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第一章 第二章 第三章
(1)『丹下左膳 第1篇』の評価 (2)「伊藤話術」とは
第1期 堅固なコンティニュイティー、「フラッシュ」 第2期 類似物による場面展開

第二章 「伊藤話術」とは何だったのか

 「伊藤話術」という言葉は、遅くとも1933年に批評家が頻繁に用いていた用語であり、「伊藤大輔特有

の話術(映画的表現)」の意味として使用されていた。それ以前には「伊藤大輔の話術」「彼独特の話術」

といったつかわれ方をされ、固有名としては存在しなかったようである。そもそも「話術」という言葉が

いささか曖昧な概念であるので、まず当時の批評家が「話術」という言葉をどのような意味で用いていた

のかを、当時の文章から確認してみよう。塚本靖は、「話術」という言葉が使われはじめたのは「伊藤大

輔の『大岡政談』以来ではないか」*17と言っている(おそらく1928年『新版大岡政談』三篇のことだと

思われる)。塚本は「話術」という言葉の定義を試み、人によって定義の異なることを認めつつも、

「『話術』とは、『話す術である。』即ち物語の展開法である」と簡明に定義する(塚本靖による興味深

い「伊藤話術」分析は後に詳述する)。

 「伊藤話術」の特徴をより明確にするため、筆者は「伊藤話術」をふたつの時期に区分した(もちろんこ

のふたつの時期の区別は、主に当時の映画雑誌などの言説に頼るものであり、フィルムは壊滅的に失われ

ていることを明記しておく)。指標となる作品によってふたつの時期に分けるならば、第1期は伊藤大輔の

日活入社第1作『長恨』(1926)から『斬人斬馬剣』(1929)まで、第2期は『御誂次郎吉格子』(1931)

からトーキー第1作『丹下左膳 第一篇』(1933)までとなる。もちろん第1期の「話術」が第2期まで継続

している場合もあり、あくまで彼の手法上の特徴が、ある時期を境に大きく異なることを明らかにするた

めの便宜的な分類である。では「伊藤話術」の第1期の特徴となるものを、当時の批評家の言説をもとに再

構成してみる。

第1期「伊藤話術」のふたつの特徴

【1】堅固なコンティニュイティー

 1920年代後半の伊藤大輔作品に対する批評において顕著な指摘のひとつは、コンティニュイティーの正

確さである。伊藤大輔は日活入社第一作『長恨』(日活大将軍、1926)の時から、そのカッティング技法の

秀逸さを指摘されている。「他の監督と違ってカットバックする時でもオバーラップをやる時、統べて場

面転換する際に於けるコンテニュテーが良い人です」(原文ママ)*18。また1928年の批評家は『生霊』

(日活大将軍、1927)について「約言すれば、本邦映画まれに見るの統制されたコンティニュイティに限

りなき魅力を感ずるのである」*19と言っている。サイレント期の伊藤作品は、彼自身が編集(当時は「整

理」と称されていた)も兼ねていたので*20、当時批評家が指摘したコンティニュイティーの堅固さとは、

伊藤大輔自身の手腕によるものが大きいだろう。伊藤大輔のコンティニュイティの堅固さを示す具体例

は、現在部分的にフィルムが現存している『忠次旅日記』3部作(以下、このフィルムはフィルムセンター

に所蔵されているヴァージョンとして便宜的に、「FC『忠次』」と記す)である*21。われわれはこの現存

する「神話的な」フィルムに遭遇し、一種の戸惑いを感じなかっただろうか。伊藤大輔の名前をもじって

「イドー・ダイスキ」と当時から揶揄されていたような、激しい移動撮影をわれわれはこのフィルムに期

待していたのではないだろうか。しかし予想とは裏腹に、現存しているフィルムの大部分の支配している

のは、会話場面に端的に表れる安定したコンティニュイティであった。現存するFC『忠次』の冒頭シーン

は、『忠次旅日記』3部作中、第2部『忠次旅日記 甲州殺陣篇』のワン・シーンである。忠次は壁安左衛門

のもとに勘太郎を預けようと、安左衛門の家を訪れる。そこでの忠次と安左衛門の会話シーンは、ハリウ

ッド話法の典型であるイマジナリー・ラインの遵守を完璧にこなし、観客を安定した視点に落ち着かせて

いる。さらにこのコンティニュイティーをさらに補強しているのは、会話字幕の挿入パターンであり、一

定の規則に忠実に従っていることがわかる。以下はふたりの会話シーンにおけるショットの詳細である。

ショット1――忠次が映っているショット(忠次が台詞を喋ろうとして口を動かす)

ショット2――忠次の台詞の会話字幕

ショット3――ショット1と同様の忠次のショット(ショット持続時間は極端に短い)

ショット4――安左衛門が映っているショット

 上記の図式における「忠次」の部分を一般化して登場人物Aとし、同様に「安左衛門」を登場人物Bとす

るならば、上記の図式がFC『忠次』のすべての会話シーンにおいて、ほぼ完璧に遵守されていることが確

認できる。ショット2の会話字幕が、その帰属する話者のショット1と3の間に挟まれることによって正確に

位置づけられ、会話シーンを安定したものとしている。このような事実からも、当時の伊藤大輔作品にお

けるコンティニュイティーの確かさが確認できるだろう。

実際、伊藤大輔は1929年の「カッティングの技巧」という文章で、映画編集のテクニックを読者に披露し

ている*22。伊藤大輔の挙げる例のひとつは、女性が茶碗を取るシーンにおける、2つのショット(ショ

ット1は娘が卓上の茶碗に手を伸ばすミディアム・ショット。ショット2は娘の手が茶碗を取るクロース・

アップ・ショット)をいかに滑らかに繋げるか、ということについて解説している。伊藤大輔はその方法

として「カット2〔ショット2と同義〕で前のアクション〔ショット1での娘の動き〕を二三駒ダブらせな

ければ〔二重露光しなければ〕駄目です」という。なぜなら、そうしなければ「アクションにほんの少し

ではあるが空隙が出来ますし、場面が滑かに行」かないからだという*23。ここで伊藤大輔が挙げている

「カッティングの技巧」とは、いわゆる「アクションの一致(アクションつなぎ) match-on-action」の

範疇に入る技法である(意味論的には「クローサー・ショット」と言えるだろうが)。アクションの一致

とは、ふたつのショットに渡ってひとつのアクションが生起している時に、そのアクションが滑らかに、

時間的空間的ズレ(伊藤大輔の言葉を使えば「空隙」)が生まれないようにショットを繋げる編集上の技

法である。アクションの一致は物語世界の時間的連続性を途切れさせない点でコンティニュイティーの確

実さが生まれる。同様の伊藤大輔のコンティニュイティーの堅固さとは、例えば『血煙高田馬場』

(1927、日活太秦)における物語結尾の大乱闘シーンにおいて(映画結尾数分しかフィルムが現存してい

ない)、激しいキャメラ運動のなかにも「アクションの一致」が厳格に達成されているショットの存在か

らも確認できる(ビデオ『大河内伝次郎乱闘場面集』〔アポロン社〕に収録)。これまでサイレント期の

伊藤大輔が語られる場合、彼の作品のキャメラ運動の激しさばかりが強調され、「イドー・ダイスキ」神

話となっている傾向があるが、あくまでそれは伊藤大輔のスタイルの一側面であり、その激しいキャメラ

運動を補償していたのは、堅固なコンティニュイティーであったことをここで強調しておきたい。

【2】「フラッシュ」

 第一期「伊藤話術」のもうひとつの特徴は、マルセル・レルビエや同時代のアヴァンギャルド映画の影

響をうけて用いられた、移動撮影、多重露光、「フラッシュ」の技法である。もちろんこの技法が伊藤大

輔だけに見られる特徴ではなく、時代劇・現代劇の区別なく同時代の日本映画作家に多大な影響を与えた

のは確かである。しかし伊藤大輔はその技法をもっとも効果的に用いたひとりであり、1929年の『斬人斬

馬剣』においてその技法が飽和点に達したかのような印象を、当時の批評文から受ける。ここで、「フラ

ッシュ」という技法について説明をしておくことは、伊藤大輔のみならず、日本のサイレント映画を語る

上で必要な作業であろう。
 

 1920年代後半に「フラッシュ」または「フラッシュ・バック」と呼ばれていた技法は、現在我々が登場

人物の回想シーンを指して使用する言葉「フラッシュ・バック」とは意味が異なる*24。「フラッシュ」

(回想の「フラッシュ・バック」と混同を避けるため、本稿では以下「フラッシュ」と呼ぶ)は、基本的

にサイレント映画の技法である。それは瞬間的におびただしい数の短いショットをつなげることで、激し

い視覚的効果を発揮する。「フラッシュ」の技法を初めて日本映画界に知らしめた作品は『キイン』(ア

レクサンドル・ヴォルコフ監督、1924年11月、丸の内鉄道協会公開*25)である*26。『キイン』は1925年度

の第2回「キネマ旬報ベストテン」芸術的優秀映画の第2位に選ばれている。『キイン』における問題のフ

ラッシュは、ビデオ版(Nostalgia Family Video)では、物語開始後約24分の酒場のシーンで使われる。

最速1秒間に約6ショット(つまりサイレント映画の上映回転数を1秒間18駒と仮定するならば、1ショット3

駒)という高速モンタージュであり、しかもそのモンタージュは徐々にその速さを加速して行く「加速度

モンタージュ」であることから、1920年代の映画理論の典型であるリズム論を基盤としたメカニックな編

集である。具体的に言えば、(1)キインの足、(2)キインの顔、(3)酒場の群集(または揺れる酒

瓶)、というの3つのショットが規則的かつリズミカルにモンタージュされる。『キイン』は多くの批評

家や映画製作者に衝撃をあたえ、1920年代後半の日本映画のモードのひとつとなるが、この「フラッシ

ュ」に触発された人物のひとりに、江戸川乱歩がいた。彼は、1926年の文章で「フラッシュ」について的

確な分析をしている*27。「フラッシュには一つの骨がある。速度が漸進的なこと、リズムが人間内部の

リズムと一致すべきことなどはわかりきっているが、その外に、あの色々めまぐるしく変化する光景の中

で、ただ一つだけもっとも中心的な同じ光景が、適度の間隔を保って、絶えず現れていることが肝要であ

る」*28。そして乱歩の指摘する「中心的な光景」とは、『キイン』においてはキインの顔のショットであ

り、『人でなしの女』では、主人公の顔であり、「私の経験によると、あれ〔中心的な同じ光景〕のない

フラッシュは気が抜けてまるで効果がない様だ」と乱歩はいっている。確かに現在確認できる1920年代の

「フラッシュ」技法を観てみると、登場人物の熱狂や混乱(『キイン』『人でなしの女』)、めまい

(『十字路』衣笠貞之助、1927)、疑惑(FC『忠次』において、伏見直江扮するお品が、どの子分が忠次

を裏切ったのかを見極めるために、それぞれを睨むシーンであり、お品の顔を「中心的な光景」として、

それぞれの子分お顔が加速度的にモンタージュされる)といった、登場人物の主観描写として機能してい

ることが特徴であろう。高速度で視覚的刺激の強いモンタージュを、商業映画という枠内において正当化

させるためには、登場人物の主観という仲介物が必要であったのではないか*29。トーキー期以降も、多重

露光や、正当性を持ちがたいPOVショットは、登場人物の主観描写として表現されてのみ、正当化を許され

ることになるだろう*30。

 ところで、「フラッシュ」という技法がその極限にまで微分化され、抽象化された時、それはフィルム

の一齣が真っ黒(「黒駒」)であるか、真っ白(「白駒」)であるかになってしまう。稲垣浩は、彼が助

監督を務めた『十字路』(衣笠貞之助、衣笠映画連盟、1927)に関する文章で以下のように記している。

「日本で最も有効にこれ〔黒駒〕をうまく使用する人は伊藤大輔、衣笠貞之助の両氏です」*31。伊藤大輔

はある文章で、黒駒をみずから発明したものだと得意げになっていたが、『暗黒街』(J・V・スタンバー

グ、1927)や『散り行く花』(D・W・グリフィス、1919)において既に使用されていた事実を聞き知るに及

び恥じ入った、ということを書き記している*32。ともかく伊藤大輔が「黒駒」の「発明者」であったにせ

よ、なかったにせよ、彼自身のアイディアによって編み出した「黒駒」や「白駒」もまた、「フラッシ

ュ」の一類型としてサイレント期の重要な技法のひとつとなる。例えば稲垣浩『男達ばやり』(千恵プ

ロ、1931)のなかでも、ある人物が頭を殴られた瞬間に、星マーク(?)のような映像が一瞬フラッシュさ

れている*33

 伊藤大輔作品で「フラッシュ」の技法が指摘されるのは、日活入社第一作『長恨』(1926)からである

(「マルセル、レルビエそこ退けの物凄い、フラッシュや移動…〔中略〕」*34)。それ以降、伊藤大輔の

作品に「フラッシュ」はサイレント期を通じて頻発するが、文献を読み込んだ限り、その使用が頂点に達

した作品が『斬人斬馬剣』である(フィルムは現在までのところ見つかっていない)*35。映画後半におけ

る白馬と黒馬との追っかけシーンで使用されたという、過剰なまでのフラッシュは、「帝国館の観客が怒

鳴ったやうに誰しも怒鳴りたくなる」程激しいものだったようだ*36。「帝国館のお客が『速く廻はす

な!』『やめろ!』と怒鳴ったのは一面むりからぬことだ」と当時の批評家は告白している*37

以上のように第1期の「伊藤話術」について概観したわけであるが、ふたつの特徴(堅固なコンティニュイ

ティーと、フラッシュなどの激しい視覚的表現)は、当時の日本無声時代劇のひとつの到達点を示してい

る。ここでアメリカの映画学者ディヴィッド・ボードウェルが日本の時代劇における1920年代の傾向を

「フランボワイヤン様式」、1930年代の傾向を「ピクトリアニズム様式」と規定した論文を参照すること

は無駄なことではあるまい*38。ボードウェルによると、1920年代の時代劇映画で顕著だった「フランボワ

イヤン様式」の特徴とは「すばやい編集によってサスペンスと興奮を昂めてゆく」*39手法であり、例とし

て『雄呂血』(1925)におけるラストの「フラッシュ」技法を挙げる。「この映画のクライマックスの血

飛沫飛び交う殺陣シーンでは、ショットの長さは三〇コマから二四コマ、さらには一一コマから五コマへ

と減少してゆく。そしてついにはわずか一コマからなる四ショットの斉射となる」*40。まさにこの技法

は、前述したように『鉄路の白薔薇』や『キイン』で有名になった加速度的な「フラッシュ」の説明であ

ることがわかるだろう。ボードウェルが強調していることは、「フランボワイヤン様式」をもつ時代劇の

全編が「フランボワイヤン様式」で貫かれていることはなく、そのような特徴も「安定した規範のシステ

ムを遵守していればこそである」*41と付け加えることを忘れない。伊藤大輔がサイレント期に得意とした

「フラッシュ」および「黒駒」の技法とは、その基盤に堅固なコンティニュイティーが存在していたこと

は既に確認した通りである。その意味でサイレント期の伊藤大輔は「フランボワイヤン様式」の典型的な

作家だと位置づけることができるだろう。

 しかし、伊藤大輔が単に典型的な「フランボワイヤン様式」の作家というだけでは、当時の批評家から

「伊藤話術」と特権化された呼称で呼ばれることなどなかったはずである(堅固なコンティニュイティー

もフラッシュも、伊藤大輔の専売特許ではなく、その他の映画作家も同様に用いていたのだから)。前述

したように「伊藤話術」という固有名が批評家の間で定着するのは遅くとも1933年以降なのである。次節

では、トーキー初期までは絶賛されていた第2期「伊藤話術」を以下で分析してゆく。

17 塚本靖「映画論に対する映画論」(『映画往来』第9巻第9号、1933年9月号)、9頁。

18 「『長恨』合評会速記録」(『富士』第5巻第1号、1926、24-27頁)。

19
小松晃「時代映画の新生面」(『映画風景』第1巻第1号、1928年10月号)37頁。

20
伊藤大輔「新選組私見」(『シナリオ研究 第5冊』シナリオ研究十人会、1938、134−137頁)。

21
現在観ることの出来る『忠次旅日記』は、1991年に広島で「再発見」され、1992年3月にフィルムセンターに寄贈された正味90分のフィルム。「部分」と書いたが、正確には第二部『忠次旅日記 信州血笑篇』の一部と、第三部『忠次旅日記 忠次御用篇』のかなりの部分である。「発見」についての詳しい経緯に関しては、佐伯知紀「『忠次旅日記』解説」(『映画読本 伊藤大輔』フィルムアート社、1996、85-87頁)を、または『キネマ旬報』(1992年12月下旬号、15−42頁)を参照のこと。

22 伊藤大輔「カッティングの技巧」(『映画・文藝』第1巻第3号、1929年6月号、5-7頁)。

23
同上、6頁。

24 回想の意味で用いられる「フラッシュ・バック」という言葉は、日本において戦後になって輸入された言葉である。

25
田中純一郎『日本映画発達史 第2巻』、1976、109頁。

26 ほかにも、アベル・ガンスの『鉄路の白薔薇』(1924年、日本公開1926.1.29帝国劇場)における主人公シジフの顔と、疾走する列車から撮影された流れるレールが激しくカット・バック(「フラッシュ」)されるシーンや、マルセル・レルビエの『人でなしの女』(1924)におけるラストの「フラッシュ」などが、当時「フラッシュ」の参照項として頻繁に言及されていた。

27 江戸川乱歩「映画いろいろ」(『文章往来』第1巻第6号、1926年6月号、43−45頁)。この文章は部分的に再録されている(江戸川乱歩『群集の中のロビンソン』河出文庫、1994、290-294頁)。

28
同上、44頁。さらに乱歩は、フラッシュの影響が文学にも及んでいることを、見逃さなかった。新感覚派の片岡鉄平の短編小説『寒村』(『新青年』に掲載、執筆は1926年2月)には、フラッシュの技法が応用されていることを、乱歩は指摘する。それは酒場での乱痴気騒ぎを描写している途中に、突然「ソラ、ア、ソラ」や「ドン、ドン」といった掛け声が挿入され、描写は一瞬寸断される。さらに徐々に掛け声の侵入は加速され、その節の最後には「〔中略〕心臓が次第に、次第に激しく、急速な調子をとって来た……
? ? ? ? ? ? ? ? ! !! !!!」となる。(再録『片岡鉄平全集』[改造社、1932]、39-46頁)。片岡鉄平のフラッシュの適応例を見ても、やはり加速後的な描写が重要な要素であったことがわかる。

29
日本において「フラッシュ」が使われはじめたはじめの頃は、観客はその過剰な視覚的刺激に混乱しただけであったらしい。「〔『キイン』の〕有名なフラシュ・バックだ。狂熱的なキーンの顔、足、激しく揺れる酒卓のビン、その短い切返しの中に、場末の常設館で活動写真を見る人々は、唯映写機の故障を感じただけである」(筈見恒夫「トーキー演劇論」『現代映画論』西東書林、1937、30頁)。

30 『お琴と佐助』(島津保次郎、松竹蒲田、1935)における、眼の見えない佐助の主観ショット、または『兄とその妹』(島津保次郎、松竹大船、1939)における夢うつつの佐分利信が見る、飛びかう薬缶とほうき。なぜ例に挙げた2作品の監督が共に島津なのかに関しては、また別の考察の機会が必要であろう。

31
稲垣浩「黒駒五分話し」(『映画知識』第四号、映畫知識社、1929、38-39頁。[『戦前映像理論雑誌集成』ゆまに書房、1989に収録])。

32
伊藤大輔「黒駒余談」(『映画評論』1929年4月号、330-334頁。[『映画読本 伊藤大輔』22-24頁に再録])。

33 「黒駒・白駒」のトーキー期における適応は、『一殺多生剣』(市川右太衛門プロ、1929)を絶賛した中川信夫の『東海道四谷階段』(新東宝、1960)における赤いフラッシュ(赤駒?)。またはサイレント時代劇の話法を正統に継承した『SFサムライフィクション』(中野裕之、SF製作委員会、1998)での赤いフラッシュであろう。しかし基本的に「フラッシュ」はサイレント期に流行した技法であり、トーキー映画ではほとんど見ることはない。

34
鈴木重三郎「日本映画月評 長恨」(『映画時代』第2巻第2号、1927年2月号、57-58頁)。

35
武田忠弥による「スピード・モンタージュの技術的解剖――『斬人斬馬剣』の追跡手法に関するコンティニュイティー的研究」(『映画往来』1930.4、Vol.6、No.62、88−107頁)において、その詳細なショット分析・コマ数分析が行われている。

36
中島信「日本映画月評 1.斬人斬馬剣」(『新興映画』第1巻第3号、1929年11月号、67頁)。

37
中島信「斬人斬馬剣」(『映画往来』第5巻第8号、1929年11月号、)、34頁。

38 デイヴィッド・ボードウェル「フランボワイヤンから荘重性へ――一九二〇年‐三〇年代の時代劇に関する考察」(『時代劇映画とはなにか ニュー・フィルム・スタディーズ』人文書院、1997、141−161頁)。

39
同上、146−147頁。

40
同上、146頁。

41
同上、152頁。

第一章 第二章 第三章
(1)『丹下左膳 第1篇』の評価 (2)「伊藤話術」とは
第1期 堅固なコンティニュイティー、「フラッシュ」 第2期 類似物による場面展開

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