Back to HOME

第一章 第二章 第三章
(1)『丹下左膳 第1篇』の評価 (2)「伊藤話術」とは
第1期 堅固なコンティニュイティー、「フラッシュ」 第2期 類似物による場面展開

「伊藤話術」とはなにか---伊藤大輔論序説*1

          板倉 史明

はじめに

 1920年代後半から1930年代初頭にかけての日本映画を語る上で欠かすことのできない最も重要な映画監

督のひとり、それが伊藤大輔(1898−1981)であることは間違いない。伊藤大輔はその生涯に91本の作品

を監督し、200本近い映画脚本を書いているが*2、彼の監督した作品の多くは、明治初年以前を舞台にした

「時代劇」であることから、伊藤大輔は時代劇映画作家として知られている*3。時代劇映画の最高傑作と

語り継がれてきた『忠次旅日記』三部作(日活大将軍・太秦、1927)*4や、丹下左膳を主人公とした『新

版大岡政談』(日活太秦、1928)、「傾向映画」の代表作のひとつ『斬人斬馬剣』(松竹京都、1929)を

はじめ、次々と傑作を発表し、伊藤大輔の作品は映画批評家から絶賛される「芸術作品」であり、かつ絶

大な興行力をもつ「商品」でもあった。例えば1927年度第4回『キネマ旬報』ベストテン日本映画部門で、

伊藤大輔監督作品が3作(1・4・9位)入賞している事実は、彼の作品に対する高い評価を裏付けるもので

あろう(1位『忠次旅日記 信州血笑篇』、4位『忠次旅日記 忠次御用篇』、9位『下郎』)。また映画

監督としての評価も、雑誌『映画往来』が1930年に行った「第1回日本優秀映画監督投票」で、第1位に選

出されていることから容易に想像できる*5。
 

 ところで、伊藤大輔は日本映画のトーキー化が本格的に進行する1935年ごろから「低迷期」に入る*6。

ここで言う「低迷期」とは、彼の作品が批評家からほとんど評価されなくなることを意味している。サイ

レント最盛期からトーキー初期には、伊藤大輔独自の映画技法は「伊藤話術」として讃美の対象であった

が、トーキー化が本格化するにつれて、「形式主義」だと批判されはじめる。そして「低迷した」伊藤大

輔がようやく長い「スランプ状態」から立ち直ったのは、一般的には『王将』(大映京都、1948)であると

されている。北川冬彦による『王将』批評文がそのことを象徴しているだろう。「『素浪人罷り通る』

で、多年スランプ状態にあった伊藤大輔は立直りの兆しを見せたが、この『王将』では、先ず立ち直った

といっていい」*7。そして戦後の伊藤大輔は「時代劇の巨匠」として数々の重厚な時代劇、例えば『下郎

の首』(1955、新東宝)や『反逆児』(1960、東映)などを生み出すこととなる。

 この小論において目的とすることは、トーキー初期まで批評家によって絶賛されていた伊藤大輔独自の

映画話法「伊藤話術」の諸相を、わずかに残された映画作品と、当時の映画批評家の言説を通じて明らか

にすることである。

第一章 トーキー監督第一作『丹下左膳 第1篇』の評価

 伊藤大輔は1933年『丹下左膳 第一篇』(日活太秦)において初めてトーキー作品を監督する*8。サイ

レント期に一時代を築いた伊藤大輔が、はじめてのトーキー監督作品においてどのような取り組みを見せ

るか、批評家たちの期待は高まっていた。伊藤大輔はトーキー作品を監督する以前から、雑誌上にトーキ

ー映画製作への抱負を熱心に語っていたが、その情熱が『丹下左膳 第一篇』において、音に対する鋭敏な

意識によって表現されていることは、ロンドンで発見され現在フィルムセンターに収蔵されている45分ほ

どの断片フィルムから伺うことができるだろう(後述)。村上久雄が書いた『丹下左膳 第一篇』の批評*9

読めば、「伊藤大輔は今や待望の第一歩を踏み出した」と伊藤大輔のトーキー第1回作品に満足し、高く評

価しているさまがうかがわれる。この批評家は作品のどのような点に満足し、評価したのか。この批評家

の興味は物語内容に向かうことはほとんどなく、大部分は伊藤大輔の「トーキイなる物に対する組みつき

方に、あった」*10のである。村上が感嘆し賛辞を送っている点とは、サイレント期の伊藤大輔に特徴的だ

った映画的手法、つまり当時の批評家たちから「伊藤話術」と呼ばれていた表現技法が、トーキー作品に

おいてもなお有効に、効果的に応用されている点であった。ところで、代表的映画雑誌『キネマ旬報』に

おける各映画批評は、批評家による(1)映画作品批評欄と、(2)映画作品の「興行価値」、という項目に分

かれている。『丹下左膳 第一篇』批評における(2)「興行価値」欄には、「封切館では三週目を迎えよう

としている」と記されるほど、この作品は興行的にヒットした作品であったこともわかる。しかし他の映

画雑誌(『映画評論』)における同作品批評では、「興行的に見て、大成功した作品である」ことは認め

つつも、「依然、手法の根幹をなすものが、無声時代のそれであったことを危惧するのだ」*11と記され

ており、サイレント期の「伊藤話術」を、トーキー作品にそのまま移植したことが批判の対象となってい

る。

 以上のように、『丹下左膳 第一篇』における「伊藤話術」のトーキー応用には、賛否両論があった。つま

りサイレント期の伊藤大輔の「話術」は、(1)トーキー映画にも通用するものだったのだという讃美の対象

でもあり、同時に(2)トーキーになったのにいまだサイレント期の「話術」を使用しているという批判の対象

としてである。このような評価の並立した状況は、この数年後には後者が圧倒的優位を占めてしまった。

批評家たちはいっせいに伊藤大輔作品に対してある共通した批判をはじめたのである。それは「伊藤話

術」をトーキー作品に応用することは、もはや「時代遅れ」であり、「形式主義に陥っている」という批

判である。それらの批判の原因は、第一に伊藤大輔自身がトーキー作品の表現方法に戸惑いをみせていた

「スランプ」の結果でもあるが(後述)、それ以上に映画批評家という共同体のなかで規範が変化した結果

と考えてみることは可能であろう。つまりサイレント的手法をトーキー作品へ応用することが、1933年以

降数年の間に、批評家の間で讃美の対象から批判の対象へと変化しているのである。

 確かに伊藤大輔は賢明にトーキーと格闘し、新しい表現法を開拓しようと野心的であった。彼はトーキ

ー作品を初めて監督する1年ほど前(1932)に、トーキー映画に歌舞伎的な表現技法を取り入れたら面白い

だろうという抱負を語っているし*12、1934年『唄祭り三度笠』(日活太秦)においては、当時話題となっ

ていたトーキー技法のひとつ「ナラタアジュ」*13を映画各処に渡っていち早くもちいている。しかし伊藤

大輔が雑誌座談会で熱心に語っていた内容が、トーキー映画の表現技法に終始していたことは象徴的であ

る。なぜなら、1930年代後半の批評家が批判するのは、映画の「形式主義」だからであり、まさに伊藤大

輔は「形式主義者」として批判のやり玉に挙げられるからである*14

 伊藤大輔がトーキー的な映画表現を模索し苦しんでいたことは、1935年の彼自身の文章によって確認で

きる。伊藤大輔が第一映画撮影所時代(1934−1936年)に監督した『お六櫛』(1935)は、正木不如丘原作

『木賊の秋』を映画化したものであるが、彼はこの作品の製作期間中に「判って判らぬ事」というタイト

ルの文章を『キネマ旬報』に書いている*15。タイトルである「判って判らぬ事」とは、伊藤大輔自身トー

キー的な表現方法が「判って」いるようで、まだ「判らぬ事」であるという意味なのだ。トーキー映画の

監督とは、俳優の演技、ポーズ、声、そして音楽などといった様々な要素をうまく統合しなければならな

いオーケストラの指揮者のようなものだと彼は考えている。伊藤大輔はトーキー映画製作において、サイ

レント映画よりも指揮者の役割がより複雑になり、その統御の仕方が「今のところ、まだはっきり掴み切

れていない」と告白し、「これを掴まぬ限り僕は仕事が出来ない訳だから、一本一本の写真を手習草紙に

するより外は無い」と告白する。『お六櫛』は伊藤大輔のトーキー第6作目であるが、いまだにサイレント

とトーキーの手法的な差異がはっきり掴めず、苦しんでいたことがこの文章によく表れているだろう。

 そのように実際に「スランプ」に陥っていた伊藤大輔を「サイレントからトーキーへの時代に残され

た」、「日本における〔アベル・〕ガンス」(〔 〕内は引用者。以下同様)と呼ぶ批評家さえ出た*16

アベル・ガンスは『鉄路の白薔薇』(1923、日本公開は1926年1月)や『ナポレオン』(1927)などにおい

てサイレント映画の美学を追求し、アヴァンギャルド映画と物語映画の巧妙なバランスを保った傑作群を

残した作家であったが、トーキー期になると彼の作品の人気は伊藤大輔と同様低迷してゆく。この批評家

は伊藤大輔のトーキー作品の失敗理由をいくつか挙げているが、以下のようにまとめることが出来るだろ

う。まず伊藤大輔はトーキー作品で「音声に対して神経質に耳を働かせ」「音声を珍しがった為」に失敗

したのだという。これは現在部分的に現存している『丹下左膳 第一篇』を観れば、この批評家が指摘して

いる点は(それを「失敗」と判断するかは別として)確認できる要素である。もうひとつ指摘しているの

は、『四十八人目』(第一映画、1936)について、「彼がサイレント時代に習得した技巧を使い尽し、そ

れが稚拙な彼のトーキー技法と、あたかも水と油のごとく融け合わずに相背離」しているということであ

る。いまだに「サイレント時代に習得した技法」を使っている伊藤大輔はまさに「サイレント映画の作

家」であり、トーキー時代に乗り遅れてしまった時代遅れの作家と映っている。

 ではこれから批評家によって「伊藤話術」と呼ばれた映像技法とはいかなるものだったのか、彼らの言

説とわずかに残された映像から再構築してゆきたい。

1 本稿の引用個所において、断わりなく旧仮名遣いを現代仮名遣いに、旧字体を新字体にそれぞれ改めた箇所がある。なお映画作品名の表記は、二重括弧『 』内は映画タイトルを、直後の一重丸括弧( )内は順に監督名、製作会社、製作年を示す。基本的に伊藤大輔作品の表記に関しては監督名を省略する。

2 この数値は、例えば『興亡新選組 前史』と『興亡新選組 後史』(共に1930年、日活太秦)をそれぞれ一本とカウントしたものである。また応援監督作品は除いた。伊藤大輔のフィルモグラフィー作成に当たっては、インターネット上の日本映画データベースJapanese Movie Database(http://jmdb.club.or.jp)を参考にし、必要に応じて随時修正した。

3 時代劇の厳密な定義は困難である。例えば明治時代を舞台にした作品を「明治もの」というジャンルとして差異化することもできるが、明治初年を舞台にした作品を「時代劇」とするか、「明治もの」とするかという問題がでてくるだろう。参考までにひとつの基準と思われるものを挙げておく。「太古より明治十年位迄の中の一時代の風俗を用いた映画を時代劇と普通では呼んでいるようである」(井上金太郎「時代劇漫筆」[『映画知識』創刊号、1929年5月、22−25頁]。『戦前映像理論雑誌集成』[ゆまに書房, 1989]に再録)。なお井上金太郎は1925年、阪妻プロダクション第1回作品『異人娘と武士』を監督した、時代劇映画を主に撮った監督である。

4 『忠次旅日記』三部作は、批評家による点数制により選ばれた「日本映画六十年を代表する最高作品ベストテン」(『キネマ旬報 夏の特別号』第236号、1959、68−77頁)において、第一位に選ばれた。ちなみに第二位は『祇園の姉妹』(溝口健二、1936)、第三位は『生れては見たけれど』(小津安二郎、1932)である。

5 一位 伊藤大輔 457票、二位 村田実 388票、三位 マキノ正博 301票。(『映画往来』1930年8月号、86-87頁)。

6 昭和10年(1935)には「日本のトーキーも、ようやく試作の時期を脱し、実用化の段階に入った。すなわち、この年公開されたいわゆるオール・トーキーは一三三本で、前年の二倍に達し、封切総本数の約三分の一弱であったが、そのほかに、日活、松竹、新興三社は、全作品のほとんどが、部分発声版、解説版、サウンド版でつくられた」(キネマ旬報社編『日本映画作品大鑑6(キネマ旬報別冊)』1961、121頁)。

7 北川冬彦「日本映画批評 王将」(『キネマ旬報』1948年11月下旬号、38頁)。なお、『キネマ旬報』における「日本映画ベストテン」をひとつの参照項として見るならば、次の事がいえる。戦前の「ベストテン」において伊藤大輔の名が最後に現れるのは、1933年度に、第5位と第8位にそれぞれ『丹下左膳 第一篇』と『堀田隼人』が受賞した時である。それ以降ベストテンに伊藤の名が現れるのは、戦後1948年度「ベストテン」における『王将』(第8位)の出現を待たなければならない。批評家の投票によりランキングされる『キネマ旬報』ベストテンを基準にするならば、『丹下左膳 第一篇』から『王将』まで、伊藤は不遇な時期を託つていたという事になる。

8 トーキー脚本の執筆はこれがはじめてではない。1932年に日活を脱退して参加した独立プロダクション「新映画社」(翌年に解散)において、伊藤大輔はトーキー映画の脚本を2本担当している――『昭和新選組』(田坂具隆、1932)と、藤原義江主演の『叫ぶ亜細亜』(内田吐夢、新映画社・塚本洋行、1933年)。『叫ぶ亜細亜』は関東軍司令部と満州鉄道が後援したオール・トーキー映画で、1ヶ月半の満州ロケを強行した大作であった(伊藤大輔文庫、『叫ぶ亜細亜』パンフレット、BOX16)。

9 村上久雄「主要日本映画批評 丹下左膳第一篇」(『キネマ旬報』1933年12月11日号、通巻491号、98-99頁)。

10 同上、98頁。

11 小野金太郎「伊藤大輔氏へ」(『映画評論』第16巻第4号、1934年4月号、39-40頁)。

12 伊藤大輔はトーキー時代劇を撮るとしたら、歌舞伎の「さぐり」という技法を使用したいとか、時代劇のトーキーに全部現代の音を付けてやってみたいなど、抱負を熱心に語っていた(和田山滋「伊藤大輔との一問一答」[『キネマ旬報』1932年10月1日号、第449号、48−49頁])。

13 「ナラタアジュ」とは、飯島正が『キネマ旬報』誌上(1933年10月21日号、第486号)でプレストン・スタージェス脚本の『力と栄光』を紹介した時に、その作品で用いられていた技法である。物語世界外に起源をもつ語り手か、または登場人物の内面の声によって主に過去のシーンを展開させる技法のことを指しているらしい。「ナラタアジュ」を日本に紹介したことが、当時の映画人の話題になった。1935年前後の日本映画で頻繁に使用される技法である(『お六櫛』[第一映画、1936]における雪女郎のシーン、『丹下左膳余話・百万両の壷』[山中貞雄、日活、1935]の冒頭で、こけ猿の壷の由来を語るシーンや、『乙女ごころ三人姉妹』[成瀬巳喜男、PCL、1935]における千恵子の回想シーン)。

14 藤井仁子は、1930年代の日本映画における「映画の機械性」から「説話論的なものの優位」への移行と、それがはらんでいるイデオロギー的な問題を、東宝という近代的撮影所の創立というファクターを通して明確にしてみせたが、その際1920年代的な作家の代表として伊藤大輔の名を挙げている(藤井仁子「日本映画の1930年代――トーキー移行期の諸問題」『映像学』第62号、1999、21−37頁)。関連するもっとも重要な論文としては、中村秀之「飛び散った瓦礫のなかを――『複製技術時代の芸術作品』再考」(内田隆三編『情報社会の文化2 イメージのなかの社会』東京大学出版、1998、183-225頁)や、長谷正人「映像のオントロギー第34回 映画のメディア化、気散じの戦略そしてイーストウッド」(http://www.apn.co.jp/photo/ipmj/eizou/eizou51.html)がある。

15 伊藤大輔「判って判らぬ事」(『キネマ旬報』1935年1月1日号、199-200頁)。

16 田中武「映画作家研究 伊藤大輔から山中貞雄へ 監督の歩いた道」(『日本映画』第3巻第4号、1938年4月号、38−43頁)。

第一章 第二章 第三章
(1)『丹下左膳 第1篇』の評価 (2)「伊藤話術」とは
第1期 堅固なコンティニュイティー、「フラッシュ」 第2期 類似物による場面展開

Back to HOME

Page Top