

 5 Giuliana Bruno, Atlas of Emotion: Journeys in Art, Architecture and Film (Verso, 2002)
 ラシアン・ヒルのアパートからトロリーで一〇分程行くとチャイナ・タウンに出る。その外れのノース・ビーチにあるのが、よどんだ空気で有名なシティ・ライツ書店。 そこで見つけたこの本は図版豊富で本来ならソファにくつろいで読むのに最適なはずなのだが、いかんせん重すぎる(まだペイパーバック版の出ていないこの本の目方は二キロぐらいか)。前作Streetwalking on a Ruined Mapで、ナポリのポスト初期映画期の女性家内制手工業映画会社を都市文化論的に踏査してセンスの良さを示したブルーノは今回、自身、子宮筋腫という「子供のいない職業婦人の病気とみなされつつある病気」に苦しみながら端正で有意義な書物をものした。真に独創的な仕事とは言えないものの、都市と建築と映画についての、図像と女性と旅行についての真に学際的なメモランダムである。

 6 Terry Eagleton, Sweet Violence: The Idea of the Tragic (Blackwell, 2003)
 これは近所のバーンズ&ノーブル書店で買った。波止場に近いこの本屋は無駄に広くて、つぶれたらいつでも倉庫に転用できそうである。店内各所に机と椅子が置いてあって、窓から緑なすテレグラフ・ヒルとラシアン・ヒルが望める。さてさしものイーグルトンも歳をとった感を否めないが、ソフォクレスからべケットにいたる膨大な引証からなる本書は緻密にして爽快な悲劇論である。9・11テロ以降、いよいよ悲劇という概念の長きにわたる誤用とその必然的結果としてのメロドラマの視界不良について自省すべきときであろう。加藤行夫『悲劇とは何か』(研究社二〇〇二年)とも併読できる。

2003年
 1 Margaret Olin, “Touching Photographs: Roland Barthes’s ‘Mistaken’ Identification,” in Representations 80 (Fall 2002)
 われわれはみな長いことロラン・バルトの写真論を誤読してきたのではなかろうか、そのようなラディカルな問いを問うのがアメリカの美術史家マーガレット・オーリンである。この画期的論文は、過去二〇年にわたって呪文のように繰り返されてきた凡庸なバルト論を一掃し、バルトの『明るい部屋』の読者がいたるべき隠し部屋のありかを示してくれる。今後、この論文に言及することなしにバルトの映像論は語れまい。

 2 つげ忠男『舟に棲む』(ワイズ出版、二〇〇〇年)
 俗物にとって道化は非理性的である。同じ理由から日本漫画の最良の部分は長らく無理解にさらされてきた。人生の晩年をむかえようとする男が自分の精神風景と向き合うさまが悠々たる筆到で描かれる。こうした漫画が六〇歳になんなんとする漫画作家によって描かれることじたい、悦ばしいことではないか(石森章太郎や手塚治虫の享年を思い出さねばならない)。

 3 Yve-Alain  Bois and Rosalind E. Krauss, Formless: A User’s Guide (Zone Books, 1997)
 あいかわらずバタイユ/フロイト圏内から脱出できすにいるものの、美術作品との個別対話による伝統的美術史の読み換えはおもしろい。美術史が色彩と形態の探究史であるとするなら、本書のプロジェクトにおいて収集論究される作品群は「別の」美術史を構成している。

4 仙波喜代子/今井今朝春編『小屋の力』(ワールドフォトプレス、二〇〇一年)
 世界中に取材された膨大な量の「小屋」の巨大写真集。丹後半島の舟屋からクラインガルテンの草花に覆われた「簡易別荘」まで、あるいはカプセルホテルからトレーラーハウスまで、はては御旅所から屋台まで、ひとの棲処の根拠がひたすら帰納的に究明される。

 5 Sam Rohdie, Promised Lands: Cinema, Geography, Modernism (BFI, 2001)
 現存する映画学者のなかでもっとも映画的センスの良いサム・ローディの断章形式による想像力溢れる映画論。書名が連想させる退屈なポストコロニアル・カルチュラル・スタディーズとは無縁の書物で、実際、二〇年に一度出るかどうかの名著である。

2004年
偏執狂的記述
 二〇〇四年は丸一年、自分の本を仕上げるために、その資料ばかり読み漁っていたので、どうも魂を揺さぶるような良書と出遭いそこねた気がしてならない。それでも映画学の隣接分野と言えなくもない音楽学の基本文献を大量に読んだ(これは近所に音楽学者が引っ越してきたせいもある)。おしなべておもしろいものばかりだったが、素人のわたしが、そのなかから数冊ここに挙げるような暴挙は控えたほうが良さそうだ。

 散策好きの友人がこれも近所に引っ越してきたせいで、二〇〇四年はよく京都市内を歩き廻わった。京都では以前から伝統的町家を喫茶店やブティックに修復改造することが流行っていたが、小泉政権誕生以降、景気が良くなったこの街では、この流行に拍車がかかり、スクラップ&ビルト方式ではない修復改造方式で、交通渋滞のひどい古都が散歩に適した新しい街へと変貌してゆきった。その変貌ぶりはアムステルダムの街を思わせると言ったら褒めすぎだろうか。一年間日本を留守にしていたせいもあるだろうが、自分が住んでいる街にもかかわらず、見るもの聞くものすべてが新鮮で、とにかくこの碁盤都市をよく歩き廻った。

 そこで二〇〇四年に印象に残った本だが、ジュリアン・グラック(永井敦子訳)の『ひとつの町のかたち』(書肆心水、二〇〇四年)とフェルナンド・ペソア(近藤紀子訳)の『ペソアと歩くリスボン』(彩流社、一九九九年)である。昔ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を片手にダブリンを何日もかけて歩き廻ったことがあったが、なるほどダブリンがある日地上から消えてなくなったとしても『ユリシーズ』が一冊あれば街は再建できるとジョイスが豪語した意味がよくわかった。広島でもドレスデンでも長崎でも東京でもニューヨークでもパレスチナでも、街がひとつそっくりなくなることなどめずらしいことではないのだから。

 『ペソアと歩くリスボン』は『ユリシーズ』から都市全図とでも呼ぶべき箇所を抜き出して再編集したような書物(「トランク」に眠っていたタイプ原稿)である。同時代のふたりのモダニストが自分の住んだ街をそれぞれ微にいり細をうがち記述するさまは、わたしにすがすがしい思いをあたる。故郷にたいする偏執狂的記述は、その撓みゆえに、ひとに奇妙な清涼感をあたえないだろうか。一方、グラックの『ひとつの町のかたち』は、いかにしてナントがグラック第二の故郷となったかが、グラックならではの瑞々しくも絢爛たる文体で語られる。しかしグラックのことだから、この都市エッセイが一筋縄でゆくはずもなく、これは都市じたいがそうであるような多面的時空間を構成する。じっさいこの翻訳書は二〇〇四年最大の収穫ではないだろうか(わたし自身はこのナント物語をYves Aumont, Alain-Pierre Daguin, Les lumieres de la ville: Nantes et le cinemaと併読しているが)。

2005年
 1 Rick Altman, Silent Film Sound  (Columbia University Press, 2004)
 多くの映画学者=批評家が長年ひとつの迷妄にとらわれてきた。すなわち「サイレント映画はけっしてサイレントであったためしなどない」という逆説的迷妄である。むろん、これがサイレント映画上映中に観客がおしゃべりをしたり拍手喝采をしたという意味なら問題はないのだが、多くの場合、上の命題は「サイレント映画の上映中、つねに音楽が伴奏されていたからサイレントではなかった」という意味に解されてきた。しかしこれがまちがった命題であることを例証したのが本書である。たしかに今日、サイレント映画を上映するさい、ポルデノーネ無声映画祭に代表されるように、少なくともピアノ伴奏は欠かせない。しかし実際にはアメリカの安普請の常設映画館たるニッケルオディオン期初期、サイレント映画は伴奏なしで上映されていた。その代わりに人気を博していたのがピアノ伴奏/歌手付きの幻燈(ガラス版手彩色写真スライド)ショーでの館内大合唱だった(スライド版カラオケのようなものである)。一九〇五年ころから一三年ころまでアメリカ全土を席巻したニッケルオディオンは無音映画の上映と館内大合唱とで音響的均衡をとっていた。「サイレント映画はたしかにサイレントだった」のである。本書はこうした新資料にもとづく新解釈のほかに書名通り、サイレント時代の音楽、音響全般について網羅的な議論を提供してくれる。映画学者のみならず音楽学者必読の画期的大著である。

 2 David Bordwell, On the History of Film Style(Harvard University Press, 1997)
 いっぽう古典的ハリウッド映画を帰納的に定義しきった映画学者=批評家として有名なデイヴィッド・ボードウェルの代表作のひとつが本書である。大著「小津安二郎」論の邦訳もあるが、ボードウェルがもっとも輝くのは、やはり自分が規定した古典期の映画スタイルをポルデノーネ無声映画祭に通いつめることで、みずから相対化し、初期からポスト古典期までをとらえ返した映画文体のヒストリオグラフィである。八年前に京都にデイヴィッドを招聘したさい本書をもらったが、当時はわたし自身がポルデノーネ未体験だったので、本書の射程の広さがいまひとつ実感できなかった。しかし翌年からポルデノーネ(サッチーレ)で浴びるように初期映画(サイレント映画)を見るようになりだすと、ボードウェルの愚直ともいえる帰納主義ぶりが映画史一〇〇年の濃密な歴史に応える真摯さに裏打ちされているのが納得できた。なお本書について若い執筆者たちによる長文の書評がCineMagaziNet!, no.9 (http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN9/bordwell-shohyo.html) にオンラインされている。

 3 武村知子『日蝕狩り ブリクサ・バーゲルト飛廻双六』(青土社、二〇〇四年) 
 武村知子のテクストを読んでいると、この批評家は批評対象の怪物性に肉迫したいというよりは、むしろ批評言語そのものの畸形性と遭遇したいのだろうと思う。手塚治虫作品を対象にした前作『どろろ草紙縁起絵巻』(フィルムアート社、一九九六年)もそうだったが、本書においても著者はオルタナティヴ・ロックバンド「ノイバウテン」の「本質」にせまろうなどという気はほとんどないように思われる。ひたすら任意の批評対象について多彩色の批評言語をつむぐことの歓びに酔い痴れている。けっして批評対象を正確に記述していないわけでもないし、批評対象に愛着がないわけでもないのにもかかわらずである。本書を読むと、水村美苗の『私小説』という名の「私小説」は水に薄められた言語にしか感じられない。最良の私批評というものがあるとすれば、それは武村知子のテクストである。

 4 Lesley Stern, “Paths That Wind through the Thicket of Things,” in Critical Inquiry, vol.28, no.1 (Autumn 2001)
 映画とフェティシズムについての文献は腐るほどあるが、「映画と事物」について論じたものとなると、ちょっと思いつかない。本論は映画の画面上でフェティッシュになる直前の事物を論じた好論文である。

 5 深沢克己『海港と文明 近世フランスの港町』(山川出版社、二〇〇二年)
 アメリカでは空港論が日本では鉄道論がさかんだが、本書のようなオルタナティヴな歴史地理学書を読むと、日本が海洋国家であったことを思い出させてくれる。わたしの海浜願望を満たしてくれた絢爛たる学術書である。

 6 花輪和一『刑務所の前 第2集』(小学館、二〇〇五年)
 あいかわらずアイロニーとグロテスクとユーモアが一体化したみごとな超絶技巧漫画である。同時代人にこれだけ突出した漫画作家がいるという事実が日本がいま世界に唯一誇れる文化事象ではなかろうか。花輪和一を漫画界のボルヘスと呼んでも、ボルヘスを貶めたことにはならないだろうし、花輪を誉めすぎたことにもならないだろう。

2006年
 1 平出隆の近作をまとめて読んだ。それまで第二詩集(『胡桃の戦意のために』)と『伊良子清白』しか読んでいなかったからだが、『左手日記例言』(白水社、一九九三年)、『弔父百首』(不識書院、二〇〇〇年)、『ベルリンの瞬間』(集英社、二〇〇二年)は、それぞれ日記、短歌、紀行といったジャンルに括ってしまうと、なんの意味もなくなる、身辺雑記のかたちを借りた、清澄な空気で読者をくるみこんでしまう日本語である。平出は読者を日本語の屹立の瞬間に立ち遭わせる稀有な詩人と言えるだろう。

 2 Richard Abel ed., Encyclopedia of Early Cinema (Routledge, 2005)
 映画事典の類は多いが、初期映画に的を絞ったものは本書が初刊なので、つい八〇〇頁、約一〇〇〇項目ほとんどすべてに目を通してしまった。いかにもRoutledgeらしい誤植も散見されたが、過去三〇年にわたる初期映画研究の学会的成果として評価したい。

 3 ロラン・バルト(渡辺守章訳) 『ラシーヌ論』(みすず書房、二〇〇六年)
 いつ読んでもバルトはおもしろい。その論述対象は映画、演劇、音楽、写真、美術、広告、小説、聖書、記念碑、ファッション、自分自身等、変幻自在に変わって終生、対象専門家になることはなかったが、テクストの快楽を探求した彼の文章は一流小説家でも太刀打ちできないほどである。本書は一〇〇頁をこえる訳者解題と的確な訳注訳文で、バルトの演劇論を堪能させてくれる。

 4 Scott MacDonald, The Garden in the Machine: A Field Guide to Independent Films about Place (University of California Press, 2001)
 北アメリカの実験映画が自然の風景を素材にするとき、高度にオルタナティヴな映画の領域が切り拓かれる。つまり第一に西部劇の風景が異化され、第二に日常の風景が異化され、そして第三に崩落したツイン・タワーに代表される大都市の風景が異化され、その三つの異化効果の背後に広大な自然をかかえるアメリカ帝国の別の顔が見えてくるのだ。

 5 マリー・ルイーゼ・カシュニッツ(鈴木芳子訳)『ギュスターヴ・クールベ ある画家の生涯』(クインテッセンス出版、二〇〇二年)。読者をして評伝とはかくあるべきものだと言わしめずにはおかないコンパクトにして緻密な批評的伝記。翻訳も達者。

2007年
 1 蓮実重彦『ゴダール革命』(筑摩書房、二〇〇五年)
 映画批評家蓮実重彦がもっとも精力的に論じてきた映画作家ジャン=リュック・ゴダールについての論集である。過去四〇年間、著者は折につけゴダール論に手を染めてきたが、本書は網羅的ではないものの、とりあえずの集大成として読み応えがある。いったい映画や芸術について(まちがっても「芸術映画作品」ではない)論じる者が本書を読んでいないといったことが許されてもよいものだろうか。

 2  Barry Salt, Moving into Pictures: More on Film History, Style, and Analysis (Starword, 2006)
 初期映画から現代映画まで、一九〇〇年代の映画から一九九〇年代の映画まで、アニメーション映画論から映画機器論まで、ショットの平均持続時間やショット・サイズなど、さまざまな客観的統計数値を駆使した実証的映画論から想像力あふれるテクスト分析まで、じつに多様な映画論が二段組四五〇頁の大著にあふれた幸福な書物。

 3 西野嘉章『装釘考』(玄風舎、二〇〇〇年)
 本を読むタイミングというものは意外とむずかしいのかもしれない。自著をものしているときは、映画と参考文献ばかりに目が向きやすいから、異分野の成果を見落としがちである。非執筆時間帯をつくりだして、いかに多領域の成果に目配せできるのかが問われる。
 本書はだいぶ前に入手したまま硝子書棚のなかに入れっぱなしになっていたものである。明治初期から昭和初期までの日本の書物の装丁、出版形態を博物誌的視点から詳説した文化史である。本書じたいが近代的なクリーム色の総クロース硬表紙本で、カバーと外函がついており、本文は旧漢字を多用し、朱色の見出しが目に鮮やかな、形式と内容が幸福な結婚をとげている書物である 。

 4 ジャック・デリダ(若森栄樹他訳)『絵葉書 1』(水声社、二〇〇七年)
 以前、『有限責任会社』(法政大学出版局、二〇〇二年)を読んでいたときにも感じたことだが、デリダはサミュエル・ベケットのような作家にくらべると、おそろしく饒舌な哲学者である。本書はラヴレターの体裁をとった、おしゃべりの洪水である。ベケットの登場人物とは対照的に、ひとがどれだけ饒舌になれるものであるのかを立証したチャーミングな書物である。おしゃべりにふさわしく、翻訳がじつにこなれている。

 5  今年(二〇〇七年)、フェルナンド・ペソアの未完の代表作が邦訳出版されたそうだが、数年前、アメリカを転々としているときに英訳で読んでしまったので、なんとも間が悪い。ちなみに英訳版はThe Book of Disquiet というタイトルで、ペンギン・クラッシクスで一五ドルくらいで手にはいる。リスボンを舞台にしていながら、ジョイスのダブリンの小説(『ユリシーズ』)にくらべると、みごとなほど家族、友人、恋人、知人、要するに地域共同体構成員との紐帯が見失われている孤独な書物である。

2008年
 1 Richard Abel, Giorgio Bertellini and Rob King eds., Early Cinema and the “National”  (John Libbey Publishing Ltd, 2008)
 本書は二〇〇六年にミシガン大学で開催された第九回ドミトール(国際初期映画学会)で読まれた三六篇の論文集成である(ミシガン大学はわたしが客員教授をつとめていたころと違って、いまではアメリカにおける初期映画研究の牙城のひとつとなりつつある)。本書は、映画史最初期にリユミエールが世界各国で撮影と上映をおこなっていたインターナショナルな商品たる映画がいつ、いかなる方法でナショナルな商品へと変貌していったかを映画史初期にしぼって探究した研究書である。ヨーロッパの植民地主義とアメリカの帝国主義と移民の時代に、映画はどのように国民的装置たりえたのか。初期映画における音響、風景、イメージ、字幕、解説者、戦争、教育、興行、記憶、ジャンルとジェンダーなど、さまざまな観点から分析調査している。

 2 Jeffrey Ruoff ed., Virtual Voyages: Cinema and Travel (Duke University Press, 2006).
 上述の書物が最新の映画学の研究成果であるとすれば、本書は過去一〇年ほどに専門誌に発表された論文を再録したものが主となっている。「映画と旅行」はともに視覚的運動と移動に多様な水準でかかわる現象であるが(映画は巡回上映からトラヴェリング・ショットまでやってのける)、本書は映画史初期の「旅行映画」に関するものから映像人類学的考察をへて近年のアイマックス・シアター経験にいたるさまざまな「映画と旅行」の関係を分析している。

 3 ポール・ボウルズ『雨は降るがままにせよ』(飯田隆昭訳、思潮社、一九九四年)
 異邦暮らしのやるせなさがみごとな日本語で再現されている。この翻訳書が書店に並べられていたころ、一年半、日本を離れていたので、今年にいたるまで、この名訳の存在を知らなかった。昨今の、とりわけ英語圏小説の気の抜けた邦訳にはうんざりさせられていたので、本書の日本語の美しさ、真率さには陶然とさせられる。

4 『パヴェーゼ文学集成1 鶏が鳴くまえに』(河島英昭訳、岩波書店、二〇〇八年)
 これも流刑地での男の孤独な暮らしぶりを落ち着いた日本語に移し変えた名訳である。訳者による長文の解説がまた独自の文学的境地に達していて、これは読んで二度楽しい書物である。けだし工藤幸雄訳の『ブルーノ・シュルツ全集』(新潮社、一九九八年)に比肩すべき訳業だろう。

 5 木前利秋『メタ構想力 ヴィーコ・マルクス・アーレント』(未来社、二〇〇八年)
 本書は想像力に満ちた論点を飛躍のない論証と緻密な日本語で展開した好ましい思想書である。

2011年
 1 Jennifer M. Bean and Diane Negra eds., A Feminist Reader in Early Cinema (Duke University Press, 2002)
 2 三浦篤監修『鉄道と絵画』(西日本新聞社、二〇〇二年)
 3 ブライアン・バークガフニ編著『華の長崎 秘蔵絵葉書コレクション』(長崎文献社、二〇〇五年)
 4 Frances Morris ed., Louise Bourgeois (Tate Publishing, 2007)
 5 Malcolm Bull, Anti-Nietzsche (Verso, 2011)
 1と2は、刊行時にアメリカ各地を点々と移動していたために見落としていた書物である。

 1は六〇〇頁ほどの書籍が編者と執筆者合計二一人全員、女性映画学者によって構成されているという点で、いかにも同時代的であるが、傑出した映画学者ジェイン・M・ゲインズ(デューク大学教授)とメアリー・アン・ドーン(ブラウン大学教授)をのぞけば、それほど高い水準の論文集とも言えないが、それでも各章は、アメリカ映画史において長年看過されてきた多くの女性監督=女性プロデューサー=女優=女性観客のジェンダー論的映画史をめぐる多彩なリサーチと論証に満ちあふれているので読み応えがある。なお「初期映画」期とは、デイヴィッド・ボードウェル教授らが一八九五年から一九一七年頃までと規定しているが、それはあくまでもハリウッドが世界映画産業界に影響をあたえたいわゆる「ハリウッド物語映画文法」にそった規定であり、本書籍名における「初期映画」は基本的に無声映画期(サイレント・シネマ)(一九三〇年頃まで)を指している。

 2は列車表象に長年興味をもっていた東大教授(美術史研究者)による監修書(「鉄道と絵画」を主題にした日本初の美術館展覧会カタログ)である。わたしも拙著『映画とは何か』(みすず書房、二〇〇一年)の一章で「列車と映画」の密接な関係を論じたことはあったが、その後、さらに議論を発展させることがなかったので本書は大変興味深い。列車絵画と言えば、ターナー『雨、蒸気、速度』(一八四四年)とマネの『鉄道(サン=ラザール駅)(一八七三年)という両極端の油彩画ぐらいしか思いつかなかったわたしにとって、西洋画から日本画まで膨大な絵画作品を展示解説する本書は有益である。

 3は、日本国史にとって特異な街である長崎が明治後期、客船、商船、艦船に乗って訪れる多数の外国人の受容のために手色彩写真絵葉書を大量生産した貿易工事代に実際に使用された絵葉書を大量収集解説した美しい書物である。一九四五年の原爆投下以降、精神的にも経済的にも完全な衰退期に入る長崎市には、当然ながら、これらの手色彩絵葉書が表象する都市と自然の美しい混淆風景はもはや完全に失われている。そうした長崎の衰退期にあえて長崎で生涯をすごすことになるすぐれた小説家野呂邦暢の作品が近年、みすず書房の<大人の本棚>シリーズで、数冊、編集再販されているが(二〇一一年にも『白桃 野呂邦暢短篇選』が刊行されたが)、七歳のとき、父親の出兵のため、生まれ故郷の長崎市から列車で三〇分ほど離れた諫早市に転居したその場所で、故郷に原爆が落とされる瞬間を目撃した少年邦暢は、芥川賞を受賞しても故郷を離れることなく四二歳で早世するまで地元で執筆活動をつづける。死の三年前、『諫早菖蒲日記』(文藝春秋、一九七七年)で洗練された文体に達するが、二〇歳頃に出版目的ないままに描かれた『地峡の町にて』(沖積舎、一九七九年)のナイーヴな文体と著者自身の緩やかな精神的振動が非常に魅力的な作家である。

 4は、日本の六本木ヒルズをふくめ、世界各国の主要美術館の傍らにもっぱら屋外展示されている晩年の代表作(巨大な彫刻作品)『母蜘蛛(ママン)』の作者として知られているルイーズ・ブルジョワの大回顧展が二〇〇七年から死の一年前の二〇〇九年まで英仏米の主要美術館五箇所で開催されたさいの分厚いカタログである。彼女の長い彫刻家人生は、マルセル・デュシャンに匹敵するほどの革新的芸術性を獲得しているのだが、本書がどれほどすぐれた写真と解説(たとえばジュリア・クリステヴァのエッセイ)を満載しようとも、しょせんカタログにすぎず、Mignon Nixon, Fantastic Reality: Louise Bourgeois and Story of Modern Art (The MIT Press, 2005)をふくめ、わたしはルイーズの芸術性を徹底解明しようとする書物にはまだめぐりあったことがない。付言だが、前述の彫刻作品『母蜘蛛(ママン)』をもっとも的確に展示している美術館は米国カンザス・シティのケンバー現代美術館だろうと思われる。美術館の玄関前に六メートルくらいの巨大な母蜘蛛が立ち、その下に長さ一〇センチくらいの白い玉砂利が無数に敷き詰められているため、まるで母蜘蛛の腹の下に蜘蛛の卵が守られているかのような錯覚に陥る。そして美術館の玄関の壁には一メートル弱の子蜘蛛がはりついている。

 5は、英国オックスフォード大学教員による、書名通り「アンチ・ニーチェ」的な文体で書かれた、日本漫画のように高度に明快で充実した哲学書で、ニーチェ的な詩的哲学者ジル・ドゥルーズの思考形態とは正反対の書物である。

2012年
 1 David Laderman, Driving Visions: Exploring the Road Movie (University of Texas Press, 2002)
 2 イヴォンヌ・デュプレシ『シュールレアリスム[改訂新版]』稲田三吉訳、白水社、一九九四年
 3 Rosalind E. Krauss, Perpetual Inventory, MIT Press, 2010

 1は、近年「ロード・ムーヴィー」というジャンル名称が拡大援用されつづけているため世界映画史の基盤すら踏まえない愚劣な映画学関係者が西洋でも東洋でも増大しているのにおどろいてしまったので、名著というほどではないにせよ、本書は「ロード・ムーヴィー」ジャンル映画史基盤書籍として有益だということを確認しました。なにしろアメリカの映画研究者たちによる大部の編著The Road Movie Book (Routledge, 1997)が映画史と社会史の廉潔性において誤認だらけなのにもおどろいて、英国の有名な出版社Routledgeも一九九七年に他会社に買収されたせいか二冊に一冊はつまらない書物を出版してきたのも再確認してしまいました。映画(モーション・ピクチャー)の主要媒体は19世紀中葉から欧米で拡大しつづけた列車産業ゆえに二〇世紀初頭には生体(馬/馬車)から機械(列車)へとほぼ完全に運動媒体(モーション・ミディアム)が移行したあと、一九六〇年代におけるアメリカ映画の主要ジャンルたる西部劇(ウエスタン)の衰退後、映画の主要運動被写体は、幹線道路が全米を貫いた一九六〇年代中葉から「ロード・ムーヴィー」(自家用車とモーターサイクルという非乗合運動媒体(オムニバス)[馬車でも列車でもないもの]を被写体とする映画)が新しい同時代産業イデオロギーとともに新規ジャンル映画として誕生するのですから。

 2は、アンドレ・ブルトンをふくめ過去一〇冊以上いろんな理論書を読んできましたが、本書ほど明快かつ厳密な「シュルレアリスム」論は読んだことがなかったのでおどろきました。本翻訳書は一九六三年が初版で、それから半世紀ものあいだ簡単に入手可能だということも嬉しいかぎりです。一九二八年から半世紀ものあいだ、傑出したシュルレアリスト映画作家でありつづけたルイス・ブニュエルの処女作『アンダルシアの犬』から『砂漠のシモン』(一九六五年)をへて最後の『欲望のあいまいな対象』(一九七七年)にいたる全三二本の映画を楽しめる現在と奇妙な類似点を感じました。

 3は美術雑誌や美術展覧会カタログ等に掲載されたロザリンド・E・クラウスによる批評集で、一九六六年から二〇〇八年までの長期間にわたる短文収録本ですが、インターネットの普及ゆえに、日本では多くの書物が水準を下げざるをえなくなった二一世紀において(わたし自身、中学、高校時代に毎月楽しんでいた高水準の日本語の美術雑誌がほぼすべてなくなってしまった現在)、四〇年以上も美術(芸術)評論家=学者として尽力してきたロザリンド・E・クラウスの短文批評集を再読できる本書は嬉しいかぎりです。彼女の名著『オリジナリティと反復』(小西信之訳、一九九四年)を出版した日本の会社もいまはすでになくなっていますから、テクノロジー進化/変容仮定の二一世紀初頭は出版文化にたいへんな悪影響をあたえているようです。ちなみに昨年(二〇一一年)翻訳刊行されたロザリンド・E・クラウス(コロンビア大学教授)とイヴ・ボワ(プリンストン高等研究所教授)の共著『アンフォルム(Formless)』(月曜社)もわたしは一〇年前に原著で楽しみましたが、この日本の出版社が、すぐれた書物のみを(例外もないわけではないですが)刊行しつづけている二〇〇〇年創設の傑出したマイナー会社であることにおどろいてしまいました。

2013年                   
 1 Jenny Gaschke ed., Turmoil and Tranquillity: The sea through the eyes of Dutch and Flemish masters, 1550-1700 (National Maritime Museum, Greenwich, 2008)
 2 野呂邦暢『棕櫚の葉を風にそよがせよ(野呂邦暢小説集成1)』、『日が沈むのを(野呂邦暢小説集成2)』(文遊社、二〇一三年)
 3 上田学『日本映画草創期の興行と観客 東京と京都を中心に』(早稲田大学出版部、二〇一二年)

 1 オランダと英国のマリタイム・ミュージアム(海洋博物館)研究員たち、および大学教授による充実した論文と厖大な海景(帆船)絵画の説明がすばらしい大判図版論文集です。アムステルダムの特異な海洋博物館その他の美術館で実物油彩画(海景=帆船絵画)を数多く見てきた私にとっては、とりわけ意義深い論文画集でした。オランダが「風景画」というジャンルを世界絵画史上最初に確立するのと並行して厖大な「海景画(帆船絵画)」も描かれ、現在でもオランダ人家屋内には海景画が数多く飾られています。本来、船に乗るのは揺れる波で酔うことが多かったので乗船はあまり好きではないにもかかわらず、なぜかしら小生は海景(船舶)絵画集を厖大に収集してきていたので、その理由は、自分が山に囲まれた細長い巨大な長崎港内三菱造船所を幼少期に山のうえから眺め降ろしてきたからなのかもしれないのですが、そもそも日本造船業は「ペリーの黒船(汽帆船=戦艦)」によって鎖国時代が終わる幕末期(英国同様、小さな島国にすぎない日本が造船業を発達させなかったため)、それ以前から長年長崎に結びついていたオランダ産業(とりわけ造船業)との連関性があるからなのでしょうが、ともかく本書は海景(帆船)絵画の本格的論文画集として上出来です。

 2 初めて私が野呂邦暢というすぐれた日本人小説家を知ったのは、一九九五年に刊行された分厚い『野呂邦暢作品集』(文藝春秋社)を通してでした。それは五年後(二〇〇〇年)に倒産する傑出した書店=出版社、駸々堂で偶然見つけた書物でした。人文書院とならぶ京都市の最良の出版社が消えてなくなるように、野呂邦暢が芥川賞を受賞しながらも東京文壇に行くことなく、生まれ故郷の長崎市から現在JRで三〇分で着く諫早市(父親が出兵するため母親の故郷に七歳で転居し、そこで原爆投下を見て幼友達も失います)で執筆しつづけながら、一九八〇年、四二歳で急逝したということは、当時、私はサミュエル・ベケットの小説をフランス語版と英語版で読んで卒論執筆していたので気づきませんでした。その後、七年ほど前から、みすず書房の「大人の本棚」シリーズでも三冊、野呂邦暢の著書が編纂出版されて楽しませてもらいましたが、今年、刊行された分厚い二冊の本「野呂邦暢小説集成1、2」はとりわけ充実しています。しかも解説者たちが野呂同様、芥川賞を受賞しても東京文壇におもむかない若い長崎人作家や野呂と同年配の当時の同じ諫早市在住の文芸評論家たちですから、その点でも大変傑出した小説集成となり、さらにレイアウト、装丁も現代的でありながら、失われた過去のすばらしい小説を回顧させるという意味でたいへん魅力的な書物です。

 3 若手映画学者による日本映画の実証主義的研究書としてたいへんすぐれています。早稲田大学助手として研究しているので、同大教授の日本最高の映画学者小松弘の影響を受けているのか、過去の日本映画産業の「実証」的資料の緻密なリサーチによる名著です。ただし私自身が二〇年ほど前に執筆していた映画研究書『映画 視線のポリティクス』(筑摩書房、一九九六年)における第一章から第三章のように、映画産業の社会的「実証」調査と映画作品の精神的「解釈」分析を連繋しないと、芸術映画的レヴェルの、すぐれた人間表象諸媒体が人類史上、人間に賦与してきた精神パターンを解明することはできないので、一世紀以上(批判されながらも)、連綿とつづく実証主義は人間精神にとって無益です。半世紀以上つづいているアメリカの映画学でも二〇年ほど前から実証主義に転換しはじめており、過去の映画的実態を数値的に解明する実証主義は人間の精神的探求には無縁なので、本書の実証主義的著者が、今後、傑出した映画学者小松弘を前述のアスペクトにおいて越えてゆくことを希望します。ちなみに小生の指導院生(二〇一三年に京大で英語博論で博士号を取得した現在、日本学術振興会特別研究員PD)川本徹君が、アメリカ独自の映画諸作品の入念な解釈をとおしてアメリカ的イデオロギーと映画媒体の複雑な連繋性を分析している日本語版映画研究書籍『荒野のオデュッセイア 西部劇映画論』が二〇一四年四月にみすず書房で刊行されますから、このふたりの若者の対比的学術様式を合体させることによって、これからの映画研究者たちのさらなる革新化を期待します。


(本稿は、過去10年以上、毎年、月刊誌『みすず』(みすず書房)「読書アンケート特集号」(1月号、のちに1月/2月合併号)に執筆依頼された「読書アンケート回答」の改訂版である。)

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