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1 自己の肯定 3 不毛の家
2 戦略的なマゾヒズム
 
成瀬的な女性たちは、なるほど溝口のように擬似宗教的・ロマン主義的な視線によって
は見られていない。成瀬による女性のあつかいは、限りなく「日常的」であるように思わ
れる。誤解を恐れずに言えば、おそらくそれはわれわれにとって本当に「日常的」なので
あり、つまりは「日本的」なのである。だがそれについて説明するためには、まず次のよ
うに問わなければならない。すなわち、成瀬巳喜男による「女性映画」とはメロドラマな
のか、と。
 メロドラマとは、広義に解釈すれば「物語展開のために二元的葛藤(愛と死、正義と悪、
光と闇、個人と社会など)を要請するあらゆるジャンルを横断するひとつの支配的物語形
態、統一的想像力の型」であり、さらに敷衍すれば、「映画という新しい物語媒体が登場す
る百年程まえから存在する、近代に支配的なイデオロギーの異称」だということになる*7
狭義にとってそれがいわゆる「女性映画」の同義語だとすれば、そのヒロインはさまざま
な外圧に苦しめられる受動的な存在として描きだされることになるだろう*8
 これに対して成瀬的な「女性映画」は(さらに「夫婦もの」や「大家族もの」などに下
位区分されるわけだが)、「ホームドラマ」という日本独特のあいまいな呼称と多くを共有
しているように一見思われる。そしてこのホームドラマというのがなんとも厄介な代物な
のである。およそ劇的な起伏というものを欠き、二元的な対立をあらかじめ回避してまわ
るように思われる日本のホームドラマを、少なくとも西洋的な意味におけるメロドラマと
同一視することはきわめて困難である(言うまでもなく、「ホームドラマ」とは和製英語で
ある*9 )。だから、いわゆる「母もの」にのみメロドラマ性を認知しようとする坂本佳鶴惠の
態度は、それ自体としては的確なものだと言えよう。ときに日本的なものの典型と見られ
もする「母もの」は、その実、『ステラ・ダラス』(キング・ヴィダー監督、1937年)のよ
うなハリウッド製メロドラマを日本的風土へと移植したものにほかならないからである*10
 もちろん、ホームドラマ一般を論じることはここでの射程を超えている。だが話を成瀬
の作品に限ってみても、ヒロインたちが自己を貫き通そうとする闘いは、たとえば身内と
の不和や家計をやりくりしていくうえでの困難といった家庭の内部に存する問題を通じて
くりひろげられるのであり、基本的に外圧とは無縁だと言っていいだろう。メロドラマの
特徴として必ずあげられる感情移入をあおるような音楽の使用も、あまり聴かれることは
ない。多くの成瀬作品を手がけている斎藤一郎の音楽は、むしろおのれの存在を誇示する
ことなく、時間的・空間的な連続性をいつの間にかつくりあげる透明な要素として機能し
ていると言うべきだろう。このように、成瀬巳喜男の映画はいたって非メロドラマ的なの
であり、成瀬自身、松竹で撮った『薔薇合戦』(1950年)について後年回想しながら、「僕
はやはりメロドラマは手に負えない」と述べているほどなのである*11 。むしろ日本的と言わ
れつづけた溝口のほうが、はるかに「西洋的」と思われてもくる。
 では、日本に独特なホームドラマと多くを共有しているという限りにおいて「日本的」
と呼びうる成瀬の非メロドラマ性に着目したとき、成瀬的な女性は男性に対して真に優位
に立っていると見なしうるのか。
 すでに見てきたように、成瀬的な「女性映画」においては対立は回避され、女の闘いは
外圧に対してというよりも、舞台となる家庭の内部においてひそかにくりひろげられてい
る。このとき男性は女性をよりよい姿でうつしだす「鏡」の地位にまで還元され、男性的
秩序への異議申立てをおこなう女性たちは、自己をありのままに肯定することでまがりな
りにも男性の優位に立つ。だが、この「鏡」としての地位にすすんで自足する成瀬的男性
こそ、もっとも狡猾な存在なのだと言えはしまいか。
 彼らはみずからの頼りなさやだらしなさを隠しもせず、あらかじめ女性に対する劣位を
認めてしまっているかのように見える。しかしまさにそのことによって、彼らは女性から
の致命的な告発をあらかじめ回避しているのである。告発が本丸へとおよぶ前に適当なと
ころで自分のほうから弱みを見せ、あいまいな和解へともちこむこと。これこそ成瀬的男
性の狡猾きわまりないやり口である。女性たちは男性への優越感に酔いしれながら、それ
が当の男性によって用意されたものであることに気づかない。だから、いったんは離婚ま
で決意したかもしれない『めし』の三千代(原節子)も、夫(上原謙)のだらしない寝顔
を見ながら、女の幸福とはしょせんこんなものかもしれないと納得してしまうのである。
 女性に対する戦略的なマゾヒズムとでも呼べようこうした成瀬的男性の狡猾な手口を可
能にするのは、まさに日本的風土であると言っていいだろう。少なくともハリウッド映画
において男性が女性に対して劣位に立てば、たちまち家庭の平和は維持できなくなってし
まう。ニコラス・レイの『理由なき反抗』(1955年)や『黒の報酬』(1956年)を見れば
あきらかなとおり、ハリウッド映画における父=夫の権威失墜は、家庭の秩序をすぐにも崩
壊させかねない危機的な事件である。だが、「鏡」と化した男たちにとって、権威などはじ
めから地に堕ちてしまっている。それゆえ成瀬的な男女のとりあつかいは「日本的」であ
り、われわれにとって「日常的」なものだと言えるだろう。それは女性に勝利の幻想をあ
たえながら、かつ男性を致命的な敗北から救ってもいる。成瀬の「女性映画」が興行的に
も広く支持されたのはそうした理由からであろうし、まさに撮影所の利益に見あうものと
して、それらは量産されつづけたのである*12
 佐藤忠男は、「ホームドラマ」なる語が登場した年である1951年が、朝鮮戦争の特需景
気によって日本経済が立直りを見せた年でもあることに注目している*13 。この年以後日本を
覆った泰平ムードと外部性を欠いたホームドラマの隆盛とのあいだに並行関係を見ている
のである。ホームドラマの問題は、なるほど日本の戦後史の文脈で思考されるべきなのか
もしれない。
 そう言えば、『あにいもうと』(1953年)において山本礼三郎が演じた老いたる家父長、
茶店で気のない番をしながら寝転がって鼾をかいていたあの家父長。可視的に君臨するの
ではなく、むしろその存在の希薄さによって解体に瀕した家族をゆるやかにつなぎとめて
いたあの家父長は、なんと象徴天皇の姿に似ていることだろう。兄妹間の壮絶ないさかい
をへたのちも、もん(京マチ子)やさん(久我美子)がこの「家」へと帰ってくるのをや
めることは決してないだろう*14
1 自己の肯定 3 不毛の家
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*7 加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』(勁草書房、1990年)、50-51頁。

*8 メロドラマについては以下の文献を参照されたい。トマス・エルセサー「響きと怒りの物
語 ファミリー・メロドラマへの所見」[石田美紀・加藤幹郎訳]『「新」映画理論集成 @
歴史/人種/ジェンダー』[岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編](フィルムアート社、1998年)、
14-41頁。加藤幹郎『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社、1996年)、
第5章「ファミリー・メロドラマ 理想が現実を凌駕するとき」。

*9 「ホームドラマ」なる和製英語の起源については、大映の宣伝部が『雪割草』(田坂具隆
監督、1951年)のキャッチ・フレーズとしてもちいたのがはじめてではないかとする佐藤
忠男の推測がある。「戦後派監督いまだ生れず ホーム・ドラマをつくりだした朝鮮戦争」
『映画芸術』1965年8月号、45頁。

*10 坂本佳鶴惠『〈家族〉イメージの誕生 日本映画にみる〈ホームドラマ〉の形成』(新曜
社、1997年)。

*11 成瀬、前掲、62頁。

*12 原作が未完に終った『めし』の結末が最終的に先述したようなものとなったのは、もっ
ぱら興行的要請によるものである。井手俊郎「東宝再建の基礎づくり 『三等重役』と藤
本カラー」『映画芸術』1965年8月号、47頁。

*13 佐藤、前掲、45-46頁。

*14 この家父長が物理的に権力を発動するのは、「外部」の人間(船越英二)の来訪によって、
「家」の内的秩序が脅かされたときだけにすぎない。国家元首としての天皇の存在が可視
化するのが、諸外国との危機的な関係においてのみであるのと同様に。
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